タダほど安いものはない 〜音楽に人生を捧げられないんです!〜


とあるミュージシャンがCDを発売し、告知されていたのだが、
それに関して、ネット上で『ちょーだい』とリプライしている人がいた。


作品に値段をつけているのは、理由があるからだ。

その理由を無視した自分本位の発言なのだが(本来、受け手はそれを想像によって補うのだが)、
ならば値段をつけている理由をアーティスト側から説明してはどうだろうか

「こういう理由で値段をつけているんだよ」って。

値段をつけている(或いは値段をつけなければならない)、その理由を知らないのだから。


仮に懇意にしている友人であっても、
タダであげてしまうと、ろくな批評はついてこない。

「購入者」の視点に立てないからだ。

価格と作品の価値を照らし合わせることができない。

20円で買ったもやしを腐らせてしまうことはあるが、
2000円で買ったもやしは、是が非でも調理してやろうと思う。

「買う」ことで、人は真摯にその作品と向き合おうとする。

無料で(叉は安く)手にしたものは、「まぁ後でもいいか。無料だったし(安かったし)」となるのが常。

他者に自分の作品が渡ったのに、何も生まれないということ。


**********


衝撃であった「ちょーだい」発言に関して、他にも思うことがある。

そもそも、そのようなファンのいる(そのような発言が出てしまう)アーティスト側に根本の原因があるんじゃないか。


違法ダウンロードされているランキングの上位は、謂わば安物のJ-POPが多い。


「買う程でもないんだよな。でもみんな知っているし、流行っているみたいだし、今度カラオケで歌ってみたいし。とりあえず無料でダウンロードして、聴いてみるか。
てか、ダウンロードするまでもないか、面倒だしyoutubeで済ませておこ」


そのような気持で、安物J-POPが無料で違法ダウンロードされている。(youtubeで済まされている)

いや、安物どころか、購入する価値の無い、無料の代物だと思われている。

その程度の音楽だとみなされている。

「ちょーだい」なんて言われるのは、その程度の音源だとみなされているってことじゃないだろうか?

違法ダウンロードされているような音源、その程度の音源を作っているのだろうか?

いや、「実際その程度の音源なんじゃないか??」と、勘ぐってしまった。

もし、仮にそうであるならば、「音楽に命をかけていない」のではないかと思われる。

命をかけて作った音源であるならば、買う買わないは別として、
周囲は「ちょーだい」なんて冗談でも普通は言えない。


「命や人生はかけない」というスタンスで、音楽に取り組んでいるのだろうか。

音楽のために、自分の人生と生活を捨てられないのだろうか。


「線路に落ちた『音楽』を助けようとするか」

「助けたいけど…」と、躊躇した揚句、自分の命をやっぱり優先してしまって、線路に飛び込めず、『音楽』を見殺しにするような、半端な覚悟しかないんじゃなかろうか。

そうして見殺しにされた、轢き殺された音楽を見てきた。
死んでいるような音楽を、死んでしまった音楽を作ったのは誰だ?聴き手のせいのなのか?音楽を作っている側の人間じゃないか。

「自分の命>音楽の命」という態度で音楽を作れば、音楽の生命力が落ちて当然だ。


音楽のために死ねるか。
音楽のためなら死ねるか。

「音楽のためなら命をかけられる」というアーティストの音源を、多くの人は『購入』する。

そうして、死ぬ気で作った音楽を、人は気持ちを入れて鑑賞する。

タダほど、安くみられている作品はない。

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男の定義


「男の定義」といいますか、「男とは何か?」について、
私は、私なりの解をもっています。

『男とはまさに“精子的”な存在であり、“生産性”ある死を迎えることが男の本懐である』

これが私の「男の定義」です。
これが「男」です。


言わずもがな、男は「死んでいく生き物」です。
その中で、「いかに死ぬか」が、今現在も問われています。
「いかに死ぬか」が男の最高命題であり、
「何かを残して死ぬ」ということが、男の最大目的、本願です。

