高橋優の歌詞が強引な肉弾戦となってきた

高橋優『BREAK MY SILENCE』
高橋優『BREAK MY SILENCE』

以前、5月1日に、私は次の記事を書いた。


“先ず、自分自身の「懺悔」あるいは自分の「恥部」をさらけだすべきではないか。高橋優の歌詞にはそういった、彼自身の恥部があまり見受けられない(あってもキレイにみえる、あるいはキレイにみせている)
高橋優は大衆のリアルな欲望を歌ったが、自分のリアルな欲望を歌っているだろうか。”



一度、全文に目を通していただけるとうれしいのだが、なかなかの反響をいただいた。ほぼ私への批判であるが…。

私は高橋優と同い年ということもあって、以前から注目している。


そして今月、高橋優のアルバム『BREAK MY SILENCE』が発売された。


『BREAK MY SILENCE』


このアルバムの発売に際し、インタビューでこう答えている。


ハダカで転がることが必要だと思ったんです。鎧をつけることは簡単だし自分を守れるけど、そんなことじゃダメ。傷付く覚悟を持って、自分からハダカにならないと。

──鎧というのは具体的には?

自分をよく見せようとする気持ちですかね。

(中略)

高橋はいいシンガーだって言ってくれる人と同じくらい、高橋はダメなシンガーだって言う人がいないといけない。

(中略)

例えばイジメられていたとか、人見知りだなんて曲も書いたけど、それって本当は恥ずかしい部分だし、いちいち歌にする必要がないと思ってたんです。



あついぜ!高橋優!

なんか、ブログで変なこと書いてすまんかった!完全に私が悪い、つか、ダサい!

なるほど、いままで、“いちいち歌にする必要がないと思ってた”のか。

ということで早速、今回のアルバムを聴いた。



高橋優『BREAK MY SILENCE』





アルバム『BREAK MY SILENCE』では彼自身の“恥部”が表現されている。

『人見知りベイベー』『CANDY』、『足フェチ』など。

自身の人見知りな部分や、『CANDY』ではいじめ体験について。

露骨なほどに、自分の恥部をだしてきた。

私は思った。

「肉弾戦できたか」、と。

つまり、「むこうからぶつかってくれるのを待つ」のではなく、「高橋優のほうから聴き手にぶつかってきた」のだ。

しかも“けっこう強引”に、こちら側の扉をこじ開けるようにして。


たとえば、『CANDY』という曲。



この曲で、高橋優は自身の「いじめ体験」について歌っている。

いじめ体験については、誰しも口をつぐみたくなる。

あまり他人に踏み込まれたくない部分であり、ゆえに、人にも話さないようにする。

その部分、“入ってくるな”という部分に、高橋優は“入ってきた”ということ。


ここで重要なのは、「経験」ではなく「体験」であるということ。

思い出や記憶で残っている「経験」で述べていない。

しかし今回、彼自身が「体験」した“体”でもって、直接的にぶつかろうと試みている。身体性をだしてきた。

肉弾戦というのは、そういうことだ。

ぶつかられた側は、否が応でも反応する、そんな肉弾戦。

“ぶつかってきやがった”というのが、今回のアルバムを聴いた私の感想である。


また、「リアルタイムシンガーソングライター」という彼のキャッチコピーは、そういうものであるべきじゃないか。

つまり、“リアルタイム”とは、社会のことではなく、自分自身の“リアルタイム”であって、今回のアルバムでそれを出してきているように思えた。



強引さが裏目にでていないか?



一方、これとは別件で、危惧しているところもある。

たとえば次の曲とPV。


『同じ空の下』





先ほど私は、“強引に扉をこじあける”と書いた。

これは、“強引”の悪い部分がでてはいないか?


“目指してた世界こそ違ったけれど
似てる境遇で頑張ってる君を想ってる”

“一人ぼっちでも 孤独とは違うよ
同じ空を見てる”


