男は何歳になっても夢を追うべきか


壮大であって、手に負えない処もあるのですが、
『男は何歳になっても夢を追うべきか』というテーマについて私なりに考えます。

と云いますのも、私なぞ三十路手前にし、未婚であり、且つ貯金無く、行末にしても、安月給のままに碌々出世もしない立場、
斯様な男に「世間」は御多分もれず、「いい加減に落ち着いたら?」と放つのです。
(具体、「世間」には、親や家族、恋人などがあげられます。)

話を進める前に、本稿で使われる「夢」を、実現の約束されていない願望と定めておきます。
「小さな目標ではなく、大きな『夢』」と言えば、何となく分かって頂けるだろうと託します。


男は何歳になっても夢を追うべきか


明確にその解(或いは態度)を私は持ちます。
それを断言的に申せば、どうにも独善的、或いは批難の免れない恰好となるのでさし控えますが、
先ずに、このようなテーマを問うこと自体、恥ずべきことであるというのは、“私のために”述べておかねばなりません。
かく問いに、“立ち止まり、悩むこと”など、私には愚にもつかないことです。

が、人には、人それぞれの生き方があります。
絶対などあるはずもなく、故に、「かくある“べき”」ということは、それこそ“絶対”に行なってはならない、無礼にもあたることでしょう。

以上のことを踏まえれば、「男と夢」についての「ケース/事例/場合」を述べることのみが私には許されます。

“追うべきか否か”は申し上げられない、
「男と夢」、両者の関係性として、どういったものがあるのか、それをただ連ねるに留まります。

まず、大きく分けて2つ。

  • 男は、夢があるならその夢を“死ぬまで”追うべきだ
  • 男は、夢があっても“場合によって”は諦めるべきだ

では、この2つをそれぞれ探っていきます。


男は、夢があるならその夢を“死ぬまで”追うべきだ


言葉の通りです。
夢があるなら、叶う見込み薄くとも追い続けろということです。実にシンプルで、『完結』的な態度です。

では、「夢がない場合」はどうか。

[A] 男は、夢がないなら見つけて追うべきだ
[B] 男は、夢があるなら追うべきだが、ないならなくてもよい
[C] 男は、夢など必要ない

[A]は、常に「夢」を持ち続けるということです。
[A]を選んだ場合、ここで『完結』します。

[B]は、見つからないならばそれでよい。あるならば、[A]のような態度でもよい。夢に対し、気軽に、臨機応変に身構えています。
これはこれでひとつの態度であって、ここで『完結』です。

[C]は、「夢」自体を無価値とします。
「夢など必要ない」という一言で、『完結』です。


男は、夢があっても“場合によって”は諦めるべきだ


場合によっては諦めたほうがよい。
実現することに至上の価値があって、追うことに腰を置いてはならならい。

「夢を諦めた/諦める場合」には、先ほど述べた[A][B][C]と、そして[D]という新たな選択肢があります。

[A] 男は、夢がないならば(なくなったならば)見つけて追うべきだ
[B] 男は、夢があるなら追うべきだが、ないならなくてもよい
[C] 男は、夢など必要ない
[D] 男は、夢があるならその夢を期限付きで追うべきだ

[A]の場合は、言い換えれば、男は、“その夢”を諦めても(諦めても良く)、“また別の夢”を追うべきということです。「夢」の形や内容は変わりますが、常に「夢」を持ち続けるということであり、「夢」という器だけは保持し、中身を変えるというやり方です。

[B][C]については前述した通りです。

[D]の場合、2つに分かれます。

  1. “その夢”を期限付きで追い、期限を終えれば諦める → [B][C]
  2. “その夢”を期限付きで追い、期限を終えれば“また別の夢”を見つけて追う → [A]
つまり、“期限付き”で夢を追う場合も、結局の所、[A][B][C]のいずれかを選ぶことになります。

期限をつけて取り組むことは有効的なことかもしれませんが、肝心なのは、その“期限後”です。
それこそが『男は何歳になっても夢を追うべきか』について問うべきポイントであり、期限をつけ、夢が叶っても叶わなくても、最終的に辿り着く処は、[A][B][C]のいずれかです。


