4コマ漫画


「せんぱいとこうはい」





「死にたい」





「音楽ツウ」




「聴き手のせいにしてまえ」




「若手ニートと就活」




実家暮らしと一人暮らしで異なる“ひきこもり”事情




一年程、いわゆる“ひきこもり”であった時期が私にはある。

現在はそれなりに活発に働き、動けてはいるので、

それは軽度のものであったと思う(そもそも「一年」では“ひきこもり”とは言わないかもしれないが)。

しかしながら、ほぼ家から出ない、毎日スウェット姿という散々な状態であった。


“ひきこもり”であった時期


飯は一日一食(卵かけご飯)、

外出といえばコンビニに煙草とコーヒーを買いにいくのみ。

自宅では、主に寝ているか、トイレの便座に腰掛けて小説を読んでいた。

室内であるのに、なぜかヘッドフォンで音楽を聴いている。

そんな無音の室内は、カーテンで閉めきられ、

暗闇の中で、パソコンの灯りだけが光っている。


ある日、鏡で自分の姿を見て閉口する。

やけに老けた20代男性が映っている。

痩せた顔面に無精髭、見るからに運動不足。

その時、「ああ、これがいわゆるひきこもり状態というやつか」と気付いた。

たかが一年とはいえ、ほとんど家から出ず、人と会わないでいるとこうなる。


生命の持続


しかし、危機感はまだその時点ではない。

ともすれば、

「このままでも別にいいや、『このままでいけるなら』
と考えていた。

そのような状態になった理由は色々あるが、

仕事を辞めて、何もやることがなくなり、

「自問する時間」が増えたことが主なきっかけである。

「生きる意味」や「本当に自分のやりたいこと」を考えても、早々わかるはずがない。

仮にそれを考えれば、

「そんなものないよ、見つからないよ」という、欲しかった答えとは真逆のものにぶち当たる


結果、さらに行き詰まり、暗くて深い森を彷徨うことになる。

では、絶望し、例えば“死にたくなる”かといえば、

それにストップをかけるものが世には溢れている。

それらは歴史が生んできた蓄積かもしれない。

私の場合、それは小説であった。

具体を言えば、武者小路実篤の『友情』を読み、人生の活気を思い出した。

(人によってはそれが音楽や絵であったりするのかもしれない)




しかし、それだけではまだ動かない。

「生命を持続させること」に関心が向いただけであって、「現実的に動くこと」には繋がらなかった。

重い腰は“重いまま”である。


実家暮らしと一人暮らしで異なる“ひきこもり”


「一人暮らしの“ひきこもり”」と「実家暮らしの“ひきこもり”」では異なる点がある。


私は高校を卒業して以来、ずっと一人暮らしである。

一人暮らしをしている人間が“ひきこもり”になるとどうなるか、想像するのは易い。

『お金がなくなる』。

私は家賃・光熱費・携帯代などをすべてクレジットカード支払いにしている。

「収入はない、支出しかない」、自ずとカードのローンが積まれていく。

借金うん百万と比べれば、それは少額のものであるが、私は確かに焦った。

「このままじゃあダメだ、マズい」と。

一年ひきこもってこの金額である。

何年もひきこもっている人は恐ろしい金額であろうし、

実家暮らしでなければ、それだけの間ひきこもり続けられないだろうと察する。


ひきこもって、お金がなくなって、生きていけなくなる、

それは「死んでいく」のではなく、「殺される」という感覚に近い。

死にたいという私の気持ちでもない、お金という現実に殺される。

それは「消えていく」という優しい待遇ではなく、「消される」感覚。

「死ぬのはいいけど、殺されるのは嫌だ」という我侭な心理がそこで働き、私は納得がいかなかった。

なんとしてもそれは避けたく、私は仕事を探し、つまり、“外に出る”ようになった。

もしも私が“実家暮らし”であったなら、

「このままでも別にいいや、『このままでいけるなら』」と考え続けていたかもしれない。

自問自答し、葛藤していたとはいえ、 なんだかんだひきこもっている環境が、自分には優しく、それなりに満喫していたのだ。

「消えていく」辛さは語るが、「消される」辛さはそこにはない。

さらに本を読み、知識が増えれば、なんだか成長しているような、がんばっているような感覚もあった。

だがそれで飯が食えるかとえいえば、話は別である。

夢や妄想は実現しなければ、つまり「卵」の状態では、現実に踏み潰される。

現実(お金)との兼ね合いの中で、その卵を温めていかなければならない。

そんなふうに今は思っている。

人を立ち上がらせるような、良い意味での厳しさもまた、現実には含まれている。

苦しめる原因となった「現実」にこそ解決策が潜んでいる。

***

ちなみにこれらの内容はすべて『夏の駄駄』に記したので、興味ある方はぜひ一読してもらえれば。



『夏の駄駄』詳細ページ

ウェブレター





ひさしぶり。元気にしてる?

先日、友達の、ベテランひきこもり系ニートくんといっしょに、履歴書を書いてきたよ。

ひとりで履歴書を書くの、つまんないなって思って。


で、その友達なんだけど、履歴欄に「ネトゲ廃神」としか書けなくて、

えらく困った表情をしててさ、とてもおもしろかったよ、これが。

何回か、「師匠、気をたしかに!こんなもん紙切れですから!!」って励ましたよ。

まったく、ぜんぜん師匠じゃないよね。

でもおもしろかった。

彼、「自己PR欄」にさ、あまりにも書くことがないから、

「コミュニケーション能力でいいんじゃない?」って。

事実、彼の「チャット能力」はとんでもないからね。
すぐに友達になっちゃうんだから。すごいよね。


あれ?ニートとか、ネットゲームとか、キミは知らないか。最近流行っているんだよ、こっちでは。


ま、そういうわけでさ、あいかわらずだよ、ボクは。

キミと出会った時から、ボクは何も成長していない。

もし、もう一度キミと会えるなら、まったく同じ自分を、キミに見せることができるよ。


あ、そうだ。

もう一人友人がいてさ、いっしょにネットラジオを始めたんだ。

『音楽好きと音楽嫌いによる音楽の話』っていうタイトルで。

昨日、その第四回を録音したよ。

よかったら聴いてみてよ。

『音楽好きと音楽嫌いによる音楽の話』


【Youtubeチャンネル】http://www.youtube.com/user/music2talk


ちょっと、距離が距離だから、聞こえにくかもしれない。

ダメもとで、音量をあげてみてよ。もし聞こえたらうれしい。


でもさ、

あのときと同じように、キミは言うのかな。

「フクモリの表現は、いつも自己満足だよね。ワタシ、つまらないよ」って。

ボクはあのとき、

「なにもやっていないのに、なにかをやっている人を批判する資格なんてない」と言った。

ボクはなんでキミにそんなことを言ってしまったのか、ひどく後悔しているよ。

だって、「なにもやっていない」のはボクのほうだったから。

自分のために「なにかをやっていた」ボクは、キミのために「なにもやっていなかった」。

ボク一人だけが、いつも感動していた。

キミといるのに、ボク一人だけが、いつも幸せだと思っていた。

ボクひとりだけが楽しんでいた。

それは、決して、「なにかをやっている」とは言わないよね。

むしろ、「なにもやっていない」と言うんだよ。

“なにもやっていなかった”。

…ああ、馬鹿すぎる。

「ボクは変わらなければならない」と思った。

急には無理だけど、少しずつ「自分だけではない表現」に向かおうと思った。

『夏の駄駄』っていう小説を書いた。まぁよかったら読んでみてよ。



きっと伝わるものがあるよ。そう信じている。

・・・

文章が長くなった。ボクの悪いクセだ。

またメールしていいかな?

