雑話(2012/12/30)



「幸せになりたい」という欲望は、性欲と似、バイタリティ・活力を要し、通常、年齡とともに減退していく。

が、肉体でない頭の中の幸福価値は褪せることがないために、「幸せになってほしい」「幸せになろう」というふうに、自己から他者という入れ物に幸福を移していく。

「他人の幸せが私の幸せだ」という形式をとる「幸せになりたい」。

この場合、他人が幸せでなければ自分の幸せが満たされない、そのために、幸福の価値を共有・一般化させた上で、「幸せにしてあげたい」と抱く。

***************

母の幸せ(A)、子の幸せ(B)。

母:[(A)=(B)]、(B)の成立が(A)の条件。

子:子(B)に母の[(A)=(B)]を当てはめる場合、(A)の成立が条件であるが、(A)が常に[(A)=(B)]である為に、(B)は[(A)=(B)=(B′)]という(B′)となることで成立する。

母が子に[(A)=(B)]を要求すると、子(B)は(B′)を選択せねばならず、真の意味で[(A)=(B)]は叶わないことになる。

母が真に[(A)=(B)]という式を求めるならば、=(B′)に帰結する[(A)=(B)=(B′)] でなく、[(A)≠(B)=(B″)]とせねばならない。

が、(B″)は[(A)≠(B)]であるために、それは【[(A)=(B)]=(B″)=[(A)≠(B)]】という不可能を指す。

子の幸せは母の幸せである。
が、それを自ら実現化させる合理的な式がない。
子を持つ母の斯様な儚さに、子を持たぬ子(私)は憂うことがある。

雑話(2012/12/23)


  • 「自分のやりたいことをやって死にたい」と言う。しかし、自分のやりたいことで、はたして死を遂げらるか。「自分のやりたくないことによって殺されたい」、つまり、奴隷に、ある種の美意識を持つということ。深みのある絶望とは元来そういうものである。

  • 「自分のやりたくないこと」に取り巻かれて、結句、社会の惨状があるだろう。但し、「殺す」のではない、「殺される」のだ(それは自死であってもならない)。時代や生活に、不意、不条理に、“殺されること”に美は付随する。

  • 「死にたい」は、「殺されたい」へと変遷を遂げていく。これは時代のどん詰まりを指すのではない。仮にそうであったとしても、己の美意識、価値観がふるいにかけらるような、良き時代に生まれたと私は思っている。

  • 「絶望にこそ真実がある」、そのような哲学を持つならば、今を肯定できないはずないだろう。今は常に肯定されている。さて、“一体、何が苦しいのか”、省みる。

カフカ『変身』の内容と感想


カフカ『変身』 - 内容とあらすじ -








ある朝、気がかりな夢から目をさますと、自分が一匹の巨大な虫に変わっているのを発見する男グレーゴル・ザムザ。

なぜ、こんな異常な事態になってしまった のか…。

謎は究明されぬまま、ふだんと変わらない、ありふれた日常がすぎていく。

事実のみを冷静につたえる、まるでレポートのような文体が読者に与えた衝 撃は、様ざまな解釈を呼び起こした。



フランツ・カフカ
(Franz Kafka, 1883年7月3日 - 1924年6月3日)
チェコ出身のドイツ語作家。

どこかユーモラスで浮ついたような孤独感と不安の横溢する、夢の世界を想起させるような独特の小説作品を残した。

その著作は数編の長編小説と多数の短編、日記および恋人などに宛てた膨大な量の手紙から成り、
純粋な創作はその少なからぬ点数が未完であることで知られている。

生前は『変身』など数冊の著書がごく限られた範囲で知られるのみだったが、
死後中絶された長編『審判』『城』『失踪者』を始めとする遺稿が友人マックス・ブロートによって発表されて再発見・再評価をうけ、
特に実存主義的見地から注目されたことによって世界的なブームとなった。


感想

海外文学傑作の一つといわれてる作品です。

フランツ・カフカ著、『変身』 (新潮文庫)