まとめ


『男は何歳になっても夢を追うべきか』。

私は次の4点で、『完結』という言葉を使いました。

  •  男は、夢があるならその夢を“死ぬまで”追うべきだ
  •  男は、夢がないなら(なくなったならば)見つけて追うべきだ
  •  男は、夢があるなら追うべきだが、ないならなくてもよい
  •  男は、夢など必要ない

「男と夢」について考える際、このどれかであれば、迷うこと無く、『完結』的な態度をとることができるということです。
このいずれかの態度であれば、迷うことはありません。
逆に、このどれでもない場合に「夢」について迷ってしまうということです。

冒頭で述べたように、“人それぞれ”であって、“どうあるべきか”の絶対は存在しません。
『ケース/事例/場合』を挙げることに終始した、私の一意見です。

* * * *

最後に・・・私の個人的な思いを・・・。

「世間」の声に対してブレない態度を示すこと。
それは斯様な説明によって得るものではありませんが、「男と夢」という関係性に、現代においては『覚悟』という言葉は使われず、このような文面上の『足掻き』だけが存在しています。

「我々は明日、死ぬだろう」、そんな格言で鷹揚に構えられるものでもありません。

しかしながら、“死んじゃうよ?”、”後悔するよ”といった自分や世間の囁きに、男の航海は座礁してよいものか。
常識や一般論といった「途中」の詰まらない処が男の死に場所であってよいのか。

私は思います。考えます。

誕生とは、死ぬと分かって進みだした船。
男の夢、男の目指すものは、この船が最期に辿り着く場所。
唯一の指標である、“目的”の「死」に向かって、
その道程を照らすべく「夢」はあって、
突き進む生涯のことを「男の仕事」と呼ぶのではないか。


節約の話

決して収入の多くはない中、叉、支払いの滞っている諸費用など、浪費家であった私も漸う節約という算段に踏み切ったのです。

これがなかなか良い滑り出しでありまして、具体、実践している『50円単位節約術』を今回ご紹介します。

50円単位節約術

一言でご説明すれば、“ケチる金額を50円単位にする”というものです。

なんとも貧乏臭い話ですが、
お金を貯める(或いは借金を返済する)ということは、収入を増やすことよりも支出を減らすことが原則であると聞きます。

さて、これまで私は、「まぁ、2~300円高いだけだし、まぁいっか」という具合でした。

低収入の現状において(或いは低収入でもかまわないという覚悟ゆえに)、一体この金銭感覚では生活の遣り繰り難しく、貯蓄など到底不可能であります。

「もっと支出を抑えていかねばならない。よし、50円単位にしよう」

では、いくつか例をあげます。

たとえば、
卵1パック200円売っていたとする。
となり町のスーパーでは150円で売っている。

「まぁいっか、50円高いだけだし」

これではいけないと。
この差額が50円未満であるなら、ケチることなく、200円の卵を購入します。そこまでストレスは被れません…。

たとえば、
コンビニでパスタを選ぶ。
ミートは400円、隣のカルボナーラは450円。

この50円の差を侮ってはいけない。
50円安い方を選択するのです。
(無論、コンビニでパスタなどご法度であるが、ここでは例としてあげました)

たとえば、
前月の携帯代金に比べ、今月は50円高い、

これではいけないと。
(なんともみみっちい話ですが、携帯代を50円抑えることなど簡単なことです)

・・・・

と、このように50円単位で切り詰めていく。

「差額が50円以上であるか」というのがポイントです。
50円未満であるなら、さして気にすることはありません。

かく意識ならば、案外、低収入であっても、それなりにやっていけるのではないかと思います。

忘れてはいけないこと


ここで、くれぐれも忘れてはいけないことがあります。
月々、少しずつでも貯金をするということです。
(これもまた、50円単位であってもかまわない)

