カミュ : 異邦人



カミュ『異邦人』 - 内容とあらすじ -


異邦人




アルジェリアに暮らす主人公ムルソーのもとに、母の死を知らせる電報が養老院から届く。

母の葬式のために養老院を訪れたムルソーは涙を流すどころか、特に感情を示さなかった。

葬式の翌日、たまたま出会った旧知の女性と情事にふけるなど普段と変わらない生活を送るが、ある日、友人レエモンのトラブルに巻き込まれアラブ人を射殺してしまう。

ムルソーは逮捕され、裁判にかけられることになった。

裁判では母親が死んでからの普段と変わらない行動を問題視され、人間味のかけらもない冷酷な人間であると糾弾される。

裁判の最後では殺人の動機を「太陽が眩しかったから」と述べた。

死刑を宣告されたムルソーは、懺悔を促す司祭を監獄から追い出し、死刑の際に人々から罵声を浴びせられることを人生最後の希望にする。


アルベール・カミュ
(Albert Camus、1913年11月7日 - 1960年1月4日)
フランスの小説家、劇作家




1957年、史上二番目の若さでノーベル文学賞受賞。

カミュの著作は「不条理」という概念によって特徴付けられている。

カミュの言う不条理とは、明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性のことであり、そのような不条理な運命を目をそむけず見つめ続ける態度が「反抗」と呼ばれる。

そして人間性を脅かすものに対する反抗の態度が人々の間で連帯を生むとされる。


- 代表作 -
異邦人』(1942年)
シーシュポスの神話』(1942年)
ペスト』(1947年)
反抗的人間』(1952年)


感想

読み終えるには早い、読み終えた後が長い。

“太陽のせい”は、質(たち)の良い課題だ。

アルベール・カミュ、『異邦人』(新潮文庫)


中編以下の話なので、読むのはそんなに時間は要しません。

が、読み終えた後が、“長い”。

読後、読者は長い旅を強いられることになる。

(“めまい”という言葉が物語の中ででてくるが、私もめまいがしてくる)


周知の通り、本書は「不条理」を一つのテーマにしている。

ではその不条理をどのように解釈し、受け止めるか。


本書は哲学的な小説であり、「感想」というよりも「解釈」と呼ぶのが相応しい。

以下、一解釈だと思って読んでほしい。


先ず思うに、「死」の宿命性というものが不条理と結び付けられているのではないか。

冒頭「きょう、ママンが死んだ」というある意味で冷徹な言葉は、
母の葬儀で涙を流す流さない云々の、「自己欺瞞・不条理」の一例の為だけでなく、
世界の不条理と自己の無関心を、「死」という宿命性をもって優しく迎えるという意味もあるのではないか。

不条理の極地は、やはり「死」の宿命性であろう。

その極地たる「死」を自己認識することによって、徐々に社会および世界の不条理を認識し、さらには容認となる。

それまでは無自覚であった不条理に、死刑確定後から徐々に自覚的になってゆく。


異邦人


他、不条理に関して、“太陽”という重要なキーワードが出てくる。

アラブ人を殺害してしまったムルソーは検事に問われる。なぜ殺したと。

「太陽のせいだ」と答える。

太陽が眩しかったから、太陽が熱かったから。

と、そのまま受け取ることもでき、「一体どういうことだ?」と言いたくなるが、

「太陽」は、本小説のテーマでもある「不条理」の反対、対峙するものとして描かれている。

「太陽」⇔「不条理」。

いわば、「太陽」とは真実や合理といったことの象徴である。

“太陽のせいだ”というのは、ムルソーの、対・不条理、
不条理との向かい方を意味する言葉であろうと私は解釈した。

不条理なる世界において、真実の太陽は“めまい”や“暑さ”を引き起こす。それは生きにくさを暗示している。


検事はさらにムルソーを問い詰める。

母の葬儀の日、君は泣かなかったねと。

これが死刑判決の重要な判断材料となってしまう。

たしかに無関心、不感無覚で、感情を欠いた、冷徹な非人間にもみえるが、
性欲もあり、仲間も助けるし、
本人からすれば罪悪感などなく、なんの違和感もない。

しかし、「母の葬儀の日に泣かなかった」ことを、社会の道徳観が追い詰める。

人間として、それはどうなんだと。

しかし、ムルソーからすれば、
泣きたくもないのに、社会の道徳観にそって、演技として「泣く」のは、実存主義でいうところの自己欺瞞ではないか。


話が少々それますが、
最近でもこういった事例は身近なところでよくある。

「原発問題について真剣に考えている人」が「真剣に考えていない人」を批判する構造もこれに似ている。

「今、絶対にこうすべきだ」という絶対的な正義がある時、
人はしばし ば攻撃的な姿勢を示す、絶対的な正義を背景にして。

無関心の他者を「愚弄」できるほどの、圧迫する権利をその正義は持つのだろうか。

ひとつの問題を考えていても、考え方はひとつではない。

「ひとつしかないんだ」という主張をもって、それ以外を排他する。
即ち「手をつなごう!」が、「手をつなげ!」という強制になってはいけないだろうと思う。

「手、つなげよ!」と攻撃的に言われてしまうと、
手をつなぎたくなくなってしまう、そんな人の心理がある。



『異邦人』から話が飛躍してしまったが、このように色々と考えさせる、名文学であると思う。

興味をもたれた方には是非ご一読願いたい一冊です。