簡潔に述べると、
朝起きたら「虫」になっていたという話です。

それ以上何かを述べることも蛇足に思われる話なのですが、
思ったことを幾つか書こうと思います。

私はこの「虫」をムカデのようなイメージで読み進めました。

そこは厳密には述べられてはいないのですが、
ムカデのような“害虫”であり、又、外観が不快な甲虫のようなものであろうと思います。

「朝起きたら「虫」になっていた」

実に理不尽であり、そのあたりをつまんで、
「不条理文学」などと呼ばれるのでしょう。

物語では、虫になったザムザと家族の反応、また、自分が虫になっていく感覚などが描かれています。


読後、多くの方が拍子抜けするかもしれません。

というのも、「自分がなぜ虫になったのか」という原因と理由が物語の中では一切書かれていないからです。

“書かれていない”というよりも、“触れられてすらいない”といったほうが正確でしょう。

最後までわからない、わからないまま話が終わる。

ゆえに、人によって解釈が無数に存在する作品になっています。

「不条理であることに理由はない、ゆえに、だからこそ『不条理』なのだ」という解釈もそこには含まれています。


各所で言われているように、
これはいわゆる“シュルレアリスム”に属する作品です。

「これは現実なのか!?夢なのか!?」など、
そのような“判断”や展開はこの話には一切ありません。

夢と現実との境界、その線引きがなく、夢と現実が一体となっている世界がこの話の前提、舞台設定となっています。


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以下、私の個人的な思いになりますが、

私はこういった作品を読み、
『今の日本社会でいえば、これはひきこもりや不登校児のことだ』とか、

『多忙な仕事の毎日、その葛藤が現実世界に目に見えるものとして現れたんだー』とか、

そういう解釈や結論はあまり好きではありません。

「現実社会におきかえれば、○○だ」「現代にも活かせる話だ」といった論調のことです。

「この虫は何々の象徴である」っていう見方は避けたい、というのがまず私の中にあります。

なので、そういった比喩や置き換えによってこの作品の魅力を述べることはしません。


何より、この話の本質はそういうものではないと考えます。

これは、ある種、『夢』の話です。

正確にいえば、現実とリンクしている夢です。

それは夢であるし、同時に現実でもある。

寝てるときにみる「夢」、
その夢は目覚めているときの現実を反映していることがあります。

たとえば、現実で嫌なことがあって、その晩にうなされるような嫌な夢みる、などといったことがあると思います。

現実と夢はやはりどこが繋がっているのかもしません。

ドラマや漫画などで、
「これは現実なのか!?夢なのか!?」といったシチューエーションをよく見かけますが、
そのような“判断”すらこの話にはありません。そのような場面は描かれていません。

「夢と現実との境界」、その線引きがない世界です。それが舞台となっています。

お笑い芸人が行なっている「コント」というものがありますが、
見る人(観客)は、「こんな人、現実にはいない」ということを理解しながら、観て笑ったりするのですが、

コントの中の人、中にいる登場人物にとっては、
「その(コントの)世界の中では普通のこと」をただやっているだけなのです。それが彼らにとっては「日常」なのです。

『変身』の世界もそのことと似ており、
突然虫になったけれども、「あー、虫になっちゃったね」といった程度のリアクションくらいしか描かれず、
登場人物は驚きはするけれども、慌てず、至って普通の自然状態であり淡々としています。
そこでギャーギャーと騒ぐことはありません。

繰り返しになりますが、
それはこの物語の設定と舞台が、「夢」と「現実」が「一体」となっている世界だからです。



最後に、
こういった不条理をテーマにした作品に関して、私の思うところを少し述べておきます。(余計ではありますが)

『変身』において、
虫になった彼をどんどん周囲が非人扱いしていく場面や、
自分がどんどん人間じゃなくなっていく寂しさなど、
そういった箇所に触れ、次のようなことを思います。

「この世の中は確かに不条理かもしれない。
しかし、不条理の逆、それをたとえば『愛』と呼ぶならば、この不条理を目の当たりにして私は、
『愛』を想像している自分を確認する。
『愛』は想像物として、想像という形では確かに存在しているのではないか」


『変身』における一文を載せて、今回を締めくくろうと思います。

“彼はこの日ごろまったく他人のことを顧慮しなくなっていた。
そして自分でもそれをほとんどいぶからなかった。
だがすこしまえまでは他人への顧慮ということが彼の誇りであったのだ。” :カフカ『変身』 