私はいつ何時、仕事をクビになるかもしれない。
というよりも、曲げてはならない信念のためには、退職も辞さない。

仕事や生活のために『節約』をすることはあっても、
そのために『信念』を曲げることだけは、面舵いっぱいで回避せねばなりません。

「自分の中で絶対にやってはいけないことがあって、それを『やらなければならない』」

そのような、私の価値を下げてまで得る収入は此方から願い下げです。

このようであるからして、貯金はいざ“腹切り”の際に必要で、
いわば貯金とは、男の「切腹刀」となって、男の信念を成就させてくれるものとなります。

節約を始めれば、無論、贅沢や娯楽には興じれません。
が、質素な生活であっても、人に笑われるような、後ろめたい生活であっても、
「自分の人生を『身一つ』で生き抜き、決して奪われることのない“私らしさ”を持ち、我が生涯を全うする」、
そのように思うのです。

「志」という言葉があります。
或いは、それを「大義」と呼んでも差し支えない。
その実践と持続のために、『節約』するという話です。

叉、家庭をもち、奥様がいらっしゃる方は事情が異なるのでしょうが、一先ずのところ、独身である(おそらく当分そうである)私の話です。

最後になりますが、
節約の心構えをポエトリーの恰好で締めくくりたいと思います。

「節約」


笑う者には笑わせておけばよろしい。
質素に、慎ましやかに、私は私の母国で、
胸に抱いた本懐を遂げよう。

詩5「僕の話」

「僕の話」


君は自分が生きる為なら、罪を犯してもいいと思うかい?
僕は君に聞きたかったけれど、
君はいつも忙しそうで、楽しそうで。
でも僕が君と話したかったことは、いつもそんな話ばかりで。
君が僕の話を聞いてくれたら、そして答えをくれたらって、
いつもそう思って、一人で考えていた。

詩4「人間とはなんだ」

「人間とはなんだ」


「搾取に気づかぬ奴隷者にはならない。
最初は決められなかった、だから最期は自分で決める」
君はそう言い残し、静かに散った。
僕は君に憧れ、嫉妬し、
仕組みの中で生き、仕組みの中で死んでゆく。
「人間とはなんだ、人間とはなんだ」

「年間で××冊読む」、そんな読書目標への違和感


「年間100冊読むことを目標にする」、或いは「年間で100冊本を読んだ」などという発言をよく耳にするけど、
違和感があって、「あれ?読書って“冊数”だったっけ?」と……。

“冊数”を目標としたり、「年間100冊読んだよ」ということを、得意気に(或いは向上心たっぷりに)話しているのを聞くと、「どうも私の読書とは異なるようだ」と思ってしまう。

そもそも、「ちゃんと読んでるの?それでちゃんと読めるの?」と思ってしまうのだ。

「年間100冊」って、目次だけで内容の8割が分かってしまうような、読みやすいビジネス書や新書ばかりで、
例えば哲学の古典や、難解な文学長編小説は、その「年間100冊」の中にどれだけの割合で含まれているのか。

「もしやすぐに読める本ばかり読んでいるんじゃないか」、といった意地の悪い見方をされてしまう可能性があるので、
ライフハック系の文を書いている人の、「年間で○○冊読む(読んだ)」といった発言は自らの首をしめることになりはしないか…。

「冊数を増やさなければ、良書と出会えない」という論もわかるが、
では100冊読めば良書と出会えるのか?そもそも良書って何だ?というか、読書って何だ?
と突き詰めていくと、「冊数なんてあまり意味のないことだな」と思われる。

良書を繰り返し読むことだって、意味のある読書だし、
一週間かけて、じっくり一冊と向かい合うような読み方も読書だ。

「冊数を念頭に置く、読書の中心に据える」「冊数という概念を読書に持ち込む」というのは、狭い読書の考え方ではないだろうか。

詩3「雨がふる」

「雨がふる」


庭先のパイプ椅子に座り、煙草の煙を吹かしては、
それがそのまま曇天に溶けていくのを眺めていた。
湿った空気に、「もうじき雨がふる」と思った。
体臭のように感じていた倦怠がフッと軽くなり、
夕飯の支度をしようと立った。
「雨がふる、雨がふるぞ」
高揚しながら私は台所へと向かった。