もともと目線が異なる他人と、同じ目線に立とうとしている。

それが自分よりも高い目線ならまだしも、

自分よりも“低い目線”と同じ目線に立とうとすると、背を曲げ、低い姿勢をとらなければならない。

この姿勢をとることは非常に難しい。


なぜなら、ともすれば、“見下ろす姿勢”となってしまい、不快をもたらしかねないからだ。

もともと“同じ目線”であるなら問題ないのだが、自分より低い目線と同じ目線にたとうとするのは、非常に難しい。

「同じ目線にたとうとすること」が裏目にでることがあるし、この曲には少しそれがでているような気がする

もちろん、その強引さ、同じ目線にたとうとすることが「訴える力」となり、土足でふみこむくらいじゃないと「伝わらない」ことがある。

それは誰しもできることじゃない、一定の人間力がなければできないし、高橋優にはそれがある。

しかし、いきすぎるとエゴイスティックな他者への干渉となってしまう。それは優しさでもなんでもない。

自分の目線の視界に“入ってくる”ことは、ありがたくも、時に目障り、邪魔となる。

そのへんの危惧がある。

皮肉にも、彼自身の、人間力の大きさゆえに。


***


今回のアルバムを聴き、総じて思ったことは、

「肉弾戦できやがった、こっちにぶつかってきやがった」

ということ。

じゃあ、もう、こちらとしては、ぶつかってきたのだから、応えるしかない。

今回はそのブログでした。

次曲も楽しみにしています。

ぶつかってきたら、また応えたい。

もちろん、全力で批判もする。

彼自身、「それを求めているのだ」と、インタビューで答えているのだから、私も本音で書かねばならない。

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剛力彩芽『友達より大事な人』への低評価と陰謀論


ふらふらとYoutubeをめぐっていたら遭遇。


剛力彩芽『友達より大事な人』





オレは思った、「これは強烈だ」と。

びびり、そして、おののいた。

学校のチャイム音から始まる時点で何かがヤバイ。

Youtubeでの低評価数も3万越えと、悲惨なことになっている。

オレは思った。

「これに関しては、剛力さんがどうのこうのじゃなくて、歌詞、メロディー、『この楽曲自体がまずくないか?』」


ネット界隈で剛力さんについての様々な意見をみる。

が、この曲に関しては、もはや剛力さんどうのこうのじゃない、この曲自体に問題がある。


「一体、だれがどんな人がこの曲をつくったのだろう?」

と、気になって検索。



けっこう有名な人が作詞作曲した模様。

NAVERまとめにものっているけど、歌詞に矛盾がある。


ねえ君はもう 友達じゃない 
友達より大事な人
秘密の涙は無しにしよう 
何時までも側にいてね
My Friend


“友達じゃない”
といっているのに、最後には“My Friend”といっている。

どういうつもりでこの歌詞を書いたのか。

オレは思った。

ひょっとしたら、詞に、なにか裏テーマが隠されているのだろうか。

もしくは、何かしらの魂胆があったんじゃないか?芸能人やアイドルに楽曲提供する側として、“なにかしら”の意味をこめたのか…。“なにか”を、なにかはわからないが、この曲は“なにか”をバカにしているような…。

歌詞を全文みていだければわかるが、この矛盾は一部だけではない。


“My Friend”は全文にわたって連発され、というか、冒頭から“My Friend”と言い放っている。

“友達じゃない”と4回言って、“My Friend”と4回も言っている。

おかしすぎる。変。

はたしてこんなミス(?)をするだろうか?これはミスか?

わざとなんじゃないかと。

陰謀論なのかなんなのか、真意は私には分からないけれども。


いずれにしても、お粗末な結果となった。

「この曲がイイ」という者は少ないだろう。

そのような楽曲を提供され、仕事として歌う剛力さん。

この楽曲を手渡されたとき、剛力さんの心情は一体どのようなものだったろう。

批判の矛先は、いくらか楽曲提供側にむけられてもいいのではないか。

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寝ているときは死んでいるのでしょうか?


もうじき8月。

どこかに旅行とか、企画したいものですね。

ところで、「生と死」というふうに、分割して考えることはなかなか難しいことだな、と。

区別できるもんじゃないよなぁ、って。



0.000000000001秒後に死ぬことがある



「生きてるのか死んでるのかわかんねぇよ!クソ!」みたいな漫画のセリフがありますが、

そういうことではなくて、

生きると死ぬの“間”って、そもそもあるのか。



たとえば、0.0000000000001秒後に死ぬことがあります。

災害やらミサイルやら、突発的なナニカで死ぬ可能性はゼロではありません。

『今、この瞬間、生きている』のは確かですが、『次の瞬間』、生きている保証はありません。

というより、『今という瞬間』と『その次の瞬間』はつながっている、同じようなもの。“別々”ではない。

なぜなら、『今』は『次の瞬間』でもあり、『次の瞬間』は『今』であり、『その今』は『次の瞬間』でもある。

言い換えれば、『今』しかないのであり、

時間というのは「点」では考えられなくて、常に今という「線」である。

今という点と次の瞬間という点を結んだ線状に、私は存在しており、点の上には居ない。たぶん。

「『瞬間と瞬間』の『間』」なぞ無い、ということです。たぶん。

(“たぶん”を連発しているのは、このあたりは時間概念の問題になってきて、とてつもなく難しくなるためであり、バカな私はここらで引き下がっておきます)


とにかく、『今』と『次の瞬間』に差異がない、つながっている、“同じ”であるとするならば、

そして「『次の瞬間』に死ぬ可能性がある」ならば、

『今、生きている』というのは、不確かなことだと思うのです。



寝ているときは死んでいるのでしょうか?



