自意識過剰から抜け出す「モノ意識」


「自意識過剰」という言葉があります。


  • 「私はいつか成功するに違いない」
  • 「他の人と私は違う、私は個性的な人間だ」

というもの。

ところが、フタを開けてみれば、一向に成功しない

他人と比べてみても、特筆すべき個性もない

つまり、「自意識過剰だった」ということです。

「自意識過剰」は思春期から二十代の若者に多く見受けられ、成長過程における通過儀礼のようにも思われます。

また、自意識過剰が良い方向に傾くこともあります(自信をもつことで越えられる壁がある、続けられる努力がある)。

が、気付けば借金をつくってしまったり、親や友人に迷惑をかけたり、後悔しても取り返しの付かない事態にを招き、悪い方向へと向かうことが多々あります。

また、判断を誤っている、現実がみえていない、勘違いしている、周囲がみえていない、

それでも良いならかまわないのですが、『そんな自分はイヤだ、そんなふうになりたくない』と思うならば、そのヒトにとっては「悪いこと」「悪い結末」です。



自意識について



そもそも、自意識過剰の「自意識」とは何でしょうか。


自分自身についての意識。周囲と区別された自分についての意識。



諸説ありましょうが、私は「人間特有のもの」であると思います。

人間は『考える動物』と称されますが、

思考する、空想する、自分でジブンを見つめる等、

人間は頭のなかで色々な考えを巡らせます。

これらは周囲が介入できない、本人の頭のなかを巡っている意識であり、広い意味で「自意識」であると私は考えています。

そういった思いや空想、自意識にふけっていると、それらは次第に形を変え、肥大化していきます。

空想は妄想に変わり、万能感や劣等感を抱くようになる、

自省は妄信に変わって、自己の輪郭を本来から歪めていく。

周囲が介入できない、本人の頭のなかを巡っている意識であるために、セーブするものがなく、「自意識」は見境なく暴走を始めます。



自意識過剰≒人間意識過剰


「自意識は人間特有のものである」と先ほど述べました。

裏返せば、「人間以外のもの」、例えば「モノ」には自意識が無いということです。

さて、「ヒトとモノ」との間に、どれほどの違いが有りましょうか。

  • モノの生涯、「風化し、消える」
  • ヒトの生涯、「老いて、死ぬ」

あるいは、

  • モノの生涯、「外部との接触により、壊れる」
  • ヒトの生涯、「事故や災害によって、亡くなる」

―――ヒトとモノの生涯は似ています。

異なる点といえば、極端な話、「自意識や意志があるかないか」です。

自意識過剰とは、人間特有である「自意識」が強いこと、

言い換えれば、「『人間意識』が過剰である」ということです。

人間意識を薄めることが自意識過剰から抜け出すことに繋がるのではないか、

そのために、『人間意識』と対となる『モノ意識』を抱き、バランスを取ることが、その処方となるのではないか。

先程述べたように、ヒトとモノの生涯は似ています。

「ヒト/モノ」というふうに、はっきりと分けてしまうのではなく、

「ヒト≒モノ」という見方があっても、不思議ではありません。



個人を物化させる



たとえば毎朝、同じ時間に起き、同じ仕事をこなし、同じようにして床につく。その繰り返し。

同じスケジュールを機械的に毎日繰り返すこと。

「自意識過剰」な人間はこれを拒絶します。

なぜか?

こういったルーティンな日常には、意志や自意識がないからです。

人間ではないロボットのようであり、『モノ』のように感じてしまうためです。

逆に、毎日同じことをこなせる人間は、本人の中に『モノ意識』があります。

私という『ヒト』の中に『モノ』である私を持っている、自覚している、引き受けている、


ということです。


「ヒト≒モノ」、人間の中には「モノ」の部分があります。

それを自覚し、引き受けることで、本人の中に「自意識」とは別に、「モノ意識」が芽生えます。

この両意識がうまくバランスがとれていると、「自意識過剰」という偏りはなくなります。

偏った「自意識」を軽くするために、私の中にある「モノ」の部分を認識すること、

あるいは、私というヒトを「物化」させること - 「モノとなること」で、「モノ意識」は獲得できます。

「モノ」とは、意志をもちません。

こちらから自由なアクションを起こさない(というより起こせない)のが「モノ」です。

「石」の一生を思い描いてみましょう。

「石」は自ら動けません。また、口もないので、喋りません。

雨の日も晴れの日も、黙ってそこに在ります。

人間もまた、たとえば寝ている時は、石のような「モノ」です。

黙々と単純労働をこなしているとき、無心であり、「モノ」のようであります。

私は人間(ヒト)でありますが、「モノ」という横顔ももっています。

人間特有である「自意識」ばかりに目を向けていると、個人はバランスを失うのではないでしょうか。

「モノ」である私に気づくことで、偏った「自意識過剰」が少しは緩和できるではないかと思います。


***


「自意識過剰」は、しばしば「自己愛」に結びつきます。

漱石の云う「則天去私」の境地とまではいかなくとも、

自然のように、モノのように生きる、自意識や意志のない抜け殻のワタシもまた、愛してみてはどうだろう。


面白がっているものは面白いものではない


「楽しませているのではなく、面白がられているのだろうなぁ」

そんな光景を見かける。

面白いことをやって楽しませているのではない。

「面白いことをやってやろう」と躍起になっている姿が面白がられている。あるいは、滑稽な感じ、あがいている感じ、そういう姿を“面白がられている”。

周囲は「面白がっている」だけで、「面白い」わけではない。


「面白い」と「面白がる」


気づいていない。

「自分は面白いことをやっているんだ」って、いや違う、実際は、『面白がられている』だけ。

ということに気づいていない。

「面白い」と「面白がる」は大きく異なる。

「面白い」と言ってもらえたら、それは「楽しませている」。使役。

「面白がられている」は、使役ではなく、“られている”受動

客寄せパンダのように、眺め“られている”

