『あまちゃん』の感想を越えた評論に違和感


そんな、たいした話でもないんだけど。

違和感、あったので。ちょっと書いてみる。


散乱する「あまちゃん論」


ご存知、NHK連続テレビ小説『あまちゃん』のことですが。

脚本は宮藤官九郎さんで。


で、今、世間で、『あまちゃん』を単なる感想にとどまらず、深くまで詮索する動きがあって。

たとえば、「ナレーションが霊的」だとか、「80年代アイドルがどうのこうの」とか。「震災をどう扱うか」という予想もふくめ。

ググったら山ほど出てきます。散乱しています。

単なる感想の域を越えた、批評っぽいやつ、論に仕立てあげる動き、

よく見かけるんですけど、違和感ある。わざわざ穿った見方をしているような。

「要るかな、それ」って。

(加えて、さして面白いと思えない……後述しますが)


“違和感”というのは、『あまちゃん』の面白さって、評論や詮索を必要としないと思うんです。

というか、朝ドラって、そんなに深読みするもんじゃなく、朝の15分にサクッと見て、サクッと元気でて、サクッと忘れるような、いい意味での「軽さ」なんじゃないかって。

そんな仰々しく、評論しなくても面白いのが『あまちゃん』な気がする。

『あまちゃん』を面白いと思っているなら、

評論なんてせずに、“感想”と“紹介”で、じゅうぶんに事足りるんじゃないか。って。


いや、評論や詮索がダメだなんて思わない。

ジャンル違うけど、わかりやすいところでいえば、エヴァンゲリオンとか、批評があったから盛り上がったわけじゃないすか。

作品単体では、意味のよくわからない作品。

周囲の批評や詮索なくして人気はでなかった。

作品単体の力より、作品に対する個々の論が加熱して、話題になったというか。周囲が盛り上げたんだよね。

作品に、評論という絶妙な味付けを加えたわけだ。


もっと美味しくできる?


比べて、『あまちゃん』のような作品って、作品単体でじゅうぶん面白い。

「周囲の評論なんて、なくったって、面白い」、ということ。


「評論グセ、やめませんか」と。何に対しても、なんでもかんでも。

“なんでもかんでも評論してしまう”、その中に、『あまちゃん』を入れるのは、チョットちがうんじゃないかって。

そりゃあ、たしかに面白いから、何か言いたい気持ちはわかる。

味付けしたくなる思いもわかる。別の角度から論じて、
“もっと美味しくできる”って。もっと美味しくしてやろうって。

ただ、それ、「余計な味付けになってないか?」って。

何か、無理して味付けしているような。

作品だけでじゅうぶんなのに、「わざわざ穿った見方をしている」ように思えるんだよ。

もっとシンプルでいいんじゃないか、と。

伝えたい気持ち、しゃべりたい衝動、

それは評論というスタンスではなく、“感想”や“紹介”でいいんだって、『あまちゃん』はそういう作品だろうって、ボクは思う。

だから違和感ある、「あまちゃん論」に。

それぞれの論は興味深いけれども。

評論を必要としないタイプの面白さを作品がすでに備えているから、
『あまちゃん』に味付け評論をしても、別段、その面白さはアップしない。むしろ、余計な味付けだな、と。

で、

「面白い!」「笑った!」とか、「泣けた!」「次回、気になる!」とか、一見、馬鹿っぽいけど、

そういった単なる感想が、最も『あまちゃん』という作品を言い当てている気がする。

(馬鹿っぽい感想が何かを生み出すわけではないけど、そういうのが『あまちゃん』へのリアクションとして似合っているきがする)


***


という、たったそれだけの話です。今日は。

それでは。