それは精子のような一生涯であります。


では、“生産性”とは何か、以下の二点があげられます。


  • 家庭を築くこと
  • 文化を残すこと


これらを成し得たならば、男は“生産性”ある死を迎えることができます。


【家庭を築くこと】


子を作り、育て、次代を築くことです。

やり遂げたという、幸福な顔で男は死ぬことができます。

これに関しては、別段の説明は要らないでしょう。


【文化を残すこと】


「文化」とは何か。

これは非常に広いのですが、芸術は勿論、科学や、次代に残る会社を築ことや、
宗教や、スポーツ、 「愛について論じる」といった、学習による伝習など、
そういったことです。

「社会や世界に残る所産」のことです。


では、文化に貢献するためにはどうすればよいか。

「作品化」です。


これに関しては、私の敬愛する芥川の言葉を引用させていただきます。

“芸術家は何よりも作品の完成を期せねばならぬ。
さもなければ、芸術に奉仕する事が無意味になつてしまふだらう。”

(芥川龍之介『芸術その他』)


頭の中で考えているだとか、
「俺には個性があって、俺には思想があって…、俺はオリジナルだ」って、
それは当然なのですが、
それでは、文化に関与することができません。

その思いを、具体的に「作品化」せねばなりません。


「作品化」というのは、他者に提供できる形にすることです。

自分の思想を、具体にし、まとめ、ラッピングし、「公共性」をもたせることです。


例をあげると、

毎日日記を書いているなら、それを一冊の本にまとめる、
野球観戦が好きなら、それを評論としてまとめる、
絵を描くのが好きなら、それを商品化させる、
料理を作るのが好きなら、レシピとして残す、

…このようにして、他者に提供できるような形にします。


繰り返しますが、
「頭の中で考えているだけ」や、
思想が散在しているような状態に留まるのではなく、
まとめて、しっかりラッピングし、作品化せねば、無意味に終わるといってよいでしょう。


尚、それが実際に社会でシェアされるかどうかは、第一に考えるべきことではありません。

目下、優先すべきは、一先ずの「作品化」であります。


たとひ自身の作品が「文化」として残らずとも、
果敢に挑戦した結果の死に様は、特攻死のごとく華々しく、
必ずや誰かが見ており、その誰かが、その生き様を文化として受け継ぐのではないかと思います。


*******


「男の定義」について、まとめます。


『男とはまさに“精子的”な存在であり、
“いかに生きるか”ではなく、
“いかに死ぬべきか”という意識のもと、
“生産性”ある死を迎えることが男の本懐である。
生産性とは、【家庭】と【文化】を築くことである』


以上で締めたいのですが、

最後に少々余談を…。

「男の定義」などと申せば、
「人間に絶対的な『定義』など存在しないんだよ」と返す方がいます。
(それは「常識なんてない」といった論調に似ています)

それは重々わかっておるのですが、
少し弁解をさせていただくと、以下の様な魂胆が私にはあります。

「『人間』とは何か、わかりません。定義づけることはできません。
が、『性(別)』であるならば定義することが可能ではないか」。

幾らか汲み取っていただければ幸いであります。


尚、「女」はどうであるかといった意見に関しては、思うところはありますが、
私は男であり、
「男は唯、男についてのみ語りうる」と、そのように考えております。

「私の高校時代は~♪」って、それほんと?


妄想は記憶を改ざんする。

“妄想癖”が、あまりに酷くなると、「妄想」のはずが、「現実」になっちゃうこともある。

妄想してますか?
仕事中とか、風呂に入ってる時とか、もしかして頭の中で“ありえないこと”を妄想していたりしますか?


