売れてない人が「カバー曲」で気をひこうとすること


売れてない歌い手さん、駆け出し中の歌い手さんが、

すでに売れている楽曲をカバーすること、歌うこと。

たとえば路上やライブで歌ったり、たとえばYoutubeに動画をあげたり。

いまさら言うまでもないのですが、

すでに認知されている有名楽曲であるから、人の気をひきやすいわけです。

どう思いますか?こういう"戦略"について。

これはもう、戦略といっていいんですよ。たぶん。

本人は戦略とは呼ばないでしょうが、何かしらの意図があって、カバーしているんじゃないでしょうか。

彼ら自身が作成した「オリジナル曲」もあるんですよ。それを聴いて欲しいという思いもある。

でも、自分のオリジナル曲っつったって、だれも知らないから、まずは認知度の高い有名曲をカバーして、注目を集めようとする。
あるいは、秀逸な楽曲を選抜し、ふんどしをかりる。

さて、かような戦略について、嫌悪感(不快感)、抵抗をしめす者がおる。

『オリジナル曲で勝負しろよ』
、という連中です。

『他人の歌をカバーするとか、それがキミの表現なのか?表現者とよべるのか?』

彼らは表現に誇りをもっています。

彼らのいう"表現"とは、【無から有を生み出す】が基本となっています。
したがって、カバーするなぞ、それに反する行いであって、表現者のなすべきことではない、というのです。


【無から有を生み出す】だけが表現ではない



“【無から有を生み出す】ことが表現の基本である”


まず、その価値観を疑います。

「そもそも完全なるオリジナリティなぞ世の中に存在しない」というのもあるのですが、、、

たとえばビジネスの世界において、新製品とは「2つまたはそれ以上の、すでに存在する製品を組み合わせること」が多い。全くの無の状態から新しく発明された新製品は、実際、少ない。

「すでにあるものとあるものをかけあわせて、新しいものをつくる」という行い。

ボクはこれも立派な"表現"、"創作"であると
考えています。

【無から有を生み出す】ことだけが表現ではない。

すでにあるものに何かを足す、少し手を加えるだけで、新しいものができあがることがある。


すばらしい楽曲なのに、めちゃめちゃ音痴の人が歌っている。その楽曲を歌のうまい人が歌えば、見違えるほど、変わることがある。

めちゃめちゃダサい幼稚な楽曲だが、かわいいアイドルが歌えば、「これもアリだな」と思えたりする。


【無から有を生み出す】ことが、最大の表現、至上の命題と唱えるかもしれませんが、表現の許容範囲はもっと広いもので、"少しでも新しい"のならば、それはボクにとっては表現に違いないのです。

【無から有を生み出す】ことだけが表現ではなく、【無に有を生み出せれば】、それは表現、創作であると思っています。


弱者の戦術と、その苦しみ



と、ここまで書きましたが、納得がいかない人もいるでしょう。

「わかるけども、そんなことはやりたくない」という思い。「カバー曲=純粋の表現」とはどうしても思えない。

「カバー=単なる模倣」という思いがあって、抵抗があって、求める表現とは異なり、満足ができないのでしょう。プライドみたいなものもあるのでしょう。

それは"強い人の考え方"だと思います。

自分のオリジナル曲っつったって、だれも知らないから、まずは認知度の高い有名曲をカバーして、注目を集める。そして最後に、自分のオリジナル曲につなげていくという戦略。

これはまさに、弱者の戦術です。

自分のオリジナル曲なんて、最初から誰も聴いてくれるはずがないと知っている。身の程を知っている。


有名曲をカバーするなぞ、本当にやりたいことではない。

しかし、まだまだ自分はたいしたことがない。人のふんどしをかりてでも、なんとか自分の歌を聴いてもらうために、泥水だって飲む。

人に笑われてもいい、生粋の表現者にあざ笑われてもいい、なんだってやる。自分のオリジナル曲を聴いてもらうために、プライドを捨てること。

表現者が、自分のプライドを捨てること、これ以上に残酷で辛いことはない。

【無から有を生み出す】ことが至上命題であることなど、本人はとうにわかっているのです。おそらく。

しかし、【無から有を生み出す】ような自分のオリジナル曲を聴いてもらうために、断腸の思いで、大事にしてきたプライドを捨て去る。切腹する思いで、自殺する。

ボクはその「苦しみ」を評価したい。

【無から有を生み出す】、自身のプライドや信念にこだわった、所謂、“生みの苦しみ”なんざ、正直、芸術家同士にしかわからないものです。もしくは、本人しかわからない「苦しみ」です。

他方、プライドや信念を曲げることの苦しみ、これは日常の中で多くの人が経験する、現実的な「苦しみ」です。


たとえば、仕事なんて、その連続でしょう。「やりたくないことをやならければならない」、とか。

芸術家によるシェア範囲の狭い「苦しみ」よりも、多くの人が共感できる「苦しみ」をボクは評価する。その「苦しみ」なら、ボクにもわかるからだ。

信念を貫くことは大変だ。でも、信念を曲げることはもっと大変だ。「正しさ」を主張することより、「間違い」を認めることのほうが大変であるように。


(多大なる思い込みは承知ですが――)カバー曲を歌うという行いに、そのような「苦しみ」あるのだとするなら、ボクは「いいじゃないか、カバー曲歌うの、いいじゃないか」と思うんです。


***

「カバー曲」を歌うということについて、思うところを書いてみました。

「もっとプライドを捨ててもいいんじゃないか?」と思うんです。そして、同時に、周囲はその行いをもっと評価すべきなんじゃないかと思うんです。

オリジナリティ至上主義者による、“生みの苦しみ”は、たいそうかっこよいけれども、カバー曲を歌う、歌わざるをえない人の苦しみのほうが、ボクにとっては現実的で、日常的で、しっくりくるんですよ。

以上、@ryotaismでした。

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新渡戸稲造『死の問題に対して』:読書実況


新渡戸稲造『死の問題に対して』を読みました。

短い作品ではありますが、密度の濃い内容でした。

例によって、"読書実況"を行いました。



『死の問題に対して』 読書実況








※音ズレや、うまく音読できていないところもあって、すいません。
※高画質、画面サイズ(大)での視聴をおすすめします。



読書実況:「中間の人」がいないということ



「読書実況」、まだ始めたばかりで、音ズレなど、うまくいかない部分が多々ありますが、やっていくなかで調整していこうと思います。とりあえず、噛まずにちゃんと読めるようにならないとな…。

