「たくさん人と話すこと」VS「たくさん本を読むこと」


「たくさん人と話すこと」VS「たくさん本を読むこと」

どちらのほうが得るものが多いか?どちらを優先すべきか?どちらのほうが成長できるか?どちらのほうが自己実現の足しになるか?

どちらだろう?

と、バトルさせてみる。

結論をいえば、どちらも大事である。どちらも必要不可欠である。

「そんな簡単なこと、だれだって知っとるわ!キミは相当なバカなのか!」

まぁ待て。ボクだってわかってる。こんなことは実に不毛な議論だ。

ボクが云いたいのは、「ついついどちらかに偏ってしまわないか?」ということだ。

どちらも大事だ、だからこそ、どちらかに偏ることは良くない。


どちらも大事なのに、どちらかに重点を置いてしまう



キミは云う。

「たくさんの人と会おう!人と話すと、たくさんのことを学べる!直接人から聞く話のほうが心に響く!どれだけの人と会って、話をしたかが大事!」

反論気味に、キミは云う。

成功する者は皆、読書家だと聞く!一人で学習するということが大事だ!本には著者の人生がつまっており、知識が集約されている!たくさん本を読んで、たくさん学ぼう!」

まぁ待て。ふたりとも、ケンカするな。

「人と会うことを重視する人」は、社交の場に積極的に出向いて、多くの人と会う。が、本を読むということをサボっていないか?

「読書での学習を重視する人」は、それによって多くに知識を吸収する。 が、人との会話から何かを学ぶような機会が少なくないか?

どちらかに偏ってはいないか??

「読書も会話もバランスよく行っている」というのは、難しいものだ。

じゃあ、なんで偏ってしまうのか?

それは、自分の中でどちらかに重点をおいている、どちらかを優先しているからではないだろうか。


先ほどケンカしていたキミとキミ。

「本ばかり読んでたって意味ない!人と会うことのほうが大事!」と、読書という行為を否定気味に語ってはいないか?

「人といくら話をしても、本を読まない時点で話にならない!」と、社交性ある者に嫉妬に似た反骨心をもっていないか?

繰り返すが、どっちも大事なんだよ。人と会話するのも、本を読むのも、どっちも大事。

ところが、現状の自分には、どちらかが欠けているんだなこれが。

そこで、欠けているほうを軽んじようとする。

欠けているほうを『そこまでたいして価値のあることじゃない』と思うことで、欠けていることを正当化しようとする。また、自分が為せているほうを『意義のあることだ』と思うことで、さらに正当化を強める。


そうして、どちらかに偏っていってしまうのだ。

「たくさん人と話すこと」VS「たくさん本を読むこと」、両者の溝は深まるばかりである。

……ところで。

「そんなやつおる?(´・ω・`)」って思ったアナタ。

いや、いるんだよ、これが。

ここにいる。ボクだ、ボクのことだよ!

いやさ、ちょっと聞いてくれよ。

最近、思うんだよな。

ボクはひきこもって本を読むのが好きで。あまり人と会うことがない。

でもね、たまに人と会って会話するとき、すごくいろいろ学ぶんだよ。

決して読書だけでは得られないようなものを、得る。学ぶ。知る。

「あ~、やっぱ人と会話するって大事なんだな~」って、最近、強く感じて。

「お前いくつだよ!そんな当たり前のことに今さら気づいたのかよ!一生ひきこもっとれや!」って、キミは罵声を投げかけるけど、仕方ねぇよ。いまさらだけど、いま気づけてよかったよ。とりあえず。

でもさ、ボクだけじゃないと思うんだよ。

「たくさん人と話すこと」VS「たくさん本を読むこと」

どちらも大事なのに、どちらかのほうが優れていると思い込んでしまう心理。

そういうの、ボクだけじゃないと思うんだよ。ついつい、どちらかを軽んじたり、ついつい、どちらを重視しすぎてしまったり。

「どっちも大事!」、こんなの、当たり前のことなのにね。


たくさん人と話すことで得られるもの



『たくさん本を読むことで得られるもの』については、今回は語らない。想像つくよね、だいたい。

一方、『たくさん人と話すことで得られるもの』って、ちょっと不明瞭じゃない??

一体、人と会話することでナニを学べるのか?

よし、具体的にいってみるよ。具体的に。

“知識と行動”という概念をもちだすよ。

よく聞くよね?

“知識はあっても、行動を起こさなきゃ意味がない。行動を起こしても、知識がなかったら意味がない。”


両方必要で両方大事、という話なんだけど、

ボクの場合、『行動力』が全然ないんだよ。『実行力』と言い換えてもいいかな。

じゃあさ、どうやったら『行動力』って身につくと思う?

ボクはね、こればかりは、『読書だけでは絶対に身につかない』と思っているんだよ。

読書は、色んな知識や価値観を学べる。

でも、本を何冊読んでも、『行動力』は身につけることはできないんだ。

“人を変えるのは人でしかない”って、よく云うじゃない?

自分を変えてくれるのは、結局、人なんだよな。

本を読んだり、映画をみて、その考え方に強い“影響”をうける。でも、“行動”まではむすびつかない。

これ、なんでかって、結局、本は本でしかないから。紙切れだから。

でも、人との会話は違う。どう違うのか?

“同じ”なんだよ。同じ人間。

読書で向き合っているのが紙切れや言語であるのに対し、会話で向き合っているのは“同じ人間”なんだよ。


読書は“影響”、会話は“刺激”。

“刺激”というのは、“影響”よりも直接的だ。

“影響”ではなく、“刺激”がなければ、それは『行動』にはむすびつかない。


で、人との会話には、そういう“刺激”があるとボクは思うんだよ。

なぜかって、同じ人間だから。そして、「同じ人間なのに、同じじゃない部分がある」から。この、 “同じでない”という部分に、“刺激”が発生する。

人間は“同じである”ことに安心感を得る。自分と同じような人間がいたら、安心するよね? 相手が同じ価値観であるほうが落ち着くんだ。

でも、それがもし自分と違っていたら?同じ人間だと思っていたのに、同じではなかったら??

“刺激”が発生する。「これはマズイ」という危機感や、「ずきずき痛む」ような劣等感といった“刺激”が。

“同じであること”が安心を生むように、“同じではない”ということは不安を生むんだよな。

そして、そういった不安、“刺激”こそが、自分の中に『行動力』をうみだす。

話をもとに戻すけど、読書という行為ではそういった刺激は起きにくく、逆に、人との会話ではそういったことが起こりやすいんだ。

なぜなら、目の前の人間は“同じ人間”であるのに、“同じではない”から”。同じ人間であり同じように生きてきたつもりなのに、全然ちがう。

私とあなたとの間に、距離を感じる。不安を感ずる。

では、その両者の距離は何によって生まれたものか?

経験である、つまりは、行動してきた数である。

行動することの意味や価値を、そこでようやく知る。座っているだけでは何も変わらない、動かないと何も変わらないのだと気づく。「同じ人間であるのに同じではない」という眼前の事実によって、否が応でも知らされる。

……というふうに、

人の会話によって『行動力』を学んだり得たりできるって、ボクはそう思うんだよ。最近、そういうことが実際にある。あった。


***

「たくさん人と話すこと」VS「たくさん本を読むこと」という、まったく不毛なタイトルではあるけど、このようにAとBを比較したり、対立させることで、頭の中が整理されることがある。

まぁ、そういう話でしたよ。

色んな人と直接の会話をする、ボクには足りなかったこと。反省ですね。

そういうことで。@ryotaismでした。