ネットで精子提供持ちかけ:検索と想いについて

無知でした。

こんなことがあるんですね。

NHKのネットニュースはすぐにリンク切れするので、少し引用して載せておきます。


不妊や未婚の女性に匿名で精子の提供を持ちかけるインターネットのサイトが数多く存在し、医療機関を介さない精子の受け渡しが行われて、妊娠や出産に至ったケースもあることが、NHKの取材で分かりました。

このようなサイトは、40余り確認され、このうち11のサイトの提供者から直接、話を聞くなどした結果、実際に医療機関を介さない精子の受け渡しが行われ、妊娠や出産に至ったケースもあることが分かりました。

提供を受けた人の中には、不妊に悩む女性のほか、未婚の女性も含まれていて、結婚しなくても子どもを授かる方法を探していたところ、サイトの存在を知り、提供者の素性や経歴に不安を感じながらも利用を決めたとしています。

ほどんどの場合、金銭の要求はなく、精子を入れた容器を、シリンジと呼ばれる針のない注射器と共に受け渡されることが多いということです。

個人による精子提供について、日本産科婦人科学会は、ガイドラインで医療機関に課せられている洗浄や検査などが行われず、相手の女性が感染症などにかかるリスクが高いことや、匿名で行われるため生まれた子どもにとって父親を確認する手段がなく、倫理的にも問題があることを指摘し、女性が利用しないよう呼びかけることにしています。



このニュースについて、どう思うだろうか。

私なりに思うところはあるのですが、なんというか、正解がないのでなんともいえない。

明言を避けるというか、意見を言うのも憚られる。

が、なぜか、このニュースを読んで、涙がでそうになった。なんだろうな、この感覚は。

ここ数年で最も動揺したニュースかもしれない。

サイト数40って、かなりの数だし、

“ほどんどの場合、金銭の要求はなく”とあるように、ビジネス的なことだけじゃないと思うんですよ。

感染症のリスクが高いので利用しないでくださいというのは間違いない。でも、それだけでは片付かないような気がする。

うまくいえないけど、人の想いというのが内在していて、表面的な倫理や道徳だけでは動かない"重さ"がある。


結婚しなくても子どもを授かる方法を探していたところ、サイトの存在を知り、提供者の素性や経歴に不安を感じながらも利用を決めたとしています。


一体、どんな想いで検索したのか。

わかるはずもないのに、検索する姿を想像してしまう。

検索。検索するということ。

インターネットが好きで、これまで無数の検索を行ってきた。多くのサイトを訪れてきた。

暇つぶしでネット検索することもあるし、切羽詰まって何かを調べることもある。

「ネット上でサイトと出会う」。

それは偶然の出会いだけじゃない。

求めて、調べて、選んで、出会う。

大げさな言い方かもしれないけど、それが「検索」だ。

"検索"って、検索する時点で、ほとんどが決まっている。

「何を検索するか、どのように検索するか」、この時点ですでに、どういうサイトと出会うかのほとんどが決まってしまう。

此方側から“求めて、調べて、選ぶ”のだから、それは当然なのだけど。

「検索結果」以前の、「検索前の想い」。これが検索のすべてといってもよい。

その想いが強ければ強いほど、検索の結果は変わってくる。

一体、そこには、その検索には、どのような想いがあったのか。

既存の倫理や道徳では量れない、一筋縄ではいかない。

考えても意味が無いし、考えること自体、分不相応な気もするが、

考えずにはいられない、"人の、大事なナニカ"がこのニュースには在るんじゃないだろうか。


NHKのネットニュースはリンク切れするので、いまのうちに読んでおくといいと思います。


ある種の「暴力的なもの」を欲しているなら解放させよう!


ある種の「暴力的なもの」を欲しているという話。

「暴力的なもの」とは、腕力や物理的なことではなく、『ねじふせる力』ということ。

例えば、うだうだ文句を言ってくる人、自分の周りにいませんか?

ケチをつけてきたり、世間がどうのこうのとか、そういう意見。

そういった意見を“ねじふせたい”と思いませんか?

“有無を言わせない”、というやつです。

常々、こちらのブログでは『数字って大事だよな』という話をしている。

職場でこんなこと言う人いませんか?

「数字で示せ」「数字で結果がだせていなければ意味がない」。


これはまさに、数字の力を活かした、暴力的なやり方。

「数字で結果をだせていない人」には、「そりゃあキミ、口だけだよ」と。また、「数字で結果を出している人」には、ケチのつけようがなく、実際に結果を出しているのだから、何も言い返せない。

他、議論の際、「合理的な論理」で責めてくる人いませんか?