興味もたれた方には是非ご一読願いたい一冊です。


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雑話(2012/12/19)


  • 死体を埋葬する理由として“自分の死、その恐怖を覆うため”という考えがあるけども、自分の死は大抵考えたくない。親の死を想像したくない心理は、自分を「生」んだ者の不在により、霞んでいた自分の「死」をやや鮮明にし、恐怖を煽る為か。「死んでほしくない」は翻って「死にたくない」という気持ちでもあるのか。

  • 「大切な人に死んでほしくない」という気持ちと向き合ってみたところで、なんで死んでほしくないのか、いい加減に、額面通り引き受けてきた感情と自分にぶつかる。結局は、「自分の命をかけられるか」という形で無理に答えを出すという。「○○のためなら死ねる」ということを男の幸福に置く。

  • 「人間の定義」或いは「『自分』とは何か」という哲学的問いは、とても難しいから、人間以前である「性」のところ、「男の定義」「男とは何か」というところにいってしまうこと。「性」を「生」の表層と捉え、「性」なら答えが出せるだろうという、しがみつきやすい安易なもの。

  • 「私は人間である前に『男』である」と言ったり。つまり、人間は性別から先に生まれるんだよ、という可能性を追う。男に「男を語る癖」があるのは、女性(の出産)には「男と女」という視野があるけど、男には「男」しかないから。男の、女性に対する憧憬は幾らかあって、無論、その逆もある。

  • 私はなぜ男であるのか、私はなぜ出産できないのか。そんなことを毎晩考えて、真剣に悩み、苦しんでいる人は世の中にはいて、それは「視野が狭い」とか「差別 意識」とか、そんなことではない。「なぜ死ぬのか」といったレベルの、「なぜ男であるのか」という哲学的な意識の自問なんだと思う。

島崎藤村『破戒』の内容と感想。


島崎藤村『破戒』 - 内容とあらすじ -






明治後期、被差別部落に生まれた主人公・瀬川丑松は、
その生い立ちと身分を隠して生きよ、と父より戒めを受けて育った。

その戒めを頑なに守り成人し、小学校教員となった丑松であったが、同じく被差別部落に生まれた解放運動家、猪子蓮太郎をひた隠しに慕うようになる。

丑松は、猪子にならば自らの出生 を打ち明けたいと思い、口まで出掛かかることもあるが、その思いは揺れ、日々は過ぎる。

やがて学校で丑松が被差別部落出身であるとの噂が流れ、更に猪子が 壮絶な死を遂げる。

その衝撃の激しさによってか、同僚などの猜疑によってか、丑松は追い詰められ、遂に父の戒めを破りその素性を打ち明けてしまう。

そして丑松はアメリカのテキサスへと旅立ってゆく。



島崎藤村
(しまざき とうそん、1872年3月25日 - 1943年8月22日)

日本の詩人、小説家。
本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。
信州木曾の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市)生れ。

『文学界』に参加し、ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。

さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。

作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、
父をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などがある。


感想

『破戒』は、いわゆる自然主義文学とよばれるものですが、その中でも一線を画す作品です。

夏目漱石は、『破戒』を「明治の小説としては後世に伝ふべき名篇也」(森田草平宛て書簡)と評価しています。

筆舌に尽くしがたい濃厚な作品ですが、
いくつか思ったことを書き記しておきます。

丑松が部落出身であることを告白するシーンが二箇所あります。

  1. 土下座して生徒と教師に告白するシーン
  2. 恋焦がれていた志保という女性へ自分の立場を告白するシーン
    1.の場面は、物語における最大の山場とよんでいいかと思います。

    が、私が着目したのは、2.志保への自己告白シーンです。

    読まれた方は承知かと思いますが、
    実はこの場面、具体的な描写がされていません。

    「丑松自身の視点」で描かれておらず、
    志保の語りによって、その場面を間接的に知ります。

    恋焦がれる女性への自己告白なわけですから、かなり重要な場面なはずですが、
    そこを直接描かないのは何か著者の意図があるんじゃないか思いました。

    おそらくは、部落出身であることを告白すること、
    その告白は「対世間」へのものであったのだろうと思います。

    志保は、「世間」や「社会」ではありません。

    (貧乏で恵まれない志保に対して、丑松の同情の念などは描かれていますが、『自分が部落であることがバレることが恐ろしい』という、『世間に対する恐れ』のようなものは、ほぼ描かれていません)