いや、やっぱりやめておく。

返事がかえってこないと、落ち込んでしまうから(笑)

だから遠くで応援してるよ。これからも。

そもそも、キミの住んでいるところは、メールもインターネットもつながっていないし。ユーチューブもアマゾンもない。

んー、

キミのいるところが地獄ならわかるけどさ、天国なんだから、インターネットくらいつないでてほしいよね。


じゃあ、そろそろ別の小説を書き始めます。




『音楽好きと音楽嫌いによる音楽の話』


【Youtubeチャンネル】http://www.youtube.com/user/music2talk


第四回「たんなるただの会話」の巻




ネットラジオ『音楽好きと音楽嫌いによる音楽の話』


仲条くんとやっているネットラジオ。第四回を録音しました。

よろしければ。


第四回「たんなるただの会話」の巻




【今回のキーワード】
消費税8%/アコーディオン/ミュージシャンとカラオケ/誘いづらい/スタジオをかりるお金/ライブハウスでの演奏費用



『音楽好きと音楽嫌いによる音楽の話』


【Youtubeチャンネル】http://www.youtube.com/user/music2talk

仕事ができない人をネタにして笑っている人の笑いのセンス。




よく見かけるんだわ。

仕事ができない人をネタにして笑っている人。

キミだよ、キミのことね。

いっしょになって笑ってるだろ?注意もせずにさ。なぁ、傍観者であり当事者よ。


ちょっとドジでさ、仕事が遅いとかで、怒られてる人ってよくいるじゃないっすか。

で、「あの人には仕事まかせられないよねwww」とかさ。

人の失敗や、たとえば遅刻とかしてる人を見て、

「自分は一番下じゃない。よかった」って、誰にも言わないけどこっそり安心を得ている人とかさ。

笑いものに仕立て上げることで、自分は劣等生じゃないと認識することができて。


あとさ、仕事が遅いのを見ていると、勝手にイラッとする方々ね。

おいおい(笑)地球はキミのものじゃないぞ(笑)


どうなんよ、ほんと。

そんなことしかネタにならない日常ってどうなの?って、

「仕事のできないやつをネタにして盛り上がっている会話」って、どうなの?って。

受験生の日常会話が「テストの話」ばかりになるようにね、

『仕事ができる、できない』とか、それくらいしか会話がない。

もっといろいろしたほうがいいんじゃないか。

いや、無理か。仕事で忙しいもんな、キミは。


笑いのセンス


そもそも、「笑いのセンス」という問題があって。

滋賀の、いじめ自殺のニュースでさ、

蜂の死骸を食わせてギャハハって笑えるような「笑いのセンス」って、どうなのよ?って。

「それのどこがおもろいねん」って、ボクなんかは思うんだけど、まぁ笑いのツボは人それぞれなのかな。

同様にね、

「仕事ができない人の失敗」とかをネタにして笑えるって、

「そんなことで『笑えてしまう』のか?」って、思ったりするんですよね。


想像力のこと


あとさ、

「想像力なさすぎだから」って話になるんだけど、

人間の「短所」ばかり見て、「長所」を見ない、見ることができない、想像力の無さ。

「好き嫌い」だけで判断しちゃって、

嫌いだけど好きになる可能性、
好きだけど嫌いになる可能性、

そういう「別の可能性」を想像できないんだよ。想像力がなくて。

「好き嫌い」っていう表面だけで判断しちゃう。


一枚の絵を見てさ、
その表面しか見ない、その奥を見ない。

じっと見ようとしないんだよ、ぱっと見るだけなんだよ。

絵は、チラ見でわかるもんじゃなくて、見つめなきゃわかんないことが多い。複雑だから。人間と同じで。


「仕事ができないだけじゃなくて、私に直接の迷惑がかかってるんだよ!フクモリのような、現実を知らない人にはわかんないよ!(知らねーよ、そんなもん。どうぞ一生イラッとしててください。ごめん、言い過ぎた!)」

でも、それって、

「ぱっと見ているだけ」のこと多くないかって?

じっとその状況を見つめてみたらさ、

それを避ける事ができた可能性もあったんじゃないの?

自分にも原因あったんじゃないの?

その人には何か理由があったんじゃないの?

それを陰口のように言って改善するの?

そういうことを「想像したのか」って話だ。

想像しないんだよ、

表面で起きた結果だけが、その瞬間の、キミのすべてになっているんだよ。

想像力があれば、「それがすべてである」ってことは、ないんじゃないないかな、たぶん。


***


んー、

でも、仕方がないよね。

「じっと見つめる時間」がないんだよね?仕事が忙しくて。ぱっと見るしか、余裕がない。


でもさ、こういう、想像力のなさが引き起こす事態について、

いいの?それ。って思うんですよ。

それでこういうことを書いているんだけど・・・

・・・

・・・ん?どした?

「フクモリ、オマエが言うな! つか、オマエ、正社員経験1年以上もねぇだろ!」
って!?

ぉお…それだけは言わないでおくれ…。
まったくキミはボクの弱点をつくのがうまいなぁ…。
ごめんよ、ボクが悪かった。
ちゃんと働いたこともないのに、働いている人の「想像」をしちゃって。

っていうことだから、

想像力も使い方次第ですよーって。




軽鬱だったボクが、ほぼ全快した話。





よし。気合入れて書くよ、一気に書くよ。

少しは人のためになるような、そんな記事も書きたいんです。

偽善?そうかもしれないな。

まぁいいじゃないか、たまには。


軽鬱だったボクが、ほぼ全快した話。


『夏の駄駄』っていう小説を書いてね、



内容はボクがひきこもっていたときの話なんだけど、

そんとき、ちょっと鬱っぽかったんだよね。

すんごい深刻じゃないし、

「いますぐ病院いけ!」ってほどのもんじゃないんだけど、

たとえばさ、

  • 24時間、やる気が起きない。すべてが億劫。
  • 椅子に座ったが最後、 日が暮れるまでインターネット
  • とりあえず、なぜか、死にたい
  • 「このまま目覚めなければいいのに」と願ってから寝る

…とか、まぁ、そういう感じだったんですね。

「ああ~、こりゃちょっと鬱かも」
って、当時は思ってた。

(友達がボクの家に来た時、自殺関連の本が山積みされているのを見て、「こいつ、やべぇな…」と思っていたらしい)


