明けまして2019年


明けましておめでとうございます。

2019年ですねー。

ブログ更新がかなり減ってしまったのですが、、、気まぐれで投稿します。

それにしても、悲しいことは起こるものだなぁと思う。

大きな災害や事件・事故といった、いわば非日常的な事だけでなく、

普段の日常生活の中において、日頃、悲しいことは起こる。

それは一つ一つがとても小さなものではあるけど、いってみれば、チクッとトゲが刺さる程度の痛さでしかないのだけど、やはり、まったく無傷の生活などはありえないのだろうなと思う。

疑いたくないなら信じるしかないという当たり前について。


ずいぶん長いあいだ、ブログの更新がとまっていた。

このまま自然消滅しそうな勢いである。

が、そうもいかない。

ネットにアップされた文章や画像は消滅しない。放って置いても、残り続ける。


――ところで先日、35歳の誕生日を迎えた。

すっかり壮年のおじさんである。

うれしいより、かなしい気持ちのほうが強い。ということはつまり、いい年のとり方をしていないのかもなぁ。

いや、とはいえ、この年齢になって初めて思えることがあって、

これは20代のころには到底思えなかったことなのだが、

「しあわせだ」と思うときがある。

……嘘みたいな話だが、私は35歳になって初めて「しあわせだ」と思えた。

言い換えれば、35歳になるまで「しあわせだ」と思ったことがなかった。

人生とはそんなものなのかもしれない。

しあわせだと思うのに、最低でも35年はかかるのである。驚きである。

私個人はそうだった。それだけは、ここに書き記しておきたい。

――しかし、人とは因果なもので、

楽しいことを見つけるより、辛いことを忘れるほうが簡単だ


〝楽しいことを見つけるより、辛いことを忘れるほうが簡単だ〟

と思うことがある。

「何か楽しいことがあればもっと充実するのになぁ」と思いながらも、それがなかなか見つからず、「じゃあせめて、辛いことをなくそう」としている。そうすることで、メンタルバランスの、帳尻を合わせている。

――それにしても、楽しいことを見つけることは大変難しい。それと比べると、辛いことを忘れることは幾分簡単なように思える。

この頃、私はつい、その〝簡単なほう〟を選択してしまう。

三十代この頃、死にたいなんて思わなくても生きていけるようになって


予想通りというか、なんというか。

二十代のころは、繊細で、メンタル弱々しくて、

「死にたい。生きている理由がわからない」と言っていたものですが、なんなら、自殺願望のようなものもあったのですが、

やはり予想通りといいますか、三十代に突入すると、そのような繊細な感覚は鈍っていく。

“鈍感”になっていく。いい意味で“適当”になっていく。“力の抜きどころ”を知るようになる。「死にたい」なんて、あんまり思わなくなるようになる。これが年齢のおかげなのか、どうかわからないけど、

“もし上手に生きるコツがあるとするなら、あらゆることに深刻になりすぎないことね”

――という言葉、何かの小説に書いてあったけど、まぁそういうことを、三十代になって覚える。

〝何者〟にもなれない問題についての正解。


〝何者〟にもなれない。――という問題は、〝何者〟かになりたいから生じる。

『〝何者〟にもならなくてよいのだ』と言いたいわけではない。

『〝何者〟にもなれなくていい』、そんなふうに思える人間がいるのか、わからないが、〝何者〟かになりたいと、少なくとも私はいつもそう思っている。言い換えれば、「生きているだけで満足だ」とは思えない。

〝何者〟かになりたい、けれど〝何者〟にもなれなくて、もがいている。これはそういう問題なのだが、では、解決策はあるのか?

最近私は思う。

何者かになれる、そんな日が来るのか? これはもしかして来ないのではないか?

ようやく私は気づく、いや、思い出す。『不安定と不条理』という、人の本質について。『人間とは不安定な存在であり、人生とは不条理なものである』という、ある種の原理原則について。

例えば、『何者かになれた』と言う者がいたとしよう。しかし、そんなのは自己欺瞞ではないか。

『何者かになれた』と、本当にそうなのかどうかは一先ず置いておいて、なぜ、彼(彼女)はそんなことを言うのか、言ってしまうのか。

彼(彼女)は不安定に耐えられないのだ。『何者でもない』という、不安定な状態に耐えられない。だから、〝何者〟かになりたいと思うし、〝何者〟かになれたと言いたい、言ってしまいたい。

ここで大切なのは、〝何者〟かになりたいと思うことは間違ってはいないということ。そして間違っているのは、『何者かになれた』と言ってしまうこと。

人間の存在の本質は〝不安定〟である。〝不安定〟こそが人間である。したがって、〝安定〟しているというのは、これは本質からブレており、非本来的な在り方である。

そもそも、なぜ、〝何者〟かになりたいと人間は思うのか。

〝何者〟かになりたい、これは、本質が〝不安定〟であるがゆえに生じる。その衝動を避けることは不可避だ。だが、『何者かになれた』はいただけない。これは不安定に耐えられなくなった者の自己欺瞞であると、私はそう思っている。