こんなことも思います。

「寝ているときは死んでいるのか?生きているのか?」

身体的には生きています。

心臓も動いているし、呼吸もしている。生きている。

けれども、意識はない。記憶もない。

(※夢とかはひとまずおいといて、不徹底なまま突き進めます。)


「生きている」ということ自体が、よくわからないことなんです。

肉体が生きていれば「生きている」のか?

意識があれば「生きている」のか?

「生きている」とは、一体ナニカよくわからないんです。


そこで私やキミは、「死んでいない状態」を『生きている』と言う。

「生きている」というぼやけたものに対し、「死んでいる」という状態はわかっています。

「肉体が死んでいる」「意識がない」、これを『死んでいる』と考えています(これは「寝ている状態」でもない)。

これを用いて、

そうではない状態、つまり「死んでいない状態」を『生きている』と、ひとまず考えています。

「『肉体も意識もない死んでいる状態』ではない状態」を「生きている」とみなしているだけであり、

「生きている」ということ自体は、実際、よくわからないことです。


***


なにか、“ふわふわ”としている、「生きている」という実感が無い、

そんな時、ないですか。

当然のことです。

生きていると死んでいるの区別がよくわからないからです。


「生きてるのか死んでるのかわかんねぇよ!」

そりゃそうです。

常に、同時に、私は、今は、生と死の両方を兼ねているからです。

では。





マイク録音のハムノイズ音を軽減させる簡単な方法


ノートパソコンを使っています。

たまにマイクで録音しています。

USBではなく3.5mmステレオミニプラグ接続です。


「ブーーーン」というノイズ、


いわゆる、“ハム音”もいっしょに録音されてしまいます。



「仕様みたいなものだから仕方ない」と思っていたので、録音後にノイズ削除を行なっていました。

が、ノイズ削除を行うと、もとの音源もいくらか削られてしまいます。


この、「ブーーーン」をいくらか軽減できる方法があります。

アナログな方法ですが、実際にやってみると、だいぶ軽減されました。



CD/DVDトレイの金属部を手で触れておく



録音ソフトはAudacityです。

(「無料でここまで!?」というくらい、超便利なソフトです。いや、ほんとすごいです。)


さて、ノートパソコンでのマイク録音の際の、ノイズ軽減ですが。


  • 録音の際、CD/DVDのトレイをだし、金属部を手で触れておく


という、原始的なやり方。




この状態で録音すると、「ブーーーン」という音が軽減されます(100%ではないが)。


下記画像は、Audacityでの結果です。


「ブーーーン」という音がだいぶ減りました


トレイの金属部をタッチする前と後とで、ノイズ音が軽減されました。

簡単ではあります。

ではありますが……。



やや面倒か!?



録音中、ずっと触っておかないといけないので、長時間録音には不向きかもしれません。

けっこう、面倒です。

短い録音なら、「まぁ、なんとか」、という感じです。


※金属部に、指のかわりに「モノ」をおいても効果はありません。

※「実際やってみたけど全然ノイズ無くならないぞ!」という場合もあるので、ご容赦ください…。



***


という感じです。

ノートパソコンでのマイク録音(3.5mmステレオミニプラグ)の方は、一度試してみてはどうでしょうか。


あと、USB接続のほうがノイズ音が減る(?) という噂を聞いたことがあるので、それは今度試してみます。

では。


「死にたい気持ち」よりも「死ねない理由」がある


“死にたくても、死ねない。”

