読書を習慣にするために行った1つのこと


決めておけばいいんですよ。

『本を読みたいけど、なかなか習慣にならない』という人は。

一ヶ月で使う本の購入費を事前に決めておくんです。読書に費やすお金を、予算として組んでおく。

たとえば、『今月は1500円ぶんの本を買う』とか、月初めにでも決めておく。

1500円だと、一冊500円の本が月に3冊買える。或いは、1500円の本を一冊買える。

このへんの、“いくら使うか”の金額設定については、各々様々。収入は人によって異なるし、節約したい人もいるだろうし、読書にかける金額なんてバラバラでいいいと思う。

ちなみにボクは月2,000円です。Kindleで購入するものは、一冊あたり平均400円程度。中古本なら一冊300円程度。そうすると、月に5冊読めるという算段。新書でも3冊程度は買える。

読書家は月にもっと読むのだろうけど、そのへんも人それぞれでいいと思う。ボクは遅読だし、これくらいの冊数で充分である。

いずれにせよ、“月にどれくらい、本を購入するか”を決めておくと、都合がいいんですよね。

本の買いすぎ防止にもつながるし、「もったいないなぁ、やめておこう」とか、そういうのもなくなる。

「今月はこれだけのお金が使えるのだから」と、スムーズに本の購入ができる。

読書に予算を組むことによって、「もうちょっと待ってから買おう」とか、「いったん保留しよう」とか、躊躇する時間が減った。買いたいときにすぐさま買う、買うことができる。また、どれだけお金を使えるか、上限が決まっているから、安心してすぐに手を伸ばせる。

買うことを前提に予算を組んでいるから、お金を使うことに抵抗がない。予定した金額を使うのだから、むしろ“予定通り”となる。

また、事前に予算を組んでいるから、“積極的”に本を買うようになる。

本を読むことを前提に予算を組んだわけであるから、「買おう、読もう」という気持ちが強くなる。早速、予算で組んだ金額を使おうとする。

例えばボクの場合、月の初めにいくら使うか予算を組んだら、即座に欲しい本を購入する(なので、月初めの購入が多い)。

……で、買った本を読んでいるうち、一週間くらい経っているんですよね。で、読み終えたら、次の本を買う、読む。そうしているうち、いつの間にか月末になっている。給料がはいって、また読書の予算を組む。そして本を買う、読む……。

このサイクル、これ、所謂、“習慣”といわれるものだと思うんです。


***

『本を読みたいけど、なかなか習慣にならない』という人は、試しに一ヶ月で使う本の予算を事前に決めててみはどうでしょうか?

購買意欲および読書習慣につながるやもしれません。

……ちなみに「買いたい本」は、本屋に行けば見つかると思います。事前に欲しい本が決まっているほうが珍しいと思われます。

だれかのなにかの参考になれば幸いです。

それでは、@ryotaismでした。


「たくさん人と話すこと」VS「たくさん本を読むこと」


「たくさん人と話すこと」VS「たくさん本を読むこと」

どちらのほうが得るものが多いか?どちらを優先すべきか?どちらのほうが成長できるか?どちらのほうが自己実現の足しになるか?

どちらだろう?

と、バトルさせてみる。

結論をいえば、どちらも大事である。どちらも必要不可欠である。

「そんな簡単なこと、だれだって知っとるわ!キミは相当なバカなのか!」

まぁ待て。ボクだってわかってる。こんなことは実に不毛な議論だ。

ボクが云いたいのは、「ついついどちらかに偏ってしまわないか?」ということだ。

どちらも大事だ、だからこそ、どちらかに偏ることは良くない。


どちらも大事なのに、どちらかに重点を置いてしまう



キミは云う。

「たくさんの人と会おう!人と話すと、たくさんのことを学べる!直接人から聞く話のほうが心に響く!どれだけの人と会って、話をしたかが大事!」

反論気味に、キミは云う。

成功する者は皆、読書家だと聞く!一人で学習するということが大事だ!本には著者の人生がつまっており、知識が集約されている!たくさん本を読んで、たくさん学ぼう!」

まぁ待て。ふたりとも、ケンカするな。

「人と会うことを重視する人」は、社交の場に積極的に出向いて、多くの人と会う。が、本を読むということをサボっていないか?

「読書での学習を重視する人」は、それによって多くに知識を吸収する。 が、人との会話から何かを学ぶような機会が少なくないか?

どちらかに偏ってはいないか??

「読書も会話もバランスよく行っている」というのは、難しいものだ。

じゃあ、なんで偏ってしまうのか?

それは、自分の中でどちらかに重点をおいている、どちらかを優先しているからではないだろうか。


先ほどケンカしていたキミとキミ。

「本ばかり読んでたって意味ない!人と会うことのほうが大事!」と、読書という行為を否定気味に語ってはいないか?

「人といくら話をしても、本を読まない時点で話にならない!」と、社交性ある者に嫉妬に似た反骨心をもっていないか?

繰り返すが、どっちも大事なんだよ。人と会話するのも、本を読むのも、どっちも大事。

ところが、現状の自分には、どちらかが欠けているんだなこれが。

そこで、欠けているほうを軽んじようとする。

欠けているほうを『そこまでたいして価値のあることじゃない』と思うことで、欠けていることを正当化しようとする。また、自分が為せているほうを『意義のあることだ』と思うことで、さらに正当化を強める。


そうして、どちらかに偏っていってしまうのだ。

「たくさん人と話すこと」VS「たくさん本を読むこと」、両者の溝は深まるばかりである。

……ところで。

「そんなやつおる?(´・ω・`)」って思ったアナタ。

いや、いるんだよ、これが。

ここにいる。ボクだ、ボクのことだよ!

いやさ、ちょっと聞いてくれよ。

最近、思うんだよな。

ボクはひきこもって本を読むのが好きで。あまり人と会うことがない。

でもね、たまに人と会って会話するとき、すごくいろいろ学ぶんだよ。

決して読書だけでは得られないようなものを、得る。学ぶ。知る。

「あ~、やっぱ人と会話するって大事なんだな~」って、最近、強く感じて。

「お前いくつだよ!そんな当たり前のことに今さら気づいたのかよ!一生ひきこもっとれや!」って、キミは罵声を投げかけるけど、仕方ねぇよ。いまさらだけど、いま気づけてよかったよ。とりあえず。

でもさ、ボクだけじゃないと思うんだよ。

「たくさん人と話すこと」VS「たくさん本を読むこと」

どちらも大事なのに、どちらかのほうが優れていると思い込んでしまう心理。

そういうの、ボクだけじゃないと思うんだよ。ついつい、どちらかを軽んじたり、ついつい、どちらを重視しすぎてしまったり。

「どっちも大事!」、こんなの、当たり前のことなのにね。


たくさん人と話すことで得られるもの



『たくさん本を読むことで得られるもの』については、今回は語らない。想像つくよね、だいたい。

一方、『たくさん人と話すことで得られるもの』って、ちょっと不明瞭じゃない??

一体、人と会話することでナニを学べるのか?

よし、具体的にいってみるよ。具体的に。

“知識と行動”という概念をもちだすよ。

よく聞くよね?

“知識はあっても、行動を起こさなきゃ意味がない。行動を起こしても、知識がなかったら意味がない。”


両方必要で両方大事、という話なんだけど、

ボクの場合、『行動力』が全然ないんだよ。『実行力』と言い換えてもいいかな。

じゃあさ、どうやったら『行動力』って身につくと思う?

ボクはね、こればかりは、『読書だけでは絶対に身につかない』と思っているんだよ。

読書は、色んな知識や価値観を学べる。

でも、本を何冊読んでも、『行動力』は身につけることはできないんだ。

“人を変えるのは人でしかない”って、よく云うじゃない?