地味な企画ではあるのですが、やりがいを感じております。

【本を読む人】はたくさん読む、他方、【本を読まない人】はまったく読まない。

【中間の人】がいないんですよね。

ここを埋めたいなぁと思う。

本なんて、そこそこ読む程度でいいとボクは思っています。

本ばかり読んでいては、他者の意見に飲み込まれて、自分の意見をもてなくなってしまう。かといって、自分の意見をもつには、他者の意見を吸収せねばならない。

そこそこ本を読む【中間の人】がもっと増えたらいいと思っています。

読書実況が、少しでもそういった層を増やすことにつながればいいと思います。

というか、それは建前なところもあって、ただ、楽しいからやるんだろうと思います。

以上、@ryotaismでした。




標準語を気持ち悪いと思ってしまう関西気質について。


ボクは三重県生まれ。

三重県というのは、少々トクシュで、「標準語」地方と、「関西弁」地方にわかれる。

ボクは奈良県よりの、「関西弁」地方に生まれた。そして、高校卒業後は京都で4年を過ごした。

結果、やはり、「関西弁」。

細かいことをいえば、本場の大阪弁などとはやはり異なるのだが、大きな括りでは「関西弁」である。

その後、ボクは関東に移り住んだ。7年が経過した。

先日、京都に住んでいた当時の友達と、都内で遊んだ。

彼は兵庫の人間であり、こてこての関西弁の持ち主。

そのとき、彼にこう言われた。

「めちゃめちゃ『標準語』になりましたね。なんか、気持ち悪いっすよ」

彼に悪気はない。ないのだが、関西の友からそういったことを幾度となく言われてきた。正直、辟易とする。

事実、私は関東に住んで以来、標準語を多々用いるようになった。

「~だね」とか「~だよ」とか、言う、普通に使う。

関西弁だろうが、標準語だろうが、別にどっちだっていいとボクは思っている。

かく言いつつも、関東に来た当初は、「~だね」とか「~だよ」とか、かなりの違和感があった。

ボクにもそういった時期はあった。だから、彼のいう“気持ち悪さ”はよくわかる。

が、周囲のほとんどが標準語であるのだから、おのずと自分もそのようなしゃべり口調となってくる。

何年住もうが、いつまでも関西弁である人はいる。が、やはりそういった人は少なく、いくらかは伝染ってしまう。

それを、半ば否定的に言われると、申し訳ないが、"うんざり"してしまう。


"伝わる"ほうを選択する



ボクは標準語が、ボクの“標準”だとは思っていない。

実家に帰省すれば、家族全員、関西なまりであるし、僕自身も関西弁を使う。

体の芯に染み付いているのは、やはり関西なまりである。

一方で、すべての場面ではないが、関東では標準語を使って話している。

単に、標準語地域であるからという理由だけで、それを利用しているわけではない。

先日、仕事が大変そうな友達に、ボクはこう言った。

「しんどそうだね。」

「しんどそうやなぁ。」とは言わなかった。


詳しいことはわからないが、「しんどい」という言葉は、どうやら関西で主に使われる言葉らしい。

「しんどい」は、ボクにとっては普通に使う言葉である。

「しんどい」が関西弁である一方で、「だね」は標準語。

ゆえに、歪、妙な言葉に仕上がっている。おかしな使い方になってしまっている。

が、重要なのはそこじゃない。そのように混ざってしまうのは仕方がない。

「しんどい」+「だね」、「だね」とボク自身が添えたところに意味がある。

ボク自身の感覚的な話、主観的な思いでしかないのだが、

「しんどそう『だね』」という言い方のほうが、やさしいのではないかと思ったのだ。

仕事に疲れていたその友人は、関東生まれ、標準語の人である。

その人に対して、「しんどそうやなぁ」と言っても、なにか、うまく伝わらないのではないかと思った。

(無論、そんなことばかり考えていては、神経がすりへってしまうわけで、実際のところは、ほぼ無意識に「しんどそうだね」とボクは言っていた。)

もちろん、どのように受け取るかは相手次第であり、人によっては「~だね」のほうが冷たく感じるだろう。

感覚的な話にもなるのだが、そのときボクは、「~だね」のほうが"やさしい響き"であるように思ったのだ。

「~だね」という標準語が冷たいわけではない、また、関西弁が冷たいわけでもない。

「どちらのほうがいいか」というのは、客観的に決めることなぞできない。

ボクが言いたいのは、標準語だろうが関西弁だろうが、どっちだってよくて、肝心なのは、『自分の思いを相手に正確に伝えられるほうを選択する』、ということ。

「~だね」のほうが、うまく自分の思いを相手に伝えられるなら、そちらを利用する。

ならば、「しんどい」という関西方面の言葉を使うのではなく、「大変そうだね」と、とことん関東圏にあわせるべきであるが、そこはいまのところ難しい。

標準語はボクにとっては“標準”ではなく、ぬけきらない関西なまりが、僕自身に染み付いている。

しゃべり口調を、都度、意識して使い分けるなど、到底できない。というか、そんなことをしていては疲れてしまう。

ゆえに、「しんどい」という言葉は無意識に使うし、今後もそうであろう。

他方、「~だね」という言い方も、使う。

その言い方のほうが、関東では伝わりやすいのではないかと思っているからだ。

関西弁と標準語がごちゃまぜになって、余計に伝わりにくいかもしれないが、それは自分の思いを正確に伝えようとする『過渡期』だと思っている。



関西弁へのプライドが強すぎないか?



関西弁を使う人の中には、「標準語」に対して、半ば、反射的な抵抗をしめす者がいる。

聞き慣れていないのだから、違和感があっても当然である。

しかし、中には、関西弁に"強すぎるプライド"をもっている人がいて、

関西人が標準語を使うこと、あるいは標準語自体を、小馬鹿にする者がいる。やたらと気持ち悪がる人がいる。


(※すべてではない、あくまで"一部"である)

関西の気質なのか、土着性の強い文化だからなのか。

なんの恨みがあるのかは知らないが、その一部は理解に苦しむ。

「ふるさとを愛する気持ち」が転じて、そのように思うのかもしれない。

それは素敵なことだと思うが、だからといって、それ以外の言葉に対して"排他的な姿勢"をとったり、標準語を否定的に語ることが、地元の言葉を愛することの証明にはならない。