    『破戒』における自己告白は、「対世間」であるということに本質があります。

    「対世間」であるからこそ、自己告白に葛藤苦悩していたのです。

    (「『破戒』は社会小説である」という意見は、この部分からきているのではないかと思います)

    「個人」にバレることではなく、社会という「全体」にバレることを恐れていた。

    自分の過去や出生に関して、偏見を持たれてしまうような言い難き秘事がある場合、
    周囲の眼差し(外的圧力)と隠さねばならない(内的圧力)、二重の圧迫が存在します。

    差別や偏見の恐ろしさは、
    特定個人からの「ひとつ」の眼差しではなく、一体となった全体から向けられる眼差し、
    つまり、複数が同じ方向性と強さをもって一本化された「ひとつ」の眼差しにあります。

    個人の眼差しは、“個人的な意見”であると割り切ることも可能ですが、全体の「一本化」された眼差しは無視できません。

    個人でない「社会」の意見は、我々個人が社会というコミュニティに属し、又、そこを居場所としている限りは、決して無視することのできないものです。

    居場所であるがゆえ、そう簡単に自己告白できるものではありません。

    この『破戒』の舞台では、そういった“差別の眼差し”によって、実際に「働けなくなる」「生活できなくなる」といった、封建社会におけるシビアで深刻な問題が描かれています。


    また、自己告白に至るまでの自我意識の苦悶とその心理描写においては、普遍的な人間の内面性が描かれ、文学性が込められています。

    偏見と闘うことは同時に、自分と闘うことに他ならない。

    『破戒』では自己告白が懺悔という形で行われ、逃避という結果に終わります。

    解放は得たが封建社会や偏見は最後までうまく消化されていません。

    それは社会との闘いの限界というよりも、
    「悲しみは同じ境遇の者にしかわからない」という限界であり、著者自身が抱く何か、宿命的な暗さみたいなものが作品に反映されているように感じました。

    “他(ひと)の知らない悲しい日も有るかわりに、また他の知らない楽しい日も有るだろうと思うんです。” :島崎藤村『破戒』





    『ゲルマニウムの夜』『皆月』:花村萬月



    Twitter:つぶやき



    『ゲルマニウムの夜』


    花村萬月さんの『ゲルマニウムの夜』は以前に読んだことがありました。

    第119回芥川賞受賞作です。


    『ゲルマニウムの夜』
    花村萬月



    ソース味の非常に濃い小説でした。

    ”反復と快楽”について述べられている箇所が今も強く印象に残っています。


    以下、本文より抜粋。


    祈りとは反復に意味があるということを僕はいきなり理解した。

    いまおこなわれている性行為と同様に反復が祈祷の快感をもたらすのだ。

    すべての快感の本質は反復にある。

    その事実において祈りと性行為がイコールで結ばれることを理解した。

    僕は宗教の真の快楽を知りつつあった。自我なき反復。これが最上のものだ。

    (花村萬月『ゲルマニウムの夜』より)