「面白がられている」のであって、「楽しませている」のではない。

「結局、それって同じことじゃない?」といえばそうだが、受動と使役の観点でみれば異なる。

「ネット炎上」において集まる人の大半は、別にそれが面白いわけではない。面白がっているだけ、面白がられているだけ。

炎上マーケティングの際、仕掛け人が「してやったり!狙い通りだ!」と思うのは、どうなんだろって。

「面白がられているだけなんじゃあないの?それ」って。


「面白い」のか、「面白がっている」だけなのか


同じことが、鑑賞側にもいえる。

たとえば、他人の炎上や他人のツイートや他人のプライベートに、興味を抱く。惹かれる。

ちょっと待てと、立ち止まる。

「私は、これを『面白い』と思っているのだろうか、それとも『面白がっている』だけなのだろうか」

「面白い」と思っているんじゃない、ただ、「面白がっている」だけ、

そこにどれだけの意味、どれだけの『面白い』が眠っているのだろう。

「面白いものが欲しい、本当に面白いものを求めているんだ」

そう思うならば、「面白がっている」だけの情報に、いかほどの価値があろう。

純粋に、心から、「面白い」と思えるものに触れること。

ワイドショーや炎上は、眺めていると面白かったりする。

でも、それは「面白がっている」だけであり、本当に「面白い」ものではない。

ゆえに、すぐに飽きる。あるいは、虚しい。心に残らない。

もういいんだ、そんなの。つまんない。


「面白い」は常に受け身



では、「面白いもの」と「面白がっているもの」、その違いをどうやって見定めるか。

それは先程述べた、「使役と受動」の観点でもって判断する。

その『面白そうな対象』が使役であるかどうか。

受け手側でいえば、「楽しませてもらっている」かどうか。

「面白い」というのは、常に『受け身』。


心から「楽しい!」「面白い!」と思えるものは、いつだって受け身。(満た“される”という受け身)。

逆に、「面白がる」というのは、その『面白そうなもの』が、実は「面白くない」から、「面白くしようとする」行為。

受け身じゃない。「能動的に動かねば面白くない」、ということ。

「面白くない」ものを「面白がっている」、
「面白がっている」ものは「面白くない」、ということ。

「面白い」と「面白がっている」の違いは、

自分が受け身であるか、あるいは、その「面白そうなもの」が使役であるかどうかで判断する。

そういったものは純粋に「面白い」ものだと思う。


***


心から、「面白い」と思えるもの、面白い人間、面白い情報。

「面白がっている」だけのようなものはどうにも虚しい。


リツートばかりしていると何も届かない

twitter logo

「私の言いたいことを代弁してくれている」

私がうまく言葉にできない思いを、的確に言葉で表しているツイートをリツイートする。

「私の言いたいことってこういうことだよ」と、説明するために他者のツイートをリツイートすることは、悪いことではありません。

しかし、「代弁リツート」がクセになってしまうと、色々と問題がありそうです。



言いたいけれども“言えない”こと



「言いたいけれども“言いにくいこと”を代弁してくれている」

こういったツイートをリツイートする際、自身の臆病がチラつきます。

言いたいことはある。けれども、それを言ってしまうと問題がある、バッシングの恐れがあるために、私の口からは言わない。言えない。

そのようなとき、私が言えない内容のことを率直に言ってくれているツイートを見かけると、どうしますか?

「リツイートする」。

さすれば、「あなたは間違っている」とは言われないのです。

なぜなら、そのツイートは他者の発言であり、私はそれをリツイートしたにすぎません。ここに逃げ道があります。

また、リツイートすることで、間接的ではありますが、私の言いたいことを主張することができます。部分的な満足を得ることができます。

こういった類のリツイート、

―――言いたいけれども、私の口からは直接“言えない”内容を、他者の発言を引用してリツイートする行為は、

いわば、他人のふんどしをかりて、自分を傷つけること無く言いたいことを主張する、臆病な態度と捉えられる可能性があります。



自分も他者も不在である



「リツイートなんてせずに、直接、自分の口から言えばいいじゃん?」などと、私は思いません。別にいいと思います。

ただ、「代弁してもらうクセ」がついてしまうと、「この人は自分の言葉をもっていないんじゃないか」と受け手は感じてしまいます。

「リツイートの中に自分はいない」ということを、改めて自覚したいと思います。


こういったことは、日常会話においてもしばしば見受けられます。

たとえば、偉人の言葉をかりて「○○という偉い人がこう言っていた、だから○○である」といった発言です。

説得力を添えるための引用であると思うのですが、あまりに多用してしまうと、「本人が何を考えているのかわからない」「何も考えていないんじゃないか」というふうに捉えられかねません。


繰り返しますが、引用やリツイートには『自分』は存在しません。

さらに言えば、引用とは、“引っ張ってきているだけ”であって、引用元である『他者』も不在なのです。

『自分』の言葉ではない、又、発言元である『他者』から直接受けとった言葉でもない。

伝えたいことがある場合、引用・リツイートの多用すれば、その伝えたい内容は相手に届きにくいのです。

引用・リツイートをたくさん行っても、ほとんど相手に届かない、効力が薄いということです。

「言葉」は情報として耳に届くのですが、言葉を発している「者」が不在(未明)であるために、どこに耳を傾けてよいかわからない、耳を傾けて聴くことができない、ということです。

先の偉人の例においては、その本人からこちらへと直接発せられていないがために、間接的な言葉の橋渡しであるがために、言葉に重みがなく、漠然と聞き取るしかないのです。

いわば、「山の向こう、遠くから聞こえてくる言葉」であり、届きにくいのです。

また、こちら側から何かを問うこともできません、コミュニケーションをはかることもできません。

借り物の言葉では、発言の全体に説得力がありません。

「それが誰の言葉であり、どこから発せられているか」「発信者の存在感や吐息を肌で感じられるか」、そういった部分をおさえていなければ、相手に言葉は届きにくいといえます。



最後に



つたなく、不器用であっても、自分の頭で考えて、自分の言葉で伝えたほうが、伝えたいことを伝えられる可能性は高いのではないか、そのように思うことがあります。

日常会話の中で、私のしゃべる言葉が「リツイート」になっていないか。

代弁してもらうばかりではなく、代弁する側にたてているか。

信用を得るために、また、信用を失わないために、自分自身の言葉を身につけていきたいと思います。


「読書が苦手」という人なんているのだろうか?


「本を読むのが苦手なんだよね」って、

そういう人、いないと思ってます、ボク。

うん、苦手な人の、苦手な理由は次の2つだよね。


  • 好きな本がない
  • 活字が苦手


好きな本がない


キミはさ、音楽が好きじゃん?

でもさ、苦手な音楽もあるよね?

HIP-HOPやクラシックはそんなに好きじゃないとかさ。でもロックは大好き、とかさ。

これ、なんでかって、音楽って、いっぱい種類があるからなんだね。

好きな音楽と苦手な音楽ができてしまうほど、音楽はたくさんある。

「それと同じだよ」って。

本もね、たくさん種類があるんだ。

エッセイ本、ビジネス書、絵本、伝記、小説の中にもSFや私小説やら、、、

とにかく、たくさんの種類、幅広いジャンルがあるんだよ。


その中で、てか、こんだけ種類があるんだから、

「好きな本がない」なんつーことは、ないと思うんだよ。

たくさんある本の中に、どれか一つ、自分に合った、自分の好きな本はあるんだよ。これだけ種類があるんだから。

「んなもん無い」って、その確率、けっこう低いよ。

探せば、好きな本と巡り合える確率のほうが高いよ。




活字が苦手



「活字が苦手」「国語力がない」「ムズカシイ」とかね、

「だから苦手なんです」っていう。

これも、どうだろう。

「あなたの読解能力にあわせた本」っていうのが、世の中にはあるって、そう思うんだよ。

「文章を読むのが苦手な人」でも読める本はある。

そうしなきゃ、本って売れないから。

それぞれの読解能力にあわせた本がある。

小学生が楽しめる本ってあるよね?

大学の先生が楽しめる本もあるよね?

年齡や国語力によって、読解能力はちがうのは当然。

それぞれの読解力にあわせた本があって、

活字が苦手っていう人でも読める本はあるんだよ。

なんでかって、「一種類の本」しかなかったら、「一種類の人」にしか本は売れないから

むずかしいのから、かんたんなものまで、いろいろある。

本はそうやって、いろいろなものがあることで、いろいろな人に買ってもらえるようになっているんだ。


***

以上の理由で、「読書が苦手」なんてことは、まぁないんじゃないかって。

簡潔にいうとさ、

「気づいていないだけ」「本と出会っていないだけ」

ということなんじゃないかって。


あ、関係ないけど、最後に、ちょっとひとつだけ。



時間がない



「読む時間がない」という人がいて。

ぜんぜんいいんだけどさ。ちょっと気になって。

っていうのも、「時間がない」という言葉はないから。

時間が『ない』って、『ある』じゃん?

