「一人でいるのが好き」に潜む、充足と寂寞


私は「一人でいるのが好き」だ。

かといって、「誰かといるのが嫌い」なわけではない。

私だって友達と遊ぶ。飲み会だって行く。カラオケだって行く。職場では人と会話もする。

しかし、どちらかといえば「一人でいるのが好き」だ。

一人でいるのがイチバン落ち着く。

『そんなの誰だってそうだよ。一人のほうが落ち着くよ』

うん、そうかもしれない。

しかし、どうやら、少々その度合が大きいように最近感じる。

たとえば、友達などから「恋人と同棲している」などと聞くと、正直、考えられない。信じられない。

同棲すれば、おのずと「一人でいる時間」が減る。ちょっと考えられない。

また、休日になると、「だれかと遊びたいな―」という感情が起こらない。

『休日=だれかと遊ぶ』ではなく、『休日=一人の時間がもてる』という発想につながってしまう。


つまりは、「一人の時間」が好きなのであり、「だれかといる時間」よりも優先してしまうのだ。

「一人でいるのが大好き人間」――。

しかし、最近、「これではちょっとマズイんではないか」と危惧するようになった。

というのも、「もしかして、このままこうして私は死んでいくんじゃないか?」という、なにか、人生の全貌が見えてきてしまって、そういった末路は、はたして私が望む最期なのであろうかと、ふと疑問を感じる。

“このままこうして死んでいく”、というのは、一人の時間を一人で過ごし、淡々と終わっていく、「あっさりとした生涯」のことである。

このままあっさりと終わっていくんではないか、そういった前途、生涯の全貌のようなものが垣間見えて、それはまるで、先細りしていく一本道を黙々と歩き続ける人生のようであり、「おちつきすぎだ、俺の人生、単純化されすぎている」と思うのである。

なにか、こう、"心と心の共有"みたいなものが必要なんではないか。欠けているんではないか?

私が思っていることと他者が思っていることがシンクロする、共鳴、通じ合う心と心――、そういった他者との一体感が欠けている。

具体的にいえば、「いっしょに笑いあう」「いっしょに好きなことをしゃべりあう」といった、目と目をあわせて、時間と空間を他者と共有することである。

今の私は、時間と空間を、自分一人で、自由に、自分のものにしている。不穏因子が無く、穏やか。マイペース。個人的充足感に浸っている。

すべて、想定の範囲内で生活しているのである。

これじゃあ、“ミラクル”が起きない。

突然に幼稚な語を用いて申し訳ないが、この、“ミラクル”という言葉ほど、今の私に欠けているものはない。

“ミラクル”――、それすなわち、ふいを突かれるような、突如まいおりる圧倒的充足感のことである。それは「一人の時間」で得る“個人的充足感”とは異なる。安堵ではない。

一度や二度は経験したことがあるかもしれない。

『あぁ、しあわせだなぁ』と、何気なく、ふいに思う瞬間。つい、ぽろっと、『あぁ、しあわせだなぁ』という言葉が口からこぼれる、あの妙な幸福感――人生を全肯定する、あの感覚。

隙間なく満たされた私の時間と空間。


なにひとつ、そこには異物が無い。なにひとつ、否定がそこには存在しない。

すべてが認められている、すべてが許されている、すべてが"YES"――。満ちている、満ち満ちている。

そうして、ふいに、私は口にするのである。

『あぁ、しあわせだなぁ』、と。このうえない、やさしい表情で。

そんな瞬間を経験したことはないだろうか?

そして、そのとき、あなたは一人だっただろうか?

心から幸せだと思う瞬間、私は一人だっただろうか?

時間と空間は、私一人では満たしきれないのではないか。どこかに“隙間”ができてしまうのではないか。


他者、世界――つまり、自分の外部と共鳴し、溶け合い、一体化することでしか、この時間、及び、この空間は、満ちない。自分一人では、どこかに“隙間”ができる。その“隙間”こそが、決定的に、我が生涯への物足りなさを生む。隙間より吹く、糸のように細い風を、その冷たさを、常に肌に感じながら、私はこの世界で一抹の疎外感を思うことだろう。細々した一本道を、一人歩きながら――。

共鳴する、感じ合う、心と心を合わせる、時間と空間を共有する、それは時に、愛と呼ばれ、友情と呼ばれ、本件においては“ミラクル”と称す。いずれも全くダサい語ではあるが、どうやら、そのような格好悪い目にあわねば、この“あきたりない思い”は成仏しないようである。

欠けている――、斯様なる“ミラクル”が現状、私の「一人の時間」には欠けており、淡白、それはあまりに淡白な一生であって、はたして私にその道を引き受けるだけの「諦め」があるだろうか。満足、「一人の時間」に満足しているが、「そこに安住し続けるのか?」と問われたならば、それだけではいけないような気がして、回答に躊躇する。一人、独り、ひとり、ヒトリ……に潜む、個人的充足感と、「それでいいのか?」と異議を唱える疑問符との相克は、早々には済まない。

さて。されど、かく言いつつも、やはり「一人の時間」が好きであるという性分は、しばらくは捨て去れないように思う。譲れない安堵が確かにあって、そればかりになってしまう傾向から容易には抜け出せないだろう。ややもすれば、垣間見た全貌のように、“このままこうして死んでいく”やもしれない。というのも、斯様な“自分語り”を一人書き綴っている時点で本末転倒――呆れて仕方がない。@ryotaism