『若者よ、アジアのウミガメとなれ』読書感想――“風を掴め!波に乗れ!”

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/477712410X/amazon142-22/

『若者よ、アジアのウミガメとなれ』(加藤順彦)をKindle書籍で読みました。

んー、刺激的な一冊でした。なんというか、“規模の大きい話”、“視野の広い話”でした。

本書は、起業セミナーの講演会を収録したものなのですが、実際に生で聴いてみたいと思いました。



<内容紹介>
―*―*―*―*―*―*―*―*―*―
出でよ!【アジアのウミガメ】
日本を外から揺さぶり、刺激を与えろ!
アジアには無限の可能性がある!!
―*―*―*―*―*―*―*―*―*―
風を掴め! 波に乗れ!
若い頃から良い“異常”に囲まれ、熱く生きてきた男が、その自らの半生とともに、日本人が、大きな可能性を秘めたアジアに飛び出して行くことの重要性を語り尽くす!!



『若者よ、アジアのウミガメとなれ』:読書メモ



何点か、印象に残った箇所がありました。


ルールのない業界で、ルールメーカーとなる


  • 今、大きく成長している企業があるのはルールのない業界だけだ
  • ルールがないというのはどういうことか、それはつまり業界団体、つまり勝ち組がよくわからない、まだ定まっていない業界なんです。業界の歴史が新しすぎて、まだどうやれば大きくなれるかという定石がない産業。
  • ベンチャーを起こすのなら、新しい会社を始めるのなら、既にルールがあるところよりも、これからできる新しい市場を作る側、ルールメーカーになれる産業を自分で見つけなければいけない
  • インターネットというのは膨張する、すなわち増え続けるので、すべてを買い占めること自体ができない。

“成長の波に乗る”


  • 追い風をつかむことと成長の波に乗るこというのが、企業の成長において最も重要なことなんです。ベンチャーとは産業全体が成長しているところでしか、成長できない。
  • 我々が行ったから市場が伸びたんじゃないんです。伸びるところがあったからそこに行くべきだったんです。私が優秀だから行くんじゃないんです、そこの市場が伸びているから、私たちが出ていったんです。

“シンガポール”という国


  • 世界中から多くの選ばれた人たちが移住して、いまシンガポールで生活してます。
    そして世界中から人材が集まってきています。なぜか。もちろんシンガポール自体の所得税が安いのと無関係ではありません。でももっと重要なのはこのシンガポールという国が、多民族のイデオロギーを持っているということです。
  • 世界一外資系企業が迫害されている、あるいは内資すなわち自国民、日本人が経営するを優遇している国は日本だと思います。
  • シンガポールという国にいて思ったのは、英語がしゃべれない人に対してやさしいんです。なぜか。みんながもともと華人ですからね、無理して英語を勉強ししゃべってきた歴史があるんです。そしてある程度しかしゃべれないことを思いやってくれるんですよ。

風を掴め、波に乗れ


  • 私は波をずっと探してきました。波というのは探している人にしか見えないものです。だから、探し続けてることが大事なのです。そしてそれが見つかったときに、タイミングを計り乗ることが大事です。
  • 大事なのは、成長の波に乗ろうということを決めていることです。それは流れ星に似ていると思います。よく言うじゃないですか、流れ星に願い事を言ったら願い は叶うと。私はほんとにそうだと思います。なぜならば、願い事をいつも反芻している人にしか、流れ星が見えなくなる前に願いを繰り返し言うことはできないからです。己の願い事をはっきりとわかってない人には、流れ星が見えなくなるまでに願い事を言うことができません。どうなったらこうしよう、あるいはこういう状況をつくろうという人しか、実はそういう状況は活かせないのです。
  • こんな企業が伸びているから、あるいは経営陣が優秀かどうか、あるいはその会社がやってる商売がいけてるかどうかは、重要な要素ではありません。その産業自体が伸びてるかどうかなんです。

講演会参加者の声


  • 「成長産業に身をおく」というお話。これから来年度に就職活動を迎えるにあたり、成長産業で自分を磨いていくという事がいかに大切かを痛感しました。グレーゾーンこそがベンチャーがチャレンジできる部分で、波がくるのをじっとまつ。
  • 講義の中でも何度も出てきた波に乗るとおっしゃっていたことにとても衝撃を受けて、起業家の人々はみんな新しいアイデアを持って起業すると勝手に思い込んでいたので、自分も波にしっかり乗っかって熱い思いがしっかりあればいけるのだと思えました。
  • 学生をはじめとする、若い世代の人たちは、自分で流れをつくりだしたい、という人も多いと思いますし、わたし自身、ベンチャーで成功するには、自分自身で成長の波を引き起こさなければならないのだろうと、なんとなく思っていました。ベンチャーだからといって、すべてを自ら作り出すのではなく、流れに乗ることも大事、という考えは、わたしのなかでとても新鮮なものでした。
  • 同じ業種の中で似ても似つかない新しい市場が生まれた時、ジレンマを起こして大手がそれに参入してこない。



読後の感想――「場所」に目を向ける



本書の核となる言葉――“風を掴め、波に乗れ”

成熟した市場や業界は、既得権益やらなんやらでたいへんである。さらに、日本国内は椅子取りゲームとなっている(椅子自体、減ってきている)。

“風を掴め、波に乗れ”とは、ルールの確立されていない未開拓な場、追い風の吹いている産業でチャレンジせよ、ということ。“先見性”と呼んでもいいかもしれません。

「自分のやりたいこと」ばかりに執着するのではなく、業界・市場、産業、つまりは「場所」に目を向けること。参加する場所、その場所は、どのような流れの中にあるか。伸びている市場なのか、成長している業界なのか。時に、それは国内ではなく、海外という「場所」であるかもしれない。

