私は海を抱きしめていたい:坂口安吾


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まだ私が20代前半だった頃、好んで坂口安吾の作品を読んでいました。


  • 『白痴』
  • 『私は海をだきしめていたい』
  • 『デカダン文学論』
  • 『魔の退屈』
  • 『行雲流水』
  • 『肝臓先生』
  • 『堕落論』
  • 『桜の森の満開の下』
  • 『坂口流の将棋観』
  • 『将棋の鬼』
  • 『いづこへ』


こうして読んだものをあらためて振り返ると、

「あー、やはり私は好きだったんだな」と思います。

男はだいたい好きになるんじゃないかな。


当時、私は「将棋」が好きで、それをきっかけに坂口安吾の小説に触れました。

有名な著書は、『堕落論』『白痴』『桜の森の満開の下』など。


就中、おすすめしたいのが『行雲流水』『私は海をだきしめていたい』

おもしろいんですよ、これが。

独特の女性観や戦争観。


坂口安吾『私は海をだきしめていたい』
“歓喜仏のやうな肉慾の肉慾的な満足の姿に自分の生を托すだけの勇気がない。
物その物が物その物であるやうな、動物的な真実の世界を信ずることができない。”

“私は女が物を言はない人形であればいいと考へた。
目も見えず、声もきこえず、ただ、私の孤独な肉慾に応 ずる無限の影絵であつて欲しいと希つてゐた。”

“肉慾の上にも、精神と交錯した虚妄の影に絢どられてゐなければ、私はそれを憎まずにゐられない。
私は最も好色であるから、単純に肉慾的では有り得ないのだ。私は女が肉体の満足を知らないといふことの中に、私自身のふるさとを見出してゐた。
満ち足ることの影だにない虚しさは、私の心をいつも洗つてくれるのだ。
私は安んじて私自身の淫慾に狂ふことができた。
何物も私の淫慾に答へるものがないからだつた。
その清潔と孤独さが、女の脚や腕や腰を一さう美しく見せるのだつた。”



超口語的感想

話に不感症の女性が登場するのですが、

「貞操観念とセックス」というのが、ひとつのテーマになっている。


短絡的二元思考になるが、

セックスを「人間的行為」とみるか、「動物的行為」とみるか。


よくいうじゃないですか。

欲望のままに、快楽を求め、満足を得るっていう意味で、

「セックスしているときは人間は動物だ」とか。動物的行為として語ること。


セックスを人間的行為としてとらえた場合、それはもはやセックスではないのかもしれない。

互いが動物的に心身をまかせるからこそ成立し、成就する行為。


しかし肉欲的な満足の姿に生をあずけるだけの勇気の無さが男にはあって。

動物になりきれない、なってはいけないんじゃないかという思い。

人間的行為と動物的行為、その狭間で揺れる。

「一体俺は自分の肉欲をどのように決着をつければよいか」、迷う。


人間はどっか心の中で、いつも「人間」でいたい。

そんな思いの延長上に、「貞操観念」っていうのがある。

セックスをしているとき、相手は「鏡」である。

破廉恥な女性は鏡となって、「破廉恥な自分」を映し出す。

清潔な女性は鏡となって、「清潔な自分」を映しだしてくれる。

相手に非動物的なある種の清潔感を求め、それは鏡として作用し、自己の肉欲への決別と承認を図る、

貞操観念っていうのはそういったものだと思う。


物語の内容に戻りますが。

不感症の女性を前に、そういった込み入った感情が芽生える。

「私は愛せるか、いや、私は今、『素直に』愛せるだろう」って感じになって。

貞操観念と相手の不感症がうまく結びつき、

相手女性を海という言葉で喩え、

「海を抱いていたい」と、そのような表現になる。

海のように、深くて、優しい気持ちになる。

と同時に、広大な海を前に感じるような「孤独」も感じるわけですが、

自身の肉欲と貞操観念にうまく折り合いがついた今、一体それは問題ではないと。



そんな話じゃないかなぁと私は思いました。

間違っていたらごめんなさい。