「合理的にこうであるから、こうだよね?」という論調。

合理的であるから間違いがなく、何も言い返せない。これもある種、暴力的だといえる。

……とまぁ、そういった“暴力的なもの”、強引な手法が世間を闊歩している。

そういう者は、強い。下品であっても、強い。周囲は言い返せないから。というか、誰も言い返せないような、自分に有利な環境を、自分自身の手で作り出している。


さて、私自身、キミ自身ににそういう『欲求』があるか?という話に移る。



暴力性を開花させてみよう☆



そのような「暴力的なもの」、相手をねじふせたいという欲求はあるでしょうか?

バカにされたり、うだうだケチをつけてくる人に、「有無を言わせない形で見返してやる」という復讐心はあるでしょうか?

「暴力的なもの」を活かした、残忍な手法で相手をねじふせたいという感情はありますか??

また、それを「下品」だと思いますか?「人にやさしくない」と思いますか?

『暴力的に相手をねじふせたい』、万人がそうであるとは限らない。

やさしい人というのは、虫も殺せないほど、やさしい。

「相手を論破してやろう」などという攻撃性をもっていない。

それはその人の性分であるし、そのまま「やさしくあり続ければいい」と思う。誰に迷惑をかけるでもない、なんら問題はない。

が、私がいいたいのは次のことだ。次の人に対してだ。

「本当は、『暴力的なもの』を自分は欲している。心の奥底に黒い感情がうずまいている。だのに、それを我慢している。『やっちゃいけない』と。が、どうだろう?一度、それを解放させてみてはどうか?己の暴力性・残忍性に目覚めてみてはどうか?」



暗い青春時代、「もっと力がほしい」と思っていた(^_^;)



根暗の、くら~い青春、思春期のころ、私は、「力がほしい」と思っていた。殺伐としていた。

これは、おそらく私だけじゃないと思うので書き連ねるが、

世の中というのは、「自分の思い通りにいかない」、

そんなことは当然であるのだが、若い頃は、「世の中はもっと自分の思い通りにいくものだ」と思っていた。

もっと生きやすくて、やりたいことができるものだと思っていた。信じていた。

ところが、現実はそうではない。そうではなかった。“理想と現実”、というやつだ。

結果、「いらだち」が生まれる。うまくいかない、と。

そしてこう思うのだ。

もっと思い通りにいくように、世の中を変えられる力がほしい、と。

『理想』と『現実』のズレを埋めるために、『理想』を変えるのではなく、『現実』のほうを変えようとする。


これが、『暴力的なもの』を欲する心へとつながっていく。

が、正論を述べるならば、理想と現実のギャップを埋めるためには、「現実」のほうではなく、自分の「理想」を変えるべきだ。

「自分の理想がこうであるから、現実をこうする」のではなく、「現実がこうであるから、理想が生まれる」。

現実は変わる、変えることができる。

が、その手順は、まず現実を見極め、分析し、そうすることで生まれた理想を実現化していくもの。「まずは敵を知れ」という正論でもある。



消化不良:一度すべてだしきる



が、無難ではつまらない。

生きているのがつまらないなら、無難ではもっとつまらなくなる。あるいは、妥協点を見出し、慰めて終わり。

一度、すべて吐き出すべきだ。

潜在的に眠っている自身の暴力性を、開花させてみる。

うまくいかないなら、自身の暴力性、数字や合理性といったもので相手をねじ伏せる。

そのあと、どうなるかは知ったこっちゃない。なるようになれ、である。


が、私はそれで、悪い方向にいくようには思えないのだ。

「本当はこうしたい」という欲求が、心のどこかにあるなら、それを一度すべて吐き出したほうがいいと思っている。

すべてを出し切り、一度まっさらにすることで、つまりは「脱皮」であって、新たな自分を見いだすことができるんじゃないか。


が、自身に眠っている「暴力的なもの」が目覚めることによって、失うものもある。多大にある。

『そういうヤツって迷惑だよな』
ということ。

数字や合理性といったもので論破、ねじ伏せてくる人って、正直、うざくないですか?