“今、何がキているか”、あるいは、“今後、何が来るか”――その波に乗れ、その風を掴め。

が、言うは易しで、実際、その判断は非常に難しいように思う。普段から様々な方面にアンテナを広げていなければ、波も、風も、わからない。毎日同じことばかりの、だらだらとした生活じゃ、隣にあっても気づけないのかもしれませんね…。つまりは、“願い事をいつも反芻している人にしか、流れ星が見えなくなる前に願いを繰り返し言うことはできない”、ということ。日々勉強、ということ。

――それにしても、本書終盤、講演会参加者の声が掲載されているのですが、これが非常にうまく、講演会の内容をまとめてくれている。ナイスな引用であると思った。そのほとんどが学生なのですが、このような若者の手によって、日本はどんどん変わっていくように思う。否、どんどん彼らは"変えていく"のだろう。自分も、その端くれにでもなれたらいい。

以上、@ryotaismでした。



『ITビジネスの原理』を読んだ感想――“ハイコンテクスト”な日本

ITビジネスの原理

『ITビジネスの原理』(尾原和啓)をKindleで読む。

書店で見かけたときは「けっこう厚めの本だなぁ~」と思ったのですが、電子書籍で読むと、3日程度で読み終えました。

私はIT“ビジネス”に興味はないのですが、「インターネットの歴史」をやさしく学べて、おもしろかった。特に後半はすごくよかったです。




『ITビジネスの原理』:読書メモ



印象に残った箇所を一部、まとめてみました。


場所による価値の差


  • (インターネットによって)情報が共有されることで「場所による価値の差」そのものがなくなってしまうのです。まったくなくなることはないかもしれませんが、 それはとても小さなものになってしまう。となるとつまり「場所による価値の違いを金に換える」というビジネスモデルが成立しにくくなってしまう。
  • 「点在する情報を一か所に集める」という作業は、インターネットがひじょうに得意とするところ
  • 世界中に散在しているユーザを一か所に集めて、そのユーザを金を出しても欲しいと思っている企業や人と結びつける、マッチングするのが、インターネットのビジネスなのです。 

“トータルコスト”で考える


  • 情報そのもののコスト、その情報を探すための探索コスト、情報を手に入れるために必要なコスト。この三つを合わせたものが、価格に見合うかどうか。
  • 課金ビジネスが成立するかどうかを左右する問題は、この探索コスト、支払いにかかるコストなどを含めたトータルコストが見合ったものになるかどうか、です。
  • 手軽に簡単に支払いができるシステムが整備されれば、そして正確に情報が手に入るのであれば、人はお金を払います。

マズローの“欲求段階説”


  • 日本では下位のふたつ、生理的欲求と安全の欲求はほぼ満たされているものですが、一方で所属が希薄化しています。昔あった「家」が崩壊して、会社は会社で終身雇用制もなくなって、いつ外に出されるか分からない。それで所属欲求やそれをベースにした承認欲求が過剰に満たされない国になってしまっているのです。
    ――FacebookなどのSNSが帰属意識、所属欲求を満たしてくれる存在になっている。

“非目的型情報発信”と日本


  • ニュースをジャーナリズム的な視点で意志をもって発信するような目的型情報発信と、そうした目的は持たずに、例えば個人の生活を垂れ流すような非目的型情報発信とに分けることもできます。
    ここで興味深いのは、日本においては非目的型情報発信、非目的型の消費がとても多いということです。
  • 文化的な構造という面では、もともと日本には私小説というか、個人のよしなしごとを読んでその機微を楽しむという文化背景がありました。それで、しょこたんをはじめとする芸能人たちが、その日に食べたものだとか行った場所だとかを垂れ流す、非目的型消費としてのブログが隆盛をみたというわけです。
  • こうしたことがどうして日本で起きるのか。それは日本人がハイコンテクストなものを持った、同質性の高い国民だからだろうと、私は考えています。
    私小説的な日常の垂れ流しの中から、そこにあるちょっとした差異を楽しむというのは、濃密な同じ環境を持っている人間の集団、ハイコンテクストな人たちでなければできないことです。例えば、ガンダムマニアたちが各話の作画の違いを語ったり、その背後の歴史との関連から読み解くといった、ハイコンテクストなコミュニケーションが日本にはあったということだと、私は考えています。

