親友の恋人を奪うのは人として最低であると言う人



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このツイートを見られて、不快に思われた方もいるだろうと思う。


「親友の恋人を奪うのは人として最低だ」と述べる人は確かにいる。

それは正しい。というより、それが普通。

事実、友情は美しい。(『走れメロス』を読んで感動するように)

いや、「友情」以前に、「人としてどうなんだ?」という最低具合である。


友情や礼儀を破ってまでも自己中心的に人を愛すことは、

倫理的に良いことだとは通常思えない。

しかし、

私が言いたいのは、だからこそ“愛情は罪悪なのだ”と。

愛情は、
“やってはいけない”、倫理にはんすることをやってしまう。

愛情は残酷なものである。



なにが絶対的に正しいかは、この議題には無いと思います。

しかし、個人的な、私の考えはあります。


その愛情が「ホンモノ」であり、「真実」であるならば、

「心苦しくとも、愛情を取るのが人間ではないか」と。

そこで親友を選ぶ者も確かにいる。

それは誰も否定出来ない。むしろ立派である。

しかし、そこで愛情を選ぶ者もいる。

親友を傷つけてでも、愛情をとること。

それは恰好わるくて、恥ずかしくて、残酷なことだと思います。

自分のエゴがむきだしになっていて、自己中で、酷く醜い行為です。

そのような人間は不道徳であり、人でなしとして迫害されるでしょう。


が、

結局のところ、人間は残酷で恥ずかしい生き物ではないかと思う。

エゴがでてしまう。

他者を悲しませても、自己を選んでしまう愛情のエゴ。

そのような愚かさを肯定する心があるだろうか。


無論、「人を傷つけることは良くない」。それは避けるべきだ。

が、わかっていてもそれができないケースというのが人間にはあって、

特に「愛情」には、そのような側面がありはしないか。

やりたくなくても、罪を犯してしまうことがある。

愛情とは、間違えてしまうものではないか。

“愛情は断じて人を傷つけてはならない”というならば、

それを生涯にわたって、守り続ける自信があるだろうか?

「罪深い愛情」は、この世の中にあってはいけないのだろうか?



生涯にわたって「完全」を志す、生涯「不完全」な生き物が人間であると私は考えている。

「愛情」とはかっこ良いものではない、立派なものではない。残酷なものである。

(と、私は考えます)



今回、少し角度をかえて、

『親友の恋人を本気で好きになってしまったらどうするか?』

などという、日常的な議題で文学について述べてみました。

僕は、文学ってそんなワイドショー的な要素があると思うんです。

「高潔な哲学」だけが文学ではなく、

昼ドラにあるような不倫とか、二股とか、

ワイドショーになるような、悪く言えば下世話な、

そんな話が文学には描かれていたりします。

“だから文学は面白いんだ”っていうのもあると思うし、

言い換えれば、

日常でよくある人間関係の奥には、文学が潜んでいるのではないかと思います。