「安西先生、諦めても試合が終了しません」


知人からメールが来た。

「音楽活動に“見切り”をつけて、海外で働くことにしたよ」と。

彼はここ数年、音楽活動を精力的に行なっていた。

ファンもたくさんいたし、ワンマンライブも成功させていた。

音楽だけで飯を食っていくことが、彼のひとつの目標であった。

しかし、メジャーな舞台で活躍することは、なかなか難しいことであった。

アイドル・AKB商法・違法ダウンロード・不景気といった、昨今の音楽シーンにおいて、万人受けを狙わない非商業的な“本当にいい音楽”は、受け入れ先が少ないだろう。

詳しくはわからないが、そういったことで“見切り”をつけたのだろうし、或いは、新しい志を見つけたがために、海外で働くことにしたのだろう。
或いは、自分の設定していた目標をほぼ達成したという、満足感があるのかもしれない。


正直言うと、そのメールを見た時、私はこう思った。

「何が『“見切り”をつけた』だ!?音楽はそんなもんじゃねぇんだよ!そんなに簡単に諦めんだったらなぁ、最初っから本気じゃなかったんだよ!道理であなたの音楽が私には響かなかったわけだ!!」

音楽は本人にとって、「手段」でも「目的」でもない。
我々は音楽の「ファン」でしかない。
歌い手は、音楽の神ではない、音楽の子である。

日頃そのように考えている私にとって、“見切りをつける”という小器用なセリフは、腑に落ちないものがあった。

「お前のために音楽があるんじゃない、音楽のためにお前があるんじゃないのか」。


しかし一方で、私は彼の行動が幾らか共感できる。

私は常々、「夢は諦めてもかまわない」と思っている。

「夢」なんてどうだっていい。
夢に向かって突き進む、人間の『熱量』こそが大事である。

(熱量とは、所謂、「夢をもっている人間は輝いている」というもの)

夢や目標というのは、そういった人間の“熱量”を保存する『器』にすぎない。

『器』があることで、熱量を保存することができる。

『器』は何度変えたってよい。

『熱量』をそのまま持ち続けるために、『器』を変えることは時に必要なことである。


その知人は、人としての『熱量』を失わぬために、夢という『器』を変えたのであろう。
音楽という『器』から、また別の『器』へと。


“諦めたらそこで試合終了だよ”

いい言葉だ。勇気づけられる某名言だ。

しかし、諦めてしまった者にも、次の試合がある。
諦めても試合は終了しない。

その試合で負けても、次の試合で負けても、というか、一生負け続けても、試合に参加し続ける人の熱量こそが美しい。

「安西先生、俺、試合諦めたんですけど、まだ試合が終わらないです。むしろ、『早く試合が終わって欲しい』とすら、最近少し思います」