生まれ育ったふるさとの言葉のほうが落ち着くのは当然だ。それ以外の言葉に抵抗を感じてしまうのはある程度仕方がない。

「関西弁が一番おちつく」、これはよい。

が、「関西弁が一番のしゃべり言葉」だと思うのはよくない。


問題なのは、「標準語が2番」だと思ってしまうことであり、自分の中で順番を決めてしまうこと、ランキングをつけてしまうことにある。

優劣などそこには存在しない。

言葉とは、相手に自分の思いを伝えるためのものであり、そこに軸をおいているなら、どの言葉を使ってもよいのだ。それが言葉というものだと思う。

関西弁を使いたければ、それを使い続ければいい。なにも、標準語を否定する必要はない。

ふるさとの言葉にしばられすぎて、その他の言葉をみくだしてしまうと、『相手に自分の思いを伝える』という最も重要な軸から離れていってしまう。

極端な例をあげると、英語しかしゃべれない人に日本語でしゃべりかけているようなもので、それでは一体、なにも伝わらない。

相手に自分の思いを伝えるべく、"伝えるために"、方言の許容範囲を広げ、言語の多様性を認めるべきだと思う。



***


最後に。

「は?三重県とか、そもそも『関西』ちゃうやん。そんなやつが何をえらそうに言ってんねん」

と思った人、それだ、それこそが本稿の肝である。

"そのプライドは何なのだ?"、と。

実は、しゃべり言葉云々ではなく、「プライドが強すぎて排他的態度に結びついていないか?」、という事ついてこそ、最も触れたかった。

以上、@ryotaism



地味ですが、【読書実況】を始めました。


腐れ野郎が地味なことを始めました。

ボクはゲームをやらない代わりに、Youtubeなどで"ゲーム実況チャンネル"をみることがあります。

おもしろいんですよね、ゲーム実況。

でも、ボクは子供の頃からゲームをまったくといっていいほどやらない。人がゲームをしているのを見るのは楽しいのだけど。

で、自分も何かやってみたいなぁと思って、

『読書実況』をやってみることにしました。


なんじゃそりゃ?、という感じですが……。

おそろしく地味、本当に"地味"で、アレですが、

本を読むのが好きなので、そして自分がやってて楽しいので、ひとまずはいいかな、と。

第一回は、比較的、親しみのある作品、芥川龍之介『羅生門』にしました。

言葉にするより、見てもらったほうが早いかもしれません。


【羅生門】 読書実況



【羅生門】 読書実況 Part1~2 
http://www.youtube.com/playlist?list=PLiNM0nxjipJUPZHM0R0jCBbQwsEx1wKyO



※パソコンの場合、画面サイズを大きくして見てください。また、パソコンに限らず、スマホなどで読む場合も、高画質でみることを推奨します。画面サイズ、画質レベル、いずれもYoutube画面から調整できます(下記画像参照)。


https://www.youtube.com/watch?v=WFQl74JU6vQ&feature=youtu.be
[歯車マーク]で画質調整、その右にある[□]で画面サイズを変更できる

***


どうです?地味でしょう!

「いったいダレガミルンダ!?」という感じでしょう!!

でもねぇ、、、本、読むの、楽しいんだよな。

第二回は、中島敦『山月記』を予定しております。

楽しみでしょう!ゾクゾクするでしょう!

以上、クズコンテンツ生産マシーン、@ryotaismでした。





貯金くらいしか生きがいがない、そんな時期があってもいい


こんばんは。

ボクには夢も目標もない。欲している幸福もない。

「何が楽しくて生きているんだろう?」と思うこともある。

本当は、夢や目標がほしい。でもみつからない。

このまま生きてて、何があるんだろうか?何がおもしろいんだろうか?

「毎日がつまらない」――、その一言で集約される。

旅にでる気力もない。あらゆることに、病的に無気力なのかもしれない。

精神的に幼く、こじれたまま大人になった。

――さて、こういった事情はボクだけではないだろう。

「生きがい」をもって生きている人なんて、そもそも少ない。

「生きがい」などと発言している時点で中二病、口にすればするほど「生きづらい」。

されど、考えずにはいられない「生きがい」。

おお、、、迷える子羊、人間。



「生きがい」とはなんぞや?



そもそも「生きがい」とはどういうものなのか?

辞書検索してみたら、激アツなのがでてきたので引用。

人生の意味や価値など,人の生を鼓舞し,その人の生を根拠づけるものを広く指す。〈生きていく上でのはりあい〉といった消極的な生きがいから,〈人生いかに生くべきか〉といった根源的な問いへの〈解〉としてのより積極的な生きがいに至るまで,広がりがある。生きがいは,漠然とした生の実感としてほとんど当人に無意識に生きられていく場合と,自覚的に人生の営みに取り込まれる場合とがある。


難しいこと言うな~(笑)ちょっと検索しただけなんですけど。

これを曲解して、自分なりに解釈してみました。

  • 「生命の持続」――死なずに生き続けるための「生きがい」(消極的)
  • 「生命の価値」――ただ生きるだけじゃなく、価値をあたえてくれる「生きがい」(積極的)

消極的なのと積極的なの、ふたつある。

さらに、「生きがい」には次の状態がある。

  • 無意識に感じている「生きがい」
  • 意識的に考えている「生きがい」

今回のボクの件は、意識的に「生きがい」を考えているんだね。欲している。(無粋だね!うん!)

「『生きがい』が見つからない」などど模索するのは、「生きがい」を自覚したいからでしょう。

他方、「生きがい」などと言葉にはせず、日常の中に無意識におとしこまれている「生きがい」ってのがある。

ボクなりにまとめると、

  • 生命の持続としての「生きがい」は、無意識なもの
  • 生命の価値としての「生きがい」は、意識的なもの

例えば、、、

「うまいもの食いたいな~」とか、「生活していけるように仕事をがんばろー」とか、こういうのは、ほとんど無意識なもので、当たり前のもので、生命の持続としての「生きがい」、

他方、夢とか目標、「生きがいが欲しい!キラキラ」とか、そういうのは意識的に設けようとする積極的な「生きがい」。

こういうことだね。たぶん。ちがったらごめんね。謝っても許されない社会だったら余計にごめんね!



積極的な「生きがい」だけに縛られないこと



さて、今回のボクの件は、意識的に「生きがい」を考えている。

「生きがい」を積極的に求め、欲している。

でも、それが無い。みつからない。手元にない。

結果、悩んでいる。

哀れ!欲望丸出しで滑稽!

でも、あんまり批判するなよ。

中二的な幼い自問であっても、当人はマジで考えていて、マジで悩んでいるのだから。

そこを滑稽だとか、嘲笑するのは、ちょっと「悪趣味」だよ!

冗長になってきたから、結論にいく。

積極的に求める意識的「生きがい」がみつからない場合(夢や目標がみつからない場合)、一度、消極的でもいいから無意識に感じている「生きがい」まで視野を広げてみよう。


――今回、ボクは悩んだよ。いい年こいて。

最近のボクはどういう生態であるか?けっこう、真剣に考えてみた。

そしたら、確定していることが、ただひとつだけあった。

ひとまず、死にたくない。"生きていたい"、とりあえず。

これが今のボクにとって、唯一確定していることだ。

それ以外はあやふやで、自分が何をしたいのか、何も無い。

つまらない。人生がつまらない。

そんなとき、だれかが言った。

「うん、じゃあさ、ひとまず、その『確定していること』を大事にしてみたら?」

ひとまず確定していること、それは「死にたくないなぁ、とりあえず生きたいなぁ」という事。

つまりは、積極的な「生きがい」はみあたらないけど、生命の持続としての「生きがい」はボクにはある。

では、生きるためには何が必要か。

『お金』だ。

お金があれば、とりあえず死なない、ひとまず『生きる』ことはできる。

満たされないつまらない毎日の中で、「死にたくないなぁ、とりあえず生きたいなぁ」という事をお金は満たしてくれる。

まずはひとつ、消極的であっても、ひとつの「生きがい」を満たすことができる。

そして、ボクは次のように考えた。

「とりあえず、『貯金』だな。」

これでそこそこの満足が得られるんだよ、なんだかんだ。事実として。

悩みすぎてもアレだから、とりあえずコレでもいいんじゃないか。

そんな時期があってもいいんじゃないか。

「生きがい」なんてのは、ひとつだけじゃない。

貯金くらいしか生きがいがない、そんな時期があってもいい。と、ボクは思う。

これで、少しは視野が広がったんじゃないか?