コミュニケーション市場の大きさ:“ハイコンテクスト”な日本


  • それにしても驚くべきなのは、コミュニケーション市場の大きさです。当初想定していた情報系、インフォメーション・コンテンツよりも、コミュニケーション・コンテンツははるかに大きな市場になりました。日本人はそうしたコミュニケーションが大好きで、それに対してお金を払うことをためらわないのです。言い方を変えると、インフォメーション・コンテンツよりも、コミュニケーション・コンテンツの方がお金になるのです。
  • 笑顔のスタンプはいくつもあるけれど、それにはすべて微妙に違いがあります。その微妙な違いの中から、特定のスタンプを選ぶのが重要で、その微妙な差の中でコミュニケーションを発生させる。その微妙な違いを共有する、分かりあうのが快感なんです。(中略)
    日本というハイコンテクストな国は、こうした言葉ではない部分を楽しむ、隙間を楽しめるという文化がある。そのために、その部分が過剰に消費されるというわけです。
  • ローコンテクストの国だと「LINE」のスタンプのような隙間を作っても、その隙間が伝わらない可能性が高い。というよりそもそも伝わらないという前提で生きている国ですから、そこも言葉で語ろうとする。
  • この「ハイコンテクスト」は、これからのインターネット、ITビジネスを考える上で、もっとも重要なキーワードであるというのが、私の見解です。
  • 書籍という商品はどこで買っても同じ商品なので、極端なことを言えば誰から買っても同じ、だからネットでも買ってもらえるかもしれない。合理的といえば合理的なこの考え方は、とてもアメリカ的なものと言えます。
  • モノを買うというのは、ただ品物を買っているだけではなくて、その商品にまつわる物語を買っていたり、売っている人との関係性を買っていたりすると思うのです。その関係性を手に入れたとき、人はもっと幸せになれるし、インターネットというのは、それを実現できる力を持ったツールであるはずだ、と思うのです。

“ローコンテクスト”なアメリカ


  • アメリカ的なものによって作られた「無駄なき社会」から、人間と社会を取り戻せるのは、この日本的なものだろうと思います。
  • ハイコンテクストな文化というのは、同じ共通基盤、コミュニケーションの共通基盤があって成立するものです。共通の基盤があるから、その共通部分はあえて言葉にする必要がない。つまり阿吽の呼吸で説明できるし、またそれを楽しむことができるのです。
    ところがアメリカという移民国家、多民族、多宗教国家の中では、共通基盤が作りにくい。
    だから阿吽の呼吸が成立せずに、「阿」はこういう意味です、「吽」はこういうことです、といちいち説明しなければいけない。つまりローコンテクストにならざるを得ないのです。
  • 阿吽の呼吸が成立しないので、コミュニケーションを楽しむというところまでいかない。余剰の部分まで到達しないんです。この余剰に生まれるのがコミュニケーション消費なので、だからアメリカではコミュニケーション消費が起きにくいのではないか、というのが、私の仮説です。
  • 笑顔ひとつ送るにしても、とりあえずはどっちでも分かるようなアイコン、スマイリーを送るしかないわけです。どっちでも分かる笑顔のアイコンというのは、当然画一化してしまう。となると、そこには小さな差異は見いだせませんから、その差異を楽しむといったハイコンテクストなコミュニケーションは成立しようがないということになります。
    Amazonが「どこで買っても同じ商品」を売っているのも、同様です。
  • インターネットがアメリカで生まれてしまったために、Amazonやコストコのようなアメリカ的なものが最初に生まれ、それが標準のようになってしまったのです。

“非言語”を重視する


  • グローバル社会は英語だ、これからは英語が重要だということを言う人が多いけれども、本当にいけてるグローバル企業は英語よりも非言語化を重要視しているのではないか
  • 言語を介さなくてもコミュニケーションはできるし、むしろ言語を介さない方が、「Pinterest」のようにハイコンテクストな、豊かなコミュニケーションが取れるのではないか



感想、思ったこと



“ハイコンテクスト”な日本、“ローコンテクスト”なアメリカ、という比較はとてもおもしろかった。それは「楽天」と「Amazon」との違いにもみてとれる。

私は断然「Amazon」派であり、且つ、LINEスタンプの良さがよくわからない人間で、なにか、本書の記述に見事にハマっているなぁ…と感じました。

商品の背景や物語性、そこまでのものを求めるんですね日本は。


事務所にゴリ押しされたアイドルや女優よりも(それがいくら美人でかわいくても)、素人時代から苦労してきたアイドルの“物語性”を日本人は買う、応援する。

さらに、“機微”や“行間”を楽しむ、ハイコンテクストなコミュニケーションが日本人にはある。


「私」「俺」「ボク」といった一人称の豊富さ、言語にもそれはあらわれている。

そういった国民性・民族性は、ちゃっかりウェブにも反映されるわけです。

『比較文化論の試み 』(山本七平)に書かれていたように、「剛と柔」の発想――「剛」ばかりでは行き詰まりをみせる。

現実世界と同様、豊かなウェブを築いていくには東洋的な「柔」の発想が――著者が言うような、ハイコンテクストな文化が必要なんではないかと思う。また、それは“非言語”なものであるかもしれない。

……にしても、マズローの欲求段階説、先日読んだ『ウェブとはすなわち現実世界の未来図である』にも書かれてた。ウェブの人は好きなのかな、マズロー。

以上、@ryotaismでした。



『血は鉄の味がする』の意味――身体性が失われていく俺の序章


まず、前提ね。

「自分」=「こころ」+「からだ」

「自分」は「こころ」と「からだ」の2つでできているんだー、って考えてほしい。そうするとわかりやすいから。

さて、本題いくよー。といっても僕の完全な妄想だけどね!はは!