また、人を傷つける可能性が多分にあり、「なりたくなかった自分になっている」がある。

自分の暴力性を解放させても、おそらくいいことなどない。

それは破滅への一本道かもしれない。

が、それでもそうすべきであるのは、

私(ひょっとしたらキミもそうかもしれないが)、どこか自分の人生がつまらなくて、消化不良、不完全燃焼であるから。

なんだか、つまらないんです。退屈なんです。

生きているけど、燃焼的に生きていない。

"燃え尽きる"という感じがしない。

消えないように、弱火を保持するように生きている。

やめてしまいたい、いろいろとやめてしまいたくなる。

だったら一回、ぜんぶだしてやればいい。だせばいい。

たとえ、不潔で下品であっても、本当はこうしたいと思っていること、本当の自分をさらけだしてみる、やってみる。欲求を全部だしつくす。解放させてやる。


そうでもしなけりゃ気付けないことがある。

そうすることで見つけられることがある。

このまま何もしなかったら、何も変わらない。

これまでと同じで、ずっと「なんだか、つまんねぇな」と思って、不完全燃焼なまま。

だったら、不潔で下品であっても、自爆的であっても、自分をだしてみる。

「現実と理想」という正論なんて、そのあとだ。

「生きてるのがつまんねぇ」などと思っている者が、一体何を気取って、正論なぞ言えよう。説得力がないだろうと私は思うのです。



***


さて、今回も、馬鹿が馬鹿な文章を綴りました。

今日の空は青々と透き通って、なんだか、みずみずしいです。

随分な者です―、@ryotaismでした。




中二病と言われる前に、先に自分から名乗ってしまおう!


こんばんは。どうもこんばんは。

『他人に笑われる前に、自分のほうから先に笑う』という防衛術があります。

何か失敗してしまったときに、「失敗しちゃった~」とか言って”笑って誤魔化す”

あるいは、上司に怒られたあと、「怒られちゃったよ~」とか言って、へらへらと笑ったりするアレです。

これらは、自分の失敗やドジが人に笑われてしまう前に、自分のほうから先に笑ってしまうことで、人に笑われることを事前に回避しようとする防衛なんですね。

どうにもナサけない話ですが、この防衛術を少しプラスにとらえてみようと思います。

「笑われる前に、笑ってしまえ!」

ではまいりましょう。



中二病と馬鹿にされる前に、先に名乗ってしまえ



このブログを普段から読んでいる人はお気づきかと思います。

ボクは、自分で自分自身のことを「カス」「クズ」「虫けら」と言ったりします。自分のブログのことを「自己正当化ばかりの厨二病ブログ」と言って価値を下げます。とことん、自分で自分を卑下します。

なぜか?

ボクのブログを読んだ人から、「つまらない」「何を偉そうに言ってるんだクズ」と批判される前に、『わかってるよ、自分でもわかってるよ、そして、日頃からそうであると公言しているよ』という防衛であります。

もし、他人からこのブログを批判されても、ダメージを最小におさえられる。

なぜなら、普段から「そうである」とボク自身が公言しているからです。

『他人から言われる前に、自分のほうから先に言ってしまう』

このような、情けない狡猾な男がボクです。マジでクズです。死ねばいいと思う。

でも、まぁ、どうでしょう?

……例えばそうですね、ちょっと例を。

童貞だとします。

自分が童貞だとバレてしまうと、笑われてしまいそうで、隠そうとします。

そんなつまらない不安を抱いて生きるよりも、自分のほうから先に言っちゃうのです。

「実はボク、童貞なんですよ、ははは!」、と。

こういう人っていますよね?

自分のほうから先に、「自分のダメなところ」を告白しちゃう人。言われる前に、自分から言ってしまう人。


コレ、うまい防衛術だと思います。

たとえ自分のほうから告白して他人にバカにされたとしても、隠してあとからバレて炎上するよりも、被害を最小でおさえられるんですね。

仕事の場面でも、こういったことはよくあります。

仕事の“ホウ・レン・ソウ”ってあるかと思いますが、

隠したいことほど、報告すべきです。連絡、相談すべきです。


その瞬間は、上司に怒られるかもしれない。

でもあとから問題が発覚して大目玉くらうよりも、先に自分のほうから報告して謝ったほうが被害が最小でおさえることができる。

自分の中のダメな部分を自分の口から言ってしまうことで、

後で何かがあったとしても、

「ああ、アイツは前から自分で言ってたもんな、私が言う以前に。」というふうになります。



自分のことが理解できてこそ~先手を取る~



「批判を覚悟の上で」などというスマートな前置きをすると、余計に批判されることがあります。

「批判されても仕方ない」というスタンスで、「間違っているのは自分です、批判するアナタは悪くない」というほうが、傷つかなくて済む。傷つけられずに済む。

決して開き直らず、「間違っているのは自分です」と先に言ってしまうこと、"先手をとってしまうこと"。

ここでポイントなのは、『自分は傷つかない』という保身的な態度であるということです。

『笑われる前に、笑う、笑って誤魔化す』

こういった防衛術は、他人から高い評価を得ることはできません。

が、他人がどうこうよりも、まずは自分が傷つきたくない。

他人に笑われてしまう前に、自分のほうから告白してしまう、そうすれば傷つくことを減らせる。

あくまでも自分を守る術であって、他人の評価を得る技術ではありません。

そもそも、カッコ悪いやり方ですよね、こういうのは。カッコイイとはいえないでしょう。

他人の目を気にするがあまり、他人から評価を得られない。

やはり、「他人の目なんて気にしないぜ!他人に何を言わようがオレは気にしない!」というほうがスマートでカッコイイ。男前。

でもボクはこうも思います。

自分で自分のことがわかっているからこそ、自分のダメなところを公言できるのではないか?