自分を変えてくれるのは、結局、人なんだよな。

本を読んだり、映画をみて、その考え方に強い“影響”をうける。でも、“行動”まではむすびつかない。

これ、なんでかって、結局、本は本でしかないから。紙切れだから。

でも、人との会話は違う。どう違うのか?

“同じ”なんだよ。同じ人間。

読書で向き合っているのが紙切れや言語であるのに対し、会話で向き合っているのは“同じ人間”なんだよ。


読書は“影響”、会話は“刺激”。

“刺激”というのは、“影響”よりも直接的だ。

“影響”ではなく、“刺激”がなければ、それは『行動』にはむすびつかない。


で、人との会話には、そういう“刺激”があるとボクは思うんだよ。

なぜかって、同じ人間だから。そして、「同じ人間なのに、同じじゃない部分がある」から。この、 “同じでない”という部分に、“刺激”が発生する。

人間は“同じである”ことに安心感を得る。自分と同じような人間がいたら、安心するよね? 相手が同じ価値観であるほうが落ち着くんだ。

でも、それがもし自分と違っていたら?同じ人間だと思っていたのに、同じではなかったら??

“刺激”が発生する。「これはマズイ」という危機感や、「ずきずき痛む」ような劣等感といった“刺激”が。

“同じであること”が安心を生むように、“同じではない”ということは不安を生むんだよな。

そして、そういった不安、“刺激”こそが、自分の中に『行動力』をうみだす。

話をもとに戻すけど、読書という行為ではそういった刺激は起きにくく、逆に、人との会話ではそういったことが起こりやすいんだ。

なぜなら、目の前の人間は“同じ人間”であるのに、“同じではない”から”。同じ人間であり同じように生きてきたつもりなのに、全然ちがう。

私とあなたとの間に、距離を感じる。不安を感ずる。

では、その両者の距離は何によって生まれたものか?

経験である、つまりは、行動してきた数である。

行動することの意味や価値を、そこでようやく知る。座っているだけでは何も変わらない、動かないと何も変わらないのだと気づく。「同じ人間であるのに同じではない」という眼前の事実によって、否が応でも知らされる。

……というふうに、

人の会話によって『行動力』を学んだり得たりできるって、ボクはそう思うんだよ。最近、そういうことが実際にある。あった。


***

「たくさん人と話すこと」VS「たくさん本を読むこと」という、まったく不毛なタイトルではあるけど、このようにAとBを比較したり、対立させることで、頭の中が整理されることがある。

まぁ、そういう話でしたよ。

色んな人と直接の会話をする、ボクには足りなかったこと。反省ですね。

そういうことで。@ryotaismでした。


FC2ブログの上部検索バーを消す方法


ネットを徘徊していると、FC2ブログに遭遇します。

で、いつも思うのですが、

「なんで上部の検索バーを非表示にしないのだろう?」
、と。


FC2ブログの上部に表示される「検索バー」

特別なことをしなくても、公式の設定から非表示にすることができます。ペナルティもありません。

“FC2”といえばア○ルト広告&ア○ルトコンテンツ、ア○ルト臭がひじょうにキツイところではあるので、FC2であるとわかるバーを非表示にしたいと思う人は多くいると思うのですが。

もしかして非表示のやり方を知らないのかもしれないな、と思ったので、やり方をのせておきます。



FC2ブログの検索バーを消す方法



設定から非表示にすることができます。HTMLなど一切いじりません。

■手順

【ブログ管理画面】 → 【環境設定】 → 【ブログの設定】 → 【検索バーの設定】 → 【利用しない】を選択 → 【更新】 → 完了



ひとつひとつを画像付きでみていきましょう。

まず、ブログ管理画面の左のほうある、【環境設定】を選択。



続いて、【ブログの設定】から、【検索バーの設定】を選択。



検索バーの利用で、【利用しない】を選択し、【更新】ボタンを押す。



以上で完了です。

試しに、自分のブログをひらいてみて、確認してみましょう。

レンタルブログのバーや広告を非表示にする場合、非公式でのやり方が多いのですが、これは公式のやり方で、ペナルティもありません。

特段、検索バーの表示にメリットがないなら、消してしまってもいいかもしれませんね。

以上、@ryotaismでした。



「時間を金で買う」という視野をもとう!


“時間を金で買う”なぞ云う言葉がある。

最近、ボクはこれを実践している。

なんだか贅沢なお話のようだけど、ボクは過去、えらく貧乏だった時期があった。

今でこそ普通に収入があるからそういったこともできるんだけど、そのときの記憶は完全にトラウマであり、あの頃に戻りたくないと心底思うし、必死こいて節約や貯金にいそしんでいる。

反面、“時間を金で買う”といったことも行っている。


どちらも必要だが、どちらかが欠ける


だいたい、次のどっちかなんだよな。

  • お金はあるけど時間がない
  • 時間はあるけどお金がない

だいだい、どっちかだよね。

ボクはね、今、“お金はあるけど時間がない”という状況だ。

『は? ナニ贅沢言ってんだよ。てめぇなんか、人としてクズの分際だろうが』って、まぁ待て。人並み程度の収入があるというだけの話で、今までボクは随分貧乏だったんだ。多少、斯様な言い分をしたっていいだろう。それに、この先、全く逆になる可能性は大いにあるんだ。ボクだってこんな発言をしていながら、違和感があるんだよ。

……でもさ、あれじゃないか。

「お金」も「時間」も、両方必要、両方大事だとは思わないか?


どちらか片方――どちらかに偏りすぎていると、不満足に帰結しちゃうんだよ。片方が欠けているために、何かが足りない感じ、満たされないんだよな。具体的には、「時間があるのに、お金がないからやりたいことができない」とか、 「お金はあるのに、時間がないから使い道がない」とか。

『そういうのを、“ないものねだり”のクズの分際っていうんだよバカが』って云うかもしれないけど、ボクが云いたいのは、両方のバランスが大事じゃないか、と。


「お金」と「時間」のバランス



「お金」と「時間」、どちらかが極端にあってもいけないし、かといって、どちらも満たそうたってそうはいかない。

うまく両方のバランスをとって、どちらもそれなりに満たせたらいいんじゃないか?って。

たとえば、“お金はあるけど時間がない”という状況であるなら、時間をお金で買ってみる。

逆に、“時間はあるけどお金がない”ならば、その時間をお金を稼ぐことに費やしてみる。

そうすると、片方は削れて減ってしまうけど、もう片方は増えるよね。

そして、それぞれを同じ高さ、同じ量に調整しみる。

「お金」と「時間」、どちらかに偏らないように心がける。

ボクなんて、独身のボンクラだ。物欲もまるきし無い。

使い道がないんだから、節約せずともお金が貯まる。

かたや、“時間が充分にある”とは言い難い。

深夜に帰宅して、翌日は早朝で、休日は溜まった疲れから昼すぎまで眠りこけている。

進撃のニートであった頃と比べると、「やっぱ時間がないなぁ」などと思うんだよ。あつかましい話だけど。

でもそこで、「まぁ仕方ねぇな」と開き直るのはいかがだ?