ところで、こういうことがよくあります。


・「高校時代、私、超オタクだったしwww おかげで友達とか全然いなかったしwww」
(←本当はそれなりに友達がいて、オタクってか、普通にアニメが好きな程度)

・「高校時代、私、毎日友達とカラオケ行ってたよ♪」
(←本当はすぐに帰宅していたし、友達なんてあまりいなかった)


などなど、過去を偽ることはよくあるものです。

無論、これは「他人に嘘をつく」という行為ですが、
「自分をよく見せたい」「稀有な人生を送ってきた」といった虚勢です。

そんなことは全然かまわないことです。

誰に迷惑をかけるわけでもないし、誰しも少しは“かっこつけたい”ものです。


しかし、こういった妄想があまりに酷くなると、『実際にそうだった』と、記憶・過去を改ざんしてしまうことがあります。


高校時代、友達が少なかったというコンプレックスが強いあまりに、虚勢をはって、「私は高校時代、友達が多かった」という虚言を言い続けていると、
『自分は、実際に友達が多かったのだ』と、妄想が「現実化」していきます。

「自分は友達が少なかった」という「事実」は記憶から薄れていき、
結果、『自分は本当に友達が多かったのだ』という記憶に塗り替えられます。

気付けば、なんのためらいもなく、虚言でもなんでもなく、
『うん、私、友達が多かったよ!』と、普通に言っています。
本人にとっては、もうそれは事実になっているのですから、事実を事実のまま言っているだけですから。


私はあなたに聞きます。

「高校時代、どんな日々を送っていましたか?」

あなたは答えます。しっかりと答えます。

しかし、どうだろう。

例えば、
『今現在』のあなたに「高校時代、どんな日々を送っていましたか?」と問う。

全く同じ質問を『10年後』のあなたにもする。

今現在の私と10年後の私とでは、「高校時代、どんな日々を送っていましたか?」という質問に対する解答に、違いがありはしないか。
違うことを言ってないか。ちょっと変えていないか。


記憶というのは、変わっていきます。

記憶は往々にして、“妄想”によって変容していきます。改ざんされます。


「高校時代、どんな日々を送っていましたか?」

私は知らないのです。

いや、知っていますが、恣意的な改ざんが行われているかもしれません。

だからやっぱり、知らないのです。

真実は最早、高校時代の時にしかありません。

私は海を抱きしめていたい:坂口安吾


Twitter:つぶやき





まだ私が20代前半だった頃、好んで坂口安吾の作品を読んでいました。


  • 『白痴』
  • 『私は海をだきしめていたい』
  • 『デカダン文学論』
  • 『魔の退屈』
  • 『行雲流水』
  • 『肝臓先生』
  • 『堕落論』
  • 『桜の森の満開の下』
  • 『坂口流の将棋観』
  • 『将棋の鬼』
  • 『いづこへ』


こうして読んだものをあらためて振り返ると、

「あー、やはり私は好きだったんだな」と思います。

男はだいたい好きになるんじゃないかな。


当時、私は「将棋」が好きで、それをきっかけに坂口安吾の小説に触れました。

有名な著書は、『堕落論』『白痴』『桜の森の満開の下』など。


就中、おすすめしたいのが『行雲流水』『私は海をだきしめていたい』

おもしろいんですよ、これが。

独特の女性観や戦争観。


坂口安吾『私は海をだきしめていたい』
“歓喜仏のやうな肉慾の肉慾的な満足の姿に自分の生を托すだけの勇気がない。
物その物が物その物であるやうな、動物的な真実の世界を信ずることができない。”

“私は女が物を言はない人形であればいいと考へた。
目も見えず、声もきこえず、ただ、私の孤独な肉慾に応 ずる無限の影絵であつて欲しいと希つてゐた。”

“肉慾の上にも、精神と交錯した虚妄の影に絢どられてゐなければ、私はそれを憎まずにゐられない。
私は最も好色であるから、単純に肉慾的では有り得ないのだ。私は女が肉体の満足を知らないといふことの中に、私自身のふるさとを見出してゐた。
満ち足ることの影だにない虚しさは、私の心をいつも洗つてくれるのだ。
私は安んじて私自身の淫慾に狂ふことができた。
何物も私の淫慾に答へるものがないからだつた。
その清潔と孤独さが、女の脚や腕や腰を一さう美しく見せるのだつた。”