「龍」

「龍」

「我」

「我」

詩2「陽」

「陽」


薄く伸びたブルーに、
球の太陽と一筋の飛行機雲があった。
昼下がりの陽は屋根屋根を照らし、
均一に下に向かって影を作っていた。
南方から流れた線の細い風が、
棒っきれの手首に当たり、
砕けて、心地良く全身をつつんだ。
夢でも見ているような気持ちになった。
まるで陽に照らされた痴呆だと思った。

「情」

「情」

詩1「忘れてはならない」

「忘れてはならない」


色々あるが、忘れちゃならないのは、
今すぐにでも私は「なんだってできる」ということだ。

明日が 私にとって不都合なものであったとしても、
そんな可能性はこの絶対な権利で迎え撃つことができる。

怯えは癖になるから、強気でいけよ、人生を楽しめよ。

くれぐれも、何でもできる自分を忘れてはならない。

「情」

「情」

「喜」

「喜」

Tumblrをブログとして使ってみたが…

http://www.tumblr.com/dashboard

Tumblr

「Tumblrでブログできるよ!」という声を耳にし、
試用程度でTumblrを使っていたのですが、いまいち“ブログ”として使い慣れない…。

そもそも、「最近の投稿」など、ブログのサイドバーでよく見かける機能が備わっていない。
(RSSを使って自前で組み込むしかない。)

「Tumblrをブログとして使うのは、私には難しいなぁ…」と思い始め、色々と使い方を思案した結果、
やはり「WEBクリップ」として使うのが一番しっくりきました。

画像や文の引用など、気になったものなどを、
バシバシどんどん、クリップし、スクラップブックのような形で使っていく。

面白さとしては…。

  • どんどんクリップしていくのが爽快である。
  • 自分のスクラップブックができて、ちょっとうれしい。

と、私は思いました。

ちなみに、オフィシャルでブックマークレットも用意されています。

アプリ | Tumblr

これを用いると、あまりに簡単にクリップできるので、
あとで検索する際のことも考えて、
ポスト時に「タグ付け」をしておいたほうがよさそう。

注意点がひとつあって、
私はてっきりできるものだと思っていたのですが…。
Tumblrでは、メインブログの他に追加ブログを同じアカウント内で作成できます。追加ブログでは、パスワードをかけたり、複数人での管理が可能です。しかし、追加ブログでは、Tumblrの一部ソーシャル機能が利用できません。
追加ブログをメインブログとして登録することはできません。そしてTumblrのシステム上、今後メインブログの変更が可能になる予定はなさそうです。

「サブのほうをとりあえず使ってたら、そっちのほうがいい感じになって、あとからメインブログに変えよう」という甘い考えをもっておりました…。
インポート機能もないようですし。
(バックアップツールはあるようです。→ Tumblr Staff


↓ちなみに私のはこちらです↓

Tumblr:r.F-clip

気になるものをどんどんクリップしていきます。


ということで、ブログは使い慣れたBloggerでいくことにします。





『痴人の愛』(谷崎潤一郎)

『痴人の愛』(谷崎潤一郎)

「肉体肉」について

無論、食卓に並ぶ「肉」のことではありません。
私自身の「肉体の“肉”」、それをここでは「肉体肉」と呼びたいと思います。
食用肉は具体を有した固形として捉えますが、「肉体肉」は、何かゲル状の、「無形生物」のようです。

“生物”と称した点が重要であって、「肉体肉」は私の管理下にあるようで、まったく私の及ばぬところで意志をもって独立しています。

私は、私の「肉体肉」を、例えば太腿や二の腕の肉をまじまじと見つめていると、何か不思議な気持ちになります。
私の肉であるはずなのに、私のものでないような気がしてくる。

私ははたして私の肉を完全に所有しているのか、
そうとは言い切れない感覚に襲われます。

「肉体肉」は、その存在のあり方が「物質」とは異なります。
いわゆる「モノ」とは異なり、先ほど申したように“生物”として活動しています。

私の心臓を動かしているのは誰でしょうか、私でしょうか。
心臓は、心臓それ自体で動いています。

「肉体肉」は生きているのであって、どうやら生き物のようです。
では、それは意志をもった「生き物」でしょうか。
ただその生命を持続させ、機械的に活動してるだけでしょうか。