そんなとき、この言葉がおりてくる。

“時間を金で買う”

うまくお金を使って、時間を短縮する、時間をつくりだす。

例えばさ、こんなふうに。

「映画みたいなー。レイトショーなら安いし、ちょっと待つか」

じゃなくて、“時間を金で買う”つもりで、1800円払ってすぐその場で観る、とか。

「サランラップなくなった。スーパーなら安いし、スーパーまで買いに行こう」

じゃなくて、近くのコンビニで200円のサランラップを即座に買う、とかさ。

バスの待ち時間がけっこうある場合、ワンメーターで行ける距離ならタクシーを利用する、とかさ。

“時間を金で買う”っていったって、そんな大きな話じゃない。

こういう、『身近なこと』をボクは言っている。

何万も使って“時間を金で買う”わけじゃあない。

わずかな金額で、時間をつくりだせるなら、時間を金で買ってみてもいいんじゃないか。

お金の節約は大事だ。そりゃあ大事だ。無駄遣いはよくない。金がなきゃ、時に死ぬ。

でも、時間も同じくらいか、もしくはそれ以上に大事だ。人生を大切にしたいと思うならば、「時間をどのように過ごすか」をボクらは考えるだろう。


「お金」と同じくらい「時間」も大事



“時は金なり”、なんてことを先人は云う。時間は取り返せない。やっぱり有限で、貴重なシロモノなんだよな、時間は。いつか必ず死ぬ定め、すなはち人生とは、終わりがやってくる『限られた時間』のことに他ならない。

“時間を金で買う”、これはお金の無駄遣いではない。過剰な贅沢でもない。

「お金を節約する」のではなくて「時間を節約する」という、堅実なる『節約の部類』なのだ。

お金は大事だから、ついついお金を第一優先にしてしまいがちだ(まして貧乏な過去があったら尚の事そうだろう)。が、それと同じくらい、時間も大切にしてみてはどうか?

現状、もし両者のバランスにおいて、「お金」のほうがちょっぴり多いなら、少しだけお金を投資してみても、大きな損にはならないだろう。同じ量/同じ高さになるよう、バランスよく両者の釣り合いをとる。配分する。調整する。

時間もお金も、どちらも必要であるし、欲しているのだから、「どちらかが物足りない」という不満足の度合いを減らすことに努めてみる。

『“時間を金で買う”なぞ、てめぇには100年早ぇわ』って話だけど、現状における「お金」と「時間」のバランスがどうであるかを冷静にみつめ、その時時の状況にあわせて微調整することは、お金の使い方と時間の過ごし方と、誠実に向き合っているようにボクには感ぜられる。

時には、“時間を金で買う”。

斯様なる贅沢の所業は、不遜な態度のように思われて、ついためらってしまうものであるが、少しでも有意義な時間をつくりだせるならば、それは歴とした、真っ当な「お金の使い方」であると思う。


お金を優先しすぎて時間を見失うことは、どうしたってある。

が、“時間をお金で買う”という視野と行動は、お金だけでは満たせない、物足りなかった部分を埋めることを時に可能せしめるだろう。


***

以上、ちょっと思ったことを書いてみた。

節約や貯金ばかりに執着してしまって、時間を蔑ろにしている自分を省みた。

にしても、数年前のボクには考えられなかった文章を綴ってしまった。なんだこれは?たいしてお金もないくせに。どういうつもりだ?阿呆だな私は。

それではまた。@ryotaism




「相田みつを」から学んだこと:“これなら自分にもできそう”と思わせる凄さ


ひょっとしたら、最近の若い子は知らないかもな……。

が、次の言葉なら耳にしたことくらいはあるかもしれない。

つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの

詩人であり書家として有名な、「相田みつを」さんの言葉である。

多くの人生訓を残した彼の言葉は、今も多くの人を勇気づけている。

言葉だけではない。“へたうま”ともいえる彼の書体は独特な味わいがあり、高尚で堅苦しいイメージのあった書道を、一般人の日常生活になじませた。

僕が高校生の頃、相田みつをは爆発的に流行した。

彼の人生訓がのったカレンダーをトイレに飾ったり、“にんげんだもの”という言い回しを真似る者もいた。

一時期のブームの頃と比べれば、今はいくらか沈静化しているが、当時は本当にすごかった。僕のような田舎の高校生ですらその名を知ってたほどである。



「相田みつを」の書



ところで、僕は以前、書道をしていたことがある(今はめっきり筆を持たなくなったが)。

ちなみに、相田みつをに影響を受けて始めたのかというと、全く以てそんなことはない。「たまたま暇で、何気に書道したらハマった」、筆をとったきっかけはそんなもんであった。

彼の名前や作品を初めてみたのは高校の頃であるが、そのときはなんとも思わなかった。

僕が相田みつをに興味を持ち始めたのは、書道を始めた"後"のことである。

「そういや、相田みつをっていたな。書道やってたな」

そんなことをふと思い出し、書道を始めたばかりの僕は、勉強がてら、相田みつを美術館に行ってみたのである。

まことに失礼な話であるが、そのとき、僕はこう思ったのである。

『これなら僕にも書けるんじゃないか?』、と。

繰り返すが、このとき僕は初心者である。書道の"し"の字も知らない、知識もない、右も左もわかっていない初心者であった。また、怖いもの知らずでもあった。

そんな状態であったからこそ、「僕にも書けそうな字だな」と思った、思ってしまったのである。

が、言うまでもなく、そんなにうまくいくはずがない。

書道の基礎がしっかりしてなければ、彼のような文字は書けないのである。基礎があるからこそ、あのように文字を崩せるのである。

つまり、『誰だって書けそうだけど、誰にでも書けるものではない』ということ。

ピカソにおいても、そのようなことはよく言われる。優れたデッサン力があるからこそ、正しく“ハズせる”のである。

だれが言ったか忘れたが、つまりは、“型があるから型破りが出来る、型が無ければ単なる形無しにすぎない”、ということ。



「自分でも書けるんじゃないか?」と思わせること



さて、本題にいく。今回、僕が最も言いたいこと。

相田みつをの書道が芸術的にどうであるか、書道としてどうであるかなんてのは、僕にはわからない。書道ツウのなかには否定的に語る者もいる。

が、そんなことはどうだっていい。そんなところに“真価”はない。

『こんなの、自分にも書けそうだ』と思わせたこと、それこそが彼の書の真価であった。


これは相田みつをに限った話ではない。

「有名で、世の中に評価されているけど、なんでこれが評価されるのかわからない。これなら、この程度なら、自分にだってできそうだ」、そのように思わせるものが世の中にはある。

僕はそういった作品および作り手を、高く評価している。


実際、やってみればわかるように、そんなにあまくない。

その奥深さ、難しさに、やってみて初めて気づくのである。

そこで辞める者もいれば、一層勉強して続ける者もいる。

いずれにせよ、何かしらを学ぶ。

「これなら自分にもできそうだ」と思って、自分も実際やってみる。そして学ぶ。

“自分にもできそうな”作品と出会い、それをきっかけに取り組み始めることがある。

“自分にもできそうだ”と思わせる作品、それは『人を動かす作品』である。

であるからこそ、僕はそのようなものを高く評価したい。

逆に、例えば書道でいうと、「なんて書いてあるかわからないけど、すごい。自分には真似できない圧倒的な技術を感じる」、そのような書道作品は、すごいけれども、人を遠ざけてしまうことがある。残念ながら、「自分にはできない」と観客に思わせてしまうのである。

比べて、「自分にもできそう、こんなの余裕じゃないか」と思わせる作品は、最初、上から目線で語られるが、それがきっかけで火がつき、その世界へと連れていく、良い意味での“ハードルの低さ”をもっている。

「私にもできる」と勘違いして、実際にやってみる。

もちろん、その後、圧倒的な壁にぶち当たるのだが、実際に行動を起こしたこと、起こすきっかけとなったことに価値がある。以前よりも、少しだけその道を知れたことに成長がある。