そんなボクだったんですが、

今現在は、正常にこころが作動している。

ほぼ全快したといっていい(いや、ほんとに)。

しかも、けっこうな短期間で回復した。

これは、ボクが自分でそう思い込んでいるだけじゃなくて、

当時、ひきこもっていた頃のボクを知っている友人がそう言っているんだ。

「なんか、元気になりましたね」「ハツラツとしていますね」と、先週言われた。

自分でもそう思う。

朝起きるのが、ちょっと爽やかな感じだったりする。

どうやってそうなったのかって、

ちょっと書いてみるよ。3つあるんだけどさ。


日光の力、なめたらあかん




よく言うようにね、

「太陽の力」
って、すごいねってこと。

毎日ね、陽の光をあびようよ、ってことなんです。

日光の力って、やっぱ偉大だよ。精神を健全にするよ。


ボクは、今、警備員の仕事をやっている。アルバイトだけどね。給料安いけどね。毎日クレームくらってるけどね。

ろくすっぽ社会経験もないまま大人になってしまったから、

なかなか仕事が決まんなくてさ、

お金が底をつきて、地中をえぐって、マグマが噴き出るほどお金がなくて、

焦って、警備員のバイトに応募したんだ。

主に土木工事の通行止めとかやってて。

そっからだよね、

ほぼ毎日、朝から晩まで「日光の下にいる生活」が始まったのは。

劇的に変わったよ。

だって、ひきこもっていたときは、
外が絶対に見えないように、端から端までカーテンを閉めきってたからね。

カーテンも困っただろうね。
「もうちょい閉めたり開けたりしてよ…。ずっと固定やないっすか…」って。

部屋の中は、暗くてさ、一日中、パソコンの画面だけが光ってる状態で。

でさ、基本、座椅子にすわり続けていたから、腰が痛くなるから、

せめて読書のときはって、トイレの便座に座って読んでた。何時間も。

これまた、暗いよね。トイレの照明って、豆球だし。

しかも、トイレの外は、カーテンで閉めきった暗い部屋なわけでしょ?

「暗いフォルダ」の中にある「暗いファイル」みたいなもんだよ。


そんな、暗い毎日だったからね、

「一日中、日光の下で過ごす」って、そりゃあ劇的な変化だったわけ。

明るい!明るすぎるぜ!って。

あ、でさ、

ここでポイントになるのは、“一日中”ってことね。

「散歩」ぐらいは、ひきこもっていたボクだって少しはしていた。コンビニにメシを買いに行く程度だけどね。

でもその程度じゃあ、ちっとも「陽の恵み」を授かれんのよ。

一日中、朝から晩まで、それくらい『日光を浴びまくる』ってこと。

「鬱に日光が効果的」って話、やっぱ本当なんじゃないかなって思うよ。ボクの場合だけだったら申し訳ないけど…。


毎朝、同じ時間に起きる




もうひとつあってさ、

日光の力もそうなんだけど、

「毎朝、同じ時間に起きる」
ってことね。

これもよく聞くけどさ、生活のリズムを、規則正しくするってこと。

「朝」ね、「夜」じゃなくて。

なんでかって、夜は日光ないから。

「毎朝、同じ時間に起きる?んなもん、当たり前じゃ!」って、正社員の方々は言うんだけどさ、

なかなかそうもいかないんだよ。

体を動かしていないから、体力がありあまっちゃって、

すぐに寝れないんだよね。ずっと目がさえている感じで。

仕事があれば疲れるし、いいんだけど、ないからね、仕事。

で、就活する気力もないし。

幸か不幸か、たまり続けるカードローンが、ボクの重い腰を動かすきっかけになったんだけど。

じゃあ、次、ラストね。


体を動かす




「運動」ってやつ。

警備員の仕事、職人さんほどではないにせよ、肉体労働で。

「立ちっぱなし」は当然だけど、適度に小走り、適度に重いものもったりして。

ひきこもっていたときはさ、

「体力?なにそれ?キーボード打つのに必要?」ってな具合でさ、

だから、ちょっとした運動でも、ボクはクタクタでさ。

家に帰ったらよく寝れるんだよな。しかも、すぐに。

「熟睡」ってさ、二つあると思うんだけど、

「寝不足のとき」と、「体が疲れているとき」。

前者、それ、あんまり良くないタイプの熟睡だよ。たぶん。

寝起きの気分が違うよ。そうじゃない?

「寝不足で熟睡」はさ、寝起きが不快だよ。ただひたすらに。

最初のほうでも書いたけどさ、

「このまま目が覚めなければいい」っていう状態だったから、

つまり、「朝の気分」がけっこう大事だったんだよね、ボクは。


あとね、運動をして、『汗をかく』って、やっぱ気持ちがいいものでさ。

「ダメなやつが一生懸命働いている」って感じがするじゃないすか?

そんな自分に酔ったりしてさ、

汗を滴らせて、「俺は更生するんだ!」とか思ったりしてさ。

まぁ、悪い気分じゃないよね。
どっちかっていうと、すがすがしい。


まとめ


まとめるとね、つか、3つしかないんだけど、

  1. 一日中、日光を浴びる生活
  2. 毎朝、同じ時間に起きる
  3. 体を動かす

ボクの場合は、これで、ほぼ全快した。たぶん。

もちろんさ、完全に治ったわけじゃないよ。

こころの奥底ではさ、いまだに、ちょっと「死への願望」とかあるよ。

でも、それを「客観的」に見つめられる、そんな余裕があるっていうかさ。


***


じゃあ、長くなったし、このへんで。

誰かの、なんかの参考になったらいいよ。

またブログで会いましょう。




ネットラジオとか、何でお前はそういうことする?


今年の2月、

仲条くんと『音楽好きと音楽嫌いによる音楽の話』というネットラジオを始めた。

なんとなく、そのときの気分で始めたラジオだ。

いつまで続けるかわからない、

あまり何も考えていないというのが本音。

始めた理由は、ボクと仲条くんとで違うだろうね。

仲条くんが何を考えているかはわからないが、

ボクが「ラジオをやってみよう」と思った理由は単純明快だ。

「思い出づくり」だ。

思い出をつくろう、と。

じゃあ、「『思い出』って一体なんなんすか?」ってことでね、

ちょっとそれを今日は書こう。うん。


『思い出』って一体なにさ?