『時間がない』という言葉は存在しないんだよ。

魔法使いがいてさ、消せる? 時間を消せますか?

消せないよね。魔法使いでも「時間」は消せないんだ。

時間は「モノ」じゃないから。

時間は消せないし、無くならない。

時間は「あるもの」。

「仕事で忙しいんだよねー」って、

仕事をしている時、「その仕事をしている時間」はあるよね?

つまり、時間はある。

「時間がない」という言葉は存在しないんだよ。どんだけ忙しくても。


本なんて読まなくてもいい。

ただ、「時間がない」という言葉を使って、「だから本を読まないんだよねー」と言うのは、変な話。

「時間が無い」なんて、無いから。


じゃ、そういうことで。



「SoundCloud」の使い方(初めて使う人へ、これだけ知ってたら楽しめる!)

logo

「オレ、SoundCloud、ダイスキ…」

とまぁ、ハマりまくっているSoundCloudをご紹介。


英語サイトだけど、簡単な英語だからダイジョウブ。

利用は基本無料。

有料にすると公開できる容量が増えたり(無料だと2時間)、あと、ダウンロード数の上限が増えたりする。


で、「これだけ知ってたらじゅうぶん楽しめる!」っていう使い方を説明しますね。

「Sign Up」して、アカウント取得していることを前提に話をすすめますね。



SoundCloudの使い方




「SoundCloudってなに?」

ものすごく簡単に言うと、

「いろんな人が、自分の音楽をのせているところ」。


て、簡単すぎるか……。

Twitterをイメージするとわかりやすいよ。

音楽を作ってSoundCloudにのせている人を、Twitterみたいにフォローできる。

で、フォローした人の音楽が、自分のタイムラインに流れる。

※タイムライン、SoundCloudでは「Stream」と言われるよ。


で、もし気に入った曲があったら、

Repost(リツイート)や、Like(お気に入り)ができる。

このへんはほとんどTwitterと同じだね。Twitterにも(お気に入り)ってあるよね。

menu
左から順に、
「Like(お気に入り)」「Repost(リツイート)」「Add to set」「Download」


「Add to set」「Download」については今から説明するよ。



Add to set(プレイリスト保存)


「Add to set」というのがあって。

これはYoutubeでいうところの、「プレイリスト」みたいなもんだね。

プレイリストの作成方法は、

「Add to set」をクリックしたら、「Name your new playlist」ってのがあるから、そこに好きな名前をいれて、「Create」ボタンをおせばできるよ。


気に入った曲を見つけた場合、すぐに取りだして聴きたいよね? そのためには、次のどっちかをしよう。

  • Like(お気に入り)に入れる
  • Add to set(プレイリスト)に入れる

気に入った曲を、カテゴリ(ジャンル)ごとに分けたい・まとめたい場合は、「Add to set」のほうがいいね。プレイリストごとにわけて保存って感じで。

Like(お気に入り)でもいいけど、ひとつのところ(お気に入り)に、ぜんぶいっしょになっちゃう(Twitterのお気にいりと同じように)。

だから、たくさん曲を保存する場合は、「Add to set」でプレイリストを作って、細かく分けていったほうがいいと思うよ。


likes
プレイリスト一覧は「Playlists」でみれるよ。
Like(お気に入り)は「Likes」でみれるよ。

※もしプレイリストから曲を削除したい場合、そのプレイリスト画面に鉛筆マークの「Edit」があるから、それをクリックすれば編集できるよ。



Download


SoundCloudにある曲は、無料でダウンロードできるものがある。

(※全部じゃないよ。作り手の判断により、ダウンロードOKにしてるものがあるってこと。)

menu
一番右にある「↓Download」、これがある曲はダウンロードできる。
なかったらダウンロードできない。

クリックしたらダウンロードできるよ。



アップロードの仕方


これは簡単。

上のほうにある「Upload」をクリックして、「Choose file」でアップしたい音源を選ぶ。以上。

もひとつ、「REC」ってのがある。

これはパソコンやスマホにマイクとかにつないで、直接録音する、そして、すぐにアップロードできる。

尚、アップ上限は全部たして2時間なので注意(※無料の場合)。


関連:MixcloudとSoundCloudの比較&使い分け!



「SoundCloudの魅力」について



最低限の使い方、基礎は以上。

ほんとは、設定とか、もっといろいろある。

だけど、とりあえずこれだけ知ってたら、じゅうぶんに楽しめる。

ぜんぶ説明するとキリがないっていうのもあるけどね…。

そんなに難しくないから、あとは使い込んでいるうちに色々とわかってくると思う。


「SoundCloudの魅力」


  • 別画面に移動しても「曲が止まらない」
    曲を聴きながら、「別の曲」を探すことができる。
  • 曲中の「部分」にコメントができる
    「この曲の、この部分がイイ」と思うところに、コメントができる。そしてその箇所にさしかかったら、コメントが「ポップアップ表示」される。
  • 派手な「広告」がない
    シンプルなインターフェイスで、商業的な香りがしない。必要なコンテンツのみで、余分なものがない。洗練されたデザインのうえに、読み込みも軽い。
  • スマホへの対応がグッド
    動作軽快、使い方も実にシンプルでわかりやすい。ワンクリックで簡単再生。
  • Twitterにシェアしたときの見栄えがイイ
    パソコンの場合、Twitterタイムライン上で再生ができ、ジャケット画像にオンマウスすると、ひっくりかえってウラ面が出る。さらに再生中、コメントのポップアップ表示までされる。
  • ブログやサイトに「埋め込み」ができる
    「Share」→「Widget Code」(もしくは「Embed」)から、その曲の埋め込みコードを取得できる(Youtubeの動画埋め込みのように)。これまた見栄えがグッド!
  • 発掘する楽しさ
    プロアマ混在。いろんな人がいる。お気に入りの人を探し当てたときの喜び。。。

他にもいろいろ魅力あると思います。


アプリ


もちろんandroid/iphone用のアプリもあります。


スマホでも聴けます、アップロードできます、と。


***


とりあえず、すごくおもしろい。

まずは「Serch」で知っている曲を検索してみましょう、で、お気に入りの人を見つけたらFollowしてみましょう。

関連:SoundCloudおすすめDJフォローリスト


では今日はこのへんで!@ryotaismでした!




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勉強や読書は「かっこいい」か?

こんにちは。

中学生の作文でおなじみです。

本日もよろしく願います。


そういやこの前、同窓会があって。

「なぜ本を読むか?」

こんなこと言ってるヒトがいた。

「かっこつけたいだけだろ」って。


中学のころ、「ガリ勉」という言葉があって。

勉強をしてない者が、勉強をしている者に対する、ルサンチマン、嫉妬。


いつまでそんな『誤解』を持ち続けているのだろう。

「かっこつけたくて、勉強したり本を読んでいる人」なんて、めちゃめちゃ少ないよ!って。

そんな安っぽい理由で、勉強を続けられるはずがない。

簡単な話だ。

「勉強をし続けているやつ」は、それが楽しいから、楽しくてたまらないから、やってる。

あるいは、「生活していくために」「仕事のために」、必要であるから勉強をしている。

かっこつけたくてやってるやつなんて、ほんのわずか。というか、一時(いっとき)だけ。


そもそも、「かっこつけてる」って、どこがどうなって、「かっこつけていること」になるのか?