技術力や努力量を見せつけ、「だれにも真似できないだろう」と言わんばかりの作品。それは確かにすごいし、仕事もまいこむだろう。

しかし、「すごい」の一言で済まされてしまう恐れがあって、それは「無関心に通り過ぎられること」とほとんど同義である。

それならば、「こんなの私にでも書ける、作れる」と思わせる、立ち止まらせるもののほうが価値があると僕は思う。

そういった作品は、観客に行動を起こさせる力がある。『人を動かす作品』といえるのではないか。

以上のことをふまえたうえで、冒頭に記した彼の言葉を再度のせておこう。

つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの


***

誰にでも書けそうと思わせておいて、実は、誰にでも書けない。

彼の作品が芸術的にどうであるかは、僕にとってはたいした意味をもたない。

仮に、彼の作風を真似て、実際に書けたとしても、“誰にでも書けそう”と思わせたことに真価があった。

ではまた。@ryotaismでした。




応援がほしいなら『応援の仕方』を提示すること――「売れたい」という公言


なんでもそうかもしれない。

売る気があるのかどうかって、大事。

なんでかって、わかりやすい『応援の仕方』を提供しているから。

「は?どういうこと?わかりにくすぎ!」

う…申し訳ない。

ボクはね、こう思っているんだよ。

応援したくても、応援の仕方を教えくれないと、ファンは応援のしようがない。



『応援の仕方』を提供する



応援したい気持ちはあるんだよ。すごくある。

彼の音楽や彼の人柄が好きだし、応援したいんだよ。

でもね、なにをどうしたら、その歌い手の応援につながるのか、わからない。

歌い手さんのほうから『応援の仕方』を提示してくれないと、わからないんだよ。

なぜなら、あくまでも私は「ファン」であって、歌い手さんの身近な友達というわけではないから。

「ファン」っていうのは、なんだかんだ、「歌い手の外側にいる存在」なんだよ。だから、向こうから教えてくれないと、わからない、届かない。こちらから聞くことができない場所にファンはいるんだ。


もうじき、恋人の誕生日だ。

なんのプレゼントを買ってあげようか?

そこで、「今度誕生日だよね。ほしいものは何?」って、恋人に直接聞いたことありませんか?

何をあげたら喜んでくれるか、わからないときがある。

おかしなプレゼント送るくらいなら、相手に直接聞いたほうがいい。それなら間違いなく喜んでくれるから。

喜んでもらいたい。だからこそ、喜んでもらうために、「相手が一体何で喜ぶのか」を事前におさえておくと安心できる。

ファンっていうのもコレと似てて、「何をすれば応援につながるのか」を知っておくと、応援がしやすいんだ。

でも、「ファン」は恋人ではないから、直接聞くことができない。

だから、歌い手側のほうから「俺、これが欲しいんだよね」って言っておく必要がある。

ファンと歌い手の関係性。

両者の間には、確かな距離があるんだよ。ファンからは届かない距離が。

なので、『応援の仕方』をアーティストのほうから提供することが重要。こちら側から言わないとわからない、伝わらないんだよ。

あえて、わかりやすい例をあげてみる。

「CDを○枚売る!」とか「武道館でやるのが夢!」とか「投票してくれたらセンターで踊れます!」とか、そういうの。

これ、効果的なんだよ。意味がないように見えて。

こうすることで『応援の仕方』が、いくらかわかる。

いや、別にここまで具体的じゃなくてもいい。

「売れたい」「有名になりたい」、この程度の発言でもいいんだよ。

目標がわかれば、あとは、ファン側でも想像が自然に働いて、「こうすれば売れる、有名になれる」ってのは判断できる。行動にうつせる。

目標を言葉にすることで、ファンは、その目標を共有することができる。

みんな言うじゃないか。“夢はひとりじゃ叶えられない”、とか。

片方じゃない。ファンと歌い手、両方で歌い手の「ひとつの目標」を叶える。

共同作業で夢を叶えていくんだよ、ファンといっしょに。

そのためにも、ファンにみえるように言葉にして、目標を視覚化させることが大事で、そうすることで、ファンは『応援の仕方』を知り、実際の行動にうつすことできる。

ファンは「応援したい」という気持ちを満たすことができるし、アーティスト側も、欲してやまない「応援」をうけられる。一挙両得。

……だのに、彼らは、歌い手は、「売れたい」という思いや「具体的な目標」を、積極的に公言しなかったりする。



なぜ「売れたい」と公言しないのか?



「売れたい」「有名になりたい」「音楽活動においてこれを達成したい」、

このように公言する人って、いるようで実は少ない

お笑い芸人の中には、たまにいる。

闘士むき出しで、「あー、売れたい!テレビにでたい!」と言う人が。

ところが、歌い手には少ないように思う。

かなわなかったら赤っ恥だから。あるいはプライドがゆるさないから。または、単にシャイだから。

「すべては歌で表現する」とか思っているのかもしれないが、詞やメロディーは抽象的であるから、だいだいは伝わりにくい。

堂々と公言しないのには、いろんな理由があるだろう。

が、それじゃあ、いつまでたってもファンは、応援したくても『応援の仕方』がわからないままなんだ。

もしも自分の中に、実現したい志や欲求があるなら、そしてそれを叶えるために『応援』が必要であるなら、言葉にして公言し、それが叶うための『応援の仕方』を提供しないといけないんじゃないか。

“言葉にしなきゃ伝わらない”、こんなことは至極当然なことだ。

しかし、なぜか言わない。言おうとしない。

プライドなのかなんなのかわからない。

でも、ファンのことを想うなら、応援してくれる人のことを想うならば、彼らの「応援したい」という気持ちを満たすことも大事じゃないか。両者が長く、良い関係を続けていくためにも。

「応援している」という実感がなくちゃ、応援し続けられない。そのためにも、『応援の仕方』を提供してみてはどうか。

そして、今回、最も書きたかったこと――。

「売れたい」と公言することは、汚いことじゃない。「目標」を口にすることは、無粋なわけではない。

それのどこが汚いんだ?それのどこが“芸術的じゃない”のだ?

がんばっているということじゃないか。

人はがんばってるやつを応援する単純な生き物。「がんばる」とか「努力」、それ自体を否定する人なんて、ほとんどいないんだよ。

かっこわるいかもしれないが、かっこつけることよりも、かっこいいと思う。

「売れたい!」とか「有名になりたい!」とか、もっと声高に言っちゃっていい。

「売れたい」と、堂々と公言することは、むしろ清々しい。

なにを考えてるのかわからないことよりも、実は腹の底で何かを企んでいることよりも、ずっと気持ちがいい。わかりやすくて、応援がしやすい。

ついていけない独善的な歌い手のプライドなんかよりも、はるかに見ていて人間臭い。「バカだなぁこいつ。なんだよこの単純な向上心(笑)まぁ、ちょっくら応援してやるか」ってなる。(人間が単純な生き物なら、たぶんそのはずだ)

というより何より、ボクはそういう人のほうが好きなんだよな、という話。かっこつけのプライドを守り続けるよりも、単純で幼い「夢を語る人」をボクは応援したい。


***

以上です。

感情的に暴走気味に書きなぐってしまったので、誤字脱字、支離滅裂があるかもしれませんが、すいません。ブログとかやっててすいません。

以上、@ryotaismでした。


こちらの記事もどうぞ♪




「note」とは?:歌い手は今すぐ始めてみよう!


ご存じですかね?