『思い出をつくろう』だなんて、おいおい、君も年をとったねぇ」

そのとおり。ボクは年をとったんだ。

ボクは今、29歳でね、

この年齡、

本人が若いと思えば若いのだろうし、年をとったと思えばそうなのだろうね。

で、ボクはといえば、「年をとったなぁ」と思っているんだ。

もっといえば、「晩年だ」と思っている。

人生の「終局」にさしかかっていると思っている。

「もうあとは死んでいくだけだ」
「死にむかって突っ走っていくだけだ」とすら、思っている。

(この発言が「若い」っちゃ若いんだが。中二病みたいなことで、そういう、悪い意味での若さなんだよね。褒めたもんじゃないよ、ほんと)


で、そんな気持ちだと、

「ボクはもう、死んでいくだけだ」なんていう心境だとね、

何を考えるかって、

「何か思い出をつくらなきゃ!」って思うんです、はい。


どっか旅行に行くとするじゃないっすか。

たとえばハワイ行ってさ、

でも、行ってみたら雨でざざ降り。どこにも遊びに行けない。

「こりゃやべぇ(((;゚Д゚)))」って思う。

「私のハワイ旅行が、つまんねぇまま終わっちゃう!」って。

そこでボクらの口から出るのは、

「何か『思い出』をつくらないと!」

そんとき、人間なにを考えてるかっていうと、

「ハワイから帰った後のこと」を考えているんだよね。

「今現在」より、その後、「未来」のことを考えている。

「つまんないまま帰っちゃう『未来』」を想像して、

「それはヤだなー」って思って、

で、「何か思い出をつくって帰ることができた」っていう、そんな「未来」がほしくなる。

ハワイ旅行の後の「未来」について。


「思い出づくり」は未来をつくること


こんな感じでね、

「ボクはもう、死んでいくだけだ」なんて思っているやつはさ、

「いや、ちょい待て!思い出つくるぞ!」って考えるんすよ。


「思い出」って、つまりさ、

「過去を思い出す」ってことだよね。

で、それは、その「過去」からみて、「未来」の行為だよね。

「思い出づくり」っていうのは、つまりね、

「過去を思い出す『未来』をつくる」ってことなんだよね。


「死んでいくだけの俺の『未来』」にね、

「これ、マズくねェか?なんか、やることあんじゃねぇか?」って思って、

「ちょっと違う『未来』をつけくわえたい」っていう気持ちがさ、

「思い出づくり」っていう行為におよぶんですね。

それは、「過去にしがみつくこと」じゃあないんですよね。

むしろその逆、「未来をつくろう」という行為が、

『思い出づくり』ってやつだと、まぁそんなふうに思ったりしますね。

「思い出」=「未来」だからね。


どうやったら「思い出」がつくれるのさ?


ということで、

「ネットラジオ、なんか、そういう『思い出づくり』になんじゃねぇか」って、

そういうこと思ったわけだ。

で、だったらとことん楽しんでやるぜ!って。

楽しくなかったら思い出になんないって思ってさ。

楽しいから思い出す。
楽しくなかったら思い出さない。


つまり、思い出になるには、条件があって、

「何か思い出すきっかけ」
がなかったらダメなわけだ。

で、このラジオの場合だったら、

「楽しいことが、その条件、思い出すきっかけになるんじゃないか」って。

(悲しいことや大変な経験も、思い出になるけども、
まぁ、この場合は、楽しいパターンでいこうよって。楽しさをトリガーにすっぞって)


***


そんな感じだからさ、とりあえず。

「このラジオを聴く人にとっても、同じように『思い出』になったらいいなぁ」とか、

さすがにそれは思わないけども、つか、そんなクオリティじゃないし、「そりゃあ大それ過ぎ!バカ!消えちゃぇ!」って話だから、

そのへんは聴く人に任せるよ。ごめんな、偉そうな口調で。

じゃあ、そろそろ焼きそば作るし、またブログで会いましょう。じゃあまたね。



『音楽好きと音楽嫌いによる音楽の話』


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福森亮太作品集『生』について


福森亮太 作品集 『生』


福森亮太 作品集 『生』というiPhone・iPadアプリを2011年にリリースした。

スマートフォンが“スマホ”と略して呼ばれ、普及し始めた頃だ。

リリース後、約二年が経過した今、この作品アプリに対する思いを、初めてここに綴ってみる。


福森亮太 作品集 『生』(iPhone/iPadアプリ)



福森亮太 作品集 『生』
(アプリプレビュー)

『生』という文字を百枚書き、その画像を収めた作品集である。

それは『生』と読めないほど崩れた、抽象的な書体であり、

それを色を使って描くことで、見る人にとってますます“わけのわからない”ものとなった。

実際、「なにこれ?意味不明なんだけど…」と、多く方に言われた。


伸びないダウンロード数


さて、ここからが本題であるが、

この「福森亮太作品集『生』」だが、

ご察しの通り、恥ずかしくなるほど、ダウンロード数が少ない

というか、「ほとんどダウンロードされていない」といってよい。

赤面である。

当然、利益なんざ、ほぼ無い。


尚、これは私が単独で制作したわけではない。

とある方(K氏)のご尽力あって出来あがったものだ。

いや、K氏がいなければこのようなものは作れなかったし、

又、作ろうとすら思わなかった。

大変に感謝しており、氏には生涯頭が上がらない。

それだけに、時間をさいて制作してくれただけに、
この情けないダウンロード数に関して、
K氏には今も申し訳ない気持でいっぱいである。


「ダウンロードされていない」理由としては、

  • 魅力的だと思わない
  • 販売価格が「450円」って、誰が買うんだよ
  • てか、福森亮太って誰か知らないし
  • 芸術として価値が低い

…などなど、枚挙に暇がない。


今現在も、このアプリに収められた『生』のようなものを描き続けていたならば、
少しは現状も変わっていたかもしれないが、
私はそこからズレて、色々と違うものを描くようになってしまった。

そういったことも要因としてある。


或いは、そもそも芸術の地力が私にはないのかもしれない。

アプリのダウンロード数の少なさからして、

日頃私の書く、偉そうな押しの強い文章なんざ、所詮は大言壮語である。

「口だけの偉そうなやつ」「実力も実績もないやつ」であり、

つまりは、自意識過剰な“勘違い野郎”なのかもしれない。


死ぬまで待つ、死ぬまで待てる、そんな『期待』のもてるアプリ


では、この「福森亮太作品集『生』」について、私自身がどう思っているか。

『失敗』だと思っているか?