勉強しているからって(勉強ができるからって)、なにが『かっこいい』のか?

「かっこつけている」と思っているのは、その人が思っているだけで。そういう価値観をその人がもっているだけ。

別に、かっこよくはない。

こんなことは一見すりゃ当たり前のことだ。

けれどもなぜ、「勉強する者」「本を読む者」に対し、いまだに否定的な言葉がこぼれてしまうのか。

「かっこつけている」とか、「自慢したいだけ」、といった否定的な言葉が。

おそらく、「勉強できないコンプレックス」を本人が抱いているからだろう。

あるいは「勉強している=かっこいい」という価値観を本人がもっているからだろう。

でも、それを認めたくない。勉強している者に対して。勉強していない自分に対して。

結果、「勉強している=かっこいい」という価値観を抱きつつも、それを否定するために、「かっこいい」を「かっこつけている」と言い換える、すり替える。そして、「かっこわるく」させようとする。

もしも「勉強している=かっこわるい」という価値観をもっているなら、「勉強している=かっこつけている」という文は思いつかないはず。

「勉強している=かっこいい」と思っているから『かっこつけている』という言葉が思い付く。


勉強できないことはかっこわるくないし、勉強ができることはかっこいいことでもない。

ごくごく当たり前のこと。

勉強なんて社会にでても、たいして役にも立たないんだから。ふつうに働けりゃもう立派。

「勉強している=かっこいい」なんてことは、どこにもありゃしない、妄想による虚言だ。


あと、言われたほうの気持ちを考えてみる。

少年はただただ、純粋におもしろいから、勉強しているだけ。

「あー、おもしれーなー」って、漫画を読むのと同じ感覚で、本を読んだり、勉強しているだけ。

理科の実験、おもしろいよね。あの感覚でやってるだけ。

なのに、なぜか、唐突に、「かっこつけたいだけだろ」って言われたらどう思います?

ポカーンってなるわけだ。言われたほうは。


勉強やってるやつは、「勉強がおもしろいから」やってるだけで、「勉強好き」ってのは、そういうものだろうと思う。

「かっこつけたいから」「自慢したいから」「見栄を張りたいから」とか、

そんな理由で勉強やってる人なんていないから。いても少ないから。あっても一時(いっとき)だから。

「おもしろいから」「好きだから」「必要だから」、

そういった無邪気な気持ちや、単純な理由で、勉強したり本を読んだりしているだけ。

ここに不自然な箇所や、虚栄心など、ひとつもない。


かりに実際、たとえば「自慢している」のだとしても、

それは鼻につく、鬱陶しいかもしれないが、そんな小さいこと気にしてどうしようか。

さらに、その手の自慢は長続きしない。本人もいずれそのことに気づく。

その自慢や見栄が、長続きしないこと、自慢とならないこと、アピールの効力が弱いことに気づき、

んで、すぐに「勉強自慢」をやめる。

自然に勉強をやめていく。

つまり、いっときの勉強で終わるだろうって。

逆に、ずーっと勉強している人、本を読むのが好きな人は、そんなちっぽけな理由では「ずーっと」やってないだろう。


勉学による自慢など、いっときのもの。相手にするまでもない。


*****


ふつうに勉強が好きで、ふつうに本を読むのが好きなだけの人間に、「かっこつけたいだけだろ」「自慢したいだけだろ」とか言うの、もうやめましょうぜって話。

そんじゃ。今日の中学生日記はこのへんで。



BloggerにPocketボタンを設置した


先日より、ブログにPocketボタンを設置しています。



「『Pocket』ってなに?」って言う人は、ググってください。


簡単にいえば、

「気になった記事を『後で読む』ために保存する」

そんなツールです。

たとえば、外出中で、今はじっくり読むことができない、

そんなとき、「Pocket」にその記事をワンクリックで保存しておいて、帰宅後、後からまとめて読む、

といった使い方です。

ブックマークやお気に入りは、ちょくちょくアクセスするために、ずっと残しておくものですが、

Pocketは一時的な保存、読み終わったら捨てる。

そんな感じです。

詳しくはググってください。


Pocketボタン設置



さて、そんなPocketですが、

ワンクリックでPocketに保存できるボタンを設置しました。

サイト右端に設置してあります。

ボタン設置方法はすごく簡単です。


上記にアクセスし、

まず「Button Style」を好みで選ぶ、そして、「Copy Code」にあるコードをコピーし、サイトに貼り付ける。

以上です。説明もいらないほど、簡単です。

すると↓こんな感じで貼れます。



ボクはBloggerを利用していますが、

Bloggerの場合、「テンプレート」→「HTML編集」から好みの場所、

もしくは「レイアウト」→「ガジェット追加」→「HTML/JavaScript」に貼り付けてもいいと思います(ボクのサイトはこっち)。


Pocketはとても便利ですので、ユーザーも増えています。

ぜひ利用してみてはいかがでしょうか。

アプリもあります。


Pocketアプリ



android



iPhone、iPod touch、iPad




このように、Pocketの評価は非常に高いです(2013/05/11現在)。

それではまた。





Facebookがつまらない理由


ボクのまわりにFacebook使ってる人がけっこういて。

この前、びっくりしてさ。

「連絡手段」として利用してる人とか、いるんだよね。けっこう。

ボクは、登録はしてるけど、ほとんど使ってない。

というか、おもしろさがさっぱりわからない。

「あれ、なんでだろ?」って。

ちょっと考えてみた。


ボクがFacebookにハマらない理由



リア友が少ない


つきるでしょ!これに!

はい、以上!終わり!解散!

・・・

Facebookって、本人による本名登録。で、基本、本人の顔画像入りで。匿名じゃない。

つまりは、「リア友サークル」なんだよな、基本。

リア友が少ないから、人も増えねぇんだよ。って話。つまんない。


ネットでみる他人のプライベート


いや、かりに、リア友がいたとして。

んで、友達申請しあって、タイムラインがにぎわって。

別に、興味ない。友達のプライベートとか。仕事とか。

それがどんだけ仲のいい友達であっても、

その友達が普段なにをしているか、なにを考えているか、

興味ある?

仲が良い友達のプライベートに興味ある?

ボクは全然ない。興味もてない。

普段、会ったりするときとか、電話やメールでよくない?

なんでそんなもの見せ合いっこするのか。

ましてや、インターネット上で、それを知ろうと思わない。

なんか、気持ち悪くなってくる、という。

「露出狂」と「のぞき魔」、なんか、そんなふうになんない?

なんか、気持ち悪くなってくるんだよ。とりあえず。


同級生の友達申請



コレだよね。経験した人、多いと思うけど。

「どういうつもりで友達申請してんの?」ってこと。

てか、あなた、中高時代、別にワタシと友達じゃなかったよね?って。

「どういうつもりで友達申請してくるのだろう」、と。

ちょっと、わかんないです。そのへん。その感覚、もちあわせてない。

あと、ボクのほうから友達申請する気力も、ない。


プライバシー設定がムズカシイ


そういうわけで、検索にひっかからないような、「非公開設定」にするんですけど。

この、「プライバシー設定」がややこしい。公開範囲っていうのかな。

いろいろ設定してみたけど、

「ちゃんと全部、非公開になってるのか」、

なんか、自信がもてないっす。。。


インターフェイス


とまぁ、ダラダラ書いてきましたが、次の理由がいちばん大きいかも。

Facebookのユーザーインターフェースが、ほんと、自分に合わない。

インターフェイス、つまり「画面がイヤ」ってことです。

なぜか、異常に「広告」が目につく。

広告、多くないですか?