いつまでも腰掛けてられない



そういう話でしたー。

・・・・・・とはいかない。これで完了しない。

"一時的"にそういう時期があってもいいんじゃないか、という話。

結局は、ボクみたいなタイプは、夢や目標といった、積極的な「生きがい」を自覚しないと、満足ができない。

いるでしょ?そういう人。てか、キミ、そういう人でしょ!!知らないけど!

「イタいヤツ」ってのは、どこまでイタい、いくつになっても「イタいヤツ」である。

貯金くらいしか生きがいがない、そんな時期があってもいいけど、いつまでもそこに腰をかけていられない。

やっぱり、熱く生きたいんだよな。

何かに夢中になりたいんだよな?

"完全燃焼"して死にたいんだよな?

「このままじゃ終われない」とか、「なんだか毎日がつまらない」とか、「自分の人生ってこんなに平凡なものなのかな?」とか、やっぱり考えちゃうんだよ。

そういうのをナニと呼ぶか、『中二病』と呼ぶ。

が、中二だとか意識高い系だとか揶揄されても、情熱とか目標とか、そういう言葉が好きでたまらないんだ。そういう人生を歩みたいなって、思ってるんだよ、ボクは。


別名、それを何と呼ぶか、『向上心』と呼んできたじゃないか。

納得して死ねるように、積極的な「生きがい」も、やはり必要なんだよ。

忘れちゃいけない。



最後に



ここまで述べたように、「生きがい」にもいろいろある。

狭い視野に縛られるのはよくない。

夢や目標、積極的に追求する私個人の意識的「生きがい」、確かにそれは私に必要な、私が生きる「生きがい」です。

一方で、生命維持、生活とか貯金とか仕事とか、消極的に思うかもしれないけど、こいつもやっぱり、私が生きる「生きがい」なんです。

どっちも大事な「生きがい」です。

いろいろあるって、そんな話でした。あんましひとつに縛られちゃいけない。

悩んで悩んで人は成長していくものだと、ボクはそう思う。「お前がいうな」って、すまん、悪かった。

じゃ。@ryotaismでした!


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高橋優『パイオニア』の一部歌詞が受け入れられない

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高橋優の新曲『パイオニア』の中に、次の歌詞がある。

“評論家じゃなくあなたの声を聞かせてよ”




ボクは高橋優さんの歌が好きである。

が、すべてが好きなわけではなく、「んー、ちょっとこれはどうなんだろう?」といった否定的意見も、過去、述べている。


好きな部分については、ファンが大量に述べているのだし、自分は云わないようにしている。

さて、今回の新曲、初めて聴いた時はドキドキした。いい曲だと思った。

けれど、一部、ほんの一箇所なのですが、

“評論家じゃなくあなたの声を聞かせてよ”という詞が気になった。

重箱の隅をつつくような、イヤな人間で申し訳ないが、思ったことを今回も述べてみる。嫌われても一向にかまわない。



「感想」と「評論」



評論を嫌うアーティストは多々存在する。

「感想」ではなく、「評論」。

「感想」とは簡単に言えば、「好き嫌い」のこと。個人の趣向であり、主観的なもの。他方、「評論」とは、客観的な視点から作品の良し悪し・是非などを論じること。

「感想」「評論」、いずれも、否定あれば肯定もある。

『パイオニア』の歌詞における“評論”とは、堅苦しいコトバを使って論じるような「評論」のことを指しているのだろう、おそらく。

「そんなんじゃなくて、もっと素直に、『好き嫌い』でもいいから、感情で聴いてほしい」、よそよそしい評論ではなくて、あなたの声、つまり『感想』、感情の言葉を求めている。

「正面からぶつかってきてほしい」ということ。(あるいは、「評論なんて何も生み出さない」ということかもしれないが)

評論を嫌う気持ちはわからないでもない。

「なんか嫌い、私には合わないなぁ」という否定的"感想"ではなく、客観的に分析されてどうのこうの言われる"批評"は気持ちのいいものではない。

その心情はわかる、わかるが、どうだろうか?



"舞台に立つ"ということ



「舞台に立って表現をする」ということは、称賛と批判の両方を受け入れるということだ。

「批判が嫌なら、舞台に立つな」ということではなく、「舞台に立てば批判もある」というのは、舞台に立つ上での『前提』である。


評論なぞされたくない、だが、"嫌でも評論されてしまう"のが舞台に立つということ。

 “評論家じゃなくあなたの声を聞かせてよ”

わかる、気持ちはわかる。評論されるのなんて誰だってイヤだ。

でも、それは無理だ。無理なんだよ。

「作品を世に出す」というのは、自分の意思とは別のところで、「ああだこうだ」云われる、云われてしまうものなんだよ。

「評論なんて、くだらねぇ、意味がねぇ」というのは、ちょっと"虫がよすぎる"ということになる。

表現者は「ああだこうだ」評論されてしまう職業だ。不本意かもしれないが、それを"背負わなきゃいけない職業"なんだよな。


それを避けようとする、あるいは毛嫌いする、それは自分の職業に対する覚悟のなさ、認識の甘さでもある。



もっと客観的に評論されてほしい



評論されることがそんなに嫌か?あるいは、そんなにダメなことなのか?

もちろん、評論のされ方にもよるのだろうけど、

それよりもむしろ、少ない言葉数による、「好き」「感動した」「いい歌」「元気がでる」「泣いた」「救われた」といった淡白な感想のほうが空虚ではないか?

そのような淡白な感想がダメなわけではない。うまい料理を食べて「おいしい」と人が言うように。

ボクが言いたいのは、“あなたの声”という「感想」にも良し悪しはあるだろうということ。

そして、『最初から評論を毛嫌ってはいけない』ということ。

よって、こう思う。

“評論家じゃなくあなたの声を聞かせてよ”