たとえばボクは、自分が中二病であることを理解している。イタいやつだという自覚がある。

だからこそ、こういった防衛術を使える、先手をとれるのではないか。

「中二病と言われる前に、先に自分から名乗ってしまおう」、そうすれば馬鹿にされることもないだろうと、狡賢くひらめいてしまうのは、自分自身を理解しているからです。理解できていなくては、こういった芸当はできないのではないか。

自分のダメな部分を、自分なりに把握できているならば、

それを公言する、告白してしまえば、心配事を減らすことができます。

ボクはこういった、弱者の戦術をカッコ悪いことだと思いません。

先手をとること、

自分のダメな部分を左右するハンドルは、自分で持っておく。

自分自身がどのような人間であるか、自分がどのように他人に思われるかを知っているからこそできる。知っていなくてはできない。


ある種の、知恵みたいなもの、適応能力、生存能力ともよべますね。

ダメな部分や恥ずかしい部分を、自分で理解しているならば、先に自分から言ってしまう。

その場、その瞬間は、笑われるかもしれない。

でも、先手をとっている。

自分のさじ加減で調整することが幾らか可能です。

笑われる前に、そんな自分を相手よりも先に笑ってやれ。


***


今日も、今日とて、こんなブログを書いてしまいました。

……先輩、見てるんでしょ?

情けないボクを笑ってるんでしょう?

そのたび、ボクは息が苦しくなる。やめてくれ、許してくれ。許してください。

今日は早く寝る。@ryotaismでした。



剛力彩芽『あなたの100の嫌いなところ』に俺たちは釣られている

あなたの100の嫌いなところ(通常盤)

剛力彩芽さんがセカンドシングルを出す。2月26日発売予定。

曲はこちら。


『あなたの100の嫌いなところ』


もしやオレ、釣られてるんじゃないか?

前回、「剛力彩芽『友達より大事な人』への低評価と陰謀論」というブログを書いた。(※今回も例のごとく、妄想を書き綴る厨二ブログです) 今、あらためて読み返してみて。 『オレ、もしや釣られてるんじゃないか?策にハマっているんじゃないか?』 前回のタイトルが『友達より大事な人』、そして今回が『あなたの100の嫌いなところ』。 どちらも、どこか挑発的なタイトル。 これはまさに、「2chまとめ」などで散見される“釣りタイトル”と似ているではないか? タイトルだけではない。 前回の楽曲の「歌詞」についても物議をかもしていた。 今となっては、「実は話題性を煽るための確信犯的なひっかけだったんじゃないか?」とすら思われてくる。 作詞作曲は、前回同様、いしわたり淳治、Ryosuke“Dr.R”Sakai。 このコンビに私はヤラれてしまったんじゃないか。 策士。彼らは「巧妙な策士」ではないか。 まんまと、その策に私はハマってしまったのである。 完全に釣られてしまったのである。