答えは「NO」。「いいえ」である。

『成功』だと信じてやまない。

いや、正直にいうと、

「あぁ、失敗したんだな…」と思うこともある。

「結局、私はいいものが描けなかったんだ」と、残念に思うこともある。


が、日を追うごとに、私はこの作品集アプリを作ってよかったと思うようになった。


実際、私は今現在も、「間違いなく良い作品だ」と思っているし、

「誰もやったことがない、誰もがみたことのない作品だ」と確信している。


「450円でダウンロードしたけど、価格に見合ってない、買わなきゃよかった…」と言われても、

それは申し訳なく思うが、一方で、仕方ないとも思う。

私は、私の中にある信念だけで描いた。

それが他者とも共有できる信念であるとは限らない。

しかし、あなたの信念と、私が作品に込めた信念に、微弱な摩擦が起きて、

「なんらかの化学反応があなたにあってほしい」と、強く望んでいる。

が、こればかりは、私にはどうすることもできない。

「待つ」しかない。


待つ。待つということ。

いや、待つような、待てるような、そういう作品集であるということ。


今現在も、「福森亮太作品集『生』」はitunesでダウンロード可能であり、

ほとんどダウンロードされていないにもかかわらず、依然リリース中である。

この先、この作品集アプリのダウンロード数がどうなるかはわからない。

しかし、この、「今もある、これからもある」ということに、私は希望的観測をもっている。

そこには、どうなるかはわからないという「未来」がある。

そして、そんな未来が訪れるのを、私は「待てる」。「待っていられる」。「待つことができる」。

これをつまり、『期“待”』と言う。


そしてその期待値が、450円という価格に込められている。

この価格は、私と制作者であるK氏が相談して決めた、「未来への期待値」であった。

450円で買ってもらうことで、見ることのできる「未来」が、私たちにはあった。
450円で買ってもらうことで、得ることのできる「期待」が、私たちにはあった。

いやそもそも、その時点ですでに、その瞬間にこそ、何よりの「未来」と「期待」が存在していたのかもしれない。

そのような、夢見がちな制作サイドが抱いた、私たちの「期待」と「未来」、

その熱量が、そのまま同じように、買い手にも届くんじゃないか、

私たちがみた「期待」と「未来」と同じものを届けられるんじゃないか、

450円という両者にかかる橋を渡って。

そう思って、このアプリは450円という価格をもち、今も現存している。


福森亮太作品集『生』。

それは何かと問われれば、

「死ぬまで待つ、死ぬまで待てる、そんな『期待』のもてるアプリだ」と私は言う。

それがあなたにとってもそうであるかは、あなたにしかわからないが、私は構わない。

死んじまったら終わりだが、生きている間、つまり、私は死ぬまで待つ。待てる。待つことができるものだ。



福森亮太 作品集『生』


第三回「眠れない?これ聴いたら眠くなるよ!不眠眠打破!、の巻」




ネットラジオ『音楽好きと音楽嫌いによる音楽の話』


仲条くんとやっているネットラジオ。第三回を録音しました。

よろしければ。


第三回「眠れない?これ聴いたら眠くなるよ!不眠眠打破!、の巻」




【今回のキーワード】
隕石/死因予想/後ろから刺される/溺死/CD-R vs USBメモリ/アニソン/ドラえもん/犬夜叉/デジモン



『音楽好きと音楽嫌いによる音楽の話』


【Youtubeチャンネル】http://www.youtube.com/user/music2talk

作品つくって、表現してる人って、なんでそんなことしてるの?


『F』 by ryota.F

作品をつくったり、表現をしたり。

なんでそんなことしてんの?


って、話じゃないっすか。

僕の場合ですけど、

「客観的理由」「個人的理由」、ふたつあるんです。


客観的理由:文化を残すため


これについては、詳しいことは以前書いたので、参照してもらえれば…。

男の定義


http://rfmori.blogspot.jp/2013/01/blog-post_22.html


個人的理由:承認欲求を満たすため


「承認欲求」
っていうのが、あるんですね。

“あ~、人から認められたいなぁ”というやつです。
“多くの人に褒められたいなぁ”、とか、そういうのです。

浅はかですねぇ、浅はかだと自分でも思います。

そもそも、なんで僕には、そんな「承認欲求」があるんだろうって思います。


承認欲求(僕の場合)


僕は、10代のころ、あまり友達がいなかったんですね。

で、よくいる感じの、 教室の隅っこで、クラスの人気者とかに嫉妬していたヤツです。

「あんなやつの何が面白いんだよ、外面ばっかじゃねぇかよ」とか思ったりして、

まぁ、嫉妬しながら、同時にうらやましがっていたんです。

「あんな人間になりたいなぁ」って。

一人でいても楽しくないんです。
一人でいると、何をやっていいのか、不安になったりするんです。
まわりに人がいたら、安心するし、 いろいろとわからないこと聞けるし、 なんにもない時間や空間を共有できるし、
いっしょに価値観を共有しあって、笑ったりしたら楽しいし。

だから、「たくさん友達がほしいな」「自分のことをわかってくれる仲間がいたらいいな」とか、思っちゃうんです。

でも、僕は知っているんですよ。

「俺にはなんにもない」って。

「取り柄なんて、なにひとつない」って。

「手をふらなきゃ、誰もこっちをふりむいてくれない」
って。

イスに座っているだけじゃ、存在感なんてなくて、

みーんな僕のことに気付かなくて、

「あれ?フクモリくん、いたの?」
ってなもんで。

「いや、最初っからいたよ…ずっといたよ」ってなもんで。

これじゃあいかんな、何か自分もしないといけないなって。

このへんからね、「表現」っていうのに、つながっていくんですね。


「別にいいじゃん、人に認められなくても」


「別にいいじゃん、人に認められなくても」
っていうね、

「仙人的な達観しようぜ」って、 そういう意見も、今まで聞いてきたんだけどさ、

やっぱ、自分はそういう、 「ひとりはイヤだ」っていう子供のころの経験や思いを捨てられずに、 大人になってからもひきずっているんですね。

それは浅はかで、愚かで、矮小で、幼稚なもので、

自分でも情けなくて、恥ずかしく思ったりするんだけど、


なんていうか、本能的な欲求、きもちには逆らえなくて、

もう、そういう、自分の正直な気持ちにそって生きていこうと思ったんですね。

観念したっていうかね。

「僕は、『人に認められたい』と、本当はそう思っているんだ」って。

それはどういうときに気付くかっていうと、

自分がどれだけその表現に自信があっても、

作品が人にスルーされたとき、やっぱりスッキリしなくて、

そこを突き詰めてみると、心のモヤモヤの奥に、 「人に認められたい自分」がいるんですよ。

もう、それは隠せない、隠し切れない。

そういう自分が、どうあがいたって、いる。

これはもう、自分で、そういう自分を受け止めていくしかないなって、

そう思ったんです。


「表現の理由が個人的で、不純だな」


あとさ、「表現」とか、まぁ、「芸術」とかって、

そういう個人的な理由、欲求、欲望で取り組むものなん?
って、そう思うときもあったんですよ。

「なんか、動機が不純だな」「幼稚すぎないか」って。

でもね、表現することの動機って、そういうもんなんじゃないかなって。

個人的な欲望を満たすためっていうかさ。

それって、ダメなことなのかな?