あと、「知り合いかも?」とか、全くいらない(これまたスペースとりすぎ)。余計で、邪魔。

「知り合いかも?」で、ずらりと並ぶ顔写真、

いや、もう、だいたい知り合いじゃない。だいたい、知り合いじゃありません。



まとめ


まとめると。

  1. リア友が少ない
  2. 友達のプライベートをネット上で見たくない
  3. 使いにくい

この3つ。

いうまでもなく、一番目で大きくつまづいていることは、いうまでもなく。

カスタマイズすりゃ、いろいろ都合よくできるのかもしれないけど。めんどくさいです。

それではまた。

よかったら「イイね」してください。



宇宙人はニンゲン? 宇宙人からみた地球人の音楽

音楽のスキマ!


第十四回『宇宙人からみた地球人の音楽』




【キーワード】:宇宙人が来たら音楽はなくなるか/既存芸術の駆逐/ヒトと動物と植物­と音楽/人間ではなくなったら音楽はなくなるか?/欲求と肉体/シンメトリーとリズム­/クラシックと一定リズム/メトロノーム教育



宇宙人は“ニンゲン”?


「音楽」が生活の必需品であるかといったらそうじゃない。

けれども、「ニンゲン」の必需品であるかといえば、そうかもしれない。

それは音楽が、ニンゲンの「精神」だけではなく、「肉体」の欲求にも応えるものだからだ。

(関連記事:「肉体肉」について精神と肉体と外界


リズムを聴いて「身体が勝手に動く」、ということがある。

ワタシの動物的な本能の部分に、リズムは訴えかける。肉体がリズムに呼応する。

動物とニンゲンは、その精神は大きく異なるが、肉体に関しては類似する点が多い。そもそもニンゲンも「動物」である。

動物的な肉体を所有する時点で、音楽(リズム)は求められるだろう。

しかし、精神、言語、クリエイティブな思考などによって、創られる音楽、求められる音楽の質は変わってくる。

ゆえに、ニンゲンと動物の音楽は異なる。肉体は似通っていても、精神が異なるからだ。


宇宙人は地球人の音楽はどのようにみるか。

宇宙人が“ニンゲン寄り”、あるいは“動物寄り”の生物なのか、それに依るところが大きい。



『音楽のスキマ!』


音楽のスキマ!
Youtube Channel
Twitter : @MUSICA_SUKIMA

不道徳ブログ講座


このブログサイトは今年の2月から始めた。

で、3ヶ月が経過した。

「ブログとはなんぞや?」と。

どういう気持ちでボクはブログを書いているんだろうと、ふとそんなことを思った。

以下、ボクのブログの書き方です。


  • 思いつくまま、好きなように書きゃいい
  • 間違ってもいい
  • 楽しくなくなったらすぐ辞める
  • 無責任でいい
  • 文体なんて、なんでもいい
  • 読まれてなんぼ
  • 立派な意味付けをしない


思いつくまま、好きなように書きゃいい


10年後も変わっていないような意見など、誰が書けるだろう。書けないだろう、そんなもん。

100%思いつきで書けばいい。
好きなように書きゃいい。職人じゃあるまいし。単なる一般人なんだから。テキトーでいい。

根を詰めて書かない。ブログにそんな体力を使う必要はない。


間違ってもいい


「間違いを恐れていては何もできない」とか、そんなスマートなこっちゃなく。

「正しいことしか書いてはいけない」という恐れは理解できるけれども、間違わないことなんてない。間違って当たり前。

それに、「間違い」から何かを拾うことはある。

書き手も読み手も、間違った意見、ゴミクズの中から何かしら見つけ出す。

「正しさ」にも「間違い」にも、生産性がある。

間違ってもいいから、なんでも書きゃいい。勝手に何か生まれる。


楽しくなくなったらすぐ辞める


ブログなんて、こんなもんは趣味だ。

楽しいことを、楽しく書けばいい。ストレスや責任感を感じるとか、バカバカしい。

ただし、愚痴はやめる。ストレス発散の場にしない。

ブログは楽しいもの。個人的な楽しい趣味。

愚痴やストレス発散は、楽しくない。「楽しくない」という気持ちが源泉であり、「楽しい」に帰結しない。

「ストレス発散」は「楽しい」につながらず、また、「楽しい」をやれば「ストレス発散」になる。

楽しくないならブログを辞める。楽しくないのに続ける意味など、ブログにはない。


無責任でいい


「読み手を不快にさせるんじゃないか」とか思わない。

もっといえば、他人のことなんて考えない。

不道徳のようだが、ブログは「個人的な楽しい趣味」なのであって、自由に楽しく書けばいい。

ブログの読者は、基本、「不特定多数の一般」である。

読み手がどう思うか?読み手を傷つけてしまうんじゃないかって、読む人は「不特定多数」なのだから、気にしても徒労。

それに、自分が思っているよりも他人は自分をことをみていないし、そこまでなんとも思っていない。自意識過剰である。

ネット情報なんて所詮ネット情報、最初から信ぴょう性などない虚構。そんなもんに責任感をかんじるなどと、そもそもがおかしな話。

たまに鵜呑みにする人もいるが(傷ついたりする人もいるが)、

『ネット情報に影響をうけてしまう』って、それってどうなの?そんなこと言われてもなぁ…

という程度でいい。そこまで深く考える必要はない。

読者に対して、やや無関心、やや無責任、やや距離をおく。

非情かもしれないが、「ブログなんてそんな仰々しいものじゃなく、戯言にすぎない」のだから。


文体なんて、なんでもいい


文章能力がなくても、会話はできる。

ならば、その会話での話し方をそのまま文に起こせばいい。

文法にそったキレイな文章とか、見栄えのいい言葉とか、いらない。

ブログは自由に書けばいい。

そしてその「のびのびした文体」が「自身の文体」となる。

書き方なんて、なにも気にする必要はない。ブログはそんな堅苦しいものじゃない。


読まれてなんぼ


書くことは楽しい。

が、読まれないブログを書き続けることは、あまり楽しくない。

読まれてこそ楽しい、それがブログ。

だから、アクセス解析はブログにとって大事なこと。それがブログの楽しさでもある。

が、もし読まれていないとしても、卑屈にならないこと。

卑屈になって、「アクセス数なんて関係ねぇよ」と開き直ったら、途端にブログは楽しくなくなるだろう。

なんだかんだ、アクセス数が増えることが嬉しい、そんな自分を自覚すること。

もっといえば、それを「目的」にしちゃってもかまわない。それが楽しいならば、それでもいい。

アクセスに関しては、よほどの薄い内容でないかぎり、ちょこちょこ更新してれば、アクセスを意識しなくてもどっかのだれかが読む。


立派な意味付けをしない


最後に。

これまでのまとめになりますが、

ブログに立派な意味付けをしないこと。そんなたいしたもんじゃない。

ボクにとっては、無料サーバーを使って、空いた時間に、無料で書く趣味。

「書いて楽しく、読まれて楽しく」、それ以上のものじゃない。それでじゅうぶん。

備忘録だとか、思考の整理だとか、わかるけども、それよりも大事なことは、やってて面白いということ。

楽しくなければブログじゃない。思う存分、楽しみ、自由に書けばいい。


その程度であり、それでじゅうぶん満たされるものがブログ。

難しく考えない、テキトーに、楽しく、やればいい。


*****

以上です。

やや極端に書きましたが、これらのスタンスでブログを書けば、「いくらでも書けるだろう」と思います。

それではまた。

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ブログは「生前の記録」となりうるか

当たり前だが、人間はいつ死ぬかわからないので、

今日が最期の日となってもおかしくない。

明日も生きられる保証などどこにもない。


もし今日死んだら、このブログが生前、最後の記録となる。

が、どうだろう?