“話題性をつくる”ということ

友達より大事な人(初回生産限定盤)(DVD付)
「話題性をつくる」ということ。 「良し悪し」ではない。 たとえ楽曲が悪くても、「話題性」があるということ。 そこに重点をおいた楽曲提供が行われているのではないか? Youtubeの評価などをみても、賛否がまっぷたつにわかれている。 良し悪しは別として、賛否両論で盛り上がっている。 そこに狙いがあったんじゃないか。狙っていたのではないか。 だとするなら、思惑通りじゃないか。成功している。 そして、それに気づかずにまんまと釣られている大人(特にオレ)。 ヤラれた、と思ったよ。ほんと。偏差値2くらいだよオレ。 「いやいや、考え過ぎでしょ…そんな裏の意味とかないよ」って、 たしかに私の暴走的妄想かもしれない。 しかし、どこか“炎上マーケティング”の様であり、結果的に、“釣られている”人が多いように感じるのは私だけか。 何かと“プロペラダンス”や、今回の“ガオガオダンス”が引き合いに出されるが、それに関して私は別段思うところはない。 「ユニークなダンスだなぁ」くらいにしか思わないのだが、これに関してもやはり「話題性」をつくりだした。 繰り返すが、『良し悪し』ではない。 『良し悪し』について論ずるべきではないし、そんなところにベクトルは向いていない。 『話題性をつくれるかどうか』、だ。 多少陳腐であったとしても、“陳腐さ”そのものが話題となるなら御の字だ。 AKBよりCD枚数をだせるか?だせないだろう、おそらく。 きちきちに詰まっているJ-POPの中に、隙間はあるか?ほとんどないだろう。そんな中で、どうやったら興味をもってもらえるか? 書店にずらりと並ぶ書籍から、人はタイトルを基準にして手に取るように、「本の中身」ではなく、まずは手にとってもらえるような工夫がこらされている。 そしていざ手にとって読んでみると、良くも悪くも「なんだコレ?」である。 批判する者もいるだろう。「いや、そんなことない」と云う者もいるだろう。 いずれにせよ、少しでも「話題」になるような要素がある。 スルーしようにも、何かツッコみたくなる要素が彼女の歌にはあって、無味乾燥であっても、言及したくなるタイプの“無味乾燥”を備えている。どこか変なのだ、いい意味で。 楽曲の良し悪しとは別に、一先ず話題性をつくりだすことに成功をしている。 剛力彩芽の歌は『話題性をつくる』ということに非常に長けている。 そのように感じた、また、そのような見方をすれば、実に面白い楽曲ではないだろうか。 *** またしても妄想を書いてしまいました。 読者の方にはいつもご迷惑をおかけします。 が、私は剛力彩芽の歌という薄氷にのることにした。 ファースト、そしてセカンドシングルを聴いて、「おもしろいな」と思ったんだよ。「釣られてもいい、おもしろいよコレ」って。 以上、@ryotaismでした。

音楽関連の記事

「ガチで読んでよかった!」と思った本(1月)


先月1月に読んだ本は以下6冊。



なかんずく、ガチで読んでよかった本を挙げます。




「ガチで読んでよかった」と思った本(1月)



『蒲団・重右衛門の最後』



Kindle書籍を購入後、文庫本のほうも買いました。

電子書籍と文庫本、両方買ってしまうほど、手元に置いておきたい作品でした。

自然主義文学、私小説。

『蒲団』は氏の代表作であり、知名度の高い作品ですが、僕個人としては『重右衛門の最後』のほうが好きです。

自分が主人公になるのではなく、主人公を“客観視点で眺めている”

これって、『蒲団』とは逆の構造になっていて、両作を比較して読むと面白いです。

本作は、「しゃべることはあるか?」のほうで感想を述べました。(▶ 田山花袋『蒲団・重右衛門の最後』を読んで - しゃべることはあるか?



『一冊の手帳で夢は必ずかなう - なりたい自分になるシンプルな方法』



今年は手帳を買おうと思って。

でも全然知識がないものですから、まずはこちらを読んで、「どういったものを買うか」「どのように利用するか」の参考としました。

「手帳はカレンダーに予定を書き込むだけ」と思っていた自分はなんと無知だったろう。お恥ずかしい。

そうではなく、目標やToDoリスト、新聞のスクラップ、感銘を受けた言葉などを書き込み、何度も見返すことによって、行動を実現させるツール。

そういったノウハウが書かれていて、大変参考になりました。

“手帳は、仕事や時間を管理するためだけのものではな い。 夢や、人生をマネジメントするものだ。”

手帳を利用している人は、読んでみて損はないと思います。おすすめです。

手帳に関しても、動画でしゃべりました。(▶ システム手帳とは? - しゃべることはあるか?)



『夢をかなえるゾウ』



200万部を突破したベストセラー。

発売時、本屋で立ち読みをしたことがあるのですが、Kindleオーナーライブラリーにて公開されていたので、購入しました。

さすが人気作、読みやすく、おもしろかったです。

小説風に書かれているので、主人公とともに成長していくような感覚がありました。(そういえば先日、こんなニュースがありましたね。人は小説を読むことで、脳に長期的な影響を与えることが判明(米研究)

ガネーシャは自信満々にこう言います。

「今からワシが出す簡単な課題さえこなしていけば、お前は確実に成功する――」。


主人公とガネーシャの漫才のような掛け合いにより、最後まで飽きさせない作りとなっています。

一般的な自己啓発書よりもリラックスして読むことができ、レビュー評価の高さも納得がいきました。



この世でいちばん大事な「カネ」の話



こちらもKindleストアにて購入。

“お金は汚いもの”、そんな漠然とした倫理観をもっている人は読んでみるといいかと思います。

お金の素晴らしさではなく、「お金がないとこうなるよね?」「お金があるとこうなるよ?」ということが書かれています。

“「やりたいことがわからない」、その問いに向き合うためには「カネ」という視点を持つのが、いちばん、シンプルに見えてくるものがあるんじゃないか。”