一度はそういうこともあるだろう。

死なないのは、「死ねない理由」があるからなのか。

だとするなら、その理由は様々。

いくつか、私とキミのパターンをあげてみる。



死んだら、迷惑をかける人がいる



「誰のために生きているんだ?自分のためだろう?」

たしかにそう思う。

けれども、“死んだあと”のことを考えてしまう。

自分が死んだら、迷惑をかける人がいる。家族や、彼女、友達など。

そこは裏切れない。

そこに迷惑をかけて死ぬことができない。

他人の存在を気にかけている。

自分のために生きることはできる、しかし、自分のために死ぬことができない。

ゆえに、“死にたくとも死ねない”。


「死ぬなら周囲に迷惑をかけずに死にたい」と思っている。

が、「今、死ぬ」と、迷惑をかけることが想像でき、性格にこびりついた人情か、なんなのか、

死ぬにしても、迷惑をかけずに死ぬこと、

そういった、ある種、「死ぬことの理想」をキミはもっている。

そんな理想に反するがゆえ、現状、“死にたくとも死ねない”。

自分のために死ぬことができない状態なのだ。



死にたいけど、このままじゃ死ねない



「このまま死んだら、『私が生きている意味は本当に何も無かった』、ということになる」

それだけは避けたいのだろう。

たとえば何かをやりとげたり、何かを残したり、何か生きていた理由を生きているうちに見つけることができたなら、私は“納得”して死ぬことができる

キミは、死ぬことに納得して死にたいと思っている

生になんらかの価値をあたえてから死にたいと思っている。

しかし現状、納得ができない。

「今、死ぬこと」を受け入れられない。

「今、死ぬことはできない」と感じている。。

死ぬことに納得したいのに、いまはまだ納得できない、

ゆえに、“死にたくとも死ねない”。

このままでは、今の現状では、死ぬことができない状態。

「私が生きていること」の無意味さと虚しさ、物足りなさを感じており、ゆえに死ねない、死んでも満足ができない



死の選択が逃避に思える - 自覚



「苦しさから逃げようとして、死を選択しているのではないか」

その可能性を否定できない。または、その自覚がある。

キミは、死ぬことにプライドがある

「苦しみからの逃避」を、キミのプライドは許さないのだろう。

負けたくない、勝ちたいわけでもない。

しかし、逃げて死ぬようなことだけは避けたいと考えている。

が、私の死にたい気持ちを整理してみると、どうも、苦しみからの逃げがいくらかある。その自覚がある。

死にたいのだが、その「死にたい理由」に納得がいかず、

その部分をクリアせねば、“死にたくとも死ねない”のだろう。



死にたいけど、死ぬのが怖い



死んだらどうなるかがわからない。

「死んだらどうなるか」、それがもしもわかったなら、キミは死ぬことができるのかもしれない。

しかし、わからない。

「死んでいる」ということがわからない。

ここで、恐れが生じる。

“死にたくても死ねない”理由が発生する。


「死にたい」という気持ちは、「生きている」からわかる。

生きているから、死にたい気持ちを確かに感じることができる。

しかし、「死んだらどうなるか」は、「生きている」からわからない。

「死んだらどうなるか」、その不明点を明瞭にできれば死ぬことができる。

「生きていること」がわかるように、「死んでいること」もわかりたいと思っている。

が、無論、そんなことは死ななければわからない。

ゆえに、“死にたくとも死ねない”。



死ぬ手段と場所が見当たらない



手段はたくさんある。

しかし、その手段を選べない。

正確に述べれば、その手段を選ぶ理由が見当たらない

「どの手段を選ぶのか?」「なぜその手段を選ぶのか?」と問われた際、答えることができない。

また、「死に場所」がわからない。

「ここでよいのか?」「どこが死に場所なのか?」、定めることができない。

「この手段ではない」「この場所ではない」と感じている、

あるいは、「この手段でよいのか?」「この場所でよいのか?」という疑問がある、

結果、死ぬ手段と場所を選ぶことができず、“死にたくとも死ねない”。



最後に



いくつかあげてみたが、死にたくても死ねない理由は他にも多々あるだろう。

私やキミは、「死にたい気持ち」よりも「死ねない理由」のほうがたくさんあるのかもしれない。

人はいつだって死ぬことができる。

そしてそれを選択する者もいる。

他方、私やキミは生きている。

「死なない理由」があって「生きる」を選んでいるのか、

または、「生きる理由」があって「死なない」を選んでいるのか。


最後に、最近読んだ本の一節をのせておく。


「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する。これが哲学上の根本問題に答えることなのである。」
(『シーシュポスの神話』カミュ、清水徹訳)






MixcloudとSoundCloudの比較&使い分け!

http://www.mixcloud.com/

俺、SoundCloud、大好きだ!




……なのですが。


私は今月から個人ラジオを始めました。

「そりゃあもちろん、SoundCloudにアップするぜ!」

さぁ、いざアップしようとすると、次の文が目に入る。


A free plan can post up to 2 hours of sound.
Upgrade to any Pro plan to upload more sounds.


