「何をしている時、最も幸せですか?」答えられる人が強い理由。


やあ、調子はどうだ?

あいかわらず、さえない顔をしているね。

ああ、それはボクのことか(*_*;

行き詰まったとき、ボクは思い出すようにしている。

“何をしているとき、最も幸福を感じるか?”

結局のところ、それがゴール地点なんだよな。

でも、それはおそらく絶対に手の届かないゴール

だけど、それは心に安定をもたらす“道標”であり、確かな“足場”でもあるんだよ。

そんな話をしてみる。



何をしているとき、幸福を感じますか?



たとえばボクの場合、本を読んでいるときだ。

休日の朝方、目覚めたばかりの午前10時。

布団に入ったまま、意識はぼんやりとしている。

カーテンごしにさしこむ淡い陽の光を感じながら、

おもむろにボクは、枕元の本を手に取る。

なんとなしに、本を読む。

おもしろい本を読んで、「おもしろいなあ」と思う。

そんな休日の午前。

このとき、ボクは幸福を感じる。

ボクの中で、これ以上の幸福はいまのところ存在していない。

なんとも、みすぼらしい幸福だね。晩年か!と。

でもいいじゃない。

幸福感なんてのは、人それぞれだ。

……ところで、キミが最も幸福を感じる瞬間はどういうときだい?

恋人や家族と過ごすことか?仕事で成功したときか?

人それぞれだよ、んなもんは。

なんにせよ、幸福を感じる一瞬間を、1回だけじゃなくて、2回、3回、100回、1000回、1万回……

と、積み重ねていきたいと思っている。

幸福を感ずる瞬間、そんな“点”を、“線”にしたいと思っている。

つまりは、そういう“状態”にしたいんだね。瞬間じゃなくて。

ボクの場合、“毎日ぼーっと本を読んでいたいなあ”と思っている。

ところが、それは叶わない。

“毎日ぼーっと本を読んでいたい”って、毎日どうやって生活するのさ?

働かないといけないし、そんな時間もない。

ボクのような才能がない出来損ないの愚図野郎は、そんな自己実現は夢のまた夢。「やる」って言ったって結局「できない」ヤツなんだよ。

でもねぇ、「救いようがない」といって、あきらめてしまうのはもったいない。

たどりつけなくていいんだよ、そのゴールに。

大事なのは、そのゴールに向かって進むことだ。

正確に言えば、“進める”ということだ。

「おい、またイタくてキモいことを言い始めたぞ」って、まぁいいじゃない。どうせ死にぞこないだから、ボクなんて。



とりあえずの“道標”があること



端的に言っちゃおうか。

森の中で迷ったとしよう。

どっちに進んでいいのか、わからないと不安だよね?

でも、『遠くにそびえて見える、あの一本松に向かって進め!』と、行き先がわかっていると、安心するよね。

進む方向がわかっていると、人間ってのは安心するんだよ。

逆に、どこに進んでいいのかわからないと不安。

人生ってのは、まさにこれ、“森の中”にいるんだよな。

いきなし“迷いの森”に放り投げられたようなもの。

そんなときにね、道標(みちしるべ)があると、安心するんだよ。

「あー、あそこか、あそこにとりあえず向えばいい」って。

家族や恋人と過ごすのが幸せ、本を読むのが幸せ、音楽を作るのが幸せ……、

それらが、“とりあえず”の道標になる。

“とりあえず”というのは、そこにはたどり着けないから。

ココが重要だとボクは思ってるんだけど、

「あの一本松に向かって進め!」と言われても、その一本松にはたどり着けないんだよ。残念ながら。


でもね、あれだよ、

たしかに「目的地」にはたどり着けない、でもどこへ向かうかの「道標」はある。

「自分はどういうときに幸福を感ずるか?」、それを自分でわかっている人は、『“とりあえず”こっちの方向に進もう、進めば間違いない』という道標をもっている。

この、“とりあえず”というのが重要で、

“とりあえず”の方向があるかないかで、大きく変わってくる。

森の中で立ち止まって一歩も動かないのと、とりあえず進むのと、どっちがいい?

どっちにしたって野垂れ死ぬわけだけど、動いてみる?


どうするかは個人の価値観、思想に依るよ。選ぶのは個人だ。

ただ、

「とりあえずこっちの方向に進もう、進めばいい」、

それがあるかないかで“森の中”での動きは全然ちがってくる。


ひとりでうずくまったままの不安は死ぬほどつらい。

動いたほうが、動けるやつのほうが、うまく不安を緩和できる。



幸福は“足場”となる



再度、問うよ。

“何をしているとき、最も幸福を感じますか?”

迷ったとき、それはある程度、とりあえずの、道標になる。

漠然ではあるけれど、そっちの方向に進むことができる。

で、しつこく繰り返すけど、その「目的地」にはたどり着けないからね。ボクのような凡人の場合。

目的地にたどりつけなくてもいいんだ、そんな願いはボクのような努力をしてこなかった人間にはあつかましすぎるよ、

今、ボクが心からほしいと思っているもの、それは目的地に向かって“進んでいる自分”、そんな『がんばっている自分自身』がほしいんだ。


まずはそんな自分がほしい。それさえも今のボクにはないのだから。


幸福を感じる瞬間、ありますか?

「あるよ」、そんな人はがんばれる、目的地に向かって進める。

どういうことか、

『健康じゃないと、がんばれない』ということと似ている。

風邪ひいたり、ケガしたりすると、やりたいこともできないよね。

「健康ありき」なんだよ。なんでも。

健康は、がんばるために必要な土台であり、“足場”なんだよな。


安定した“足場”がないと、がんばろうったって、がんばれやしないんだ。

さて、ご察しのとおり、

「健康」というのは、今回述べている「幸福を感じる瞬間」のことだ。

それがしっかりとある、あるいは、しっかり自分でわかっていることで、安定して、落ち着いて、がんばることができる

なぜか?

目的地にはたどり着けないからだ。

がんばった先に待ち受けているのは、希望でもなんでもなくて、幸福とは逆のものが待っているかもしれないから。


また、誰にもわからない未来へ向かうことは、不安定に突き進むようなものだ。

したがって、目的地に向かって進むとき、常に不安がつきまとう。

とてもじゃないけど、今現在、「幸福を感ずる瞬間」がなければ、がんばれないんだよ。がんばり続けられない。

ある程度の、幸福という土台、足場がなくては、“不確定・不安定”に向かって進むことなんてできない。

所詮は脆い不完全な生物だから、人間。

だから、バカにしちゃいけないんだよな。

ボクらが“幸福を感じる瞬間”、

それはささいなことかもしれない、つまらないことかもしれないよ、

でもそれは、日々の何気ない健康と同じで、それがなくては前へと進めない。

“幸福を感じる瞬間”は、継続して物事をなすための、安定した地盤となる。



***


「おい、またお前、偉そうなこと言ってるな」

「すいません。でも、またよかったら読みに来てくださいよ、先輩」

「気が向いたらな」

「オレ、クズですけどがんばりたいんです」

「そうか。でも誰もお前になんて興味ないぜ?」

「でもオレ、がんばります、いや、がんばりたいんです、がんばってみたいんです」

「そうか」

「……ありがとうございます。ではまたこのブログで会いましょう」