つまり、「『私』と『肉体肉』」は、「『私』と『他者』」という関係性であるか。
他者(他人)は、「私でない、他の意志」をもって活動し、つまりは、私の意志の及ばぬところにあるものです。
それ自体が、「まなざし」をもって存在しているのです。

私の肉体、「肉体肉」もまた、他人がもつような「まなざし」をもって、此方を見ているのではないか。
私が肉を見るとき、肉もまた、屹立してじっと私を見ているのではないかと、”生きているもの”を前に、そこに意思に似たものを見出し、「まなざし」を感じるのです。

(男性が筋トレを行い、自らの肉体が脈々と生命力を波打つのに恍惚とするのは、「肉体肉」が有するまなざしが此方を向いているからです。)

私という一個の人間には、
「私の意志」と、そして「肉体肉の意志」、この二つの意志が存在しています。

ところで、「性欲」のことを、私たちは”肉欲”と呼ぶことがあります。

先の「肉体肉」という考え方をもてば、「性欲」に関して別の見方ができます。
「性欲」が、「心がもとめている欲」であるならば、
では、先に述べた二つの意志(心)のどちらを私は他者にもとめているのでしょうか。

「性欲」とは、私の心が他者の「肉体肉」をもとめる欲求であって、
さらに疑ってかかれば、私の心とは別のところで働く、私の「肉体肉」が相手の「肉体肉」をもとめる欲求であると考えることが可能です。
肉体肉そのものが意志をもった生命である場合、このような“肉が肉をもとめる”、「肉愛」が成立します。

****************************************

「肉体肉」は私の及ばぬところで意志をもって独立し、決して私が完全に所有しきるものではありません。

それは私のものでありながら、私のものではなく、
精神や心の外側にありながら、私の内側にあります。

このような自らの肉体、「肉体肉」に私は敬意を抱きます。

なぜなら、「外界(心の外側)」とのコミュニケーションにおいて、それが第一接触となるからです。

「心の外側」は大変に広いものです。
そして心の外側は、私の意志の及ばないものであって、
そんな中、心が外に出てまず出会うものが自身の肉体です。

(女性のダイエットや、男性の筋肉トレーニングなどは、
「肉体」を通じて、というより、「心」を「肉体」へと向けることによる、「外界」とのコミュニケーションであり、
「心」と「外界(他者)」との接点をつくろうとする行為です。)

「肉体肉」は、私と、私の外の世界と連絡橋であって、
「肉体肉」と如何に付き合い、寄り添うかによって、又はそれを「きっかけ」とすることによって、私は内側から外の世界へと飛び出していけるのではないかと思うのです。

故に、私は「肉体肉」に敬意を抱くのです。

『目に見えないもの』に盲目である

『目に見えないもの』を(或いは『目で見たことのあるもの』を)、とかく私は考えてしまうようです。

所謂、“形而下”にあるもののことですが、
そのような哲学用語に拘泥するまでもなく、
“目”というのは「肉眼」のことでありまして、『視覚で認識できるもの』ということです。

これをさらに押し進め、視覚だけでない、五感で捉えられるもの全て、つまりは肉体でもって認識できるものに「自分を囚われてしまう」傾向が私にはあります。

一方で、その対となる『目に見えないもの』は思考から遠ざけ、
言葉が少々可笑しくなりますが、『目に見えないもの』に対しては盲目です。

それはまさに“見えないもの”でありますから、“見ることができない”のであって、盲目となることは必然のことかもしれません。

が、道理に沿ったその因果の内に、
「“見ようとしていない”自分」が介入、或いは干渉をしているのではないか。
それは自分の意志という不純の混入により、道理に沿った純粋な因果でない、つまりは、都合で調整された“加工的”因果ではないかと思うのです。

そのことが何か、自身の可能性の縮小に繋がっているのではないだろうかと、いやに不安なのです。

『目に見えるもの』『目に見えないもの』を幾つか挙げ、「『見ない』から『見ようとする』自分」を少しでも確認してから床につこうと思います。


『目に見えないもの』(※肉体によって認識できないもの)