“「どうしたら夢がかなうか?」って考えると、ぜんぶを諦めてしまいそうになるけど、そうじゃなくって「どうしたらそれで稼げるか?」って考えてみてごらん。 そうすると、必ず、次の一手が見えてくるものなんだよ。”


本作の印象に残った箇所は、ブログでまとめましたので、一度ご覧ください。(この世でいちばん大事な「カネ」の話:読書感想


***


2月も色々と本を読みたいのですが、少々時間が足りない。

仕事の合間に、Kindleをうまく活用していきたいと思います。

以上、@ryotaismでした。




「あの人は今でも私のことが好き」と思い込んでしまうのはなぜか?


たいへんおもしろい記事だったので、ブログに書いてみる。


よくあることだ。

別れた後でも、『あの人は今でも私のことを好きなんじゃないか?』と思ってしまうこと。

が、そんなものは思い込みに過ぎない。

問うたのか?問うていないだろう。

だのに、なぜ、このような思い込みをしてしまうのか?

モテない私が書くなぞ愚の骨頂であるが、こういうことじゃないか?


付き合っていた頃の私の記憶



付き合っていた頃、カレ(カノジョ)は、何度も、何回も、私のことを「好きだ」と言っていた。

「好き」と言われることがうれしかった、喜んでいた当時の私。

その記憶が別れた後も残っているのだろう。

『好きと言っていたカレ(カノジョ)』と、それに『喜んでいた私』の記憶。

「あれほど好きだと言っていたのだから、そう簡単に嫌いにはなれないだろう」と推測する。

なぜ、そのように独断で推測してしまうのか?

「あれほど『好きだ』と言っていたのだから、今でも好きだろう」と
別れた後でも思ってしまうのは、「あれほど好きだと言っていたから」ではない。

『喜んでいた私』の記憶とむすびついているからではないか?


カレ(カノジョ)の「好き」という言葉に、パブロフの犬のごとく反射的に喜んでいた当時の私が抜けきっていないのだ。

「カレ(カノジョ)の好きという言葉」⇒「喜ぶ私」、このような記憶が濃く染み付いており、

「元恋人はいまだに私のことが好き」と思うことで、「喜んでいた私」、正確には『喜びという感情』をリフレインする。味わっているのではないか。



ヒトに愛される安心



“愛される”ことは心地良い。

なぜ、“愛される”ことは心地よいのか?