後半の部分、“あなたの声”という箇所はよいが、“評論家じゃなく”という箇所はいらない。不要だと思う。

申し訳ないが、この歌詞、この部分だけはどうしてもボクには受け入れられない。

むしろ、高橋優の歌は"もっと評論されるべきだ"と思う。少ない、全然少ない。

主観的な肯定的感想が多く、もっと“ああだこうだ”と評論されるべきだと思う。

そんなさなか、評論を拒むというか、「それはいらない」と本人の口から言ってしまうのは、もったいないと思う。

また、そのように明言されてしまうと、ボクのような、こういった論調で述べる人間は何も言えない。

「評論家になるな、もっと真っ直ぐ、正直に」といったメッセージがあるのかもしれないが、ある程度、そういったファン層はすでに出来上がっていると思う。

逆に、客観的に論じるような意見は少ないように感じる。

歌い手本人が“評論家じゃなくて”と言う、あるいはそういった姿勢の場合、この傾向は一層強まるだろう。

となれば、作品の広がり方が「一辺倒」になってしまう。

「好き嫌い」といった主観的な感想のみで語られてしまう恐れがあって、それはもったいない。絶対にもったいない。

単純に“音を楽しむ”ということだけで歌を作っているのならば話は別だが、社会に向けたメッセージソングを歌う場合、「個人」から「社会」にまで普及してこそ成就される。

社会現象とまではいわないが、そういった"広がり方"、社会に歪をもたらす事。

“リアルタイム・シンガーソングライター”といったネーミングからも、当初、そのようにして取り上げられ、それを期待された歌手であると思う。

高橋優の歌はそういった類であると思うし、その為には、共有・一般化できる「客観的な意見」、つまりは『評論』が必要だ。

でないと、ファン(サークル)のみでとどまってしまう。"個人の心に眠る"、素敵なことではあるが、それは個人の「思い出」同様、他者と共有できるものではない。

「高橋優の歌はこうこうこうである」といった一見冷たくとも客観的にみれている論調、あるいは、「ここは好きだけど、ここは嫌だ」といった多様な感想でもかまわない、

様々な語り口・語られ方があることで、彼の歌はさらに深みを増し、さらなる広がり方をみせる。


“あなたの声”――、熱量の大きいベクトルは、向かう矢印がひとつであるから、ものすごいエネルギーを生み出すだろう。しかし、別の矢印を同時に認め、又、必要としなければ、一本調子で終わってしまう。

“評論家じゃなくて”という歌詞は、広がり方を狭めてしまう。

それを自分自身で言ってしまったことが残念だった。

批判含め、「ああだこうだ」いわれることで、その作品は世に広まっていく。

優れた作品は"賛"だけではない、"賛否両方"を伴うことで、話題となり、社会へと広まり、現象となり、時にムーブメントを起こし、史に跡を残す。

その過程に、伝達性のある客観的な"評論"は絶対に必要だと、ボクは思っている。


***


高橋優さんの記事を書くたび、ファンの方から厳しい返答をいただくのだが、ボクは書く。なにがあっても書く。

そりゃ、ボクにだって肯定的感想はある。「感動!」「マジ熱い!」といった、個人の感想はある。でも、それは一旦、ここでは書かない。

彼は、私の中では「アイドル」に位置していない。虚像ではない、等身大で本音を歌う「アーティスト」である。

「アーティスト」は肯定だけを求める存在ではない。批判があったとしても、「ああだこうだ」云われても、それを恐れない覚悟で思いを表現する存在である。

肯定だけを集める、「いいことだけ云われたい」などど、アーティストは思わないだろうし、

批判を含め、様々な角度から論じられること、それがなくては、一体、何を『作品』と呼べるのだろうか。

好きな部分、嫌いな部分、両方を受け止めていく、それがアーティストを追いかけるということであり、ボクはそうでありたい。

好きな部分だけを追うようことだけはしない。

以上、@ryotaismでした。





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「三島のゆかり」は最強のふりかけだと思う。

三島 ゆかり 26g×10個

感謝をしたい。この場をかりて感謝をしたい。

俺の中で最強のふりかけ――『三島のゆかり』


有名なので、食したことやスーパーで見かけたことがある人も多いだろう。

俺は毎朝、卵かけごはんに「ゆかり」を混ぜて食べている。

「三島のゆかり」だけは欠かさないよう、食卓に常備している。

好きだ、好きなんだよ。毎日毎朝、食べているはずなのに、未だに飽きない。

いつ食べても、平均点以上の「旨さ」をたたきだす。なんだ、一体なんなんだよ、こいつのポテンシャルは?

ふいに、感謝したくなった。

俺はパソコンの前に座った。

「思いを、文にして打ち込むしかねぇ」



俺と「三島のゆかり」との出会い



――初めて出会ったのは今から1年前だ。

当時、俺は土木警備の仕事をしていた。

夏場は大量の汗をかいた。

熱中症にならないよう、水分補給と塩分摂取をする必要があった。

昼飯の時間、俺は公園のベンチで握り飯を食った。

「三島のゆかり」を混ぜた握り飯だ。

金欠により、100円も惜しかった当時、少量で何杯も白飯を食えるようなおかずは貴重だった。

そんな折、スーパーで見つけたのが「三島のゆかり」だった。

少しかけるだけでよい。

やや塩気の強い「ゆかり」は、一袋あるだけで、何杯もの白飯を食うことを可能にした。

しかも、なぜか味に飽きがこない。

その理由は、"風味"にある。香りが素晴らしいのだ。

早朝、俺は炊いた白飯に「ゆかり」をかけて、サランラップで包む。

そのときの風味が、昼時になっても残っているのだ。

こいつはすげぇと思った。

さらに、飯に混ざったゆかりは、照れた頬のように、ほのかに赤く広がって、食欲をそそる。

味覚だけではなく、嗅覚や視覚にもやさしいのだ。

といっても、主原料は「赤しそと塩」のみのシンプルなものである。

食材の旨味を最大に活かすために、さぞ、製造過程において苦心されているに違いない。脱帽だ、感服だ。


いまとなっては、「三島のゆかり」の良さについて、このように客観的にしゃべれる。

しかし、当時は、一言こぼすだけだった。

俺は公園のベンチで、自分の将来について考えることが多かった。

「この先、どうやって生きていこう?」
「自分のやりたいことって一体何なんだろう?」

残念ながら、いまだにその答えはでない。

俺は公園に植えられたケヤキを見上げていた。

枝葉が揺れ、陽の光と空のブルーが、ちらちらと目に入った。

握り飯を一口ほおばった。

「ああ、なんだこれ、うまいな」

言葉が、こぼれた。

「きっと、ここから何度でも、始められる」

飯がうまいと思えるうちは何度でもやり直せる――。



「三島のゆかり」、その良さ。



ひとまず、ここまで述べた「三島のゆかり」の良さをまとめてみる。

  • 一袋購入するだけで何杯も白飯が食える、コスパの高いふりかけ
  • 香りや彩りなど、嗅覚・視覚にもやさしい
  • 食材そのものの旨味がでており、飽きのこない“シンプルな旨さ”

また、「三島のゆかり」を利用したレシピは幾多も存在する。

「ご飯にかける」だけじゃない。汎用性の高さ、ここだけは"見失うな"。

スパゲティに加えるといった王道はもちろん、あらゆる添え物の調味料として活用ができることを忘れてはならない。

三島食品様がクックパッドに幾多のレシピを公開しているので、ぜひとも参考にしてほしい。


(ちなみに私は、ゆでたうどんに、生卵とめんつゆをかけ、そこに「ゆかり」をふりかけて食べることがある。)