たとえば、一日中、パソコンで作業をしていたとする。

そしたらね、なんか、「自分」の中から「からだ」が消えていくような感じがしてくるんだ。いいかえれば、「こころ」だけの存在、自分が「『脳』だけの生き物」のように思えてくることがある。

どう? ある? そんな感じに襲われること。

ボク、そういうの、けっこうあるんですよ。

「そんなことねぇよ!お前だけだし!カス!」

そっか。ごめん。俺、インターネットしすぎなのかな。

ところで――、

こういう事態や感覚を、“身体性の欠如”とか言うらしいんだけど、

コンピュータや機械、インターネットが発達して、「情報は多いけど、体を動かさなくてもいい」ような環境にいると、自分の脳だけが忙しく稼働して、身体の感覚がどんどん失われていくんだ。

ボクね、昔、工場でバイトしてたことあって。

ベルトコンベアーで流れてくる容器に漬物をいれていくという作業を、一日何時間もやるんだ。えんえんと、ずっと。

そうするとどうなるか――。

なんかね、自分が機械の一部みたいに思えてくるんだ。

同じリズムで同じ作業をずっと続ける、すると、『あれ? 俺もベルトコンベアーみたいにオートマチックに動いているな』って。俺も機械みたいだって。

これも、“身体性の欠如”と呼んで差し支えないんじゃないかしら。

自分の中から、“身体の感覚”がなくなっていく。

情報過多&オートメーション化の進む現代では、こういう事態がますますひきおこされるんじゃないか?って危惧する人もいるよね。

ところで、それの何が悪いんだろうね?



“血は鉄の味がする” by ピンポン


ピンポン

ご存知、『ピンポン』

“血は鉄の味がする”という名文句。

これ、どういうことかっつぅと、「血は鉄の味がする、その生々しい味こそが、生きている実感となる」って、ボクは勝手にそう解釈した。

怪我すりゃ痛い。でも、そのときに、生きている実感を覚えるんじゃないか?ということ。

肉体の痛みと、心が傷つくのは違う。

仕事のストレスや学校でのイジメで、心が疲弊している。

でも、それは身体の痛みではない。

心が疲弊しても、生きている実感なんて味わえやしない。


他方、身体の痛みや傷は、「生の実感」を呼び覚ます。

リストカットする。自分で自分の身体を傷つける。痛みを感じる。これもとまた、生きている実感を呼び覚まそうとする行為ではないかと言われる。

そもそも、身体は、意志や心に関係なく、常時、“生きよう”としている。

髪の毛が生える。つめが伸びる。

心がどうとか関係ない。肉体は、身体は、生きている、あるいは生きようとしている――木が伸びるように。

身体が傷つくと「痛み」が生じるのは、「やべぇぞ!」っていう、“生きようとする”身体のサインである。「生きることに邪魔がはいったぞ!」ということ。

「生きようとしている身体」の「『生きよう』という意志」を、“痛み”というサインを通じて、私たちは感じるのです。

これが「生の実感」「生きている心地」とよばれるものにつながったりするわけです。たぶん。

“血をなめて鉄の味を感じる”というのは、自分の身体を感じること、ひいては「俺の身体、生きているんだな…」と感じること。




“身体で感じるもの”って多いよね。



昔は肉体労働じゃなきゃどうしようもないことが多々あって、パソコンを使わないアナログな手作業が主流だった。

ところが、機械技術の発展により、「身体の登場場面」が減った。

また、インターネットの台頭によって、洪水のように情報が流れてくるようになって、「脳を使う場面」が増えた。

結果、自分の中から、ちょっとずつ“身体の感覚”がなくなっていく。

「自分」=「こころ」+「からだ」という式で考えると、どんどん「からだ」の割合が減って、「こころ」が増長していく。

「こころ」と言えば聞こえはいいけど、こんなもんは「脳」や「神経」と言い換えられる。

「自分」の中から「からだ」が消えていくような感じが増していって、自分が「『脳』と『神経』だけて立っている生き物」のように思えてくる。


これじゃあいかん。なんでいかんのか。

先に述べた「生の実感」もそうであるが、肉体をないがしろにすると、得られないものが多すぎるんだ。


たとえば、「幸福感」「快楽」「達成感」は、「身体を通じて感じるもの」だと思われる。

「快楽」――わかりやすいとこでいえば「セックス」で、これは完全に身体を通じて得るものですね。なんなら、飛躍して「愛」を感じたりもする。

「達成感」――仕事後の達成感なんてのも、「肉体の疲労」があるからですよ。それがあるから、「やったった!がんばった!」って思えるわけです。「努力が報われる」とは、費やした時間と心“身”の労が報われること。

「幸福感」――“愛している”という言葉よりも、それを形にしたプレゼントをもらうほうが満たされる。言葉だけじゃ実感を得にくい。漠然とした想いより、視覚や触覚(身体)で受け取ることで、確かな幸福を感じる。(悲しい話ですが!)
あとは、外出した際、清々しい風を感じるときの幸福感とか、これも身体で感じることですね。

……とまぁ、ぜんぶ、身体が関連しているんですよ。避けて通れんのですよ。ボクはそう思ってます。

パチンコでのアドレナリン的な恍惚とは違う。これは脳だけが興奮してるんであって、たとえばスポーツに励んで汗を流す気持ちよさとはぜんぜん違いますよね?

“脳だけで感じるもの”ってのも確かにあるんだろうけど(たとえば小説を読んで空想に浸るとか)、だからといって身体性を欠いてしまうと、「感じるもの」が減っていくぞ、と。

そういうことを言いたかった。


***

身体性が損なわれていく昨今、ちょっと立ち止まって考えようじゃないか俺。 インターネットばかりして「脳だけのような感覚」になったらいかんぞ俺。

『とりあえず外に出ようね』という結論。


それじゃ!@ryotaismでした!