“愛されない”ことが恐ろしいからだ。

ここでいう“愛される”とは、「好きな人から“愛される”こと」ではなく、「ヒトに“愛される”こと」である。

「自分の好きな人から愛されていない」恐怖ではない。

対象が個人ではなく、あくまでヒト。

「ヒトに愛されないこと」が恐ろしい。

「だれからも愛されないことは怖いこと」、こう述べたほうがわかりやすいかもしれない。

元恋人なんて、付き合っていた頃と比べれば、どうでもいいだろう。

元恋人になった時点で、『ヒト』なのだ。恋人ではなく。

が、元恋人であろうと、ヒトである。

ヒトに愛されることは心地よく、ヒトに愛されていない恐怖から逃れることができる。

この安心は恋人でなくとも得られる安心である。

恋人ではないので、基本どうでもいいのだが、「あのヒトは今でも私のことが好き」、そのように思うことで得られる安心がある。元恋人はヒトであるから。



いざというときの保険


「元カレ(元カノ)と連絡をたたないのは、いちおう保険のため」

道徳上とがめられるので、言葉では発しにくいし、発したくもない。

が、そのような心理が、実は本人の中にあるのかもしれない。

“50歳になって一人ぼっち”が嫌なのかもしれない。

“元の鞘にもどる”なぞいう言葉があるが、“帰れる場所がある”ことで、安心を得られる。

言い方がクズであるが、「貴重な保険」である。

また、性欲ある男子にとって、「性交したいときに性交できる相手がいる」というのは、安心と保険となる。

道徳上、クズであるが、人間にはそういったクズの側面がある。

「相手がまだ自分ことを好きだ」と思い、保身に勤しむ。


別れた後は、確認する必要がない



付き合っているときは、「相手の気持ちを確かめたくなる」ものだ。

カップルがイベントやプレゼント行事を大事にするのは、都度、「私とカレ(カノジョ)」との距離を確認するためである。


付き合っていた当時は、「私のことが好きであるか?」を定期的に確認していた、確認する必要があった。

なぜなら、「私のことを好きでない」なら、恋人という関係性が崩れてしまう。

相手と自分がどういう「関係」であるか、どの程度の「距離」があるか、それを把握できていないと、「ヒト」一般になってしまう。つまり、恋人でなくなってしまう。

「付き合っている」というのは、両思いという、相互の『関係性』があること。

しかし、別れてしまった今、そのような関係性の維持と確認の必要はなくなった。

別れているのだから(好きではないのだから)、相手の気持ちを確認する必要がなくなった。

また、別れた後は確認する術もなく、「まだ私のこと好き?」などと好奇心で聞く者も少ないだろう。

その為、都合のよい独善的発言につながりやすい。

「相手の気持ちが不在」であるから、「それ間違っているよ、そんなこと思っていないよ」と否定されることがない。


こちら側のさじ加減で、自分の都合で相手の気持ちを想定してしまいがちになる。

付き合っていた頃は相手の気持ちを確認する必要があったが、別れてしまった今では、その必要がない。

「まだ私のことが好きだ」と思い込んでも、なんら問題ない。別れているのだから、確認しなくてもよいのだ。


***


「別れたけどまだ私のことが好きなんじゃないか」的思考のほとんどは、そうであると心地がよいからだろう。

が、実際のところ、ほとんどはそうではない(おそらく)。思い込みである。

さっさとすべて忘れ去って、元恋人など完全に無視して、次へと向かうのが得策である。

「なんだかんだ、忘れられないんだよね…」と言うならば、これはまた別の話であるが。

以上、モテないやつが恋愛を語って怒られる典型、@ryotaismでした。





Evernoteで共有(一般公開)している記事を検索する方法


今年から「4行日記」を始めて。

週ごとにノートを読み返し、重要なところをEvernoteにまとめて保存しています。

Evernoteの利用頻度が高くなった最近ですが、

保存した記事を「共有状態」にしてあると、URLさえわかれば誰でもその記事を閲覧することができます。

他人に見られたくない記事は、[共有]を解除しておく必要があります。

「そういや、Evernoteに保存したノートの中で『共有(一般公開)』されているものを一発で探し出す方法があったような・・・」


すっかり忘れてしまったのですが、思い出したのでメモ。



「共有(一般公開)」している記事を検索する


結論からいうと、すごく簡単です。

Evernote内の検索窓に、[sharedate:*]を入力して検索すれば、共有している一般公開記事が表示されます。

以上です。簡単すぎてすいません。。。


検索キーワードとして保存しておこう!


が、この[sharedate:*]というキーワード、ついつい忘れちゃいますよね?

なので、この検索キーワードを保存しておく。

検索窓にsharedate:*と入力すると、下記画像のように[この検索を保存]があらわれるので、早速、保存しておきましょう




こうすることで、次回からは、検索窓から[sharedate:*]を呼び出すことができます。便利ですね。



記事の[共有]を停止させる方法


続いて、[共有]している記事を非公開にしておきましょう。

やり方は、これまた簡単です。

非公開にしたい記事を開き、[共有]ボタンから[リンク]を選択。

[共有を停止]をクリックし、最後に、“本当に停止しますか?”と問われるので、再度、[共有を停止]をクリックすれば完了です。



※再度、記事を[共有]したい場合は、同じように[リンク]からできます。


***


Evernoteは非常に高機能ですが、どんどん記事がたまっていくので管理が大変です。うまく活用していきたいですね。

それでは。@ryotaismでした。



こちらの記事もどうぞ♪






がんばっても許してくれる世の中に感謝する、臆病者の話。


先日読んだ本にこんな言葉が書いてあった。

『毎日感謝しなさい』

よく耳にする言葉ですよね。

ボクの母親も、事あるごとに言ってきます。

今まで、斯様な言葉はスルーしてきたのですが、なぜかふいに考えてしまう夜があった。

“一体、何に感謝しろと??”

感謝する『対象』がなければ、感謝できませんよね?

さらには、感謝する『理由』がなくては、感謝できませんよね?

ボクにはどちらもないよ。

感謝する対象も、理由も、ボクにはない。

どうすれば「感謝することができる」のか?

それを今回の主題としてみるわ!



