標準語を気持ち悪いと思ってしまう関西気質について。


ボクは三重県生まれ。

三重県というのは、少々トクシュで、「標準語」地方と、「関西弁」地方にわかれる。

ボクは奈良県よりの、「関西弁」地方に生まれた。そして、高校卒業後は京都で4年を過ごした。

結果、やはり、「関西弁」。

細かいことをいえば、本場の大阪弁などとはやはり異なるのだが、大きな括りでは「関西弁」である。

その後、ボクは関東に移り住んだ。7年が経過した。

先日、京都に住んでいた当時の友達と、都内で遊んだ。

彼は兵庫の人間であり、こてこての関西弁の持ち主。

そのとき、彼にこう言われた。

「めちゃめちゃ『標準語』になりましたね。なんか、気持ち悪いっすよ」

彼に悪気はない。ないのだが、関西の友からそういったことを幾度となく言われてきた。正直、辟易とする。

事実、私は関東に住んで以来、標準語を多々用いるようになった。

「~だね」とか「~だよ」とか、言う、普通に使う。

関西弁だろうが、標準語だろうが、別にどっちだっていいとボクは思っている。

かく言いつつも、関東に来た当初は、「~だね」とか「~だよ」とか、かなりの違和感があった。

ボクにもそういった時期はあった。だから、彼のいう“気持ち悪さ”はよくわかる。

が、周囲のほとんどが標準語であるのだから、おのずと自分もそのようなしゃべり口調となってくる。

何年住もうが、いつまでも関西弁である人はいる。が、やはりそういった人は少なく、いくらかは伝染ってしまう。

それを、半ば否定的に言われると、申し訳ないが、"うんざり"してしまう。


"伝わる"ほうを選択する



ボクは標準語が、ボクの“標準”だとは思っていない。

実家に帰省すれば、家族全員、関西なまりであるし、僕自身も関西弁を使う。

体の芯に染み付いているのは、やはり関西なまりである。

一方で、すべての場面ではないが、関東では標準語を使って話している。

単に、標準語地域であるからという理由だけで、それを利用しているわけではない。

先日、仕事が大変そうな友達に、ボクはこう言った。

「しんどそうだね。」

「しんどそうやなぁ。」とは言わなかった。


詳しいことはわからないが、「しんどい」という言葉は、どうやら関西で主に使われる言葉らしい。

「しんどい」は、ボクにとっては普通に使う言葉である。

「しんどい」が関西弁である一方で、「だね」は標準語。

ゆえに、歪、妙な言葉に仕上がっている。おかしな使い方になってしまっている。

が、重要なのはそこじゃない。そのように混ざってしまうのは仕方がない。

「しんどい」+「だね」、「だね」とボク自身が添えたところに意味がある。

ボク自身の感覚的な話、主観的な思いでしかないのだが、

「しんどそう『だね』」という言い方のほうが、やさしいのではないかと思ったのだ。

仕事に疲れていたその友人は、関東生まれ、標準語の人である。

その人に対して、「しんどそうやなぁ」と言っても、なにか、うまく伝わらないのではないかと思った。

(無論、そんなことばかり考えていては、神経がすりへってしまうわけで、実際のところは、ほぼ無意識に「しんどそうだね」とボクは言っていた。)

もちろん、どのように受け取るかは相手次第であり、人によっては「~だね」のほうが冷たく感じるだろう。

感覚的な話にもなるのだが、そのときボクは、「~だね」のほうが"やさしい響き"であるように思ったのだ。

「~だね」という標準語が冷たいわけではない、また、関西弁が冷たいわけでもない。

「どちらのほうがいいか」というのは、客観的に決めることなぞできない。

ボクが言いたいのは、標準語だろうが関西弁だろうが、どっちだってよくて、肝心なのは、『自分の思いを相手に正確に伝えられるほうを選択する』、ということ。

「~だね」のほうが、うまく自分の思いを相手に伝えられるなら、そちらを利用する。

ならば、「しんどい」という関西方面の言葉を使うのではなく、「大変そうだね」と、とことん関東圏にあわせるべきであるが、そこはいまのところ難しい。

標準語はボクにとっては“標準”ではなく、ぬけきらない関西なまりが、僕自身に染み付いている。

しゃべり口調を、都度、意識して使い分けるなど、到底できない。というか、そんなことをしていては疲れてしまう。

ゆえに、「しんどい」という言葉は無意識に使うし、今後もそうであろう。

他方、「~だね」という言い方も、使う。

その言い方のほうが、関東では伝わりやすいのではないかと思っているからだ。

関西弁と標準語がごちゃまぜになって、余計に伝わりにくいかもしれないが、それは自分の思いを正確に伝えようとする『過渡期』だと思っている。



関西弁へのプライドが強すぎないか?



関西弁を使う人の中には、「標準語」に対して、半ば、反射的な抵抗をしめす者がいる。

聞き慣れていないのだから、違和感があっても当然である。

しかし、中には、関西弁に"強すぎるプライド"をもっている人がいて、

関西人が標準語を使うこと、あるいは標準語自体を、小馬鹿にする者がいる。やたらと気持ち悪がる人がいる。


(※すべてではない、あくまで"一部"である)

関西の気質なのか、土着性の強い文化だからなのか。

なんの恨みがあるのかは知らないが、その一部は理解に苦しむ。

「ふるさとを愛する気持ち」が転じて、そのように思うのかもしれない。

それは素敵なことだと思うが、だからといって、それ以外の言葉に対して"排他的な姿勢"をとったり、標準語を否定的に語ることが、地元の言葉を愛することの証明にはならない。


生まれ育ったふるさとの言葉のほうが落ち着くのは当然だ。それ以外の言葉に抵抗を感じてしまうのはある程度仕方がない。

「関西弁が一番おちつく」、これはよい。

が、「関西弁が一番のしゃべり言葉」だと思うのはよくない。


問題なのは、「標準語が2番」だと思ってしまうことであり、自分の中で順番を決めてしまうこと、ランキングをつけてしまうことにある。

優劣などそこには存在しない。

言葉とは、相手に自分の思いを伝えるためのものであり、そこに軸をおいているなら、どの言葉を使ってもよいのだ。それが言葉というものだと思う。

関西弁を使いたければ、それを使い続ければいい。なにも、標準語を否定する必要はない。

ふるさとの言葉にしばられすぎて、その他の言葉をみくだしてしまうと、『相手に自分の思いを伝える』という最も重要な軸から離れていってしまう。

極端な例をあげると、英語しかしゃべれない人に日本語でしゃべりかけているようなもので、それでは一体、なにも伝わらない。

相手に自分の思いを伝えるべく、"伝えるために"、方言の許容範囲を広げ、言語の多様性を認めるべきだと思う。



***


最後に。

「は?三重県とか、そもそも『関西』ちゃうやん。そんなやつが何をえらそうに言ってんねん」

と思った人、それだ、それこそが本稿の肝である。

"そのプライドは何なのだ?"、と。

実は、しゃべり言葉云々ではなく、「プライドが強すぎて排他的態度に結びついていないか?」、という事ついてこそ、最も触れたかった。

以上、@ryotaism