『楽しんでもらう』ということは『楽をしてもらう』ということ。

夏目漱石

休み。今日は5時間、Youtubeを見ていました。

それ以外、特別なことはしていません。

何時間もYoutubeを見続けることがあります。

「こんなんじゃいけないなぁー」と思います。

でも、ついつい見てしまうんですよね。

【関連動画】から、チェーンで見続けてしまう。

音楽のMVだけで、今日は40本は見たんじゃないかと思う。

昼の3時から見始めて、気がついたら21時。

「うわ、もうこんな時間!?」と、時間を忘れて見続けてしまう。

HDR-MV1:価格良し!撮影良し!歌い手のためのミュージックビデオレコーダー

HDR-MV1

いや、ちょっとコレはいいね。

知り合いである仲条幸一くん(@nakajokoichi)が、自身のピアノ演奏をYoutubeにあげてて。

まぁ、あいかわらず上手で、スバラシイのだけど、

どうやら、撮影機器を新しくしたみたい。



SONYの「HDR-MV1」という機器、だそうです。



価格は、"2万円弱"と、なかなか手頃である。



SONY『HDR-MV1』の性能と価格



性能であるが、これまたGood。

  • 非圧縮リニアPCMサウンド
    フルハイビジョンの動画を撮影しながら、音声の記録には音源を圧縮せず、ありのままに記録するリニアPCM録音形式を採用。音色や奥行感までもリアルに録音。
  • 120°X-Yステレオ方式マイクで臨場感あるサウンドを録音
    2つのマイクをボディの前面に配置し、それぞれ交差するように傾けた120°X-Yステレオ方式マイクを採用 
  • 1920×1080のフルHD動画
  • 暗いライブハウスなどでもきれいに撮れる
    「"Exmor R" CMOSセンサー」を搭載。スタジオやステージなど室内の暗い場所でもノイ ズを抑えてくっきりと高画質で表情や動きを再現。
  • スマートフォンがリモコンになるスマートリモコン機能
    お使いのスマートフォンやタブレットをリモコンとして使えるスマートリモコン機能を搭載。離れた場所からの録画スタート・ストップ操作や、モニター確認ができます。
  • 31段階の録音レベル調整&オーディオレベルメーター搭載
  • 低域のノイズを低減、ローカットフィルター

参考:HDR-MV1 | ミュージックビデオレコーダー | ソニー
※さらに詳しく性能を調べたい方は上記リンクを。


主な特徴を、簡単にまとめると、、、

  • 高音質・高画質!リニアPCM、フルHD)
  • スマホをリモコンとして使える!(Wi-Fi機能)
  • 歌い手さんの撮影に適した“ミュージックビデオレコーダー”(ノイズ低減、音調整、CMOSセンサー)

これに加え、価格も“2万円弱”であるというのだから、コスパの面でも期待できる。



「HDR-MV1」で撮影した動画



で、そんなHDR-MV1で撮影されたのがこちら。



(クリープハイプの中でも『火まつり』をチョイスするとは、仲条クンらしいな…)

にしても、音がいい。

「音の奥行き」と「音域の広さ」を感じる。

当たり前ですが、iPhoneで撮影したのとは雲泥の差。

画質に関しては、標準レベルかと。いや、じゅうぶんなレベルだと思う。

ピアノではなく、ギターサウンドだとどうなるのかも聴いてみたいところ。さらに、薄暗いライブハウスでの撮影で、どこまで再現性を発揮できるか。

が、なんといっても、“ミュージックビデオレコーダー”という呼び名であるのだから、そのへんも歌い手の期待にこたえてくれそうである。(俺は歌い手でも何者でもないが…)


***

休日、Youtubeでアマチュア音楽をあさっていたりするのですが、

やはり「高音質・高画質」なほうがイイです。

コスパもいいのだし、こういった機器の利用が増えると、ますますYoutubeをみるのが楽しめそうです。

以上、@ryotaismでした。



ポジティブ心理学:前向きな『独り言』を言っているか?

マーフィー100の成功法則 (知的生きかた文庫)

最近、俺、『独り言』が多いんですよ。

たとえば、部屋の中で一人、ぶつぶつと声をだしているんですよ。

はい、正解。独身男の悲劇です。大正解です。

孤独になれると、『独り言』が増えるんですね。ふふ。

といっても、必ずしも無意識に『独り言』を言ってるわけじゃないんですよ。

いちおうの理由があって、『独り言』を発してたりします。


ATM手数料を節約する:超絶に簡単な方法

芥川龍之介

誰でもできる“節約術”をご紹介。


ATM手数料を節約する!


「月に何回、ATMでお金を引き落としていますか?」

「んー、だいたい4回くらいかな」

「じゃあ、一回に引き落とす金額を『2倍』にしてみよう」

「・・・え?」

「そうすれば、月に引き落とす回数が『半分』になる、したがって、月にかかっているATM手数料を『半分』にできるでしょう」

「・・・」

「・・・」

「えっ!?それだけ!?」


「うん!それだけ!それだけの話を書くためにパソコンをたちあげたよ!するどい!その通り!暇なんだよ俺は!独身だからね!」


中途半端な気持ちでも節約はできる


誰でもできる節約術というか、誰でも思いつく節約術でしたね(^_^;)