この世の中は、『がんばっても許してくれる世の中』だ



マジメな話、

ボクみたいな卑屈な人間は、がんばる資格すらもないんじゃないかって、本気でそう思うときがある。

「がんばることに資格なんていらないよ」とキミはいってくれるけど、

ボクはついつい思うんだよ、問うてしまうんだよ。

「がんばってもいいのかな?」「がんばってもいいですか?」って。

「オレなんかが、がんばってもいいのかな?」という不安が自分の中にあって、「がんばってもいいですか?」と一言問わないと、なんか変な感じになっちゃうんだ。

「がんばっても何もできないのだし、下手にがんばったら怒られるんじゃないか?目立ったらダメなんじゃないか?」という不安がある。


周りを気にして、がんばることを躊躇する。

引け目がある。自信の無さ、不安が根本にある。

で、問う。「がんばってもいいのかな?がんばってもいいですか?」って。

そしたらね、だいたいの人はこう言うんだよ。

「いいよ、がんばってもいいんだよ」って。

ボクはそのとき、こう思う。

『ああ、ボクはがんばっているんじゃない、がんばらせてもらっているんだ』

おかしな言葉使いで申し訳ないのだけど、“がんばらせてもらってる”

実はね、

この世の中ってのは、実は、『がんばっても許してくれる世の中』なんだよ。


「いや、当たり前だろ。バカなの?キミ、バカなの?」

って、キミはいうけどさ、

ボクみたいに卑屈で、劣等感があって、世の中に引け目を感じていて、根性なしの、他人に怯えて生きている弱い人間の心理って、そういうとこあるんだよ。

『目立たずに、ひっそり隠れていなきゃいけない、がんばっちゃいけない、がんばったら迷惑をかける、怒られる、怖い』

そういった、めそめそした、恥ずかしい程に弱々しいハートであるから、がんばることに引け目を感じてしまう、他人を気にしてしまう。

でも、繰り返す。

この世の中ってのは、実は、『がんばっても許してくれる世の中』なんだよ。

だれの許可もいらない。

でも、“がんばる”ってことは、“目立つ”ってことだ。

そこで、「ボクみたいな奴が目立ったら怒られるんじゃないか?」という不安が生まれるわけだけど、

それは所謂、“自意識過剰”とよばれるものであって、

自分が思っているよりも、他人は自分のことなんて見ていないのが現実。

がんばっても別に誰も見ていない、世の中はそういうものであり、
仮に何か言ってくる人がいても、そんなものは少数であり、大多数はむしろ応援してくれる、そうであるからこそ、世の中は『がんばってもいい世の中』として存在している。

「がんばることを許してくれる世の中」なんだよ。



他人の目線を気にする臆病者がもつ個性



でもさ、いくら、「がんばってもいいんだよ」と言われても、

ハートの弱いボクみたいな奴は、やっぱり病的に他人に気をつかってしまって、「ボクみたいなのががんばってもいいのかな?」と不安に思ってしまう。

だから、がんばったとしても、申し訳なさそうにがんばってしまう。やっぱり引け目がある。

それでいい、とボクは思うようになった。

がんばるとき、がんばるときでさえ、謙遜しながら、申し訳なさそうにがんばってしまう。

“申し訳なさそうにがんばってしまう”、こういった性格は、『感謝』する心を生むんじゃないか?


『がんばっているんじゃない、ボクみたいなやつは、がんばらせてもらっているんだ』、と。

「感謝」なんてのは、しようと思ってできるもんじゃない。

自らの足りないところを肯定してくれたとき、人は無条件に感謝する。感謝ができる。

「俺みたいなクズでもがんばらせてもらえている」、そういう気持ちが生まれて、感謝する、感謝したくなる。


ところで。

ボクは、他人の目線や評価を気にするし、嫌われたくない。

そんな弱い奴は見ているだけでウザいし、「じゃあさっさと死ねよ」「そんな弱いハートで生きていけるわけねぇだろ虫けら」って話なんだけど、

ボクはね、そういうやつほど感謝ができる性格なんじゃないか?って。

たとえば、だれからも優しくされてこなかった人間は、ほんの少し他人に優しくされただけでも嬉しくて泣きたくなる。

これと同様に、

「がんばらせてもらっている」って、なんだか大げさに聞こえるけど、たったそれだけのことでも、ありがたくて、うれしくて、感謝してしまう。がんばることですら、何か申し訳ない気がしているから。

「他人の目線なんて気にするな」って彼奴らはいうけど、それによって失う個性がある。

他人に怯えて生きる人がもつ個性がある。

ボクはそのひとつに、「感謝」があるんじゃないかと思っている。


『申し訳なさそうにがんばってしまう性格』、そこには感謝できる資質がある。つまりは、感謝のできる人間だってことだ。



***


以上。

先輩、

先輩は、「おい、お前、また自己正当化しやがったな。救いようないやつだなお前は」って、鋭い言葉で心臓をひと突きしてくるけど、

先輩、忘れたんですか? 俺、先輩に教わったんですよ、これ。

ではまた。@ryotaismでした。