「死」

「死んだらどうなるか」、子供の時分にはよく考えたものです。
大人になるとこれを考えなくなる、それは先に述べた「目に見えるもの」に囚われてしまう為です。

「わからないものは考えない」、又は、「わかるものから考える」。
それは安心を得る近道であり、誰しも不安に居りたくはない。

「目に見えるもの」は、此方の見方を変えることで、それ自体を幾分か調整することが可能であり、此方にとっては都合の良いものです。

「なぜ死んでしまうのか」、死、それ自体が“目に見えないもの”ですから、その答えは一向に出ません。

しかし、『目に見えないもの』に対して、『見ない』から『見ようとする』ことで、見る力、眼力・視力は鍛錬され、未だ見ぬ可能性を『見つけられる』のではないか。

「死んだらどうなるか?」「私はなぜ死ぬのか?」
それを想像することくらいは、できるのではないかと思います。
子供の時にできていたことですから。


時間

明日は誰にもわかりません。
未来を見ることはできません。

しかし、私は手帳に未来を書き込みます。
「来週の日曜日は○○をしよう」
「明日は○○だから、それに備えておこう」

見ることができない、わからないという不安を紛らわすべく、
なるべく克明に、手帳が予定いっぱいで埋まるように、「未来」を書き込みます。
実際、手帳に予定がずらりと書かれていると、何か嬉しくはないでしょうか。
そこには、見えないものを少しでも見えるようにすることで安心を得る心理が働いています。

そのような行為を取りやめ、「真っ白な手帳」という不安と向き合うことで、『目に見えないもの』、「時間」を少しは体感できるのではないでしょうか。


自分

「自分」とは、「私」とは何でしょうか。
私はなぜ生きているのでしょうか。

「自分のことは自分が一番良く知っている」とは云いますが、
名前・年齡・経歴・外見・過去を私から取り除くと、一体私とは何なのかよく分からなくなります。

鏡に自分を映します。
まじまじとその人物を眺めます。
そこに映る人は一体なぜそこにいるのか。
よくわからない、不思議な感覚に襲われます。
それが『自分』です。

自分とは、一見すれば『目に見えるもの』のようですが、
その実、見れば見るほど「見えなくなる」、目には見えない「無色の一点」、そのような存在です。

「自分が何なのかわからなくなる」「自分って何?」「自分はなぜここにいるのか」、
そんな奇妙な迷路に感覚を陥れてみるのもよいかもしれません。

****************************************

と、ここまで述べましたが、『目に見えるもの』に執着する自分があるために、早々うまく『目に見えないもの』に目を向けることはできません。
従って、『目に見えるもの』を、視線の中心からずらす作業が必要となります。

では『目に見えるもの』(※肉体によって認識できるもの)には、例えば何があるでしょうか。


お金

これは最も分かり易い『目に見えるもの』です。
「お金のことばかり考えてしまう」、そんな時が私にはあります。
それは「お金」が、実に「目につきやすい『目に見えるもの』」だからです。
又、目に見える形で、肉体に影響を与える力をお金は持っています。


五感で感じるもの

「美味しい」(味覚)、「痛い」(触覚)、「美しい」(視覚)といった五感の感想。
感受すること、それ自体は良いのですが、それに囚われ過ぎてはいないかを改める。
「ここのラーメン屋は美味しいから、毎日そこに通っている」、それはややもすれば、五感の奴隷とも呼べます。


友人・恋人・両親といった私との関係性

○○さんと私とが、「どういう関係であるか」を把握しておきたい。
これはなぜかというと、「自分」が目に見えないものであり、「他者」もまた、目に見えないものだからです。