「note」という最近できたSNS。

いちおうボクも登録しました。

「『note』、なにそれ?」

うん。話題になっているので、知っておいて損はないと思います。損したらごめん。

これね、歌い手さんにうってつけのSNSサービスだと思うんですよ。

そういう話を少しだけ。



note ――つくる、つながる、とどける。



「note」、簡単にいうと、以下。

・トーク(Twitterのような短文)
・イメージ(写真やイラスト)
・テキスト(ブログのような文章)

・ムービー(Youtubeなどの動画)
・サウンド(すぐに再生できる音源)


これらを「note」というプラットフォームに投稿して公開できる。

Twitterっぽいのだけど、投稿できるのは、「つぶやき」だけじゃなくて、画像や動画、サウンドなど、いろいろできる。

また、Twitterのようにフォローしたり、Facebookのように「いいね」をできたりする。

さらに、コンテンツ単位での課金も可能。


まぁ、こういうサービスですよ。簡単にいうと。

さまざまなSNSの"イイトコどり"をした感じ。

が、noteならではの特徴がある。

このサービスの最大の特徴が、『コンテンツを販売できる』というところ。

だから、クリエーターとかに向いているSNSだと言われている。


これが、これこそが、noteの特徴であり、強み。

さて、、、“クリエーター”といっても、さまざまです。

どのクリエーターに向いているか?

特に、“歌い手さん”に向いているSNSだと思われます。


(すでに多くの歌い手がnoteに参入してますが、まだ始まったばかりのサービスなので、興味ある歌い手さんは早めに登録したほうがいいかも)

「オリジナル音源を売る」ということに長けています。

ひじょうに、“売りやすい”、そして“買いやすい”。

まず、単純に、ファンの方はフォローしてくれるでしょう。

「フォローしてください」と言うだけです。ライブやTwitterやブログで。

あとは、音源をのせます。(たとえば、100円で売ります)

ファン(フォロワー)がそれを購入します。

一曲単位で気軽に発表・販売できるし、購入手続きも簡単です。

なにも、マジでつくった歌をアップする必要はありません。

デモ音源でもいいです。一曲100円くらいにして。

100円だから、売るほうも買うほうも、ハードルは高くない。

そういう、“気軽さ”がnoteにはあります。

また、音楽PVなどの動画も投稿できます。

以上。たったこれだけです。

『え! なに! たったそれだけでこんなにも偉そうなこと書いているの? 消えて! いますぐ消えて!』

ごめん。ちょっと詳しく書いてみる。



「note」が歌い手に向いている理由



まず前提として、これはiTunesやamazonで売るのとは全く異なります。

noteはあくまで、SNSだから。

フォロー・フォロワーというのがあって、そこにはコミュニケーションが存在する。

一方的に売る、売り専の「販売サイト」ではないということ。

Twitter的な日常のつぶやきもそこにはあるし、気軽にコンタクト・やりとりもできるし、何気ない「いいね」もできる。

noteは、ガチガチの、CD販売サイトではない。ショッピングサイトではない。

あくまで、プラベートに寄ったSNSの空気感なのです。

ガチガチの販売サイトではなく、肩の力もぬけているから、100円程度であれば、ポチッとクリックして買っちゃう。「いいね」を押す感じで買う。つまり、“買いやすい”、そして“売りやすい”。


なにか、金の亡者的な感じで、印象の悪い文章ではありますが、、、

やさしい言い方をすると、「買い物」というより「試聴」や「応援」に近いんですね、コレ。感覚でいうと。

さらに、Twitterのつぶやきや、ブログの長文も、noteという同一場所で発表できる。これが最たる強みかもしれない。

以前、このブログでも書きましたが、

ファンというのは、ブログやTwitterで歌い手の日常や普段の顔をみたいのであって、それを見せることが非常に重要です。『音楽の顔』よりも、『プライベートの横顔』を見せること。


(詳細記事:ライブ告知するブログがつまらなくて悲しくなる理由

noteでは、プライベートの横顔を見せつつ、同時並行・同一場所で、音源を販売できる。いわば、一石二鳥なんです。

したがって、歌い手にとっては、これ以上ない、うってつけのSNSサービスではないかと思うんです。

ハズしたら申し訳ありませんが、ボクは本当にそう思います。思いました。


***

てか、アンテナを張っている歌い手さんはすでにnoteに参入していますね…。

興味ある方は登録してみてはどうでしょうか。

あ、もちろん、音楽とか関係なく、クリエーター全般に向いてるsnsサービスだと思います。

こちらからは以上です。@ryotaismでした。




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売れなきゃ意味がない?『売れている音楽=いい音楽』ではないけども。


そこらじゅーで言い尽くされている議論ですが。

「売れている音楽」=「いい音楽」とは限らない、という話。

んなもん、当たり前ですよね。

“売れているものが良いものなら、世界一のラーメンはカップラーメンだよ。”とは、甲本ヒロトさんの言葉ですが、まったくその通りで。

(でもあれですよね、「いい音楽」とか「売れている」とか、定義が曖昧だ。そのへんは厳密にしたところで“おもしろくない”ので今回はやめておきましょう、うん。)

売れているものがいいものとは限らないわけです。

さて、いきなりですけど、大別します。横暴ですいません。


  1. 『売れなくてもかまわない、いい音楽をつくるんだ』という精神
  2. 『売れるものがいいとは限らない、でも売れなきゃ意味がない』という精神
  3. 『いい音楽をつくれば、いずれ売れるだろう』という精神 


上記、3種類のタイプがいると思うんですよ。大別したら。

(3番目のタイプは、後述しますが、いちばん苦手です。)

どの態度が健全な音楽マンシップであるかなんて、わからない。

好みの問題。「好み」で甲乙つけるしかない。

ということで、「好み」を綴っていきます。好みの話ですよ、今からするのは「好み」の話ですよ(しつこい)。



『売れなきゃ意味がない』という精神



ボクは2番目の、“『売れなきゃ意味がない』という精神”が大好きです。

「売れているものが正義」とか「売れなきゃ何もいう資格がない」とか、そういうことじゃなくて、んなこと全く思っていなくて、ただ単純に、そういった“精神”が好きなんです。

『売れていないなら、どれだけいい音楽を作っても意味がない』
という精神って、なんか、わかりやすいじゃないですか。

良し悪しの基準がわかりやすい。さらに、“売れなきゃ意味がない”というストイックさもそこにはあって、好きです。

逆にね、『売れなくても、いい音楽ならOK』という精神は、なんだか苦手です。

「え!? 売れたくないの?? いや、嘘でしょ!なんでそんな嘘つくん!?」とか思ったり、なんで堂々と「売れたい」と公言しないのかもわからない。「正直さ」がどこにあるのか、それが正直な思いなのか、判断するに戸惑う。

あ、でも、いるんですよ。

『売れなくてもかまわない、いい音楽をつくるんだ』という、めちゃめちゃ純粋な精神をもった人。純然たる音楽マンシップをつらぬく人。

こういう人って、いる。いや、いるんだよほんと。

そういう方々は、なんというか、“向こう側の世界”にいるんだよ。音楽の住人で、狂信的で、ほかのことが見えないほど、「音楽=我が人生」という人。「売れる」とか、そんなこと考えたこともないし、全く興味がないという人。

こういう人は実際いる。

いるのだけど、“向こう側”にいるんです。

その熱量は、ボクみたいな音楽ミーハーには共感ができない。ついていけない。なので、述べようがない。なにも言いようがないので、「そうですか、わかりました。以上です」で終了。

他方、『売れているものがいいとは限らない。でも、売れなきゃ意味がない』という精神、これはちょっとわかるんですよ。わかりやすいから。


「売れたい」「好きなことを職業にしたい」「お金がほしい」とか、そういう欲望、これは理解できる。ボクにだって、そういう気持ちがあるから。

だから、『売れなきゃ意味がない』という精神は、他者と共有できる、理解がしやすいんですよね。

『いい音楽をつくりたい』という欲望はボクにはわからないけど、『売れたい、売れなきゃ意味がない』という欲望ならわかる。その“モノサシ”なら、ボクも持っているから。

結果、ボクの「好み」は、必然的にそちらに決まる、と。

いや、冒頭で連ねた3タイプ、おそらくどれも、「いい音楽をつくりたい」という気持ちと「売れたい」という気持ち、どちらももっているのだろうと思う。

でも、優先順位というか、「何を必須としているか?」が異なる。

『売れなきゃ意味がない』という人にだって、“いい音楽を作りたい”という気持ちはもちろんある。けれども、それよりも大事なこととして、『売れること』を必要不可欠、必須条件としている。

