高橋優『パイオニア』の一部歌詞が受け入れられない

パイオニア/旅人(初回限定盤)

高橋優の新曲『パイオニア』の中に、次の歌詞がある。

“評論家じゃなくあなたの声を聞かせてよ”




ボクは高橋優さんの歌が好きである。

が、すべてが好きなわけではなく、「んー、ちょっとこれはどうなんだろう?」といった否定的意見も、過去、述べている。


好きな部分については、ファンが大量に述べているのだし、自分は云わないようにしている。

さて、今回の新曲、初めて聴いた時はドキドキした。いい曲だと思った。

けれど、一部、ほんの一箇所なのですが、

“評論家じゃなくあなたの声を聞かせてよ”という詞が気になった。

重箱の隅をつつくような、イヤな人間で申し訳ないが、思ったことを今回も述べてみる。嫌われても一向にかまわない。



「感想」と「評論」



評論を嫌うアーティストは多々存在する。

「感想」ではなく、「評論」。

「感想」とは簡単に言えば、「好き嫌い」のこと。個人の趣向であり、主観的なもの。他方、「評論」とは、客観的な視点から作品の良し悪し・是非などを論じること。

「感想」「評論」、いずれも、否定あれば肯定もある。

『パイオニア』の歌詞における“評論”とは、堅苦しいコトバを使って論じるような「評論」のことを指しているのだろう、おそらく。

「そんなんじゃなくて、もっと素直に、『好き嫌い』でもいいから、感情で聴いてほしい」、よそよそしい評論ではなくて、あなたの声、つまり『感想』、感情の言葉を求めている。

「正面からぶつかってきてほしい」ということ。(あるいは、「評論なんて何も生み出さない」ということかもしれないが)

評論を嫌う気持ちはわからないでもない。

「なんか嫌い、私には合わないなぁ」という否定的"感想"ではなく、客観的に分析されてどうのこうの言われる"批評"は気持ちのいいものではない。

その心情はわかる、わかるが、どうだろうか?



"舞台に立つ"ということ



「舞台に立って表現をする」ということは、称賛と批判の両方を受け入れるということだ。

「批判が嫌なら、舞台に立つな」ということではなく、「舞台に立てば批判もある」というのは、舞台に立つ上での『前提』である。


評論なぞされたくない、だが、"嫌でも評論されてしまう"のが舞台に立つということ。

 “評論家じゃなくあなたの声を聞かせてよ”

わかる、気持ちはわかる。評論されるのなんて誰だってイヤだ。

でも、それは無理だ。無理なんだよ。

「作品を世に出す」というのは、自分の意思とは別のところで、「ああだこうだ」云われる、云われてしまうものなんだよ。

「評論なんて、くだらねぇ、意味がねぇ」というのは、ちょっと"虫がよすぎる"ということになる。

表現者は「ああだこうだ」評論されてしまう職業だ。不本意かもしれないが、それを"背負わなきゃいけない職業"なんだよな。


それを避けようとする、あるいは毛嫌いする、それは自分の職業に対する覚悟のなさ、認識の甘さでもある。



もっと客観的に評論されてほしい



評論されることがそんなに嫌か?あるいは、そんなにダメなことなのか?

もちろん、評論のされ方にもよるのだろうけど、

それよりもむしろ、少ない言葉数による、「好き」「感動した」「いい歌」「元気がでる」「泣いた」「救われた」といった淡白な感想のほうが空虚ではないか?

そのような淡白な感想がダメなわけではない。うまい料理を食べて「おいしい」と人が言うように。

ボクが言いたいのは、“あなたの声”という「感想」にも良し悪しはあるだろうということ。

そして、『最初から評論を毛嫌ってはいけない』ということ。

よって、こう思う。

“評論家じゃなくあなたの声を聞かせてよ”

後半の部分、“あなたの声”という箇所はよいが、“評論家じゃなく”という箇所はいらない。不要だと思う。

申し訳ないが、この歌詞、この部分だけはどうしてもボクには受け入れられない。

むしろ、高橋優の歌は"もっと評論されるべきだ"と思う。少ない、全然少ない。

主観的な肯定的感想が多く、もっと“ああだこうだ”と評論されるべきだと思う。

そんなさなか、評論を拒むというか、「それはいらない」と本人の口から言ってしまうのは、もったいないと思う。

また、そのように明言されてしまうと、ボクのような、こういった論調で述べる人間は何も言えない。

「評論家になるな、もっと真っ直ぐ、正直に」といったメッセージがあるのかもしれないが、ある程度、そういったファン層はすでに出来上がっていると思う。

逆に、客観的に論じるような意見は少ないように感じる。

歌い手本人が“評論家じゃなくて”と言う、あるいはそういった姿勢の場合、この傾向は一層強まるだろう。

となれば、作品の広がり方が「一辺倒」になってしまう。

「好き嫌い」といった主観的な感想のみで語られてしまう恐れがあって、それはもったいない。絶対にもったいない。

単純に“音を楽しむ”ということだけで歌を作っているのならば話は別だが、社会に向けたメッセージソングを歌う場合、「個人」から「社会」にまで普及してこそ成就される。

社会現象とまではいわないが、そういった"広がり方"、社会に歪をもたらす事。

“リアルタイム・シンガーソングライター”といったネーミングからも、当初、そのようにして取り上げられ、それを期待された歌手であると思う。

高橋優の歌はそういった類であると思うし、その為には、共有・一般化できる「客観的な意見」、つまりは『評論』が必要だ。

でないと、ファン(サークル)のみでとどまってしまう。"個人の心に眠る"、素敵なことではあるが、それは個人の「思い出」同様、他者と共有できるものではない。

「高橋優の歌はこうこうこうである」といった一見冷たくとも客観的にみれている論調、あるいは、「ここは好きだけど、ここは嫌だ」といった多様な感想でもかまわない、

様々な語り口・語られ方があることで、彼の歌はさらに深みを増し、さらなる広がり方をみせる。


“あなたの声”――、熱量の大きいベクトルは、向かう矢印がひとつであるから、ものすごいエネルギーを生み出すだろう。しかし、別の矢印を同時に認め、又、必要としなければ、一本調子で終わってしまう。

“評論家じゃなくて”という歌詞は、広がり方を狭めてしまう。

それを自分自身で言ってしまったことが残念だった。

批判含め、「ああだこうだ」いわれることで、その作品は世に広まっていく。

優れた作品は"賛"だけではない、"賛否両方"を伴うことで、話題となり、社会へと広まり、現象となり、時にムーブメントを起こし、史に跡を残す。

その過程に、伝達性のある客観的な"評論"は絶対に必要だと、ボクは思っている。


***


高橋優さんの記事を書くたび、ファンの方から厳しい返答をいただくのだが、ボクは書く。なにがあっても書く。

そりゃ、ボクにだって肯定的感想はある。「感動!」「マジ熱い!」といった、個人の感想はある。でも、それは一旦、ここでは書かない。

彼は、私の中では「アイドル」に位置していない。虚像ではない、等身大で本音を歌う「アーティスト」である。

「アーティスト」は肯定だけを求める存在ではない。批判があったとしても、「ああだこうだ」云われても、それを恐れない覚悟で思いを表現する存在である。

肯定だけを集める、「いいことだけ云われたい」などど、アーティストは思わないだろうし、

批判を含め、様々な角度から論じられること、それがなくては、一体、何を『作品』と呼べるのだろうか。

好きな部分、嫌いな部分、両方を受け止めていく、それがアーティストを追いかけるということであり、ボクはそうでありたい。

好きな部分だけを追うようことだけはしない。

以上、@ryotaismでした。





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