両者を繋ぐ「関係」を判然とさせることにより、一挙両得、両者が目に見えるものになっていきます。

わからないものにラベルを貼る、タグ付けを行うことで、目に見えるものにしようとする心理があります。

又、「思い出」は、「関係」によく利用されます。
それは目で見てきたものですから、目に見える「関係」を作るうえで恰好の素材です。

気づけば、「恋人であるから」「両親であるから」といった、自分の意志ではない、関係のルールによって操られていることはしばしばあることです。

****************************************

他、「外見」や「経歴」や、「物質」など色々ありますが、このあたりに留めておきます。

こういった『目に見えるもの』から、『目に見えないもの』に焦点をずらしていく作業が今の私には必要だと感じています。

推敲の足りない荒い文章となりましたが、一先ず書けてよかったです。

妄想彼氏について




Twitter:つぶやき






先日、

携帯やゲーム上での彼氏、

“妄想彼氏”)にハマる女史がテレビで特集されていました。

最初はなんとなく見ていたのですが、途中から面白くなって最後まで見ました。


私は登録したことすらないので詳しくはわかりませんが、

GREEやモバゲーなどにそういったものがあるのでしょう。


私の世代では、当時、「ときめきメモリアル」などが流行っていましたが、

いわゆる擬似恋愛のようなものです。




今ではさらに進化し、音声でしゃべってくれたりして、

生々しい声で“好きだよ”などと言ってくれるわけです。





ポイントは「携帯電話」というところにあって、

TVゲームやパソコンとは違って、

寝る前や仕事の休憩中など、

いつでも気軽に遊べるという「携帯性」が、

“ハマる”中毒性に繋がっているのではないかと思います。



妄想彼氏というより、「携帯彼氏」といったほうがしっくりくるかもしれません。

兎に角、面倒でない。便利。都合が良い。ストレスもない。

ゲームとして、ハマる理由は少しわかるような気がします。





当人たちの多くは、

それが2次元の世界である、“現実ではない”ということを自覚しているように思います。

現実の世界とこれは違うと、しっかり割り切っている。

しかし、その割り切りをできることが、ハマる結果へと繋っているのではないかと思います。


インターネットもそうですが、だいたいは、

「これ以上ハマってしまうと、現実と非現実の世界の区別がつかなくなってしまうんじゃないか」という不安が自分の中にはあって、

これ以上のめりこむことに危機を感じ、

ハマる途中で、自身にストップをかけます。

が、“ゲームはゲーム、現実は現実”という割り切りが本人の中できっちりとできているために、ブレーキをかけない。

「私はこれがゲームであると理解しているから大丈夫」という安心感をもって、その世界へと没入します。

“ハマる”ことの真意は、そのようなことではないかと思います。

先ほどの述べたように、

人間は何かに“ハマる”ことに、

“ハマっている自分”に少し不安を感じます。

現実に戻ってこれなくなるんじゃないかと。

なので、「現実と非現実の割り切り」ができる賢い人ほど、ハマりやすい。

2次元を3次元に還元できる想像力も、本人の賢さゆえです。


“現実の男性に魅力がない”とか“彼氏ができない“など、

そのような現実を補うために、本人の持つ賢い想像力がその免疫として機能しています。

消極的や逃避というよりも、

“よりよいものを求める”、充実している現実をさらに充実させたいといった貪欲な姿勢であるとも思います。





コメンテーターたちは、

“妄想彼氏”にハマっているその光景を否定的な眼差しで見つめていました。

それは一般的な世間体であり、生産的な慣習であると思います。

が、

「“妄想彼氏”にハマることがなぜいけないのか」を言葉にして述べることができない。

「現実の男性のほうがいいですよ」といった、言葉しかでてこない。

妄想彼氏にハマるその想像力と賢さに対して、そのような弁論はどうしても見劣りしてしまいます。


自らの個人的な経験をもとに、“絶対こちらのほうがよい”と述べることは、自己愛が前面にでています。

世間体は自己愛であってはなりません。

社会や歴史において生産的である価値観や慣習が「世間体」なのであり、

その限りにおいて、世間体は個人の自由を監視することができるのではないかと思います。

君の思想は『お金がないこと』から来ているよ

「将来、私はいつか『自殺』してしまうんじゃないか」、などと自意識過剰に思うことがある。

周知の通り、日本は自殺大国である。

一体この先、私が自殺しない保証などあろうか。
そんな保証はどこにもない。

では、自殺しないためには何をすべきか。

日本において、自殺する主な理由は、「金銭」にある。
要は、無職者など、お金がなくて生活できず、死んでしまうのである。

従って、“自殺しない”目下の対策として、「お金がちゃんとあること」が挙げられる。

「自殺しちゃダメだよ」という言葉を耳にするが、
「お金をしっかり『貯める』『稼ぐ』」という提案を、私は私自身に対してまず行いたい。

「貯金と寿命」、あるいは「お金と自殺」にはいくらか関係があるように思う。

たとえば貯金が1億円あったら、「長生きしたい」と思う(あるいは「長生き」が可能)。
逆に、借金が1億円あったら、「長生きしても仕方ない」と思う(ろくに病院にも行けない)。