日本語にすると、、、

“無料アカウントでは2時間ぶんだけアップロードできるよ!有料アカウントならもっとアップできるけどね!”


まずい!少なすぎる!!

また、節約中の私には、Pro版にする余裕もない。

(ちなみに、制限なしのPro版は、“€9/month or €99/year”。日本円で年間約\13,000)


まいったぜ……。残念だが、他を探そう。


と、ググれば、

SoundCloudに非常によく似た(?)サイトを発見。




一瞬、「SoundCloud姉妹サイトか!?」と思ったのだが、まったく別ものだそうです。

(ロゴもめっちゃ似てるんだが…)



Mixcloud



早速、利用。

調べてみると、なんと、Mixcloud、

「アップロード制限がない」。

しかも無料。


http://www.mixcloud.com/upload/


ということで、Mixicloudで録音ラジオをアップ公開することにしました。


英語サイトではありますが、使い方は簡単。

今回の趣旨は、とにかくアップロードして、聴くことができて、埋め込み可能であり、保管庫であればよい

となると、

アカウント登録して、プロフィール入力して、

あとは、UPLOADボタンをおして音源をのせるだけ。

途中、トラックがどうのこうのありますが、別に記入しなくても問題ない。(使い方もよくわからないし、何かとてつもなく面倒な予感がした…)


と、このような使い方、アップロード専用であれば、Mixcloudは実にすばらしいな、と。

しかも使っているうちに、愛着が、好きになってきたぞ…。


※プレイリストを作成し、埋め込みもできますが、あまり必要性を感じなかった。(ちなみにやり方は、ログイン → アップした音源をマウスオーバー → Add to... → Create New Playlist → 埋め込む場合はプレイリストトップからEmbed)


尚、アプリもあります。




MixcloudとSoundCloudを比較してみて


SoundCloud


個人的には、やはりSoundCloudのほうが好きです。

デザインもいいし、公開されている音楽も良いものが多い。

何よりコメント機能が優れている。

一方で、Mixcloudはデカデカと広告があるし、日本人ユーザーも非常に少ない。

また、SoundCloudと違って、無料ダウンロード機能もない。


しかし、Mixcloudは高音質で音源をアップできるらしい(MP3だと320kbps可)。

もちろんスマホにも対応している。


なので、私はこう思った。


  • 聴くだけなら「SoundCloud」
  • アップロードしたいなら「Mixcloud」


私のような一般人は、こういう住み分けをするのがいいんではないか。

SoundCloudは“聴く専用”、Mixcloudは“公開専用”。


※Mixcloudにはダウンロード機能はないので、それにこだわる方は厳しいかもしれない。


***


というか、個人的には、お金があるならSoundCloudのみで済ませたいのだが、

MixcloudはMixcloudで、今後発展していけばとてもいいものになるだろうし、私のしょうもないラジオも、少しは貢献できればと思う。

あと、SoundCloudは派手な感じがあるが、一方でMixcloudの地味な感じは使っているうちに好きになってくる。スマホでの視聴もバッチリだし。音源保管庫としてはじゅうぶんである。

どちらが優れているという話でもない。

というか、無料でここまで使わせてもらっていることに感謝せねばならないんですよ、私は。

そういうわけで、がんばって一人きりのラジオを続けていこうと思います。






スーパーで思ったこと(録音)


あんまりにも暇なんで、録音しました。。。

調べてみたら、ショッピングカートって、2万くらいするんだね。高いね。乱暴にあつかっちゃいけないよ。ほんと。


スーパーで思ったこと。



※モバイル/聴けない場合はこちら → http://bitly.com/156xhvH


あまりにもしゃべりが下手になってしまったので、録音後記で相当の補足をしました…(つーか、録音の意味ないな)。


録音後記



“他人を頭のなかで想像する時、他人に自分を憑依させなければ、その他人を想像することはできない”