そんなにダメなことじゃあないって、僕はそう思っているんです。

たとえばさ、

「子供のころ、貧乏だったから、大人になってからはお金持ちになりたい」
とか、

僕は、いいんじゃないかなって思うんです。

そういった、「お金持ちになりたい」っていう気持ちが不純なものだとは思わないんです。

だって「自然」じゃないっすか。
「ふつう、そう思うでしょ」って。

同様にね、

「ずーっと一人ぼっちだったから、だれかに自分のことを気付いて欲しいから、表現する」

これもいいんじゃないかなって思うんです。

「そういう気持ちじゃ“いい作品”はできない」
って、まぁそんな気もするけど、

個人的な、感情的な理由、

そういうのがさ、そもそもの制作動機になってね、きっかけになってね、

そっからさ、また別へと、いろいろ広がっていくんじゃないの?って。経験値あげていくうちに。

で、仮に、個人的な理由が間違っていたとしたら、

間違いに気付いて修正していったらいいじゃないかって、思うんです。

いったい、誰が間違わない人間なんていますか…。

でも、そうやって軌道修正して、成長していくためには、

僕の場合だったら、「承認欲求」とか、

そういった「個人的な欲求」に、自分自身で気付いて、

そして、そんな自分を、まず受け止めることが大事なんだろうなぁと思います。情けない自分から目を背けずに。

そんな気がします。


まとめると…


かいつまんでいうと、僕の場合、個人的な理由でいうと、

「自分にはなんにもないから」っていうことです。

ちなみに、

「作っていて楽しいから」とか、僕はあんまりそういうのはないです。

酒飲んで、友達としゃべってるほうが、はるかに楽しいです。

本を読んだり書いたりするより、外で遊んでいるほうが楽しいです。

でも、それができないんですよね。簡単なようにみえてハードルが高い。

なんでかっていうと、「自分にはなんにもないから」。

なんにもないやつが、友達なんてできるはずがない。
なんにもないやつが、外に出ても、なにかがあるはずがない。

必ずしもそうだとは限らないけど、そういうふうな、強迫観念をみたいなものをもっているんでしょうね。
自分に自信がないっていうか。

だから、必死で表現しようとする。まぁ、浅はかですけど。


・・・長くなりました。

きりがないので、今日はこのへんで。

最大の敵は「自分」ではなく「ライバル」




「最大の敵は自分自身である」
と耳にしますが、私は自分と闘って「百戦百勝」です。

ですが、一向に成長しません。

私は酷く悩みました。

これは一体どういうことなのでしょうか…。

「弱い対戦相手」を選んでいるからです。

対戦相手を「自分」に設定し(設定“された”わけではなく、自分で設定し)、それは自分自身でありますから、当然都合よく匙加減できるわけです。

「いま、俺のHP100くらいだから、敵(自分)のHPは90くらいにしておこう。これならそこそこいい勝負になって恰好がつく。でも最後は俺が勝つんだけどね」

といった具合です。

まさに“ご都合主義”なのですが、勝敗を判断もまた、私の匙加減であります。

『自分との勝負』である場合、
闘っているのは「自分」、
闘っている相手も「自分」、
そして審判をするのも「自分」です。

勝敗を決める審判が「自分」であるために、八百長可能な試合となっております。

また、それを監視するのも「自分」でありますから、八百長を隠し通すこともできます。

このような自分との試合を繰り返していては、とても成長などは見込めません。

私はいつだってそうでした。

「自分」よりも強い相手と闘わなければいけない。

尚且つ、その相手は「自分」の解釈で調整できるものであってはならない。

そのような強い相手は『ライバル』と呼ばれます。

「自分」ではない、つまりは、「他者」であるということです。

このようなライバルがいることで、いなければ見つけることで、ライバルと徹底的にリングで闘うことで、時にそれは負けることもありましょうが、私は強くなれるのではないかと思うのです。

「ライバル」としての条件ですが、
ライバルは自分が「尊敬している人」でなければなりません。
でなければ、「自分」との闘いの時と同様、自分より弱いものを選んでしまいます。

また、くれぐれも、決着、審判もまた、「他者」でなければなりません。
採点は他者が決めること、自分で行なってはなりません。
というより、対戦相手を「他者」に設定すれば、「比較」が可能となりますから、勝敗のジャッジに他者が割り込むこととなります。

* * * *

私はいつも、ワンパンで倒せるか、或いはワンパンで倒されるような、緊張感のない「自分」との闘いを繰り返してきました。

私に足りなかったのは、形の持たぬご都合宜しい「自分」と向き合うことではなく、確固と存在する具体な「他者」と向き合うことだったのではないでしょうか。

拮抗する、しびれるような闘いは、「他者」という「ライバル」を前にして初めて存在し、
「自分」などという弱い相手を選ばずに、たとひそれは闘わねばならない相手であったとしても、
横着せずに、闘いには、「他者」という「ライバル」を指名した
いものです。

私の場合、「自分」との闘いなどという気障なことは、まだ随分と後に考えるべきことかもしれません。

芸術その他:芥川龍之介



20代前半、私のバイブルでした。
改めて再読し、印象に残っている文をつらつらと載せてみます。


芥川龍之介『芸術その他』


芸術家は何よりも作品の完成を期せねばならぬ。

就中(なかんづく)恐る可きものは停滞だ。
いや、芸術の境に停滞と云ふ事はない。
進歩しなければ必退歩するのだ。
芸術家が退歩する時、常に一種の自動作用が始まる。
と云ふ意味は、同じやうな作品ばかり書く事だ。
自動作用が始まつたら、それは芸術家としての死に瀕したものと思はなければならぬ。

芸術は表現に始つて表現に終る
画を描かない画家、詩を作らない詩人、などと云ふ言葉は、比喩として以外には何等の意味もない言葉だ。

僕等は太陽の外に、月も星もある事を知らなければならぬ。

芸術家は非凡な作品を作る為に、魂を悪魔へ売渡す事も、時と場合ではやり兼ねない。

どんな作品でも、悪口を云つて云へないと云ふ作品はない。賢明な批評家のなすべき事は、唯その悪口が一般に承認されさうな機会を捉へる事だ。さうしてその機会を利用して、その作家の前途まで巧に呪つてしまふ事だ。かう云ふ呪は二重に利き目がある。世間に対しても。その作家自身に対しても。」

芸術が分る分らないは、言詮を絶した所にあるのだ。
水の冷暖は飲んで自知する外はないと云ふ。
芸術が分るのも之と違ひはない。
美学の本さへ読めば批評家になれると思ふのは、旅行案内さへ読めば日本中どこへ行つても迷はないと思ふやうなものだ。

芸術活動はどんな天才でも、意識的なものなのだ。
と云ふ意味は、倪雲林が石上の松を描く時に、その松の枝をことごとく途方もなく一方へ伸したとする。

無意識的芸術活動とは、燕の子安貝(*1)の異名に過ぎぬ。

技巧を軽蔑するものは、始から芸術が分らないか、さもなければ技巧と云ふ言葉を悪い意味に使つてゐるか、この二者の外に出でぬと思ふ。

凡て芸術家はいやが上にも技巧を磨くべきものだ。

霊魂で書く。生命で書く。
――さう云ふ金箔ばかりけばけばしい言葉は、中学生にのみ向つて説教するが好い。

単純さは尊い。
が、芸術に於ける単純さと云ふものは、複雑さの極まつた単純さなのだ。

手軽な単純さよりも、寧ろ複雑なものゝ方が、どの位ほんたうの単純さに近いか知れないのだ。

危険なのは技巧ではない。
技巧を駆使する小器用さなのだ。
小器用さは真面目さの足りない所を胡麻化し易い。

最後の文・・・

僕の安住したがる性質は、上品に納り返つてゐるとその儘僕を風流の魔子に堕落させる惧がある。
この性質が吹き切らない限り、僕は人にも僕自身にも僕の信ずる所をはつきりさせて、自他に対する意地づくからも、殻の出来る事をふせがねばならぬ。
僕がこんな饒舌を弄する気になつたのもその為だ。
追々僕も一生懸命にならないと、浮ばれない時が近づくらしい。