部分的に、私の脳がお金に支配されていることを私は認める。

「なんだか、みみっちい、保守的な考え方だな」と言われるかもしれませんが、
「過激な発言」(たとえば「俺はいつ死んだってかまわないんだ」といった発言)、その裏に、「個人的にお金がないこと」が発端として絡んでいることはよくある。

自分の思想や死生観に「お金」が関わっているのではないか、考えてみたい。

「君の思想は『お金がないこと』から来ているよ」と、私は人からよく言われる。

結局、私の死生観など、お金の有無から来ているんじゃないかって、
結局、私の過激な物言いなど、生活の不安定から来ているんじゃないかって、
つまり、そこには往々にして「自己正当化」や「自己欺瞞」が含まれていることから(又は、単なる「自暴自棄」であることから)、
自省し、より強固な思想へと再構築していかねばならない。

「志」

「志」

「春」


「春」

「寿」

「寿」

「夢」



親孝行

私が生まれた時、母は嬉しかったのだろうか。
もしそうであるならば、私は生まれて良かった。

三十路手前にし、「親孝行とはなんぞや」と考える。

最大の親孝行、それはおそらくならば、孫の顔を見せてあげることだ。

はたしてそのハードルを私は越えられるだろうか。

どうにもすぐには無理だろうと思う。

今、私が切に感じることは、母に「夫」がいて良かったということだ。

先日、「母はもしかして孤独なのではないだろうか?」と思った。

授業参観や運動会に、母は滅多に顔を出さなかった。

理由は、一心不乱に働いていたからだった。

母は今だに申し訳なく思っているらしく、寂しい思いをさせたと、ときおり私に謝る。

働き詰めであった母には、社交の時間も少なかったのではないか。

もしや、今、母は孤独なのではないか。
友人など、誰かそばにいるのだろうか。

私に何かできることはないだろうかと考えるが、
残念ながら男は(ましてまだ若いうちの男は)、志を持った不良でなければならない。

男の存在は、それこそまさに精子のようなものであって、つまりは生産的な死に方を模索せねばならない。

「いかに死ぬべきか」を己に問い、課すことが男の本懐であるわけだが、時に親の存在は、その『実践』の妨げとなる。

しかしながら、子は母の「分裂」であって、
断ち切られたへその緒は幻肢のごとく残り続け、どこか、なにか、いつも、「繋がっている」。

そういった仕組みからか、
母の孤独を想像することは、自分の身を切られるように痛いものだ。

そんな歯痒さを解消してくれる存在が、母の夫、つまり、私の父だ。

母にとって、夫という存在。
その存在の占める割合に息子は胸を借りる。
どうか、母を幸せにしてあげてほしい。

それは私には成し得ぬことであり、
息子は父の胸を借りることで、いち男として志を持ち、来たるべく死に真っ向より挑むことができる。

“息子は父親の存在を越えることはできない”、
その真意は、息子にはどうやっても手の届かない「母の幸福」があって、
それを埋めるのは父以外に不可能であるということだろう。

「そんなことないよ」という母親は、素晴らしい息子をもったのであって、
本当のドラ息子というのものを知らないのだろう。

私が成し得た唯一の親孝行は私が生まれたことくらいであって、
どうかそれだけは母に喜んでもらいたいし、
もしそうであるならば、私は生まれて良かったと心から思う。

「愛」

「愛」

「千字文墨迹」 / 欧陽詢

「千字文墨迹」 / 欧陽詢


「転」

「転」

「後赤壁賦」 / 西脇呉石

「後赤壁賦」 / 西脇呉石


「春」

「春」