というふうに述べました。

言葉足らずで、わけわかんなくなっちゃいましたが、どういうことかというと、

まず、「その他人自身に自分はなることができない」という、当たり前の前提があって。

他人と自分は違いますよね。

よって、他人とは不鮮明なものであり、私には“わかること”ができない、“想像すること”しかできない。

私にわかるものは「私」だけであり、「他人」に関しては“想像すること”しかできない。

では、他人を想像するとはどういったことか、

どうすれば他人を想像することができるか。

他人を想像するには、その他人が“自分であるかのような想像”が必要となる。

なぜなら、“わかるもの”は自分だけだからである。


したがって、他人を“自分に一回置き換える”という作業が必要となる。

繰り返すが、他人と自分は違う。

しかし、こういった想像、「他人を想像するという『想像』」において、一旦、自分に置き換えることにより、

私は、“他人と自分が同じ人間である”ようにして他人を取り扱うことになる。


「……あれ、これ、なんか道徳と関係ないか、礼儀とか、そういうのと関わりあるんじゃないか?」と、ふとそんなことを思いました。

道徳の教え方として、古来、「相手の立場にたって考えなさい」というのがあるけど、分解すれば、つまりはこういうふうになってるんじゃないかって。

以上です。


※あまりにも不甲斐ないしゃべりのため、もう一本、録音いたしました。


モバイル/聴けない場合はこちら → http://bitly.com/1azBSsp



録音、他



あまちゃん『暦の上ではディセンバー』のピアノアレンジ


いや、こりゃすごいから、ブログにのせておこうと。

NHKの朝ドラマ『あまちゃん』。

毎朝見ているんですが、

GMT47・アメ横女学園が歌う『暦の上ではディセンバー』、これがまたいい曲で。


で、NAVERまとめで、次の記事をみかけて。


ピアノでカバー・アレンジしている仲条という人がいて。

実はそれなりに知り合いではあるのですが、すごいな、と。

Youtubeの動画をのっけておきます。


『暦の上ではディセンバー』ピアノカバー





ドラマでまだフルコーラス流れてないのに、ここまで仕上げるのがすごいですね。


ちなみに、この方、『潮騒のメモリー』のピアノカバーもやってて。

これまた良い感じで。


『潮騒のメモリー』ピアノカバー





さらに、おなじみのオープニング曲も。。。


あまちゃん 「オープニングテーマ」ピアノカバー





***


尚、カバーだけではなく、自分の歌も創っているアーティストさんなんですね。










***


身近な知り合いががんばっているのをみると、「ボクもがんばらなきゃな!」と思いますね。

それでは!



選挙や政治に音楽をぶち込んでくる方々


こんばんは。

選挙や政治に音楽をぶち込んでくる方々がおります。

あげく、「これがロックンロールなんだ!」と言う人もいます。


違和感。

なぜなら彼らの歌が私は好きではない。

が、彼らの思想は少しわかる。納得できる部分もある。

しかし、いかんせん、彼らの「音楽」がまったく良くない。

「音楽」として聞くに堪えない。

ゆえに、賛同しにくい。

(というか、そもそも私は音楽が嫌いであるから、嫌いな音楽を用いられる時点で苦手だ)