超口語的感想

話に不感症の女性が登場するのですが、

「貞操観念とセックス」というのが、ひとつのテーマになっている。


短絡的二元思考になるが、

セックスを「人間的行為」とみるか、「動物的行為」とみるか。


よくいうじゃないですか。

欲望のままに、快楽を求め、満足を得るっていう意味で、

「セックスしているときは人間は動物だ」とか。動物的行為として語ること。


セックスを人間的行為としてとらえた場合、それはもはやセックスではないのかもしれない。

互いが動物的に心身をまかせるからこそ成立し、成就する行為。


しかし肉欲的な満足の姿に生をあずけるだけの勇気の無さが男にはあって。

動物になりきれない、なってはいけないんじゃないかという思い。

人間的行為と動物的行為、その狭間で揺れる。

「一体俺は自分の肉欲をどのように決着をつければよいか」、迷う。


人間はどっか心の中で、いつも「人間」でいたい。

そんな思いの延長上に、「貞操観念」っていうのがある。

セックスをしているとき、相手は「鏡」である。

破廉恥な女性は鏡となって、「破廉恥な自分」を映し出す。

清潔な女性は鏡となって、「清潔な自分」を映しだしてくれる。

相手に非動物的なある種の清潔感を求め、それは鏡として作用し、自己の肉欲への決別と承認を図る、

貞操観念っていうのはそういったものだと思う。


物語の内容に戻りますが。

不感症の女性を前に、そういった込み入った感情が芽生える。

「私は愛せるか、いや、私は今、『素直に』愛せるだろう」って感じになって。

貞操観念と相手の不感症がうまく結びつき、

相手女性を海という言葉で喩え、

「海を抱いていたい」と、そのような表現になる。

海のように、深くて、優しい気持ちになる。

と同時に、広大な海を前に感じるような「孤独」も感じるわけですが、

自身の肉欲と貞操観念にうまく折り合いがついた今、一体それは問題ではないと。



そんな話じゃないかなぁと私は思いました。

間違っていたらごめんなさい。





カミュ : 異邦人



カミュ『異邦人』 - 内容とあらすじ -


異邦人




アルジェリアに暮らす主人公ムルソーのもとに、母の死を知らせる電報が養老院から届く。

母の葬式のために養老院を訪れたムルソーは涙を流すどころか、特に感情を示さなかった。

葬式の翌日、たまたま出会った旧知の女性と情事にふけるなど普段と変わらない生活を送るが、ある日、友人レエモンのトラブルに巻き込まれアラブ人を射殺してしまう。

ムルソーは逮捕され、裁判にかけられることになった。

裁判では母親が死んでからの普段と変わらない行動を問題視され、人間味のかけらもない冷酷な人間であると糾弾される。

裁判の最後では殺人の動機を「太陽が眩しかったから」と述べた。

死刑を宣告されたムルソーは、懺悔を促す司祭を監獄から追い出し、死刑の際に人々から罵声を浴びせられることを人生最後の希望にする。


アルベール・カミュ
(Albert Camus、1913年11月7日 - 1960年1月4日)
フランスの小説家、劇作家




1957年、史上二番目の若さでノーベル文学賞受賞。

カミュの著作は「不条理」という概念によって特徴付けられている。

カミュの言う不条理とは、明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性のことであり、そのような不条理な運命を目をそむけず見つめ続ける態度が「反抗」と呼ばれる。

そして人間性を脅かすものに対する反抗の態度が人々の間で連帯を生むとされる。


- 代表作 -
異邦人』(1942年)
シーシュポスの神話』(1942年)
ペスト』(1947年)
反抗的人間』(1952年)


感想

読み終えるには早い、読み終えた後が長い。

“太陽のせい”は、質(たち)の良い課題だ。

アルベール・カミュ、『異邦人』(新潮文庫)


中編以下の話なので、読むのはそんなに時間は要しません。

が、読み終えた後が、“長い”。

読後、読者は長い旅を強いられることになる。

(“めまい”という言葉が物語の中ででてくるが、私もめまいがしてくる)


