リア充アピールとは無意識の心理?@飲み会の集合写真


こんにちは。どこからどうみてもリア充の者です。

今日も読む?ありがとう。

さて、FacebookやTwitter上で、

たとえば飲み会の集合写真などの画像をのせて、

「私の日常は充実してるよ!」という他者へのアピール。

俗に、“リア充アピール”と呼ばれるものですが、

これって、「けっこう無意識だよな」と、先日思った。

もちろん、意識してリア充アピールをされている御仁もおられるだろうが、だいたいは、大半は、あんまり意識していないんじゃないかって。

本人からすればリア充アピールでは全くない、しかし結果的にリア充アピールとなっている。

そういうのがほとんどじゃないかなあ。



リア充アピールの大半は無意識である



この前ね、実家に帰省するとき、高速バスのって。

途中、パーキングエリアで休憩停車して。

そしたらね、窓から浜名湖が見えたんだよ。

こいつがきれいでさ。

陽を反射して、キラキラと美しい浜名湖が、目の前に広がっている。

パーキングで降りる予定はなかった。降りるのが面倒だったし、別段、トイレにも行きたくなかったし。

けど、窓から浜名湖がみえて、

「これ、一枚写真をとってTwitterにのせよう!」

って、思ったんだよ。とっさに。

ところが立ち止まった。

待て。ちょっと待て。

「バスから降りるのでさえ面倒なのに、なぜ外に出てまでも写真を撮ろうと俺はしているんだ?」
、と。

そして私はこう思った。

「もし、これ、うっかり写真をとって、Twitterにのせたら、いわゆる“リア充アピール”となってしまうんじゃないか?」


いかん。これはマズイぞ。

「こんなにもキレイな景色を俺は今日見ましたよー、充実してますよー今日めちゃめちゃ充実してますよー」と、リア充アピールになりかねない。

考え過ぎかもしれない。

が、リア充アピールして満足を得たい気持ちが、私の中に2%くらいはあるのではないか?それを私は100%否定しきれるか??自信はない。


ところで、私は他人の目を気にする人間だ。

「他人の目など気にするな!」などと、スマートなことを云う人がいるが、だいたいそういう人ほど他人の人生に突っ込んでくる。関わってくる。

『おまえは他人の目を気にしないかもしれないけど、他人の目におまえの行いが目に入るんだよ』
、ということがよくあるよね。

「他人の目など気にするな!」などと孤高を気取る者は、案外、孤独じゃない。

というのも、他人の視界に入り込むから。

孤高ではないんだよね、実は。


話がズレた。もとに戻す。

そんな「他人の目を意識する私」であるから、

リア充アピールとなってしまうことを恐れた。

たとえ2%程度しかアピールの気持ちがなくても、避けなければならない。それに気づいてしまった時点で、もはや私の中では100%だからだ。

かくして、写真を撮ることを私はやめた。

今回は“たまたま”気付くことができたけど、ほとんど無意識に、私は写真をTwitterにのせようとしていた。

で、思った。

「あーそうか、『リア充アピール』って無意識にやっちゃうものだな」って。

今回のケースは軽い無意識だけど(実際、自分で気付けたし)、でも重度の場合は、「リア充アピールだ!でた!リア充アピール!」などと云われても、「え?そうなの?」と、自分で気付けないくらい無意識ということもあるだろう。

結果的にリア充アピールにはなっているが、本人にその意識がない。つまりは無意識にやっちゃってんだよね。

これがほとんどでしょ。



飲み会の集合写真の件



さて、キミはこう云うだろう。

「飲み会での楽しそうな集合写真をのせる、これは無意識じゃねぇだろ!ぜってーわざとだろ!意図的な牽制行為!」

う、、、否定しきれない。否定しきれないよ!!

ごめん、ちょっと論点をずらすわ。ごめん。

飲み会の集合写真をのせる意図は私にはわからない。

が、これに関しては「どっちも非リア充なんじゃないか」って。

リア充アピールだとかいって叩く者も、飲み会写真のせてリア充アピールする者も、結局どっちも非リア充なんだよ、日常に満足してないんだよ。

どっちも非リア充、日常に満足していないから、だからそういうことをやっちゃうんだよな。

真のリア充はアピールなんてしないし、リア充アピールだとかいって揶揄もしないだろうし。

「でたー、リア充アピールでたー!うざ!」などと叩く者は、日常が非リア充だから、嫉妬だろう、つまりは。

誰も見たくない飲み会の集合写真をわざわざのせる人は、虚勢だろう、つまりは。

斯様な『嫉妬』や『虚勢』は、自分の日常に満足がいってないがゆえの反動だろう。



リア充アピールとか、どうでもよくね?



ちなみに私はリア充アピールを否定しない。

「日常に不満足だからリア充アピールをする、つい虚勢をはり、自慢をしてしまう」

いいじゃないか。

おお、さすが人間、不完全!完璧なわきゃねぇ!ってことで、『本質的』だと思うし、別にいいんじゃないかと思う。


が、「リア充アピールとかどうでもよくね?小せぇなぁ。やりたいことやりゃいいじゃん?」と、明言するのはいかがなものか。

この発言は、先程述べた「他人の目など気にするな!」という人々によくみられる光景だが、ちょっとそれはどうなんだろう?、と。

なぜか。

ここでようやく最初に言ったことに戻る。

「無意識」に自慢していることがあるんだよね。


で、後から気づいて反省することあるよね。

これって、自分で自分のことをコントロール、理解しきれていないからやっちゃうんだよね。

無意識は防ぐことができないよ。

が、「汝自身を知れ」。

自分のことを、自分なりに理解しようと努めること、

または、自分の行いを自分の意志で行うこと、

これって大事じゃないか。


ボクらは動物だよ、所詮動物。

だけど、同時に人間だ。

じゃあ人間ってなんだよ?

動物なんだから「動物」って言っちゃっていいのに、なんで「人間」っていうのがついてくるんだよ?

「リア充アピールなんてどうでもよくね?やりたいことやりゃいいじゃん?」、じゃなくて、

ボクはそれって、「動物側に逃げるよね」って思ってしまって、思考なき欲求の奴隷で、さらには「無意識に任せておこう」っていう安住に浸る行為に思えてしまうんだ。

ボクは動物だ、だけど、無意識ではないところ、つまりは“人間的なところ”を追求してみたいから、「『無意識』に自慢する行為」をそのまま引き受けることはできないんだ。

人間は不完全だけど、そこの「不完全」を受けいれてはいけない。というか、「不完全」に開き直ってはいけない。

人間の本質的不完全とは、「完全に努めた結果、どうしようもならない『不完全』の現れ」であるから。



「ところでさ、じゃあさ、飲み会の集合写真は無意識じゃなくて『意識的』なんだから、人間的でいいんじゃない?」

うん。意識的ならいいと思うよ。腹黒くとも、計算高くとも、いいんだよ、自分の意思で行っているなら。

でもさ、だいたいは次のどっちかだよね。

無意識、あるいは、開き直って思考放棄した自省なき意識、

これ、どちらも今回ボクが述べた理想から、はずれてしまうんだよな。



***


以上、支離滅裂、思いつくまま書きなぐってみました。

今日は仕事が休みです。

外は天気がいいです。

ボクは室内でブログを書いています。

ごめんな。今回はリア充アピールしちゃって。

じゃあまたな。