    祈りの反復(同じ言葉を同じリズムで唱える)ことと、

    性行為の反復はイコールではないか。

    それは自我なき反復、快楽の本質であり至上ではないか。


    果敢な真理探究の姿勢と、思わず唸ってしまうような力強い文章。

    清濁を“ぶちこんだ”ような、「混沌」とした物語を読み終えた後、しばし放心状態でした。


    『皆月』


    そして今回、『皆月』を読みました。

    第19回吉川英治文学新人賞受賞作です。


    『皆月』
    花村萬月



    『ゲルマニウムの夜』にはなかった、

    爽やかな、青春小説のような一面がありました。


    主要三人物となる、

    「オタク・ソープ嬢・ヤクザ(正確にはやくざ者の義弟)」がいるのですが、

    読後もその三人が頭の中で“生きている”のです。

    “生きている”というのは、その人の未来を想像できるということです。

    読後、彼らの未来をついつい想像してしまうのです。





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    “爽やかな”と先ほど述べましたが、

    個人的にそのピークは、

    オタクがソープ嬢に「麦藁帽子」を買ってあげるシーンでした。

    思わず彼女は、「…幸せすぎるよ」と落涙するのですが、

    この場面で感動した方は多いのではないかと思います。


    以前から思っていたのですが、

    「麦藁帽子」というのは、

    つくづく「純潔」や「神聖」を象徴するアイテムだなぁと思います。

    同時に、夏の匂いや若さまでも連想させる、恰好の青春アイテムです。





    といっても、

    そのような青春小説では終わりません。

    本作にも、哲学的な、清潔なエロティシズムは語られています。


    人間の性は、性欲を発散するためでもなく、子孫を残すためのものでもない。

    性の根本にあるのは、孤独だ。

    この世界にたった独りでいることに対する不安だ。

    だから、他人を求めるのだ。

    (花村萬月『皆月』より)


    「男である」「女である」ということは、

    「孤独である」ということを意味してはいないか。


    『皆月』は爽やかな青春小説にとどまらず、

    エロティシズムを通して語られる、深い「アダルト」の哲学が込められています。


    また、阿刀田高さんが本書末の解説でも述べられていますが、

    『皆月』という言葉には、

    女性解放運動である平塚らいてうさんの詩への呼応があるように思います。



    元始、女性は実に太陽であつた。

    真正の人であつた。

    今、女性は月である。

    他に依つて生き、他の光によつて輝く、

    病人のやうな蒼白い顔の月である。

    (平塚らいてう『原始、女性は太陽であった』)


    “皆月”、男も女も結局は『月』なのかもしれない。

    性の根本にあるのが、“孤独”であるならば。


    オッサンの前歯を折り、結果、半殺しにされてしまうゲイが本作にはでてきます。

    「男でも女でもある」、また、「男にも女にもなれない」ゲイは、特に『月』のイメージで描かれていたように思います。

    「両性別とも月である」という意味がそこに込められているのではないかと思いました。


    “性の根本にあるのは孤独である”

    そんな「性別による孤独」に追い詰められた結果、

    「他人を求める」という形もあれば、「ゲイやホモ」という形も存在しています。



    皆、月である。

    しかしながら、物語を読み終えて感じることは、

    同時に皆、『太陽』ではないかと。


    他者を求めることによって、「月が太陽に変わる」、

    そんな物語であると私は感じました。





    アパシー、自我同一性拡散

    『自我同一性の拡散』というのがあって、
    昨今の“新型うつ”とか、“真面目系クズ”にも、そこそこ関連してて、これはチェックだなと思って。(「アイデンティティ拡散症候群」と言ったりもするそう)

    要は、どっかで青年期にこじれちゃって…という話で、モラトリアムとか、まぁそういう類の話ですね。おそらく。

    ネットで適当に調べてみた。以下を順に。

    【自我同一性の拡散】
    【同一性拡散の問題】
    【アパシー】


    【自我同一性の拡散】


    特徴としては以下の7項目があるそうです。

    1.時間的展望の拡散
    2.自意識過剰
    3.否定的同一性
    4.勤勉性の拡散
    5.親密さの問題
    6.権威の拡散
    7.理想の拡散

    それぞれの詳細は下記リンクを。

    II-5 青年期の課題: http://bit.ly/VLjdzW


    【同一性拡散の問題】


    自我同一性がうまく達成されないと、「自分が何者なのか、何をしたいのかわからない」という同一性拡散の危機に陥る。

    同一性拡散のあらわれとして、エリクソンは、対人的かかわりの失調(対人不安)、否定的同一性の選択(非行)、選択の回避と麻痺(アパシー)などをあげている。

    またこの時期は精神病や神経症が発症する頃として知られており、同一性拡散の結果として、これらの病理が表面に出てくる事もある。

    自我同一性は青年期だけの問題ではなく、中年期や老年期において何度も繰り返して再構築されるものなので、上手く行けばアイデンティティは構築されたまま人は過ごす事が出来るが、上手く行かない人は人生において何度もこの同一性拡散を経験して、二次的に精神病理にまで落ち込んだり、人生の停滞を経験する事となる。


    【アパシー】


    アパシーとは、青年期に多くみられる無気力・無関心な状態のこと。
    ギリシア語で「感情の欠如」を意味する言葉、apatheiaが語源。

    アパシーになった人は仕事や勉強など本来すべきことにはやる気が出ないが、交遊関係や趣味に関しては意欲を発揮するという点で、生活全般に対する無気力・無関心を示すうつ病とは異なる。