いい音楽をつくる、んなもん、当たり前っちゃ当たり前の話だ。

さらにその上をいこうという態度、『いい音楽であっても、売れなきゃ意味がない』という発想が、精神が、ボクは好きなんだ。

共感もできるし、又、ストイックでもあるから。



『いい音楽をつくれば、いずれ売れるだろう』という精神



さて、ある意味、今回の本題にいきます。

コレですよ、問題なのは。

『いい音楽をつくれば、いずれ売れるだろう』という精神

これはね、「主体性の問題」だと思うんですよ、これに関しては。

他人に任せの、楽なやり方を選んでいるように感じる時がある。他己本位というか…。

『いい音楽を作り続ければ、いずれ認めてくれる』という精神は、ちょっと解釈をかえれば、『人に認められる』という課題を人任せにしているんじゃないか?

「一旦、ほうっておく。その『難しいこと』は、いずれなんとかなる」、そんな気持ちがあるんじゃないか。

それって『向き合っていない』感じがするんですよ、売れるという課題に対して。「きっとなんとかなるだろう」って、それって、見方によっては、「避けている」ようにも見える。

こういうタイプは、得てして、コンクールとか賞レースには参加しない人が多い。(というか、苦手)

理由は、他者の視界にコチラ側から入ろうは思わないから。『いい音楽を作っていれば、いずれこちらに目を向けてくれる』と思っているから。

はたして、そうなのかな?

『いい音楽を作って待っているだけ』で、他者はこちらを向いてくれるのかな?

「いい音楽作れば、いずれ認めてくれるだろう」って、その根拠も曖昧だし、何より、主体性に欠けていないか、と。

「自然発火」を待っているようなもの。

極端な話、「たきぎと新聞紙とマッチは用意した。あとは、ほっといたら火がつくだろう。だれかが火をつけるだろう」と、待っているようなもの。

「棚からぼた餅」的な発想で、つまりは、『幸運待ち』なんですよね。

『いい音楽をつくれば、いずれ売れるだろう』という精神、その好き嫌いにおいて、ボクのネックとなっているのは、『待っている』というところ。

それは、ボクの『好み』ではない、そういうのは好きだと思えない、という話。『好み』の話です。

「他者の視界には何がみえているか?そこに自分がうつるにはどうすればいいか?」、他者の目線や存在を意識し、「売れる」ということに繋げる“主体性”が好きです。ボクはそのほうが「好み」です。


***

今回もまた、えらそうなことを書いてしまった。

まったく、「なんだこいつ生意気だな、死んでしまえ」という感じだろう。

これ以上、生き恥を晒してどうしたものだろうか。助けてください。

以上、@ryotaismでした。


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『死者のための音楽』山白朝子:読書感想

『死者のための音楽』

山白朝子『死者のための音楽』を読み終えた。

んー、おもしろい!おもしろかった!

ジャンルとしては、ホラー小説になるんだけど、背筋の凍るような“恐怖”はなかった。どちらかといえば、“切ない”だね。テイストは、昔話風の“怪談”。

Kindle Paperwhiteを所有しているので、Kindle版を購入しようか迷ったのですが、表紙が気に入ったので、単行本で購入しました(´・ω・`)




『死者のための音楽』(山白朝子)


教えたこともない経を唱え、行ったこともない土地を語る息子。古い井戸の底に住む謎の美女。すべてを黄金に変える廃液をたれ流す工場。身元不明の少女に弟子入りされた仏師。山に住む鬼におびえて暮らす人々。父を亡くした少女と、人が頭に思い浮かべた物を持ってくる奇妙な巨鳥。生まれつき耳の悪い母が魅せられた、死の間際に聞こえる美しい音楽。親と子の絆を描いた、懐かしくも幽幻な山白朝子の怪談7篇

収録作
「長い旅のはじまり」
「井戸を下りる」
「黄金工場」
「未完の像」
「鬼物語」
「鳥とファフロッキーズ現象について」
「死者のための音楽」




感想:「気づけば“別世界”に連れて行かれている」


まずね、"一作一作が非常に短い"

なので、例えば、「仕事が忙しい」とかいう人でも、容易に読める。気軽に読める。時間のある学生なら2~3日で読み終えられるだろうと思う。

では、一作一作が短いゆえ淡白かといえば、そんなことはない。


どれも味わい深く、何より、構成・プロットがしっかりしており、「おー、なるほど!そういうことか!」と感心したり、続きが気になる「謎解き要素」もある。

なので、時間がなくても読もう!読もうぜ!

……さて、わけのわからないゴリ押しはさておき。

ホラー要素に関してであるが、これについては過度な期待、というか「偏見」をもって読まないほうがいい。怖さ、恐怖感はない。深読みすると「怖いなコレ…」という部分はあるものの、怖さを全面押ししている作品群ではない。

藤子・F・不二雄は、「SF」を「サイエンス・フィクション」ではなく、「すこし・不思議」という意味で用いた。

感覚としてはこれに近かった。すこし、不思議。

日常の中に、非日常が絶妙にうまくすべりこむ。

最終的には、とんでもない別世界に連れて行かれる。

『あれ?ココどこ??』と、自分でも気づかないうちに、いつの間にか、この世とは"別の世界"に連れて行かれている。

“怖さ”というより、“不思議な感覚”に襲われるというのが、評するに丁度いいんではないかと思う。

さらに、“切ない”んだよね。

つまり、どれも『人と人との物語』なんだと思った。生々しい人の思いや感情が、結局は、すべての発端となり、又、結末となっている。

なお、昔話風の怪談ばかりでなく、『黄金工場』『鳥とファフロッキーズ現象について』『死者のための音楽』などは、現代のお話といって差し支えない。

ちなみに、収録7作のうち、『未完の像』『鬼物語』がボクは好きでした。『鬼物語』の構成というか、順序立てというか、思わず唸ってしまった。サラッと簡単に、このようなプロットを組めているのだとしたら、「どんだけの才だよ!」と思う…。

どれもすぐに読み終えられる作品なので、時間のない方もぜひ。おすすめです。@ryotaism




「一人でいるのが好き」に潜む、充足と寂寞


私は「一人でいるのが好き」だ。

かといって、「誰かといるのが嫌い」なわけではない。

私だって友達と遊ぶ。飲み会だって行く。カラオケだって行く。職場では人と会話もする。

しかし、どちらかといえば「一人でいるのが好き」だ。

一人でいるのがイチバン落ち着く。

『そんなの誰だってそうだよ。一人のほうが落ち着くよ』

うん、そうかもしれない。

しかし、どうやら、少々その度合が大きいように最近感じる。

たとえば、友達などから「恋人と同棲している」などと聞くと、正直、考えられない。信じられない。

同棲すれば、おのずと「一人でいる時間」が減る。ちょっと考えられない。

また、休日になると、「だれかと遊びたいな―」という感情が起こらない。

『休日=だれかと遊ぶ』ではなく、『休日=一人の時間がもてる』という発想につながってしまう。


つまりは、「一人の時間」が好きなのであり、「だれかといる時間」よりも優先してしまうのだ。

「一人でいるのが大好き人間」――。

しかし、最近、「これではちょっとマズイんではないか」と危惧するようになった。

というのも、「もしかして、このままこうして私は死んでいくんじゃないか?」という、なにか、人生の全貌が見えてきてしまって、そういった末路は、はたして私が望む最期なのであろうかと、ふと疑問を感じる。

“このままこうして死んでいく”、というのは、一人の時間を一人で過ごし、淡々と終わっていく、「あっさりとした生涯」のことである。

このままあっさりと終わっていくんではないか、そういった前途、生涯の全貌のようなものが垣間見えて、それはまるで、先細りしていく一本道を黙々と歩き続ける人生のようであり、「おちつきすぎだ、俺の人生、単純化されすぎている」と思うのである。

なにか、こう、"心と心の共有"みたいなものが必要なんではないか。欠けているんではないか?

