「相田みつを」から学んだこと:“これなら自分にもできそう”と思わせる凄さ


ひょっとしたら、最近の若い子は知らないかもな……。

が、次の言葉なら耳にしたことくらいはあるかもしれない。

つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの

詩人であり書家として有名な、「相田みつを」さんの言葉である。

多くの人生訓を残した彼の言葉は、今も多くの人を勇気づけている。

言葉だけではない。“へたうま”ともいえる彼の書体は独特な味わいがあり、高尚で堅苦しいイメージのあった書道を、一般人の日常生活になじませた。

僕が高校生の頃、相田みつをは爆発的に流行した。

彼の人生訓がのったカレンダーをトイレに飾ったり、“にんげんだもの”という言い回しを真似る者もいた。

一時期のブームの頃と比べれば、今はいくらか沈静化しているが、当時は本当にすごかった。僕のような田舎の高校生ですらその名を知ってたほどである。



「相田みつを」の書



ところで、僕は以前、書道をしていたことがある(今はめっきり筆を持たなくなったが)。

ちなみに、相田みつをに影響を受けて始めたのかというと、全く以てそんなことはない。「たまたま暇で、何気に書道したらハマった」、筆をとったきっかけはそんなもんであった。

彼の名前や作品を初めてみたのは高校の頃であるが、そのときはなんとも思わなかった。

僕が相田みつをに興味を持ち始めたのは、書道を始めた"後"のことである。

「そういや、相田みつをっていたな。書道やってたな」

そんなことをふと思い出し、書道を始めたばかりの僕は、勉強がてら、相田みつを美術館に行ってみたのである。

まことに失礼な話であるが、そのとき、僕はこう思ったのである。

『これなら僕にも書けるんじゃないか?』、と。

繰り返すが、このとき僕は初心者である。書道の"し"の字も知らない、知識もない、右も左もわかっていない初心者であった。また、怖いもの知らずでもあった。

そんな状態であったからこそ、「僕にも書けそうな字だな」と思った、思ってしまったのである。

が、言うまでもなく、そんなにうまくいくはずがない。

書道の基礎がしっかりしてなければ、彼のような文字は書けないのである。基礎があるからこそ、あのように文字を崩せるのである。

つまり、『誰だって書けそうだけど、誰にでも書けるものではない』ということ。

ピカソにおいても、そのようなことはよく言われる。優れたデッサン力があるからこそ、正しく“ハズせる”のである。

だれが言ったか忘れたが、つまりは、“型があるから型破りが出来る、型が無ければ単なる形無しにすぎない”、ということ。



「自分でも書けるんじゃないか?」と思わせること



さて、本題にいく。今回、僕が最も言いたいこと。

相田みつをの書道が芸術的にどうであるか、書道としてどうであるかなんてのは、僕にはわからない。書道ツウのなかには否定的に語る者もいる。

が、そんなことはどうだっていい。そんなところに“真価”はない。

『こんなの、自分にも書けそうだ』と思わせたこと、それこそが彼の書の真価であった。


これは相田みつをに限った話ではない。

「有名で、世の中に評価されているけど、なんでこれが評価されるのかわからない。これなら、この程度なら、自分にだってできそうだ」、そのように思わせるものが世の中にはある。

僕はそういった作品および作り手を、高く評価している。


実際、やってみればわかるように、そんなにあまくない。

その奥深さ、難しさに、やってみて初めて気づくのである。

そこで辞める者もいれば、一層勉強して続ける者もいる。

いずれにせよ、何かしらを学ぶ。

「これなら自分にもできそうだ」と思って、自分も実際やってみる。そして学ぶ。

“自分にもできそうな”作品と出会い、それをきっかけに取り組み始めることがある。

“自分にもできそうだ”と思わせる作品、それは『人を動かす作品』である。

であるからこそ、僕はそのようなものを高く評価したい。

逆に、例えば書道でいうと、「なんて書いてあるかわからないけど、すごい。自分には真似できない圧倒的な技術を感じる」、そのような書道作品は、すごいけれども、人を遠ざけてしまうことがある。残念ながら、「自分にはできない」と観客に思わせてしまうのである。

比べて、「自分にもできそう、こんなの余裕じゃないか」と思わせる作品は、最初、上から目線で語られるが、それがきっかけで火がつき、その世界へと連れていく、良い意味での“ハードルの低さ”をもっている。

「私にもできる」と勘違いして、実際にやってみる。

もちろん、その後、圧倒的な壁にぶち当たるのだが、実際に行動を起こしたこと、起こすきっかけとなったことに価値がある。以前よりも、少しだけその道を知れたことに成長がある。

技術力や努力量を見せつけ、「だれにも真似できないだろう」と言わんばかりの作品。それは確かにすごいし、仕事もまいこむだろう。

しかし、「すごい」の一言で済まされてしまう恐れがあって、それは「無関心に通り過ぎられること」とほとんど同義である。

それならば、「こんなの私にでも書ける、作れる」と思わせる、立ち止まらせるもののほうが価値があると僕は思う。

そういった作品は、観客に行動を起こさせる力がある。『人を動かす作品』といえるのではないか。

以上のことをふまえたうえで、冒頭に記した彼の言葉を再度のせておこう。

つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの


***

誰にでも書けそうと思わせておいて、実は、誰にでも書けない。

彼の作品が芸術的にどうであるかは、僕にとってはたいした意味をもたない。

仮に、彼の作風を真似て、実際に書けたとしても、“誰にでも書けそう”と思わせたことに真価があった。

ではまた。@ryotaismでした。