    また、うつ病はしばしば睡眠障害を伴うのに対し、アパシーの場合、昼夜逆転生活になっても睡眠はとることができる。

    特に大学生にみられる慢性化した無気力状態をスチューデント・アパシーという。
    この状態の学生は授業に出なくなって留年を繰り返したり、中途退学に至ることもある。


    [参考]
    *********************************
    ・II-5 青年期の課題: http://bit.ly/VLjdzW
    ・自己同一性 - Wikipedia: http://bit.ly/SE4fRo
    ・アパシー とは - コトバンク: http://bit.ly/R1KEZx
    *********************************





    志賀直哉『和解』の内容と感想



    志賀直哉『和解』

    読みました。

    初めてなんですよね、志賀直哉。

    よかったです。

    最近、本に関することばかりブログに書いているので、

    今日はツイートだけ載せて、さっぱりと終わります。。。


    志賀直哉『和解』

    【内容】

    主人公順吉は父の京都来遊に面会を拒絶し、長女の誕生とその死をめぐって父の処置を憎んだ。

    しかし、次女に祖母の名をかりて命名したころから、父への気持も少しずつほぐれ、祖母や義母の不断の好意も身にしみ、ついに父と快い和解をとげた……。

    肉親関係からくる免れがたい複雑な感情の葛藤に、人間性に徹する洞察力をもって対処し、簡勁端的な手法によって描写した傑作中編。


    Twitter:つぶやき





    自意識ダンプカー

    青年期のこじれ、延長によって、アイデンティティ(或いは魂)が浮浪しちゃって、「自分」というものが拡散/全体化し、散漫になってる。
    一度斯様な自意識と社会との関係ができてしまうと、同一化は難しいな、と思う。
    薄く引き延ばすか、遊離させるか、自意識は行くも戻るも大変な状況。

    「自分が何なのかよくわかんなくなっちゃう」っていうのがあって、「あれ?なにすりゃいいの?」という状態で、「自分がなんなのか」に彷徨う。もうこなったらサバイバル。


    「全体化」っていうのは、「自分が社会にいるような『感じ』」のことで。「同一化」っていうのは、社会にいる自分を自分で確認できる。

    • 全体化
    仕事で、指示を与えられずに、どうしたらいいんだろ?っていう不安定な感じ。
    本人はがんばろうとは思っているのだが、いや、思っているだけにあたふたする。
    参加したいんだよ、でも参加しきれていないんだよ。
    社会の中に確かに私はいるんだけど、いるには違いないんだけど、社会の中に私がいる意味がわからない。社会の、一連の動きに、はまってないから。
    結句、居心地の悪さもあいまって、「俺、いなくていいんじゃねぇの?」って思って、「ちょっとトイレ行ってきます」っつって、なかなか帰ってこないこともしばしば。(≒ひきこもり)

    「輪に加わって、何かしらしたい」、でもそれが難しくって、
    その隣にある、ちょっと社会からはずれた別の輪に入り込む。
    徒党っていうか、そういう小規模の輪。
    とりあえず参加して、たとえばみんながやっているネットとかやったりして、自分を「全体化」だけはしています。
    ところどころ、いろんなコミュニティに顔だけ出すものだから、自分が拡散しちゃってる。

    • 同一化
    かたや、「じゃあ、これやっといてね」って役割与えられたら、ちゃんとやれる。
    或いは、「やること」を察知して、てきぱきと仕事を始める。
    こういった役割の獲得ができている状態が、社会と「同一化」した状態で。

    役割がないと、不安定な空白の中に最初はぽつんとあった自意識が、どんどん大きくなって、肥大化して、やがてはもう自分しか見えない状態になって。自分の中が、「自分だけ」で満たされていく感じ。

    この、肥大しちゃった自意識の内輪差に気づいていないと、巻き込み事故が起こる。
    免許もってないのに、大型ダンプカーに乗っている状態で。
    起こす気は全くないのに、「気づかない」かたちで起こってしまう巻き込み事故。
    下手すりゃ轢いたことにも最後まで気づかない。
    これが、いわゆる悪い意味で使われる自己チュー。(表現が古いか)
    ダンプカーサイズの「私の価値観」。標識無視。狭い道も塀を傷つけ突っ走る。