周知の通り、本書は「不条理」を一つのテーマにしている。

ではその不条理をどのように解釈し、受け止めるか。


本書は哲学的な小説であり、「感想」というよりも「解釈」と呼ぶのが相応しい。

以下、一解釈だと思って読んでほしい。


先ず思うに、「死」の宿命性というものが不条理と結び付けられているのではないか。

冒頭「きょう、ママンが死んだ」というある意味で冷徹な言葉は、
母の葬儀で涙を流す流さない云々の、「自己欺瞞・不条理」の一例の為だけでなく、
世界の不条理と自己の無関心を、「死」という宿命性をもって優しく迎えるという意味もあるのではないか。

不条理の極地は、やはり「死」の宿命性であろう。

その極地たる「死」を自己認識することによって、徐々に社会および世界の不条理を認識し、さらには容認となる。

それまでは無自覚であった不条理に、死刑確定後から徐々に自覚的になってゆく。


異邦人


他、不条理に関して、“太陽”という重要なキーワードが出てくる。

アラブ人を殺害してしまったムルソーは検事に問われる。なぜ殺したと。

「太陽のせいだ」と答える。

太陽が眩しかったから、太陽が熱かったから。

と、そのまま受け取ることもでき、「一体どういうことだ?」と言いたくなるが、

「太陽」は、本小説のテーマでもある「不条理」の反対、対峙するものとして描かれている。

「太陽」⇔「不条理」。

いわば、「太陽」とは真実や合理といったことの象徴である。

“太陽のせいだ”というのは、ムルソーの、対・不条理、
不条理との向かい方を意味する言葉であろうと私は解釈した。

不条理なる世界において、真実の太陽は“めまい”や“暑さ”を引き起こす。それは生きにくさを暗示している。


検事はさらにムルソーを問い詰める。

母の葬儀の日、君は泣かなかったねと。

これが死刑判決の重要な判断材料となってしまう。

たしかに無関心、不感無覚で、感情を欠いた、冷徹な非人間にもみえるが、
性欲もあり、仲間も助けるし、
本人からすれば罪悪感などなく、なんの違和感もない。

しかし、「母の葬儀の日に泣かなかった」ことを、社会の道徳観が追い詰める。

人間として、それはどうなんだと。

しかし、ムルソーからすれば、
泣きたくもないのに、社会の道徳観にそって、演技として「泣く」のは、実存主義でいうところの自己欺瞞ではないか。


話が少々それますが、
最近でもこういった事例は身近なところでよくある。

「原発問題について真剣に考えている人」が「真剣に考えていない人」を批判する構造もこれに似ている。

「今、絶対にこうすべきだ」という絶対的な正義がある時、
人はしばし ば攻撃的な姿勢を示す、絶対的な正義を背景にして。

無関心の他者を「愚弄」できるほどの、圧迫する権利をその正義は持つのだろうか。

ひとつの問題を考えていても、考え方はひとつではない。

「ひとつしかないんだ」という主張をもって、それ以外を排他する。
即ち「手をつなごう!」が、「手をつなげ!」という強制になってはいけないだろうと思う。

「手、つなげよ!」と攻撃的に言われてしまうと、
手をつなぎたくなくなってしまう、そんな人の心理がある。



『異邦人』から話が飛躍してしまったが、このように色々と考えさせる、名文学であると思う。

興味をもたれた方には是非ご一読願いたい一冊です。





昨年、美術館に一切行かなかった私が最も芸術を感じたもの、それは「コピー・模倣」だった


年が明けてから述べるのも、なんですけど…、
昨年、一切、美術館に行かなかった私が、最も芸術を感じたものについて。

MMDトレース


昨年、私が最も芸術を感じたのは『MMDトレース』でした。

勿論、これは昨年どころかもっと前からあって、私が気付くのが少々遅かっただけです。

が、“なんじゃそりゃ?”という未見の方もいると思います。
それを説明するには見てもらうのが一番早いだろうと思います。

(※ちなみに私は「芸術」について全く勉強したこともない人間なので、優しい目で見て下さい…汗)