はたして、ブログは「生前の記録」となりうるか?

コレに関しては疑問がある。

まずそもそも、私が書いたものであるという証拠がない。

ひっとしたらどこぞの、私ではないゴーストライターが書いているかもしれない。

いや、たしかに私本人が書いている。これは事実だ。

しかし、私しか持っていない印や、直筆のサインがなければ、私が書いているということは証明できない。

が、たとえそういったサインがあっても、私が書いていることを証明するのは難しい。

ネット上の文章や画像は、虚構である。

いくらでも捏造ができる。

複製可、コピー可。「私が書いたものである」と言い切ることができない。

たとえ本名でブログをやったとて、実は「匿名」で書いているのとあまり変わりない。ネット上にあるものの基本は、「虚構」なのだから。

よって、厳密に疑えば、ブログの文章は「生前の記録」にはなりえないだろう。

ネットの文章なんて、その程度のものでしかない

このようなことを考えていると、ブログを書くことが虚しくなるときがある。

が、視点を変えれば、そうでもない。

「生前の記録」が人の目に触れるとき、私は死んでいる。この世にはいない。

したがって、ブログが「生前の記録」であるかどうかを判断するのは私ではない、他者である。

「ブログは『生前の記録』となりうるか」という問いをいくら考えたところで、最終的にそれを判断するのは「他者」である。


ブログという「ネット上の文章」を、一生懸命綴ったとする。

それが私の「生前の記録」となるかは、他者が決めること。

もしも書き手自身がブログを生前の記録としたいならば、

死後、他者がそれを「生前の記録」と思えるようなブログにせねばならない

が、先ほど述べたように、「虚構」が前提であるネット上の文章を「生前の記録」とすることは不可能だ。

しかし、「生前の記録」であると、他者が“そう思えるようなもの”にすることは幾らか可能である。

もしそのように“思われた”ならば、それはその他者にとって「生前の記録」である。

そうなるためには、本名であるほうが説得力があり、また、作り話ではないリアルを綴るべきであろう。

「生前の記録」とは、彼が生きていた頃の記録であり、つまりは、生きていた頃の「実際」を綴らねば「生前の記録」とはなりえない。

見栄をはった嘘の作り話では、「彼がどうのように生きていたか」あるいは「どのようなことを実際考えていたか」という、生前の記録にはならない。

真摯に、見栄をはらずに、ありのままを書く。

さすれば死後、他者はそれを「生前の記録」として扱うことができるのではないだろうか。


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トップバリュのパスタソースが安くて良い

男の一人暮らし。

食事だけど、やっぱりインスタントが多いんですよ。

パスタゆでて、パスタソースかけて。それで一食しのいで。

いろいろレトルトのパスタソースためしてきた中、

トップバリュのが一番おいしいな、って話。


トップバリュのパスタソース


トップバリュ ミートソース
ビーフの旨みと炒め玉ねぎの甘み、4種類のハーブが特徴の風味豊かなソースです。マッシュルーム入り。

トップバリュ ナポリタン
大きめの完熟トマトの食感が楽しめるコクのあるソースです。マッシュルーム入り。


一袋2人前(260グラム)、値段は90円くらい。

スーパーによって微妙に値段ちがうだろうけど、安いね。

これ、けっこうおいしいんだよなぁ。

他にもいろいろ種類あるみたい。カルボナーラとか。



ところで。

トップバリュってよく名前聞くけど、そもそも何なんだ?って。

簡単に調べてみた。


トップバリュ TOPVALU


トップバリュ TOPVALU


トップバリュは「お客様のふだんの生活をより良く」との思いから、イオンが自ら企画・開発した商品郡で、イオンのブランドとして、イオンのグループ企業などの各店舗で販売しています。
「トップバリュ5つのこだわり」にもとづいて企画・開発し、国内外のメーカーに製造を委託しています。

「トップバリュ5つのこだわり」


  1. お客様の声を商品に生かします。
  2. 安全と環境に配慮した安心な商品をおとどけします。
  3. 必要な情報をわかりやすく表示します
  4. お買い得価格でご提供します。
  5. お客様の満足をお約束します。


イオンのオリジナルブランドってことですね。

それではまた。

一人暮らしのみなさんの、何か参考になれば。


さいたま市図書館のサイトが便利!取寄せ予約と貸出延長。


いや、さいたまに限ったことではないのかもしれないけど……。

さいたま市図書館のサイトから、

  • 読みたい本を検索して、最寄りの図書館に取り寄せることができる
  • さらに、「貸出延長」もサイトから行える

いやー、便利です、ほんと。

普段お世話になってるので、あらためて絶賛してみる。


まずは利用者カードを作っておこう


まずね、本を借りるには「利用者カード」をつくらなきゃいけない。

それはさすがにネットではできなくて、最寄りのさいたま市図書館で作る。カードはその場で作ってくれる。

これで本を借りることができる。

ひとり30点まで14日間、借りることができる。

太っ腹だね…。

ただ、条件があって、さいたま市に在住・在学・在勤の方。

そりゃそうだよね、埼玉の図書館なんだから。

詳しいことは↓でご確認を。



重要なのが、カードを作る際、窓口で「仮パスワード」を入手しておくこと。

このパスワードがないと、さいたま市図書館のサイトにログインできない。

で、仮パスをもらったら、「本登録」しておくこと。

このへん、詳しくは、やさしい図書館窓口の人に聞いておこう。


さいたま市図書館のサイトを利用する


本題ですが。

「ネット利用が便利だ」って話。

さいたま市図書館のサイトに行ってもらって、読みたい本を画面右上にある検索窓から検索。



そしたら、ずらーと候補がでる。

で、借りたい本をクリック&予約カートにいれる。


予約カート:蔵書検索システム


次に、本をどこの図書館で受け取るか、「希望受取館」を指定。

「準備ができましたよー。取りに来て大丈夫ですよー」という連絡方法を選択(僕はパソコンのメールにしてる)。


最後に、「通常予約申し込み」「順番予約」のどちらかを選べる。

「順番予約」ってのは、たとえば複数巻(上、下巻。1,2,3巻など)のある資料を、順番に受取りたいときなど。

まぁ、だいたいは「通常予約」でいいと思う。通常は。


んで、「ログイン画面」がでるので、

「利用者カードの番号」(バーコード下の番号)と、「パスワード」を入力。

はい、終わり。以上。

あとはメール連絡がくるのを待って、そして、取りに行くだけ。


ただし、当然ですが、ネット予約、人気がある本は待たなければならない。

人気のない本は、すぐに取り寄せてくれます。

僕の経験上では、だいたい一週間内には用意してくれる。


ちなみに、「利用者メニュー」の「予約状況確認」から、予約した本をキャンセル/取消することも可能。

便利だなぁ、おい。


貸出し延長願いもサイトから行える


それと、さいたま市の図書館では、

貸出し期間をさらに+14日、一度だけ延長することができる。

延長すれば最大で28日、借りられるってことだね。

ただし…。

貸出期限内の資料の延長は、手続きをした日から14日です。
貸出期限を過ぎた場合も延長はできますが、過ぎた日数分を14日から引いた日数分の延長となります。

※貸出延長は、予約が入っていたり、すでに1度貸出延長をしたことがある場合、返却期限からすでに14日を超えている場合は、できません。

ということなので、注意しましょう。

で!