    誘導してもらわないと、自意識大型ダンプはなかなか乗りこなせない。誰かに後ろを見てもらわないといけない。人のサポートが必要な状態。

    自分の運転技術、身の丈にあった軽自動車で、小回り良くカーブを曲がれる方が、道をすいすい行ける。
    現実的というか、そのうが堅実的。

    • 同一化、役割、社会化
    「役割」っていうのは、社会の中の自分、社会と自分との連関。
    人物と背景がうまくマッチしているか。自分と社会が「同一化」しているか。

    人物の絵があって。
    「背景」が描れていない、或いは、人物と背景がズレていないか?
    背景が大事なんじゃないか?人物(てか、自分)の背景が見えているか?全体の整合性が取れているか?、という話。

    背景がないと、その人物が何者なのかよくわかんない。
    背景がないから、自分がよくわかんない。

    健康的に自分を社会化させていくこと。
    「自分と社会」じゃなくて、「社会の中の『自分』」という視野。人物と背景がうまく一体化している絵。

    言うは易いね。


    参考:自我同一拡散

    世間体の価値低下について



    Twitter:つぶやき





    「世間体」というのは、残酷なほどに人を、精神的に追い詰めます。

    人によって程度の差はあれど、

    人間というのは人の目線を意識して生きる動物だと思います。


    しかし同時に、「世間体」というのは生産的なものでもあります。

    意味と理由があって、「世間体」は存在しています。(していました。)


    少子化が問題とされて久しい。

    若者の環境や価値観の変遷などもありますが、

    昔は、

    結婚しないとどこか肩身が狭いような雰囲気、「世間体」があった。

    そんな世間体が、結婚率を支えていた側面があります。

    “もういい年だし、そろそろ結婚しないとな”と、そんなふうに背中を推す世間体がありました。

    ところが、個人主義(自由主義と呼んでもいいのですが)、

    アメリカで主流であったそのような主義が日本にも台頭し、

    「世間体」の価値が下がった。

    「結婚しなくてもいい」という自由の尊重。

    世間体よりも自分、自分の人生が一番大事。「世間<個人」。

    「人の目なんて気にするな!」と、どこぞのロックンローラーが歌えばその一言で元気をもらい、皆で拳をあげる。


    若者を中心に、世間体の価値は徐々に崩壊していきました。


    「世間体」には価値があります。(ありました。)

    個人がバラバラになって行き先を見失わないようにする抑制力があった。

    しかし今や、「世間体」の価値はありません。

    個人主義がそれを食い殺してしまった。

    そのようになってしまったのは、世間体にも原因があります。

    安い個人主義に対して、それよりも安い理論しか世間体は持ち合わせていなかった。





    ツイートの話に戻します。


    “自虐的な人は、本当は自分の事が大好きで、人にかまってもらいたいだけ” 

    そんな安い理論で自虐を雑に否定する世間体。

    「自虐的思考は生産的ではない」という本懐を持ちつつも、

    その説明が、幼稚園児レベルだった。


    「私の自虐は退廃思想、デカダン派だ。破滅型の生き様に美を見出した」と、個人主義者がワガママ口調で述べても、

    それに対抗しうる充分な論拠を「世間体」は持ち合わせていなかった。

    “自虐的な人は本当は自分の事が大好きなんだ”といった、

    そんな足腰の弱い風刺や皮肉では、その暴走を止めることは不可能です。

    幼稚なルサンチマンをみているようです。


    個人主義の台頭というよりも、世間体はその非力さゆえ、自滅していったといったほうが適切かもしれません。

    個人がアタマの悪いうちは、アタマの悪い世間体でも良かったのですが、

    世間体やメディアではどうにもならないほど、

    メキメキと個人の知は発達しました。自らの実存に目覚めてしまいました。


    無論、社会や世間体を逸脱した個人主義は、アノミーという壁にぶつかり、

    糸の切れた凧のように行き場を失い、さまよい、絶望し、

    無残に死んでいく運命にあります。

    「終」2

    「終」2

    「終」

    「終」

    「春」

    「春」