尚、「三島のゆかり」には様々なバリエーションがある。

梅入り、かつお入り、ごま入り、青菜入りなど。どれも興味深い。


詳しくは、三島食品様のホームページにのっているので、こちらもチェックしておきたい。


***


最後に。

俺の稚拙な文で、「三島のゆかり」の良さがどれほど伝わったか。

正直、自信はない。

……ともかく、ともかくだ。

俺の中ではNo.1ふりかけ、金メダル級。

ふりかけに迷った時は、こいつにしておけば間違いない。

以上、@ryotaismでした。



『超思考』北野武:読書感想

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00EOJCTB6/amazon142-22/

『超思考』(北野武)をKindleで読みました。

いやあ、大変おもしろかった。

3時間ほどで読めるので、おすすめです。





『超思考』北野武


印象に残った箇所をいくつか。


  • 悪口を書かれたら、もっとワルぶっちゃう。ワルでもなんでもないけれど、相手が笑うしかないくらい破天荒なことを言ってしまえばいい。笑ったらこっちの勝ちだ。
  • 乞食って言葉は厳禁だと言っている放送局も、乞食のために何かしたことはないはずだ。むしろそうなってからの方が、乞食への社会の無関心化が進んだ気がする。
  • 「言わないこと」と「考えないこと」が同義になってしまった。
  • 死刑が極刑であるためには、ひとつの前提が必要だ。「人間がいちばん恐れるのは死であって、死は人生における最悪の出来事だ」という前提が。世の中の人がみんなそう思っていて、はじめて死刑が極刑として成立する。
  • 人は死ぬという事実に蓋をして、社会の表面から見えなくしてしまっているのが現代社会だ。
  • 若い者にはまだ負けちゃいないなんて、口が裂けても言わない。若い者には、負けるのだから、負ける相手とは勝負をしない。
  • 人生が苦しみに満ちたものだということを誰もが知っていた。年寄りも、若い者も、その覚悟がまったくできていないということが、現代の老人問題の本質なのだと思う。
  • 眠っている才能なんてものはない。才能はあるかないかのどっちかだ。自分が本当にやりたい仕事はなんだろうなんて、考えなきゃいけないってことは、やりたい仕事がないというだけのこと。探しているのは、自分が本当にやりたい仕事なんかじゃなくて、楽して稼げる仕事なのだ。そんなものがあるわけない。
  • 苦労をしなければ、仕事にやりがいなんて見つけられるわけがないのだ。仕事の本当の面白さとか、やりがいというものは、何年も辛抱して続けて、ようやく見つかるかどうかというものだろう。
  • 気が進まないくらいの方が、いろんなことがよく見える。どんな仕事にだって、誰も気づかない盲点というものがあるのだが、そういうものに気づくのは、好きでたまらない人間よりも、むしろちょっと引いたところから眺めている部外者だ。
  • 昔の常識で言えば、そもそも年寄りには将来なんてなかった。俺が若い頃の年寄りは、その日の食い物にも困るっていう経験をしているから、飢え死にしないだけでも幸せだった。
  • 派遣は悲惨だって言うけれど、よく考えてみれば、昔の職人はみんな派遣の日雇い労働者だった。
  • 仕事がなかったら喰えないと言うけれど、食い物がなくて食えないというのとはわけが違う。
  • 薄利多売のしわ寄せは、最終的には働く人間が背負うことになるのだ。貧乏人が貧乏人の首を絞め合っているだけの話なのに、それを見せ物にして得意になってる。背後にいる金持ちは、素知らぬふりで笑っている。いつの間に、こんな悪趣味な世の中になったのか。
  • 誰かのコピーでは出世なんかできないのがこの世界だ。
  • 世の中が貧乏で飯を食うにも苦労した時代の大人たちは、子供に夢なんか見ていないで地味でいいからとにかく真面目に働くことを教えた。
  • 自分の頭で考えるのではなく、他人の頭で考えようとする。そんなことできっこないのに、他人の目にどう映るかを考えてモノを作ろうとする。
  • 自分の好きなようにやる。他人に迎合はしない。それで売れれば嬉しいし、売れなければ消えるだけだ。格好つけるわけじゃないが、ずっとそう思ってやってきた。それは映画を撮るようになってからも変わっていない。俺の映画が面白いなら見てくれればいいし、面白くないなら見ないでいい。まあ、ある種の痩せ我慢だ。
  • インターネットという箱の中に、世界がつまっていると思い込んでいるからだ。そして一所懸命に、その箱の中に頭を突っ込んで世界を理解したような気になっている。箱に頭を突っ込んで生きているだけに過ぎないのに。
  • タチの悪い子供が、ただの慰みにホームレスを暴行して殺してしまったなんてニュースをよく聞くようになったのも、彼らを乞食と呼んではいけなくなってからのような気がする。


感想


おもしろかったよ、これほんとに。

まずね、文体が"率直"。かといって、偉そうな感じもしない。

政治・社会に言及しているのだけど、難しいと思うところはなく、最後まで読みやすい。

話の軸としては、北野武が生きてきた時代と、今の時代との比較。いや、「時代」というより「生活」の違い。

老人問題に関して、“昔の常識で言えば、そもそも年寄りには将来なんてなかった”とか、派遣問題や貧乏、その他様々な問題に対しても、「苦労や苦しみなんて人生の当たり前」というふうに、笑い飛ばす。

“仕事がなかったら喰えないと言うけれど、食い物がなくて食えないというのとはわけが違う。”

北野武が生きてきた時代、それは『全体的にタフである』ということ。

死や仕事、お金――人生に対して、大変とか苦しいとか、そんなことは日常であった。“問題”というほど、取り立てて騒ぐほどのことか、と。

このあたりの、『時代の違い』というのは参考になる。

ちなみに、最も心に残ったのは次の文だった。

鎖につながれているように見えるのだけれど、本人たちはそう思っていない。
むしろそこから切り離されたら、不安でいてもたってもいられなくなるらしい。インターネットという箱の中に、世界がつまっていると思い込んでいるからだ。そして一所懸命に、その箱の中に頭を突っ込んで世界を理解したような気になっている。箱に頭を突っ込んで生きているだけに過ぎないのに。
つまり、ある種の家畜だ。


この、“箱に頭を突っ込んでいる”という表現は実にうまいと思った。

ネットの世界は、広大で無限だ。そこにはコミュニケーションさえも存在する。

なんでもかんでも、そこに詰まっているように思ってしまう。

が、結局は、宇宙の"一部"でしかない。ネットよりも、その外側の"世界"のほうが広いにきまっている。

“今の若者は自分に縁のない世界を、この世に存在しないものとして意識から閉め出しにかかっているのだろうと思う。

外側の世界に目を向けない、いや、そもそも、『外側の世界などないものだ』と排除する。

身も心もネットに浸かってしまうのは、その外側(それ以外)が、最初から自分の視野に"無い"からだ。“この世にはないもの”と思っている。

んー。なるほどなぁと。思わず、自分を省りみてしまった。

北野武の作品といえば、映画のイメージが強かったけれども、これからは著書も読んでみようと思いました。たいへんおもしろかった。

以上、@ryotaismでした。




俺選抜~おすすめ邦画15本!