はい、すいません。

そもそも、手数料のかからないATMでお金を引き落とすのがイチバン賢いのでしょうけど。

でも、節約意識があっても、なかなかそこまでは“徹底できない”んですよね。


で、そういう人がほとんどなんじゃないかと…。

徹底的な節約を実行できるほどの根性がない。

結局、「節約したい」という気持ちが中途半端なんですよね…。


『無理無理、あきらめな。そんなヤツには節約なんてできねぇよ!』って、ちょっと待った。あきらめてはいけない。

たとえば、今回紹介したATM手数料を下げる方法とか、

世の中には、ダラシない人にでもできる節約術がある。

それは徹底的な節約術ではない。けれども、なんにもしないよりかはマシだと思うんだ。

他の例として、以前ブログでも書いたけど、2リットルのお茶をAmazonで買うとかね。(お茶を自炊したほうが確実に安上がりだけど、その実行力がない。かといってコンビニでは買わない、とか)

ボクはダラシないので、徹底的に節約ができる人間じゃない。

けれど、すぐに簡単にできることは実行していこうと思います。

「中途半端な節約意識でも節約はできる」と信じております。

何をえらそうに語ってるんだろうねボクは。それじゃあまた、@ryotaismでした。



『ウェブとはすなわち現実世界の未来図である』:書評と感想

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/4569816711/amazon142-22/

『ウェブとはすなわち現実世界の未来図である』(小林弘人)をKindle版で読みました。

おもしろかったです。3日で読み終えられる文量。

個人的に印象に残った文をまとめておきます。




『ウェブとはすなわち現実世界の未来図である』:読書メモ


  • 私たちは商品だけではなく、そのつくり手の物語を買っている。
  • ヒューマン・ファーストの時代、テクノロジーを用いて販売するものは、もしかしたら“体験”なのかもしれない。(中略)正直な話、商品はどこでも買えるものばかりだから
  • 自らの資源を「シェア可能(シェアラブル)」にすることで、それまで眠っていた資源の流動化が促される。そこで起こっているのは「資源の再分配」だ。それは、これまでみえなかった資源をデジタル上で可視化することから始まる。それによって多くの人々が、その資源とそれを所有しているあなたに注目するだろう。そしてマッチングが起きる。その資源をいま必要としている、あるいはいまはそれが不要でシェアしてもいいと考える人たち、その両者が出会 うのだ。
  • 共有の意味は一つのパイをめぐる配分だから、誰かとシェアはできない。その一切れを渡してしまえば、どこかで得をする人間がいて、損をする自分もいる。しかし枯渇を免れた資源は、それをさらに流動化させることで新たな益を生み出す。
  • シェアリング・エコノミーではインターネットを利用して参加者がさまざまな資源を共有し、新しいサービスを“共創”していく。旧来の所有という概念を脱し、自らがもつ資源の価値へとアクセスを促すのだ。そして、その資源を適正に再分配することで新しい換金化手法を得る。ある者にとってはこれ以上の価値が見出しにくい余剰資源でも、他者からすれば得難い価値となるかもしれない。
  • 「コラボレーティブ・ライフスタイル」という概念を示している。それは多様化したライフスタイルを軸として、同じ関心をもったり同じ地域に 属する人たちがバーチャルなコミュニティを通じ、モノ、コトの共有をすると同時にコミュニケーションを取り合い、一つの共同体を形成するというものだ。
  • オープン化の進むウェブ社会では、周囲の人の力を“素敵に借りる”ことがポイントなの だ。周囲の力を借りるときは、自分の専門が何だったのかという立ち位置、つまり核をしっかりもっておいたほうがいい。専門的な領域は今後ますます融和していくが、力をお互いに貸し借りしていく社会では「私のもっている力はこれです」と明示できるほうが評価されるからである。
  • マッシュアップとは、AとBを組み合わせてCにしてしまおうという考え方で、ウェブカルチャーを支えるアイデアの基本になっている。
  • 著作物を厳重に管理するのではなく、その管理を弾力的に運用することで、著作物の流動性を高め、注目を先に集めるのだ。  
  • 今後は自らが出版社や放送局のようにコンテンツを配信し、換金化手法につなげていく時代なのである。
  • 重要なのは不完全さを見抜くことだ。ネットをハックするのではなく、リアルをハックし、その不完全さを埋めることが次代のチャンス になる。そのためにはリアル社会の課題を解決するために、テクノロジーとネットワークを駆使すべきだ。リアルを活かす。それが人間中心主義における新しいデジタル活用法である。 
  • 自分のリソースをオープンにしたら、次はそれをシェアしていく。そのときには欲得を考えず、自分の興味あることや目標を踏まえてただオープンにすればいい。役に立つかどうかを判断するのは自分ではないからだ。 