私が思っていることと他者が思っていることがシンクロする、共鳴、通じ合う心と心――、そういった他者との一体感が欠けている。

具体的にいえば、「いっしょに笑いあう」「いっしょに好きなことをしゃべりあう」といった、目と目をあわせて、時間と空間を他者と共有することである。

今の私は、時間と空間を、自分一人で、自由に、自分のものにしている。不穏因子が無く、穏やか。マイペース。個人的充足感に浸っている。

すべて、想定の範囲内で生活しているのである。

これじゃあ、“ミラクル”が起きない。

突然に幼稚な語を用いて申し訳ないが、この、“ミラクル”という言葉ほど、今の私に欠けているものはない。

“ミラクル”――、それすなわち、ふいを突かれるような、突如まいおりる圧倒的充足感のことである。それは「一人の時間」で得る“個人的充足感”とは異なる。安堵ではない。

一度や二度は経験したことがあるかもしれない。

『あぁ、しあわせだなぁ』と、何気なく、ふいに思う瞬間。つい、ぽろっと、『あぁ、しあわせだなぁ』という言葉が口からこぼれる、あの妙な幸福感――人生を全肯定する、あの感覚。

隙間なく満たされた私の時間と空間。


なにひとつ、そこには異物が無い。なにひとつ、否定がそこには存在しない。

すべてが認められている、すべてが許されている、すべてが"YES"――。満ちている、満ち満ちている。

そうして、ふいに、私は口にするのである。

『あぁ、しあわせだなぁ』、と。このうえない、やさしい表情で。

そんな瞬間を経験したことはないだろうか?

そして、そのとき、あなたは一人だっただろうか?

心から幸せだと思う瞬間、私は一人だっただろうか?

時間と空間は、私一人では満たしきれないのではないか。どこかに“隙間”ができてしまうのではないか。


他者、世界――つまり、自分の外部と共鳴し、溶け合い、一体化することでしか、この時間、及び、この空間は、満ちない。自分一人では、どこかに“隙間”ができる。その“隙間”こそが、決定的に、我が生涯への物足りなさを生む。隙間より吹く、糸のように細い風を、その冷たさを、常に肌に感じながら、私はこの世界で一抹の疎外感を思うことだろう。細々した一本道を、一人歩きながら――。

共鳴する、感じ合う、心と心を合わせる、時間と空間を共有する、それは時に、愛と呼ばれ、友情と呼ばれ、本件においては“ミラクル”と称す。いずれも全くダサい語ではあるが、どうやら、そのような格好悪い目にあわねば、この“あきたりない思い”は成仏しないようである。

欠けている――、斯様なる“ミラクル”が現状、私の「一人の時間」には欠けており、淡白、それはあまりに淡白な一生であって、はたして私にその道を引き受けるだけの「諦め」があるだろうか。満足、「一人の時間」に満足しているが、「そこに安住し続けるのか?」と問われたならば、それだけではいけないような気がして、回答に躊躇する。一人、独り、ひとり、ヒトリ……に潜む、個人的充足感と、「それでいいのか?」と異議を唱える疑問符との相克は、早々には済まない。

さて。されど、かく言いつつも、やはり「一人の時間」が好きであるという性分は、しばらくは捨て去れないように思う。譲れない安堵が確かにあって、そればかりになってしまう傾向から容易には抜け出せないだろう。ややもすれば、垣間見た全貌のように、“このままこうして死んでいく”やもしれない。というのも、斯様な“自分語り”を一人書き綴っている時点で本末転倒――呆れて仕方がない。@ryotaism




『明日やることノート』を始めてから生活が少し変わったぞ!


ドジでマヌケでズボラな私が、今年から始めたこと。

『明日やることノート』

"明日やることを、前日の夜にノートに書き留めておく"

たったこれだけである。


いかにもバカが考えそうな、幼稚な作戦である。

が、『明日やることノート』、これがなかなかイイ。

まだ初めて3ヶ月程であるが、なかなか効果がある。


どういった“効果”が見込めるか。例えば、以下のようなこと。

  • 意識を高く保てる
  • すぐに作業に取り掛かれる
  • 習慣や継続をつくる
  • 効率よく計画的に一日を過ごせる

などなど、これら以外にも、いろいろとメリットはあるだろう。

「明日やることを前日に決めておいたほうがいい」、こんなもんは当たり前である。

しかし、それができていなかったのだから、よほど私は怠惰な人間である。

そんな私が、無計画に生きてきた半生を反省して、『明日やることノート』を始めた。

はっきりいって、めちゃめちゃ簡単である。

さらに、ズボラな人間であればあるほど、効果はすぐにあらわれる。

一週間も続ければ、この効果を体感できる。


具体的にどのようにして『明日やることノート』を行っているか書き留めておく。

どこぞの誰かの参考になればうれしい。

やればわかる。やってみればわかる。



『明日やることノート』の始め方とルール



始め方とルールについて、ポイントは以下。


  1. 前日の夜に書いておく(ノートに手書き)
  2. 「やること」を3つにしぼる
  3. 3つのうち1つは、「すぐに簡単にできるもの」
  4. 明日できないことは、できる日に記入しておく
  5. 達成できたかどうか簡単に反省する

では、ひとつひとつを具体的にみていこう。



前日の夜に書いておく(ノートに手書き)



パソコンで打つのはよろしくない。できればノートに手書きが良い。

なぜなら、“ノートに手書き”のほうが愛着をもてるからだ。

そして、愛着は『継続』につながる。

できれば毎日毎晩、何ヶ月も『明日やることノート』を続けるのがよい。

が、まずは一週間、"一週間だけ"続けてみよう。

一週間続けてみて、何も効果を感じないのなら、その時点でやめればいい。

事前準備としては、「A5ノート」「黒のボールペン」「赤ペン」「蛍光ペン」があればよい。すべて100円均一でそろえられる。



「やること」を3つにしぼる



私はバカで怠惰なんだ。

私が一日にできることなんて『3つまで』だ。

3つまでにしておく。欲張ってはいけない。

一日に3つもやるべきことできたなら上出来であるし、それを毎日続けられたなら、最終的には自然と大きな変化となっている。

もし4つ以上やりたいことがあっても、重要度の低いものを削り、3つにしぼる。

3つにしぼれたら、それをノートに書くわけだが、

1つの『やること』を、『1行』程度で書くようにする。

決して、詳細を書いて、長文にしないこと。できるだけシンプルにすること。


そうしなければ、途中で面倒になってやめてしまう。継続できなくなってしまう。

できるだけシンプルに、簡単にすることで、継続がしやすくなる。

メモ帳にメモをするような感覚でよい。


『明日やることノート』:書き方の手順

  1. まず、明日の日付を書く
  2. 『やること』を3つにしぼる
  3. 『やること』1つにつき『1行』程度にする
  4. 1ページに約3行で完成

※ノートに余白ができると思うが、大きな字で書き、もったいなくても"大胆に"使っていこう!