洋画というものをあまり見ない。

そのかわり、邦画をよく見る。

自分が今まで観てきた中で、『おすすめしたい邦画』を15本ご紹介します。

すでに観たことのある作品もあるかと思いますが、誰かの何かの参考になれば幸い。

※あくまで私の好みですので、あしからず。



『月光の囁き』



高校生の日高拓也と北原紗月。それまで、互いに好意を持ちつつ仲のよい友だちとして振舞っていた二人だったが、ふとしたきっかけでよ うやく恋人に発展。自転車二人乗りでの登校、図書室でのデートといった交際に喜びを感じていた紗月に対し、拓也はそうした普通の恋愛では満たされない想いがあった……。

出演:水橋研二、つぐみ
第14回高崎映画祭 最優秀新人女優賞(つぐみ)、ゆうばり国際冒険ファンタスティック映画祭 審査員特別賞、南俊子賞日本映画プロフェッショナル大賞 新人監督賞

先に言っておきます。

何作かこれから紹介していきますが、自分の中でダントツの邦画はこちらです。これだけは別格です。

子供の頃は洋画も観ていたのですが、高校生の時にこの映画と出会って以来、邦画ばかり観るようになりました。

「好きな映画は?」と聞かれたら、私は一番にこの映画をあげます。

内容についてはふれません。とにかく観てほしい一作。

知る人ぞ知る名作と化しており、残念なのですが、私の中では未だに一番好きな映画です。(ちなみに原作漫画も素晴らしい)



『害虫』



日常から切り離され、中学をドロップアウトした少女の物語。

出演者:宮崎あおい、田辺誠一
2002年日本映画プロフェッショナル大賞作品賞・監督賞受賞。2001年ナント三大陸映画祭コンペティション部門主演女優賞(宮崎あおい)&審査員特別賞受賞。

『月光の囁き』と同じ、塩田明彦監督の作品。

宮崎あおいさんが、今よりも知名度の低かった頃の、映画初主演作です。少女のビミョウな心の動きを、見事に演じています。

また、向井秀徳さん(NUMBER GIRL)による、挿入BGMがとにかくスバラシイ、カッコイイ。最近では『中学生円山』でも手がけていましたね。



『さんかく』



自意識過剰?のダメ男・百瀬は、恋人の佳代と同せい中。そんな二人の元に、ある日、夏休みを利用して佳代の妹で女子中学生の桃がやってくる。
恋人の妹に胸キュンな30男の百瀬。イマドキの女子中学生・桃。カレへの愛情を間違えた方法で表現してしまう29歳のイタイ女子・佳代。ひと夏の奇妙な三角関係、絡まり合った3人の恋の行方は…?

出演:高岡蒼甫、 田畑智子、小野恵令奈
第2回TAMA映画賞最優秀作品賞、第25回高崎映画祭若手監督グランプリ、新藤兼人賞2010年度銀賞、第20回日本映画プロフェッショナル大賞主演男優賞(高岡蒼甫)

「おすすめの邦画は?」と聞かれたら、最近はこの映画をあげている。万人が楽しめる内容だと思う。

田舎を舞台としているところが良い。ド派手なセットなどいらない、ビミョウな人間関係、距離感を描いている。

"イタい男"を演じる高岡蒼甫さんが実にハマっている。途中、田畑智子による狂気的なワンシーンに驚いた人は多いだろう。



『ヒーローショー』



気弱な専門学校生ユウキが始めたアルバイトは、ヒーローショーの悪役だった。
ある日、バイト仲間のノボルが、ユウキの先輩の剛志の彼女を寝とってしまったことから、彼らは舞台上でリアルに殴り合いを始める。それだけでは収まらず、剛志は悪友たちを招集しノボルらをゆすろうとするが、ノボルたちも自衛隊上がりの勇気(ユウキ)を引き入れ報復にでる。
次第に彼らの暴走はエスカレートし、ついには決定的な犯罪が起きてしまう…。

主演:ジャルジャル

いや、こちらも本当におすすめです。

井筒監督の中では、この作品が最も好きです。

もし、ナイティナイン主演の『岸和田少年愚連隊』(井筒監督作)が好きならば、この作品も楽しめるはず。

品川監督の『ドロップ』とセットにして観ると、余計にこの作品の意味と価値がわかる。

ちなみに、宇多丸さんのウィークエンドシャッフル『2010年 全映画ランキング!』2位です。

『パッチギ!』も大好きな映画ですが、こちらも見逃せない作品となっております。



『ノロイ』



東京にある一軒家の火災。なんの変哲もなさそうなただの火災だったが、出火原因は不明でしかもその家の主人の遺体が見つからないという不思議な事件だった。その家の主人である小林は消息不明。居酒屋に入ってきて謎のノートを渡すと、ふらふらとどこかへ行ってしまった。これが小林の最後の目撃情報だった。そしてそのノートに記された内容は、とてつもなく恐ろしいものだった。

出演:松本まりか、荒俣宏、飯島愛

ホラー邦画ばかり観ていた時期がある。

中でも、この『ノロイ』という作品は怖かった。観終わった後の嫌な余韻は未だ覚えている。

ドキュメンタリー展開で話が進むのだが、無論、フィクションである。が、とにかくリアルに、丁寧に作りこまれている。

この作品に関しては、正直いうと、「合う人と合わない人」がいる。

ある程度、ホラーを観ている方のほうが楽しめるのではないかと思う。



『ラヂオの時間』



鈴木京香が演じる主役のみや子は、ラジオドラマの脚本コンクールで自作が採用された。ところが、放送直前になって主演女優が役名に不満を言い始めたことから、スポンサーやほかの出演俳優も次々に注文をつけだす。プロデューサーやディレクターは唯々諾々とそれを受け入れ、シナリオはどんどん書き替えられていく。怒ったみや子はスタジオに立てこもるのだが…。

出演:鈴木京香、唐沢寿明、西村雅彦

三谷幸喜さんの初監督作品。

私の中で、三谷映画といえばこれです。笑えます、本当に笑わせてもらいました。

ベルリン映画祭にも出品され、三谷監督曰く「ドイツ人がこれほど笑うところを見たことがない」、らしい。

「登場人物の中でだれが好き?」といった会話が弾む作品。



『竜二』



それなりに顔を知られたヤクザの竜二は、ある日妻子のためにカタギになる決心をする。しかし、マイホームの平穏な暮らしは、やはり彼にとって物足りなくて…。

スターになることを夢見て本作の脚本を記し、念願の映画初主演を果たしつつも、作品完成直後にガンでこの世を去った伝説の映画人・金子正次の熱意に満ちた秀作。

何かのテレビ番組で千原ジュニアさんがお薦めしていて、つられて観たのがきっかけ。

"昭和臭"が全体的に漂っており、すごくいい味がでている。

変な意味ではなくて、「男が好きな『男』」は一度観てみるといい。金子正次さんによる、まさに迫真の演技。男の、胸が熱くなる一本。



『羅生門』



タイトルは芥川の『羅生門』。ですが、ストーリーは芥川の『藪の中』。

邦画といえば、避けて通れない作品ではないでしょうか。

赤ん坊が泣いているシーンは鮮烈で、脳裏に焼き付いている。

白黒映像ですが、迫力があって、三船敏郎さんの演技は、"THE 役者"、こういうのが本物の役者なんだろうなと、思わず唸ってしまいました。



『家族ゲーム』



高校受験を控えた息子のために雇われた風変わりな家庭教師の出現によって、家族のありようが次第に変化していくさまを描いた、森田芳光監督のホーム・コメディ。
横一列に家族が並んで食事する風景に代表されるように、きずながあるようでどこか薄い現代家族のとらえ方がユニークかつ秀逸。

