
一年程、いわゆる“ひきこもり”であった時期が私にはある。
現在はそれなりに活発に働き、動けてはいるので、
それは軽度のものであったと思う(そもそも「一年」では“ひきこもり”とは言わないかもしれないが)。
しかしながら、ほぼ家から出ない、毎日スウェット姿という散々な状態であった。
“ひきこもり”であった時期
飯は一日一食(卵かけご飯)、
外出といえばコンビニに煙草とコーヒーを買いにいくのみ。
自宅では、主に寝ているか、トイレの便座に腰掛けて小説を読んでいた。
室内であるのに、なぜかヘッドフォンで音楽を聴いている。
そんな無音の室内は、カーテンで閉めきられ、
暗闇の中で、パソコンの灯りだけが光っている。
ある日、鏡で自分の姿を見て閉口する。
やけに老けた20代男性が映っている。
痩せた顔面に無精髭、見るからに運動不足。
その時、「ああ、これがいわゆるひきこもり状態というやつか」と気付いた。
たかが一年とはいえ、ほとんど家から出ず、人と会わないでいるとこうなる。
生命の持続
しかし、危機感はまだその時点ではない。
ともすれば、
「このままでも別にいいや、『このままでいけるなら』」と考えていた。
そのような状態になった理由は色々あるが、
仕事を辞めて、何もやることがなくなり、
「自問する時間」が増えたことが主なきっかけである。
「生きる意味」や「本当に自分のやりたいこと」を考えても、早々わかるはずがない。
仮にそれを考えれば、
「そんなものないよ、見つからないよ」という、欲しかった答えとは真逆のものにぶち当たる。
結果、さらに行き詰まり、暗くて深い森を彷徨うことになる。
では、絶望し、例えば“死にたくなる”かといえば、
それにストップをかけるものが世には溢れている。
それらは歴史が生んできた蓄積かもしれない。
私の場合、それは小説であった。
具体を言えば、武者小路実篤の『友情』を読み、人生の活気を思い出した。
(人によってはそれが音楽や絵であったりするのかもしれない)
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しかし、それだけではまだ動かない。
「生命を持続させること」に関心が向いただけであって、「現実的に動くこと」には繋がらなかった。
重い腰は“重いまま”である。
実家暮らしと一人暮らしで異なる“ひきこもり”
「一人暮らしの“ひきこもり”」と「実家暮らしの“ひきこもり”」では異なる点がある。
私は高校を卒業して以来、ずっと一人暮らしである。
一人暮らしをしている人間が“ひきこもり”になるとどうなるか、想像するのは易い。
『お金がなくなる』。
私は家賃・光熱費・携帯代などをすべてクレジットカード支払いにしている。
「収入はない、支出しかない」、自ずとカードのローンが積まれていく。
借金うん百万と比べれば、それは少額のものであるが、私は確かに焦った。
「このままじゃあダメだ、マズい」と。
一年ひきこもってこの金額である。
何年もひきこもっている人は恐ろしい金額であろうし、
実家暮らしでなければ、それだけの間ひきこもり続けられないだろうと察する。
ひきこもって、お金がなくなって、生きていけなくなる、
それは「死んでいく」のではなく、「殺される」という感覚に近い。
死にたいという私の気持ちでもない、お金という現実に殺される。
それは「消えていく」という優しい待遇ではなく、「消される」感覚。
「死ぬのはいいけど、殺されるのは嫌だ」という我侭な心理がそこで働き、私は納得がいかなかった。
なんとしてもそれは避けたく、私は仕事を探し、つまり、“外に出る”ようになった。
もしも私が“実家暮らし”であったなら、
「このままでも別にいいや、『このままでいけるなら』」と考え続けていたかもしれない。
自問自答し、葛藤していたとはいえ、 なんだかんだひきこもっている環境が、自分には優しく、それなりに満喫していたのだ。
「消えていく」辛さは語るが、「消される」辛さはそこにはない。
さらに本を読み、知識が増えれば、なんだか成長しているような、がんばっているような感覚もあった。
だがそれで飯が食えるかとえいえば、話は別である。
夢や妄想は実現しなければ、つまり「卵」の状態では、現実に踏み潰される。
現実(お金)との兼ね合いの中で、その卵を温めていかなければならない。
そんなふうに今は思っている。
人を立ち上がらせるような、良い意味での厳しさもまた、現実には含まれている。
苦しめる原因となった「現実」にこそ解決策が潜んでいる。
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ちなみにこれらの内容はすべて『夏の駄駄』に記したので、興味ある方はぜひ一読してもらえれば。
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『夏の駄駄』詳細ページ