この延長願いも、ネットからできる。


(「利用者メニュー」の「貸出状況確認」から)

便利すぎるぜ、おい。


最後に


すべて無料で、たいへん便利ですが、マナーをもって、

  • ちゃんと返却すること
  • 大事に本を扱うこと

肝に銘じておきたいですね。

いつもありがとうございます。

それではまた。



哲学的問いにずっとつまづいている人


ずっとつまづいている人がいて。


  • 自分はなぜ生きているんだろう
  • 自分ってなんだろう
  • 人間はなぜ死ぬんだろう
  • 死んだらどうなるんだろう
  • どういう生き方が善い生き方なんだろう
  • 時間って、他人って、なんだろう
  • 宇宙の果て、この世界は一体なんなのだろう

たとえばこういった問いを、ずっと繰り返している。

意識的にそれを考えているのではなく、

『考えずにはいられない』
、ある意味、病的な人。

気になって仕方がない。

多くはないが、こういった人は世の中にいる。


答えなき「問い」をうまくやり過ごす工夫


これらの問いに「答え」なんてない。正解はない。

つまり、「問い続ける『問い』」、となる。

多くの人は、この問いに「正解」がないことに気付く。実際、正解はない。

そして、うまくこの問いを誤魔化す、全力でぶつからず、うまくやり過ごす。

「答えがないこと」を知っているからだ。

中高生・思春期のときは気になっていた問いを、大人になるにつれ、「考えたって仕方ない」「考えれば生きていけない」とし、一方で、「この先、生きていればわかるかもしれない」といった将来性に託す。

「うやむやにしておいていい『問い』」として、ひとまず棚に上げる。

そもそも答えなどないのだから、これは正しい。

また、こういった哲学的な問いを考えることは非常に苦しいことであり、ガチに面と向かえば、ともすれば、日常生活に支障をきたす。

「生きていく工夫」として、これらの問いを深く考えず、忘れ、うまくやり過ごしていく術を身につける。

これは健全な成長の仕方であり、ちゃんとオトナへの階段をのぼっている。そうして、皆、社会人になっていく。


つまづいている人の「二つのつまづき」



ところが、だ。

一部、こういった問いに、『ずっとつまづいている人』がいる。それこそ、中高生のころからずっと。

なぜ生きているのかわからない。生きるとは何か。なぜ死ぬのか、死んだらどうなるのか。人生ってなんだろうか。

答えがないのはわかっている。けれども、気になって仕方がない。

こういったタイプは、うまく社会に適応できないケースがある。

たとえば、「いらっしゃいませ」の一言が言えない。

「いらっしゃいませ」と言うことの『意味』につまづく。

冗談みたいな話だが、実際、こういう人はいる。

そして、仕事が長続きしない。やはり、“気になって仕方がない”のだ。

彼自身は極めて「純粋」である。その問い自体は、純粋な問いであり、迷惑をかけるものでもない。ゆえに、そのまま突き進む。


彼の「つまづき」は二つある。

まず、「哲学的な問いにつまづく」

そして次に、「社会につまづく」


されど、うまくやり過ごさねば「生活」はしていけない。どこかで折り合いをつけねばならない。

悟りでも開ければよいのだが、そうそう簡単に至れる道ではない。

結果、時間だけがすぎる。20歳を越えても、30歳になっても、40歳を越えても。

困難な生き方を続けることになる。

答えのない問いと向き合うことで精神的に苦しむ

うまく社会と適合できないために、生活上も苦しむ

これは、ある意味、仕方がない。本人の性格、個性、病的な資質であるのだから。

しかし、いくらか彼の困難を緩和できることがある。


繋がりを知る


こういった、気になって仕方がない人の気持ちを理解していくれる人がまわりに少なく、孤立してしまうケース。

自殺論の古典、デュルケーム『自殺論』における一説。

社会との関係が希薄化し、社会を“感じられない”という状態が、絶望的な孤独感や無価値感を生む。(※利己的自殺/自己本位的自殺)




無論、「社会との繋がりがあればいい」というわけではない。

が、極度の孤立状態を避け、「社会に帰属している意識」を保つことで、「苦」はいくらか解放できる。

視野を広げ、自分と同じように“つまづいている人間”が他にもいるのだということを認識することで、社会性を保つことができる。


「だれも私の気持ちなんてわかってくれない」と言うとき。

当然、誰もわかるはずがない。他人であるのだから(他者問題)。

ゆえに、所詮は「独り」である。

されど、同様のことに悩んでいる者の存在を知ることで、独りであると当時に、「独りではない」ということに気づく。

こういったことに、現実の世界で気付ければ、いくらか救いの手がさしのべられる。


ソーシャルネットワークサービス


しかし、一度社会からはずれてしまい、戻ることが困難である、あるいは強い疎外感を持った者には、これはなかなか難しいことだ。

現実世界に、そういった「きっかけ」がなかなか訪れない。


そこで台頭してきたのが、ソーシャルネットワーク(SNS)であった。

SNSが流行した理由は、それを「必要とする者」がいたからで、需要があったからだ。

頼りない部分はあるが、SNSがいくらか「セーフティーネット」として機能している。

SNSを利用することで「独りではない」、あるいは「独りではない状態」を生み出す。

仮想現実ではあるが、「誰かが見てくれている、誰を見ている」という感覚。

「ネットに救われる」なぞ、「馬鹿馬鹿しい」という者もいるだろうが、まんざら馬鹿にもできない。

頼りすぎてもいけないが、一時的な延命措置として、セーフティーネットとして役割を果たしている。

が、やはり、それは一時的な幻想にすぎない。

SNSの世界でも、マイノリティは所詮「マイノリティ」である。SNSでも孤立するマイノリティ。

救いようもないことを言うが、「ずっとつまづいている人」は、結局、どこにいたってつまづく。


最後に


答えなき哲学的な問いにつまづくたび、悩む。苦しむ。

そのつど悩み、自らの人生をまた何度もやり直す。そうしていくしかない。

ちなみに私はつまづくたび、本を読み、解消している(やはり完全に解消できるものではないが)。

以下の本を紹介して今日は終わる。私のつたない文よりはマシであろう。ヒント、手助けとなる本であった。

何かの参考になればと思う。







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高橋優の歌詞が僕にハマらない理由


ミュージシャン・高橋優

人気があり、興味あって、アルバムをよく聴いています。

けれども、どうも歌詞が僕にはハマらない。

いい歌だと思うのだけど、何かしっくりこない。


先日、(Where's)THE SILENT MAJORITY?という曲を出された。


(Where's)THE SILENT MAJORITY?