その他、印象に残った箇所


  • もともとインターネット空間はリアル社会の複製から始まったが、これからはリアル社会がウェブのなかで培われた思考様式や心理状態を模倣していくだろう。
  • ウェブ2・0の時代になると、掲示板などのように“みる側の人間”が投稿やクリックなどで積極的に関わることによって、コンテンツをつくりあげるCGM(消費者生成メディア)が隆盛した
  • フェイスブックの広告では、企業側が対象者に訴求するとき、彼らからどれだけ共感を引き出せるかが重要になる。決まった枠に企業側が主張したいことを掲げた看板を出稿するのではなく、対象とすべきユーザーがつい「いいね!」を押して友だちと共有したくなることが大事なのだ。
  • 「あまちゃん」と「半沢直樹」はネットのクチコミという「バイラル」によって爆発的に広がり、大ヒットへと向かった。
  • いまや情報を「文脈」として捉え、その門番として人間の力に頼るという考え方は、フェイスブック以外にも広がっている。その一つがウェブにおける「キュレーション」という潮流だ。
  • キュレーターやプロの編集者という役割がこれからますます重要になる、と私は考えている。 テクノロジーが発達すればするほど、コンテンツは断片化されていく。それぞれの情報に意味やストーリーという文脈をもたせなければ、ユーザーに記憶されることなくそのコンテンツは流れ去り、消えてしまうだろう。
  • ソーシャルグラフとは友人関係のつながりを記述するものだったが、そこにコトやモノなどへの興味・関心度合を追加したものが、インタレストグラフである。
  • インターネット上の情報は玉石混淆であり、しかもノイズのほうが圧倒的に多い。そのなかで意味をもつ信号を拾うためには、それなりにやるべきことがある。将来的にはテクノロジーがそれを解決してくれるのかもしれないが、あらゆる情報がフラットに並ぶいま、その取捨選択は人間と人間がつながった時代のなかで、最終的に各々のユーザーに委ねられたともいえるのだ。(“ヒューマンファースト”)
  • そのサービスの参加者たちを何が保証しているのか。簡単にいえば、それはリアル社会同様、「信用度」である。現在のウェブは人としての評価や評判が次々に可視化される。そのなかで、「自衛のためにも悪い行動はできない」ということが原理として働くのだ。
  • 評価の高い提供者には評価の利用者がマッチされるように、共有型経済は、評判資本主義といってもいいだろう。
  • シェアラブルな世界では、参加者が「何者か」が問われる。それは「実名であれ」ということではない。提供する側にも、される側にも、継続的にその信用が担保されているかどうかが重要なのだ。優れたサービスはファンを生み、コミュニティをつくる。そこでは生産者も、消費者も、貢献度や愛着度合で計測されるのだ。
  • 事業を行なっているときに突然テクノロジーが陳腐化したり、全体のトレンドが変わってきたときは、急いでそのピボットを行なわなくてはならない。ピボットすると、「コバヤシくん、最初の事業計画とまったく違うじゃないか」と問われることもあるが、 移り変わりの速い世界では、これが当たり前なのだ。 
  • 考えつづけてアイデアをバージョン2・0にアップデートする。そして、それを公開して初めて気がつく部分をまた最初からやり直す。ウェブサービスではこれが当たり前だ。


書評、感想


まず、“3Dなんちゃら”の記述がすごく多い…


革新的技術であることはよくわかったのですが…ちょっと革新的すぎて、勉強不足の自分にはついていけなかった。使いこなせる気がしない(汗)

が、それ以外のところは、“一般”である私にも、大変参考になりました。

“オープン”、“シェア”という概念――。ウェブというのは、開かれている場所であって、“所有”する場所ではないのだと思う。

インターネットがここまで発展したのは、無料という要素が大きい。ツイッターにしたってフェイスブックにしたって、参加するのに料金がかからない。Wikipediaも青空文庫も、Youtubeをみるのも無料。(※厳密には、裏でお金が動いているのだから、無料ではないのだろうけど)

そんな中、閉鎖的に情報を隠し持っても、だれも見向きしないのかもしれない。所有物・所有する情報をどこまでフリーに、開放的にできるか。「料金とりまっせ!」じゃ、なかなかうまくいかない。

オープンな流れを逆手に取って、有料メルマガやらサロンを形成して、囲う動きもあるんだろうけど、そのコミュニティ内で行われているのは、やはりシェアとオープン。慈善的な提供や、共創という要素が、少なからずあるんじゃないか。

情報を提供し対価を受け取るだけの一辺倒なやり取りで終始するのではなく、所有物が再分配されていくような、エコロジカルな生態系がウェブ上で築かれていく。“オープン”と“シェア”。

“ヒューマンファースト”の視点――ウェブで相手にするのはモノでもお金でもない、“対ヒト”、といった意味で『ウェブとはすなわち現実世界の未来図』といえるのかもしれない。

以上、@ryotaismでした。



“ワークデザイン”とは?:『ワーク・デザイン これからの〈働き方の設計図〉』を読んで

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/448413232X/amazon142-22/

『ワーク・デザイン これからの〈働き方の設計図〉』(長沼博之)をKindle版で読みました。

よかったです。とても参考になりました。

“今の自分の働き方”、および、“これからの働き方”について考えている人には、参考になるんではないかと思います。

読んでて印象に残ったところを、自分なりに箇条でまとめてみました。(※もしも誤読あったらすいません…)