彼らは「音楽の力」を信じているのかもしれない。

あるいは、「『音楽嫌い』なんていない」と思っているのかもしれない。

が、残念ながらここにいる。

私は音楽の力なんて全く信じていない。

フェスで拳を突き上げている人をみると、興醒めする。

恐ろしさすら覚える。

私はその中には入れないし、入りたいと思わない。

「音楽の力」という意味がよくわからない。

音楽で一体感を感じたこともないし、人生を変えられたこともないし、どうでもいい。音楽は私の人生には不要である。

が、彼らは歌う。

人間の力を信じ、音楽の力を信じ、歌う。

音楽の素晴らしさを感じたことがない私には、よくわからない。共感できず、置いてけぼりをくらっているようだ。

賛同したい、が、音楽が邪魔している。

音楽が邪魔なのだ。




そもそも、私にとって音楽とは「非日常性」である。

「この世にないもの」であり、「言葉にできないもの」である。

政治とは「日常性」である。

「この世の現実」であり、「言葉ありきのもの」である。

「政治と音楽」の関係は「水と油」のそれである。

交じり合うことはないし、交じり合わないがゆえ、音楽は音楽として、生き残る。

こういう表現ができるだろう。

『音楽が政治に巻き込まれている』

いろんなことが政治に巻き込まれてきた。そして音楽までもが。

私は思った。

「また政治がからむのか。音楽でさえもそうなのか」と。

もういい、そんな光景はさんざん見てきている。


無論、すべての音楽はそうではない。

しかし、こういった光景が今後もあるのかと思うと、げんなりとする。

音楽嫌いがますます加速する。

「選挙に行こう」、そんなもん、音楽に言われなくてもわかっているし、音楽にそんな力はない、あったとしても、私には届かない。

音楽は好きでも、音楽で私も世界も変わることなど無いという人々。

そんな人はけっこういるだろう。

しかし、そのことに気づいていない。

なぜなら、彼らは「音楽の力」を信じてやまないから。


漠然と一日が終わっていくこと


企業の下で、一日24時間の大半を仕事についやしています。

「帰ったら寝るだけの一日」が多いです。

明日もおなじ時間に起きます。

日本人の大多数はそうです。

やがて、一日一日が『漠然』としてきます。

最初のころは、“働く理由”なり、“その会社を選んだ理由”があったはずでしょう。

ところが、2年3年たつと、そういった気持ちも薄れ、忘れ、『漠然』と働くようになります。

オートマチックに働きます。

オートマチックに時間が流れていきます。

漠然と、一日が終わります。

二十代なんて、あっという間に終わります。


そこでだいたいの人は、「これじゃマズイな」と思って、気をつけます。

恋愛をしたり、休日は遊ぶようにします。

漠然と時間が過ぎていくことに、抵抗します。

「充実させよう」とします。

でも次の週には同じ仕事が始まって、また漠然と時間が過ぎていきます。

その繰り返しです。

毎日毎日、『漠然の繰り返し』です。

漠然と今日が終わります、

明日が来るのを、漠然とむかえます。

漠然の連鎖、漠然と終わっていく毎日、漠然と過ごす明日。

ぼんやりとした毎日、なんとなく終わっていく毎日。

そうして、人生は終わります、漠然としたまま終わっていきます。

時間は流れていきます。淡々と時間が流れ去っていきます。




でも、私は知っています。

これが一番楽な時間の過ごし方であること。

「毎日、同じであること」が、なんだかんだ楽なんです。

だから、無理してまで変えようとはしません。

『漠然の継続』を選んでいるのは私です。


毎日に疑問をもつふりをして、私は、『続けばいい』『このままでいい』と思っています。


キミはさぞかし苦しんだのだろうと思います。

だから、安寧、平穏な毎日のありがたみを、

『何事もない毎日がどれほど幸福であるか』
を、キミは知っている。

そんな毎日を継続させようと、そんな毎日を守り続けている。

そんなキミを、一体だれがとがめられるというのか。


しかし、どうだ?

キミはこんなことも思っている!!

「人はいつか必ず死ぬ。一度きりの人生、かけがえのない一生をおくってみたい。人生を精一杯生きたい!」

「まだまだこれから、本当の人生が待っているんだ!」

と、希望をもっている。

「待たせている明日」がキミにはある。



“それをつかみにいかなければならない。”


……なんてことを私が言うはずもない。

私はこう思う。

「漠然とした毎日」を前にして、私にあたえられた行いは、「葛藤する毎日」を送ることである。





人は、「時間の流れ」には勝てない。

時間をつくりだすことはできない。

時間を止めることもできない。

ただ、身をまかせるしかない。

未来をつくっているのは時間であって、人間ではない。

人知を超えた“人間以外のもの”

人間にはどうすることもできないものが時間であり、

「未来をつくろう」「人間が未来をつくるんだ」というのは、一体、勘違いである。

自然には太刀打ちできないように、時間の前では、人はただただ「無力」である。

無力こそが本質であって、創造とは幻想である。

未来をつくるのは、キミでもないし、私でもない。


毎日が漠然と過ぎ去っていく。

それは人にとって、はなから『負け試合』なのだ。

時間は圧倒的に漠然であり、抵抗しても勝ち目はない。

変えることなどできない。

ここに、時間を前にして、抵抗ではない『葛藤』が生まれる。

つまり、リングにあがるのは「時間」ではなく、己自身、「己の無力さ」である。

無力という真実に向き合うこと、それが『葛藤』である。


時間がどうとか、未来がどうとか、あるいは他人がどうとかではなく、

自分および自分の無力さに、立ち止まって葛藤すること。

「葛藤することしかできないという『無力さ』」だけが、私には真実に思える。


***


時間および人生を、変えようとしない。

変えずに、自分との葛藤を選ぶこと。

進まず、戻らず、今いる位置で、葛藤すること。

それが唯一の慰めとなり、

それだけが唯一、闘っている瞬間、人が、本当に輝いている瞬間なんじゃないか。


仕事ってなんだろう(録音)


「仕事」について、だらだらとまとまりのないことをしゃべってみました。

いいでしょう、こういうのも。


仕事ってなんだろう(録音)



※モバイル/聴けない場合はこちら →http://j.mp/12wJEwD


録音後記


いつになったら、仕事というのが、納得できるんでしょうか。

どうも、私は仕事というものに、ネガティブな感情を抱いているようです。

もっとプラスにとらえられたら、いいんだけどね。

悩みながら、とりあえずやることはやって、がんばりましょう、ひとまず。

それでは。



録音、他



不幸の少ない状態を幸福と呼ぶならば「従順」「反復」「お金」が大事


「幸福」、しあわせってなんだ?