3つのうち1つは、「すぐに簡単にできるもの」



明日やること3つのうち、『すぐに簡単にできるもの』を1ついれておく。

例えば、「ゴミ出し」をするとか、「メールを返信する」とか、すぐに簡単にできるものを必ず1つだけ入れておく。


理由は、1つ目でつまづいたらもともこもないからだ。

1つ目の『やること』で時間かかってしまっては、残り2つに支障がでてくる。

ほぼ100%の確率で達成できるものが必要であり、まずはそれからとりかかる。

簡単なことから始めることで、一日のエンジンがかかる。いきなり大変なことから始めようとすると、面倒臭さを感じてしまって、なかなか始められない。

また、『すぐに簡単にできるもの』を1つでも遂げることで、小さな達成感がうまれる。それは、小さくとも確実に自信をあたえてくれる。

3つのうち、『すぐに簡単にできるもの』には、蛍光ペンをひっぱておく。"まずはこれからとりかかる"という目印として。



明日できないことは、できる日に記入しておく



例えば、『美容室に行く』など、休日にしかできないこともあるだろう。他には、食材を買いに行くなど。

明日やりたくても、明日できないことがある。

そういうときは、次回の休日に、その『やること』を記入しておく。

休日が3日後ならば、3ページ先に、その日の日付を書き、『やること』を書きとめておく。


これが意外と重要である。

『やること』を忘れないためのメモにもなるし、うまくいけば、『明日』だけではなく、『一週間』の見通しもたてられる。



達成できたかどうか簡単に反省する



『明日やることノート』を書く前に、その日の『やること』ができたかどうか反省する。

達成できたものには○、できなかったものに☓、少しだけできたなら△を、赤ペンで書く。

簡単な自己採点をおこなうだけでいい。

"深く"反省しなくてよい。なぜできなかったかなど、理由を考える必要もない。

これは『ほめるための反省』である。

大事なのは、1つでも達成できたなら、それを“ほめること”だ。

達成した1つが、先に述べた『すぐに簡単にできること』であってもかまわない。

何もできなかった1日よりも、何か1つでもできた今日をほめること。

小さなことであっても、その小さなことの積み重ねが山となる。

3つとも達成できないこともあるだろうが、それはすぐに忘れたほうがいい。「そんな日もある」と、運が悪かったというくらいに思えばいい。



最後に



以上が、私が行っている『明日やることノート』の概要だ。

私は今年からこれを始め、生活が少し変わった。

物事にとりかかるスピードが早くなった。

前日に『やること』を決めているから、すぐに取り掛かれる。だらだら過ごすことも、少しだけ減った。


1年なんてあっという間だ。

気を抜くと、すぐにだらだら過ごしてしまう。

自分の生活を、ある種、“ルール化”しないといけない。

私は芸術家や天才のように、直感的に生きていける人間ではない。

生粋の“怠け者”である。

姑息な真似をしてでも、人から「つまらない人生だ」と言われても、ルールをもうけて矯正していくことでしか私は変われない。そういう、どうしようもないヤツなのだ私は。

ちなみに私は、今回の『明日やることノート』と、さらに『4行日記』も書いている。下にリンクを貼っておいたので、よければコチラも参考にしてもらえれば。

以上、@ryotaismでした。


こちらの記事もどうぞ♪





横光利一『蠅』:死の不条理性・平等性・突然性について


桜の頃ですが、今日は妙に寒かったね。そうだよね?

さて、先日、横光利一『蠅』を読んだのですが、

これがまぁ、傑作なんですよね、傑作。

読んだ? 読んでない? 短いし読んでみようか、うん。ハイッ!





動画でもチョット喋ったんですけど、

これね、【死】がもつ複数の顔を描いているんですよ

……てか、読んだ? え? まだ読んでないの?

しゃあねぇな、青空文庫で無料で読めるよ!


Kindleでも読めるし!無料だし!




横光利一『蠅』のスゴさ



……さて、【死】ってどういうものか?

んなもん、一言で説明できるはずがない。

でもさ、死の特徴みたいなものは、なんとなくみんな知ってるんだよ。

でも、めったなことがない限り、死について人間は考えないから、漠然としたイメージしかない。

あ、誤解しないでほしいのは、「死後」ではないよ、「死」というイベントことだよ。

死、「死ぬ」ということ、「死が起こる、死が発生する」ということ。

それはどういうものか?

死というイベントはどういうものか?

その特徴は複数あって、「死は○○である」とは言い切れない。

「死は○○であるし、○○でもあるし、○○でもある」。

死がもつ、それら複数の顔を、この短い作品の中で、うまく描いているから、この作品はスゴイんですよ。長文じゃなくて短編、というところ。

で、この作品では以下三点が書かれている。

  • 死の「不条理性」
  • 死の「平等性」
  • 死の「突然性」


死の「不条理性」


作品を読んでもらったらわかる。(短編だからすぐ読めるよ)

【死】ってのは、生きている人間の"事情"なんて、知ったこっちゃないんですよ。

残酷なんです。非情なんです。

どれだけ強く生きたいと願っても、そんなことは知ったこっちゃない。

「生き残るべき聖者が死んで、罰せられるべき罪人が死なない」、といったこともある。

人間界の言葉でいえば、“理不尽”なんですよ。

『生き残るべき人が生き続ける、生きたいと思う人が生きられる』、という"予定調和"じゃないんですよ。

「生き残るべき人が死ぬ、生きたいと思う人が死んでしまう」、そういう【不条理】なものなんですね。

我々、人間個人の事情なんて、【死】は聞き入れてくれないんです。


死の「平等性」


先の、不条理性にも関連するんだけど、まぁ、平等なんですね。

「【死】は万人に、平等におとずれる」ということ。


人を選ばないんですよ。

善人にも悪人にも、平等におとずれる。

精一杯生きようが、だらだら生きようが、死は平等におとずれる。

「いや、ちょっと待って!」

ん? どした?

「日々、健康に気を使っていれば、寿命はのびる。不摂生な生活を送っていれば、早死するじゃないか。“平等”ではないんじゃあないの!?」

お、、、するどいな。キミ、なかなかのツッコミをするね。

でもね、ここでいう“平等”というのは、『死の本質』としての“平等”のことをいっているんだ。

『本質』というのは、「それがなんであるか?」ということ。

キミのいうように、生活の仕方、生きているときの行いによって、死のおとずれはいくらか調整できるかもしれない。

でもそれは、「死の特徴の話」ではない。

「死とはどういったものであるか?」ということを考えなくちゃいけない。

まったく同じ生活を送って、まったく同じ環境で過ごした、まったく同じ人間が二人いたとする。

その二人の前に、死はどんなふうにしておとずれるか?

「平等におとずれる」、という話。

かたよらない、かたよりがない。

そもそも死は平等。

「【死】は万人に平等におとずれる」というところから先ず始まるのであって、そして、それは、死そのものがもつ『本質』だ。

生活の仕方によって、死の訪れはいくらか不平等になるかもしれないが、それは後(あと)の話。人間側の話でしかない。


死の「突然性」


いくら健康に気をつかっていようが、突然、死んでしまうことがある。事故や災害がまさにそうだろう。

どれだけ努力しても、どれだけ避けようとしても、避けられないことがある。

【死】は、予期できない。いきなりやってくる。

ひょっとしたら明日死ぬかもしれない。

その可能性は低くても、その可能性は決してゼロではない。

ふいに、突然、【死】はやってくる。

ともすれば、死を感じる瞬間すら無く、死んでしまうことだってある。


***


横光利一の『蠅』という作品には、ここまで述べた、死の「不条理性」「平等性」「突然性」が見事にまとまって描かれている。まったく、納得の傑作だ。

え? まだ読んでない?

じゃあ暇なときにでも読んでみてよ。

こんな、クソみたいなブログよりも価値あるよ。

じゃあまた。@ryotaismでした。