松田優作さんの映画で、初めて観た作品がこれです。存在感が圧倒的。

ワンカットの食卓シーンあるのですが、じれったく、妙に生々しくて、強く印象に残っています。

最近では、この作品をもとにつくられた、櫻井翔主演のドラマ『家族ゲーム』が話題となった。が、内容は全く異なるので注意。



『実録・連合赤軍』


  • 発売日 : 2009/02/27
  • 出版社/メーカー : CCRE

“『革命』に、すべてを賭けたかった・・・・・・”
革命を叫ぶ若者のそばから1972年の連合赤軍・あさま山荘事件に迫る人間ドラマ。
テレビ視聴率89.7%、日本中の目を釘付けにした「あさま山荘」の内部では、一体何が起きていたのか。
彼らはなぜ、山へ入り、同志に手をかけ、豪雪の雪山を越え、あさま山荘の銃撃戦へと至ったのか。

出演:坂井真紀、ARATA

若い世代にとっては、「浅間山荘事件」という名前は知っているけど、実情はよく知らない事件。

「こんな時代があったのか」と、現代の若者からは想像がつかない"若者像"。

実話をもとにした社会派映画ですが、ふつうに観ていても楽しめる作品となっています。

若松孝二監督には、他にも、『三島由紀夫と若者たち』といった作品があり、その時代の若者像を映画という形で残しています。貴重だと思います。



『下妻物語』



茨城県・下妻に住み、ぶりぶりのロリータ・ファッションに身を包んだ少女・桃子(深田恭子)がヤンキーのイチゴ(土屋アンナ)と出会い、数々の騒動に巻き込まれながらも強力な生き様を貫く、嶽本野ばら原作のハイパーパワフルな乙女たちの純情物語。

正直いうと、観る前はナメていました。つまらないんじゃないか…と。

が、いざ観てみると、最後まで飽きさせない展開と演出で、いつの間にか夢中になって二人(深田恭子・土屋アンナ)の関係性を追っている。

ところどころアニメーションのような演出が挿入されるのですが、これがいい塩梅に作品を飾っている。多くの映画賞を受賞した作品。

土屋アンナが苦手(?)という人にも観てほしい。



『ソナチネ』



沖縄へ助っ人に向かったヤクザの村川と北島組の面々。彼らはそこで自分たちを標的にした罠にかかったことを知る。最果ての南の島で死に怯える男たちだが、 確実に無常に、本人にとっては唐突に処分されていく。そんな極限状況の中で村川だけは都会の生活で失った感情を取り戻すかのように動き回り、刹那的な笑い や恥らいといった心の揺れを求めていく。

北野武監督の映画は、そこまで好きではないのですが、この作品だけは別です。

当時、日本ではほとんど評価されなかったらしいですが、北野映画の中では最もこの作品が"日本(人)らしい"のではないでしょうか。

『アウトレイジ』など、他にもヤクザ映画はありますが、『ソナチネ』は、海外マフィアとは異なる"日本のヤクザ"が描かれています。

ちなみに、この作品、音楽が非常に美しく、妖艶です。一度注目して聴いてほしい。(久石譲さんが手がけています)



『紀子の食卓』



田舎に住む17歳の平凡な女子高生・島原紀子は、家族との関係に違和感を覚えていたが、ある日インターネットのサイト「廃墟ドットコム」を知る。彼女はそこで知り合った女性を頼って東京への家出を敢行、「レンタル家族」という虚構の世界で生きていくが…。

出演:吹石一恵、つぐみ、吉高由里子

園子温監督の作品。

『愛のむきだし』
『ヒミズ』、園子温監督の作品は何作が観たけど、これが最も衝撃が強かった。

『自殺サークル』の続編のようであるが、単体でも楽しめる(『自殺サークル』を観て、なにがなんなのか意味がわからなかった人は、『紀子の食卓』を観れば少しは理解を深められるかもしれない)。



『桐島、部活やめるってよ』


  • 発売日 : 2013/02/15
  • 出版社/メーカー : バップ

学校一の人気者である男子生徒・桐島が部活をやめたことから、少し­ずつ校内の微妙な人間関係に波紋が広がっていくさまを描く。

出演:神木隆之介、橋本愛、大後寿々花
ヨコハマ映画祭(最優秀作品賞)、TAMA映画賞(最優秀作品賞)、毎日映画コンクール(日本映画優秀賞)、他多数。

原作は、朝井リョウさんの小説。

“青春映画”にカテゴライズされるのかもしれないが、近年の青春映画にありがちな、若さ(フレッシュさ)や熱さを全面に出した作品ではない。

「青春映画って苦手…」という人ほど観てほしい。ミステリー要素もあって、物語の構造は結構複雑です。

タイトルにある“桐島”という人物は、一部を除いて、ほぼ登場しない。桐島というクラスの人気者、その"周辺"を描いている。

監督は、『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』の吉田大八監督。



『人間失格』



幼少期より自意識にまみれ、世間とうまくなじめない青年・葉蔵。不安や迷いを抱えながら彷徨う葉蔵が向かうのは、いつも酒であり、女たちだった。
さまざまな女たちとの恋に身を投じながら、葉蔵がたどり着く先には、一体何があるのか――?

出演:生田斗真、伊勢谷友介、石原さとみ

いうまでもなく、太宰治原作。

太宰原作の映画は何作かあって、正直いうと、『人間失格』よりも、『ヴィヨンの妻』『パンドラの匣』のほうが好きです(松たか子さんや、芥川賞作家・川上未映子さんの名演が見どころ)。

けれど、太宰原作の映画、その「入り口」としてはこの作品が最も親切だと思う。極力、万人が美味しく食べられるように味付けされている。映像が美しく、登場人物にも華がある。ちなみに、森田剛さんが中原中也を演じているのだが、これが意外にも(?)悪くない。

が、やはり、『人間失格』を観た後は、『ヴィヨンの妻』『パンドラの匣』も観てほしいのが本音です。


***


以上、私がオススメする邦画15作でした。

それぞれの予告映像をYoutube再生リストでまとめたので、よろしければ、こちらも御覧ください↓


それでは。@ryotaismでした。