【幸福】
満ち足りていること。不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま。しあわせ。


なんか、よくわかんないな。

じゃ、とりあえず、不幸の少ない状態を『幸福』としてみようか、今回のところは。

じゃ、幸福になれるな。

……うん、ボク、幸福になれるかもしれない!



不幸ではない幸福



不幸の少ない状態を幸福と呼ぶならば、簡単さ。

「従順」「反復」「お金」がオススメだよ。


……おっと、その前に。

「どういうときに幸福を感じるのか?」って。

そりゃあ、これでしょ。

『悩み事が解消されると幸福を感じる』


これ、ちょっとわかるよね。ボクは分かるなぁ。

毎日、不安だったことや悩んでいたことが解決されると、ちょっと幸福感に満たされる。

人間ってのは、

「不幸ではない」なら、ひとまず幸せ、少なくとも不幸ではないから、

まぁそういうことだよ。そういうことなんだよ。

不幸ではないなら、とりあえず幸せ。

となると、「不幸にならないようにすること」が、幸福への近道なんじゃないの?って。

ここでいう“不幸”ってのは、借金何億とか、難病だとか、そういうデカイことじゃなくて、

あるいは、避けられない突然の災難でもなくて、

ていうのも、そういう不幸は自分ではどうしようもないからね、

ここでいう“不幸”ってのは、

もっと身近な悩みごと、なんだけど、本人にとっては大きな悩みごと、

だんだんと、その悩みがふくらんでいって、あとあと、取り返しがつかなくなるような、悩み事。

やがて、それは“不幸”となる。

そういう悩み事、“不幸”。

こういった“不幸”に遭遇しないこと、不幸のない状態が、なかなかの幸せだろうって。

「じゃ、どうすりゃいいの?」って、話を戻す。



従順になること



まずは、『従順』になることさ。

大多数の意見、あるいは権力をもつ者の意見に、逆らわない、従順になること。

もしも、こういった意見に反発すると、不幸になるよ。具体的にいうと、悩み事になるよ。

仕事上の人間関係で悩んだりするのは、ほぼコレだよ。

どっかでキミは反発しているんだよ。

上司の意見とか、同僚の仕事観とか、会社のシステムとか、

それらにキミは納得していなくて、水面下で意見のぶつかり合いが行われているんだ。

それはやがて、大きな不幸になる可能性がある。

これでは「幸福」にはなれない、幸福が遠ざかっていく。

不幸を減らさなきゃいけない、でなけりゃ幸せにはなれない。

だから、従順になること。

そうすれば、悩むこともなくなるでしょ?

従順になれる人間が、幸福になれるんだよ。



反復すること



一言でいえば、「毎日、同じことを繰り返そう」ということ。

要は、波風をたてないように毎日を過ごそうということだ。

「変化」は大敵だよ。

なぜなら、その都度、対応しなきゃいけないから。大変。ストレスがたまるよ。

比べて、

歩きなれた道なら、つまづきにくいでしょ?

失敗が減るんだ。

毎日、同じことを繰り返す、

「反復の日常」を過ごそう。

そうすれば、余計なストレスはなくなる、不幸が減る。

ほら、また幸福に一歩近づいたよ。



お金があること



最後に、「お金」だね、お金。

お金で悩むこと、よくあるよね。
ボクはしょっちゅうだよ。

もしたくさんのお金があったら、ボクはけっこう幸せを感じるだろうなぁ。

お金持ちにも悩みごとはある、あるけども、

貧乏の悩みごとは、お金だよ、お金がないこと。

それが原因で、悩む。さらには不幸を感じてしまう。

それは、お金があれば解消される悩みごとだ。

お金があれば、不幸が減る、つまり幸福に近づけるよ。

そう思わないかい?お金があったら避けられる、身近で小さな不幸って、けっこうあるんじゃない?



まとめ



「幸福」になるには、

  • 従順になること
  • 反復すること
  • お金があること

この3つが重要だぜ。


……え? なんだって?

「そんな幸福には興味がない」って?

じゃあ、不幸になるしかない、

不幸という状態を維持することになる。

つまり「日々闘う」ということになるけど、大丈夫かな。

不安や悩みごとのつきない毎日を送ることになるよ。


でもキミがいうことも少しはわかる。

「幸福なんてこの程度のものでしかない」、

そういうことなのかもしれないね。どうなんだろうね。

じゃあまた。