*1 燕の子安貝:あり得ないものの例

[参考]:芥川龍之介 芸術その他


「ひきこもりをネタにするんじゃねぇよ」




先日、『夏の駄駄』という小説をKindle出版で出した。

“ひきこもり文学”
とか、言ったりしてる。

「ひきこもりをネタにするんじゃねぇよ」、そういう意見があるだろうなって。

で、僕なりに弁解しなきゃいかんと思って。承認欲求が強いものだから…。


「ひきこもりって何?」


まず言わなきゃならんのが、 「ひきこもりって何?」ってことで。

まぁ、定義が、そんな厳密にあるわけじゃない。

例えばね、僕はずーっと思ってんだけど、

「ひとり暮らしのひきこもり」と「実家暮らしのひきこもり」って、けっこう違うよなって。

実家ってさ、

  • 家に帰ったら食卓に料理が並んでいる。
  • 家賃を払わなくていい
  • 部屋&風呂がひろい

って、

誰だって、実家にひきこもるわい!!
誰だって、働く気なくなるわい!!
誰だって実家におりたいっす!!


…とまぁ、ちょっと言い過ぎたけども、

つまりさ、“実家暮らしだから”、ひきこもりになるってことがあるんだよ。

環境がね、そうさせるっていうかさ。

で、そういう人(実家暮らしのひきこもり)の中には、
“ひとり暮らし”を始めたら、ひきこもりじゃなくなる人って、いるんじゃないのって。実家暮らしだからなんじゃないのって。


で、話を進めるけど、 ひとり暮らしをしていて、まぁ、ひきこもっているとする。

んで、お金がなくなって、「さぁ働こう」っつって、

タウンワーク取ってきて、仕事を始める。

これ、ひきこもりなんだろうか?って。僕、そう思うんです。

「ひきこもり」が何なのか、その定義はわかんないけど、

ひきこもりって、「お金がなくなっても、ひきこもり続けるんじゃないか」って、僕はそう思ってて。

ちなみ、僕はそれだったんだよね。

お金なくなって、カードローンがどんどん膨れ上がっていくのに、働こうとしない。
「こりゃ異常だな」って自分でも思ってた。


とは言いつつ、 そんな僕は、「仮性-ひきこもり」だと思っている。 真性じゃない。

真性はほんと、何年間もだしね。親に金を借りてでも、というふうに。

僕は誰からもお金を借りられない状況だったっていうのもあるけど、
ひきこもっていたのは一年程度だし、今は外に出て働いている。

重度じゃない、軽度のやつだったんだよね。ひきこもりが。


「軽い気持ちでひきこもりなんて言うんじゃねぇよ」


「じゃあなおさら、そんな“仮性”ひきこもりの人間が何を“ひきこもり文学”なんて言ってんだよ!」
って、
そういうツッコミもあると思う。

つまり、

「軽い気持ちでひきこもりなんて言うんじゃねぇよ」
「お前の言うひきこもりっていうのは、所詮ニセモンなんだよ」って。

もちろん軽い気持ちじゃないけどもさ、

「軽い使い方をしている」ってことに関しては、僕自身、「100%それは絶対に違う」とは言えない。だって仮性だから。自分でもそれはわかんない。

「ひきこもり」というワードを、僕はひょっとしたら軽い使い方をしているのかもしれない。

ただ、 たとえば、

テレビとかで、「死ね!」ってよく聞くじゃない?

あと、Twitterとかで、軽い気持ちで「死にたい」とつぶやいたり。

他には、 「うつ病」とかさ、本当はすごく深刻な問題なのに、

ちまたで、気軽に「あー、鬱だー」なんていう使われ方したり。

「死」とか「鬱」っていうのが、軽いものになって、おもちゃのような使われ方をされて。そういうふうな側面がある。


「ひきこもり」っていう言葉も、軽い使われ方で、流用している。

もちろん、社会的にすごい深刻な問題だと僕は思ってるし、わかっている。

で、僕が軽い気持ちで「ひきこもり」という言葉を使っていたとして、 僕はそれが罪になるとは思わないんだよ。

「死」っていうのがさ、すごく人に関わる重要な問題であり、哲学的なもんであり、

でも、その言葉を遊ぶようにして気軽に使っちゃっている、

そういう風潮を僕は、ダメだとは思わないんだな。

「意味の深い言葉」ほど、意味がわかんないんだから、
意味深く語られず、軽い形で使われるっていうのは、あって当然だと思うんだよ。


つまりね、

  • 「真剣な思いでその言葉を用いている」
  • 「軽い気持ちでその言葉を用いている」

とか、どっちでもよくないかって。

対象としている言葉に重みがあればあるほど、どっちでもいいんだって。

「大きいものほど軽く使われる」っていう、そういう使われ方も、あってもいいだろうって。あるだろうって。
もちろん、深刻に語るのも大事だけど。


「軽い気持ちじゃない、やっぱり真剣に書いた」


ただ、僕は『夏の駄駄』を真剣に書いたということだけは言っておかないといけない。

軽い気持ちじゃない、やっぱり真剣に書いている。

僕は今回、『夏の駄駄』で、
「自意識」、というか、「自意識が過剰」というのを書いた。


「ああ、働いてもすぐに辞めちゃうよ」っていう人はさ、
たぶんだけど、やっぱ自意識が大きいんだよ。

僕がここでいう「自意識」っていうのは、

教室や飲み会などで、みんながワーワー喋ってる中で、 なんか、自分だけ“浮いているような感覚”、
その瞬間の自分自身っていえばいいかな、それが自意識。

僕の場合でいうと、 朝礼とかで、みんな声をあわせて社訓を読んでいるときとか、 なんか違和感をもっちゃうんだよ。

「なんでみんな一緒になって声を出しているんだろう?」って。

他には、「なんで挨拶をしなきゃいけないんだろう?」とか、 「社員番号って、なんであるんだろう?」とか。

まぁ、つまり、自意識過剰なんだよな。
それってつまり、まわりと歩調をあわせられないわけだから、
で、仕事がなかなか続かず、途中で辞めちゃう。


そういったさ、「自意識」っていうのを、
『夏の駄駄』ではけっこうしつこく書いた

で、こういった感性が「ひきこもり」にも繋がっているんだろうなって思う。

「自意識過剰なところ」、ここに関しては僕自身の経験だから、真剣に書いたし、書き表すことができたんじゃないかって思ってる。軽い「ネタ」じゃない、本気のやつだ。


ネタであっても、ネタとして新鮮じゃない


ちょっと話かわるけど、

「じゃあ、たとえネタであったとしても、ひきもりって、もはやネタとして新鮮じゃないよ」
っていう意見もあって。


“ひきこもり文学”なんていってもね、

もうそういうのって、カテゴリとして既存している。

たとえば滝本竜彦さんとかね、学生のときよく読んだ。
芸能人でさえ、千原ジュニアの『14歳』とかね。

まぁそれくらい、だから、別に新鮮じゃない。

これは僕もわかっている。

僕もそのカテゴリに入れたらいいなって思っているだけで、

別に「新しいジャンルだ!」とは思っていない。

ただその、“ひきもり文学”のカテゴリの中で、
少し毛並みの違ったものは書きたかったし、そのチャレンジはした。

そのチャレンジがどういうものか、またはそれが成功しているかは、読手にゆだねることだから、僕はこれ以上いわない。

***

だいぶ文章が長くなったので、今日はこのへんで。

というか、もう『夏の駄駄』に関して喋るのはこれくらいでいいんじゃないかと思う。



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ラジオ第二回「トークを磨く前にBGMを追加した男たち、の巻」