その中に「オナニー」という曲があって、こう歌っている。




あなたの声を聞かせてくれませんか
「高橋、お前オナニーって…そういうの間違ってると思うよ?
この曲よりだったら俺の方がまだ正しい意見あるわ」
心と心をぶつけていこうぜ もっと もっと


アツイぜ、高橋優!

素晴らしい考え方だと思う。

所詮ブログ、ネットにすぎないが、僕の意見をきっちり書き記しておこう!!


※2013/07/27、アルバム『BREAK MY SILENCE』についての感想も書きました。本記事を読み終えたあと是非一読を。→「高橋優の歌詞が強引な肉弾戦となってきた」



高橋優


通称・リアルタイムシンガーソングライター。キャッチフレーズは、“今日思ったことを今日歌う。目の前の社会、友情、恋愛、性、孤独。歌という名の瓦版にのせて。言葉、旋律、声。誰にも似ていない。”


社会問題、社会風刺のような歌詞がひとつの特徴。

代表的なのは、『素晴らしき日常』。




リアルタイム・シンガーソングライター


また、『僕らの平成ロックンロール』といったアルバムを出しており、ロックを感じさせる。


僕らの平成ロックンロール


では、以下、僕がどうも彼の歌詞にハマらない理由をつづっていく。



テレビニュースを見て書いているような歌詞



テレビニュースを見て、話題になっている「社会問題」を取り上げて書いているような、そんな思いにかられてしまう。

テレビや新聞上で報じられる社会問題を題材にして、問題提起をしているようだ。


その「社会問題」は自分自身が直接経験していない、つまり、「個人問題」となっていない。彼自身の問題ではない。

結果どうなるかといえば、いまいちリアリティがない、身体性が伴っていない、なにか、「傍観者視点の歌詞」となる恐れがある。

社会問題を取り上げること、それ自体はいいことだと思う。

しかし、テレビや新聞で報じられる社会問題を、ただ取り上げて、問題提起しているだけでは、「ニュースを聴いている」ように感じてしまう。

自分が直接経験してない社会問題を見聞きした「情報」のみで描くことは、どうしたってリアリティが抜け落ちる。

ニュースで報じられているので「事実」には違いないし、知識として頭のなかにはいってくるが、「リアルなもの」として体感できない。

理由は、本人が直接経験してないために、肉薄した、説得力ある歌詞を、リアルに描けないからである。



社会風刺の手順 - 恥部の告白



これは私個人の考え方であるが、社会風刺を行う場合に、手順があって、先ず、自分自身の「懺悔」あるいは自分の「恥部」をさらけだすべきではないか。

高橋優の歌詞にはそういった、彼自身の恥部があまり見受けられない(あってもキレイにみえる、あるいはキレイにみせている)

自分のダメな部分をさらけださずに、一方的に社会を風刺すること、それは「フェア」じゃない、彼自身は安全圏にいるようにみえてしまう。野党の与党批判のような立ち位置。

高橋優は大衆のリアルな欲望を歌ったが、自分のリアルな欲望を歌っているだろうか。


だれしもダメな部分があって、まず自分のダメなところをさらけ出してから社会について論ずる

こういった手順、手続きを踏んでいると、

「自分にもダメな部分はあるが、そんな自分でも(差し引いてでも)、社会の『ココ』が納得いかない」という文脈ができあがり、

「じゃあお前はどうなんだ?」というツッコミを未然に防ぎ、聴き手は、すんなりと、その社会批判・風刺を引き受けることができる。



多数派(majority)に向けて歌っている




一度この歌詞に目を通していただきたいのだが、僕はこの歌が世の中の「多数派」に向けて歌っているように感じられた。

おそらく、この歌を聴いて共感するものは多いだろう。

なぜか。

“馬鹿ばっかりだ”と叫ぶことで多数の共感が得られるのは、「“馬鹿”当人が少ないから」である。

世の中は馬鹿ばっかりじゃなく、そうじゃないやつ、つまり「“馬鹿ばっかりだ”と言いたい人」のほうが馬鹿よりも多いためである。


世の中の多数は、そこまで寂しがっていないし、ガチで閉じこもってもいないし、時代のせいにもしないし、快楽・肉欲にもおぼれていない。

もしも多数がそうであるならば、社会は成り立っていないだろうし、つまりは、だいたいの人は真面目なのである。

だからこそ“馬鹿ばっかり”という言葉が、多数派である真面目に届く、届いている。

実は“馬鹿ばっかり”じゃなくて、“真面目ばっかり”だからこそ、この歌詞・フレーズが多数派の共感を得る。


人口でみれば、クズみたいな馬鹿のほうが圧倒的に少ない。

が、ニュースはそういった少数派を誇大に報じ、“そんなやつらがたくさんいる”と、社会の現象に仕立てあげる。

たとえば、「ひきこもり」にしたって、増えているとはいっても、全体で見ればまだまだ少数派である。

犯罪、援交、虐待など、それは特に目につく、目立つ話題なだけであって、全体を俯瞰してみれば多数派ではない。

しかし、社会問題となっている当人たちを、ニュースは「多数派」であるように報じることで、話題性をあおる。たきつける。

それを受けて、時代を歌うと称し、一大現象として取り扱ってミュージシャンが歌う。

ロックンロールとは何か。

クズみたいな馬鹿のほうが圧倒的に少ない、その「少ないところ」に向けて歌うのが、僕にとってのロックである。

高橋優は『僕らの平成ロックンロール』というアルバムを出しているが、

僕にとって「ロックンロール」とは、「世の中に批判される側」「世の中にうまく馴染めない側」、つまり、少数派・マイノリティに向けた歌である。


“人殺し 銀行強盗 チンピラたち 手を合わせる刑務所の中 耳を澄ませば かすかだけど聞こえて来る”


刑務所に入らないような「多数派」の共感を得るのではなく、少数のクズの琴線に触れるのがロックンロールであると僕は考えている。

高橋優は、結局、マジョリティに向けて歌っているように僕には感じられた。

「批判される側、少数派のダメ人間」に向けては歌っていない、というふうに感じた。



最後に…



僕は、高橋優の『こどものうた』や『素晴らしき日常』を初めて聴いたとき、耳をそばだてた。

こういった歌を、近頃あまり聴いたことがなかったからだ。

しかし、なにかが違った。

その違和感は、世間の高評価にともなって、「そこまで評価されるべきか?」という強い疑問に変わった。

そんな中、氏の“心と心をぶつけていこうぜ もっと もっと”という歌詞を見かけた。

胸が熱くなった。

じゃあ、僕は僕なりに思いの丈を全力で書かなければならない。

本記事を読んで批判もあるでしょうが、あくまで個人的な感想。

もしファンの方で不快に思われた人がいたら申し訳ないです。


今月5月15日、シングル『同じ空の下』が発売されるそうですが、今か今かと、楽しみにしています。


※アルバム『BREAK MY SILENCE』について感想を書きました。→「高橋優の歌詞が強引な肉弾戦となってきた」

※他、高橋優『裸の王国』の歌詞について

同じ空の下(初回限定盤)

高橋優

僕らの平成ロックンロール

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