……と、こういうものです。

苦手な人は苦手でしょうけど。


「どの作品か」というわけではなくて、この表現方法、映像に、強い刺激を受けました。

勿論、個々の動画に技術差はあるのでしょうが、それは現在のところ重要ではありません。
というより、「MMDトレース」の芸術的本質はそこにはありません。

というのも、これは端的にいえば、「模倣・コピー」の技術であり、尚且つ、「プロという概念がまだ確立していない『アマチュアジャンル』」であって、表現の“技術差”ではなく、表現の“技術方法”について着目されるべきだと考えます。

MMDトレースと社会性


「模倣・コピー」と聞いて何を思い浮かべるか。

「大量生産」「商業主義」といった、作品の質低下を連想するネガティブなもの。

そういった傾向は激化し、世の中には「模倣・コピー」の品、或いは「模倣・コピー」ができてしまうような品が増えました。
これはご説明するまでもないと思います。

そんな中で行き着いた、或いは脱却したともいえるのが、「MMDトレース」ではないかと私は考えます。

“模倣すること”を、斯くも技術的に、高等な“芸として”確立させた。

「MMDトレース」という、「模倣・コピー」表現は、
誰もが簡単にできる「大量生産」ではなく、また、直接お金に結びくような「商業主義」でもない。

模倣・コピーの氾濫によって、オリジナル(本物)は脇に追いやられて、視界から隠れてしまったが、
「コピーされたものを更にコピーする」、そういったことを繰り返してきた結果、「コピーする技術」が異常に高まった

そんな高いクオリティのコピーを求めていく現代性の中で、コピーそのものが「表現ジャンル」として遊離した。

そして、コピー・模倣表現は、「○○を模倣する」という受け身の姿勢から、「○○に模倣させる」という能動的な態度へと移っていく。

そういった社会性も、「MMDトレース」には反映されているのではないかと思うのです。

…が、これだけでは“芸術性”と言うには少々乏しいかもしれません。

そのへんは次で語ります。

「音」「舞踊」「ミラー」


以下、表現としてどのように面白いか、味わいがあるかを述べてみます。

「構造」「次元」「印象」などに、私は芸術的感触を受けたのですが、
見ての通り、「MMDトレース」の動画には、異なる次元が並列・共存しています。

「アニメのキャラ」と「ホンモノの人間」、この2つですね。

では、それら2つの層がどのようにして、このムービーの中で共存成立しているか。

次の三点を軸にして、順に述べていきます。

 一. 「音」
 二. 「舞踊」
 三. 「ミラー構造」

一. 層の異なる二世界に共通軸となる「音」


「音」とは、時間性を伴う。
いや、時間そのものである。
「時間」は形而上に属するものとして、次元を超越する可能力がある。
(相対性理論とか、そういう特質が時間にはある)
まずこの「時間」を介して、両界の接触が発生する。つまり接点が形成される。
しかしこれだけではまだ不十分です。

二. 「音」の流れを具象化する「舞踊」


この場合、舞踊は「音」のパートナーであり、音を表現し、音と共存し、両者は調和して「ひとつ」となっている。
これにより第一の接点である「音」が具象化される。
接点はより強固なものとして補完され、違和感のない形で、異なる2つの次元の中和が行われる。
(また、これによって視覚性という土台が構築され、「ムービー」という形の作品として提出される。)

三. 「ミラー構造」による両次元共存


「音」とひとつになった「舞踊」が、さらに「ミラー構造」という(同じ動き)をすることで、両次元が絶妙なバランスをもって共存している。
「ミラー構造」仕立てにすることで、完璧な中和、一体化が実現される。


* * * *

と、以上のような理由から、これらの動画を絶賛するわけですが、
正直なところ、高次元な作品であるために、現在の私の乏しい語彙では言語化することが非常に難しいです。

こういった作品を前にすると、まだまだ勉強不足であることを感じずにはいられません。

「言語化が困難であるもの」を前にすれば、「言葉が出ない」というリアクションになり、私は「言葉で説明する」ということの難しさを痛感します。

が、そういったものに出会えたことはとても刺激的でしたし、
MMDトレースという表現が、今後、さらなる高評価を受けていくことを期待しております。