私と仲条氏とでやっているネットラジオ、

『音楽好きと音楽嫌いによる音楽の話』の第二回を録音しました。

今回は仲条氏のBGM付きです。 

よろしければご試聴を…。


第二回「トークを磨く前にBGMを追加した男たち、の巻」




【今回のキーワード】
体罰/ピン球/back number/クリープハイプ/GLAY/ヒルクライム


『音楽好きと音楽嫌いによる音楽の話』


Youtubeチャンネル:http://www.youtube.com/user/music2talk


映画:エレファント・マン


今日は一作の名映画を御紹介。


『エレファント・マン』



映画『エレファント・マン』

デヴィッド・リンチ監督、脚本。1980年制作。

19世紀末のロンドンを舞台に、
生まれながらの奇型ゆえ“エレファント・マン"と呼ばれ、
人間扱いされなかった実在の人物ジョン・メリックの数奇な運命と、彼をとりまく人間たちとの触れ合いを描く。





名映画・名作であると心底思う。

一応有名作ではあるのだが、

まだ見ていないという方は、TSUTAYAにでもいけばほぼ100%あるので、是非。


感想


障害者および異形への念、そういった「外」に向けた目線ではなく、自らの「内」側に目線を向けさせてくれる作品だ。

それは例えば自らが抱える劣等感であったり、偏見性であったり。

自らの内面に潜むネガティブな要素を「反省」させ、「肯定」し、「止揚」する。


* * * *


「愛に満ち溢れた作品」、と言いたいところだが、

これはともすれば、「差別に満ち溢れた作品」とも見て取れる。

人間の持つ【差別意識】が、作品を成立させる条件・前提としてある。

【差別意識】があるからこそ生み出される感動である。


ここで述べる差別意識とは、
“自分とは異なるもの”に対する、「同一と見なせない意識」のこと。

極端な容姿を突きつけることによって、

見る者は自身の差別意識を痛烈に「自覚」する。

が、エレファント・マンを見ているうちに、

「自らと同一の部分」があることに視聴者は次第に気づき始める。

特別な自己愛者を除いて、

多くの人が持つ「劣等感」や「コンプレックス」。

そんな自分との共通点を発見することで、

「同情」ではなく「同調」し、自らをエレファント・マンと重ね合わせる。

エレファント・マンが持つ「劣等感」や「コンプレックス」は、
無罪であり、純粋であり、美しく描かれ、ネガティブなものが肯定的に描かれる。

そのような展開を経て、「自覚」は、自然な形で「反省」へと転じ、
さらには、「肯定」、「止揚」という形で締めくくられる。


後記


「人間らしく」という言葉があるが、では“人間らしさ”とは何だろうか。

「人間の本質」という哲学的議題になるが、依然、明確な答えは存在しない。

常に人間は、“人間らしさ”という定義からはみ出てしまう。

定義することができない。

定義すれど、その定義に収まらない部分が人にはあって、

そのはみ出た部分を“非・人間”とせねばならず、

しかし、その“非・人間”的部分もまた、“人間らしさ”という結末になる。

“人間らしさ”という言葉を使った時点で、“人間らしさ”は失われていくのかもしれない。

そんなことを思った。


記憶に残る読書法


森鴎外『雁』

今日、少し本の整理をした。

吉本ばなな『キッチン』、森鴎外『雁』『高瀬舟』などが押入れから出てきた。

かなり昔になるが、確かにそれらを読んだ。

が、内容をぼんやりとしか思い出せない。

いや、「ほぼ覚えていない」に等しい。


なぜ本の内容を忘れてしまうか?

「本の内容を忘れてしまうのは、その本に魅力がなかったからだ、つまらなかったからだ」、

そんなふうに考えていた時期が私にはあった。

しかし、今ではこう思う。


「本の内容を忘れてしまうのは、私の『本の読み方』が悪いからだ」


読後、本の内容と感想をEvernoteなりパソコンにつっこむようにしているが、ついその作業を怠ってしまう時がある。(※冒頭で述べた本はこの作業をしていなかった)

余程の面白い本でなければ、5年後にはだいたい忘れている。
感想や内容を読後にまとめた本は、5年後もだいたい覚えている。

「覚えているかいないか」は、私の読み方で決まるといってよい。

「感想文」とは、将来それを読み返すためではなく、主に「記憶として残す」ためにある。


他にも、「本の内容を忘れてしまう読み方」として、

「『早くこの本を読み終えたい』と思いながら読み進める」というのがある。

アルバイターが仕事の終了時間を気にしながら働いているように、

残りのページ数を気にしながら、早く読み終えようとする読書姿勢。

こうして読まれた本は、内容がさっぱり頭に残らない。

駆け足で読んでいるのだから当然といえば当然である。

「残りページ数」を少しでも気にし始めたなら、読むのを中断したほうがいい。

「残りページ数が気になる」と「続きが気になる」は、同じ「早く読みたい」でも全く異なる。

「続きが気になる」「続きが読みたい」、そのような気持ちで読み進めるべきである。

そもそも急ぎで読む必要など無い。

一冊の本を一年かけて読んでもいいのだ。それが本当に良い本であるならば。

もっといえば、

その時に「読み終えられなかった本」があってもよい。

たとえ、その時は読み終えられなくても、

積読となったその本を、数年経ってから「自然に」読み始めることはよくある。

(これは意外と頻繁にある)

残りページ数を気にしながら無理して読むくらいなら、読まないほうが賢明であろう。

それなら興味のある本を片っ端からバシバシ読みまくって、
年間200冊以上読んだほうがいいように思う。


シンプルな「記憶に残る読書法」




私が実践しているシンプルな「記憶に残る読書法」。


1.「気になったページに付箋を貼る」

2.「読後、付箋ページを読み返す」


3.「内容と感想をEvernoteやノートに書き残す」


4.「余裕があれば感想と引用をそれぞれ140字内でツイートする」


※無理して読んでいると感じたならスパッと読むのを諦め、すぐさま別の本に切り替える
※諦めた本を再び読む機会は数年後おとずれる


・・・・・

と、ここまで述べてなんだが、

「読書“法”」など、本来は不純である。

「速読法」やら「目標年間○冊」やら、

「本って、そんなに頑張って読むものだったっけ?」と思う。

読書とは、「文と構造を味わう『鑑賞』」である。

さらに青臭く言うならば、ロマンである。冒険と探求である。

そんなロマンさえあれば、読書法など要らないように思う。

(ここまで書いてなんですが…)