『ワーク・デザイン』:読書メモ


  • 「大量採用大量解雇」⇒人の時間を奪う
  • ロボットができることを人間がやると人間がロボットのように扱われてしまう
  • 機械ができることは機械へ、人間は人間にしかできない仕事をする、これからの働き方にとって大切なこと
  • クラウドソーシングによってコスト削減になる
  • (機械化や情報革命によって)生産性が高くなればなるほど雇用は減っていく
  • 新しい時代の働き方には「パラレルキャリア」の考え方が必要となる。1つの会社の1つの職を自分のキャリアとするのではなく、複数の仕事 ・活動をキャリアと認識し、それぞれを同時並行させる
  • これからの時代は「損得」ではなく「好き嫌い」「善悪」に価値観の重点が置かれる
  • 「社会の役に立ちたい」という人が増えている風潮
  • 「大衆」の予想はどんなに詳しい「一人」よりも正確。
    "大衆のほうが賢い"
    “我、大衆の一員なり”という哲学をもつこと。
    大衆のために泥をかぶるような人が支持を集めるだろう。
    “我、選ばれし人間(エリート)なり”という価値観ではいけない
  • 【社会が評価する価値観基準】
    1.「長期的な視点をもっているかどうか」
    2.「自分だけ、関わっている人間だけでなく、『他の人』も幸せにするという視点をもつ」
    3.「差別がないか」
    4.「個人の可能性をどこまでも活かそうとするか」(組織ではなく、個人に力を与えていく)
  • 低階級の欲求(生理的、安全)が満たされると、より高次の欲求(尊厳、自己実現、帰属)を求める
    【労働】――「生物としての生存」のために働くのではなく、人間として、「自己実現」「貢献」「公益」を求めて働く時代
    「消費社会」から「生産社会」への変遷
    “買う”よりも“働く”ことに価値を感じる
    低階級の欲求は「消費型の欲求」、高次の欲求は「生産型の欲求」
  • 「リーン・スタートアップ」――地図を捨て、コンパスに頼れ
    市場の変化を読み取り、ピボットする。
    スピーディーに“小さく”立ち上げ、利用者の意見を聞きながらブラッシュアップしていく。
  • ユーザーを短期間にどれだけ増やせるかが重視され、コミュニティ化されていれば(人が集まっていれば)、後からビジネスモデルを修正・構築することは可能
  • 「コミュニティ」から発想して(構築して)、価値を創出し、コミュニティを起点としてその価値を伝播させる
    “新たな経済圏を生み出す”
    同じ志や共感・共鳴を元にした、小さなコミュニティを形成し、それを少しずつつなげて広げていくモデルが重要である

上記に挙げたのは、私が特に印象に残った一部分であり、もっと他にもいろいろ書かれています。


読後に思ったこと


“パラレルキャリア”の時代、というのが本書では繰り返し書かれています。

これに関しては各所言われていることであり、“当たり前化”してきていると思います。

少なくとも自分の周りでは、一つの仕事だけをやっている友人はほとんどおりません。ボランティアであったり、投資であったり、ブログや、動画・音楽作成などなど、仕事以外でさまざまなことに取り組んでいる人が多いです。

昨今の芸人さんが、映画監督や小説を書いたり、音楽DJをやったりしているのも、ある種の“パラレルキャリア”ではないかと思います。

というより、そうせざるを得ない。1つの仕事、1つの職だけではやっていけないようなところがあるんじゃないか。

が、それは必ずしも悲観的なことではなく、ウェブを中心にして、昨今は“個人で色々とやりやすい”仕組みができつつあって、すなはち、“「個の力」を活かせるような時代”、ということである

他、「コミュティ」の重要性についても書かれている。

ウェブが広大になればなるほど、人は集う。小さなコミュニティが乱立する。そしてそこに経済圏が生まれる。


そういったコミュニティの中心にいるか、あるいはコミュニティを生みだせるかが、これからの働き方を考える上で重要なのかもしれない。


「消費社会」から「生産社会」への変遷の中で、“働く”ということの意味と“働き方”そのものが移り変わっていく。大衆が導き出した正しい答え――それは、“人間らしく働きたい”という、高次元を求める欲求や、自己実現の意志、個の力の発動であるのかもしれない。

以上、@ryotaismでした。



ブログアクセス数(6月)


メモ、記録用。6月のブログアクセス数。


サイト訪問者数(6月)



6月の記事数は、4本。
ユニークユーザー数、22,114。
ページビュー、33,898。



検索訪問数、20,778。



 ページビュー   ユニークユーザー   検索訪問数   一日平均訪問   記事数 
 2013 


  
 2月   338 74  36  5   30
 3月   2,171  992  647  40   37
 4月   4,300  2,608  1,962  95   28
 5月   9,121  5,942  4,583  210   16
 6月   20,405  13,854  10,421  500   16
 7月   33,958  22,216  16,964  800   19
 8月   35,895  21,879  16,660  800   13
 9月   44,426  27,603  20,288  900   16
 10月   29,218  17,652  15,543  550   19
 11月   32,277  20,414  19,189  650   14
 12月   51,532  32,772  30,438  1,050   14
 2014 


  
 1月   65,987  41,512  38,098  1,300   17
 2月   40,890  25,902  23,573  900   20
 3月   48,521  31,223  28,191  1,000   14
 4月   50,082  32,431  30,686  1,080   17
 5月   40,646  26,244  25,038  850   7
 6月   33,898  22,114  20,778  750   4

※解析はGoogle Analytics

一日の訪問者数でみると、おおよそ750。


6月の記事


先月、主な記事3本。



6月、ふりかえってみて


記事数が4本と、ブログを開設して以来、最も少ない本数となりました…。

7月はもっと書きたいなぁと思います。



関連記事:アクセス数

『伊達マスク』の心理:当事者が語ってみる


『伊達マスク』(だてますく)って、知ってます?

ウィキペディアにものってるよ。

だてマスク(伊達マスク)とは、本来の衛生上の理由とは異なる目的で常にマスクを着用すること。

■目的
・何となく落ち着く。
・顔がコンプレックスだから。
・顔を隠せるため視線にさらされない安心感がある。
・人と話さずに済む。

こういったのを「伊達マスク」と呼ぶのですが、私はコレです。

行き帰りの通勤中、ほぼ100%マスクを着用しています。(仕事中は、さすがにはずしますが…)

プライベートで外に出かける際も、マスクをもっていきます。

理由は、衛生目的ではなく、上記のような、「表情を隠す」「落ち着く」といったことです。

マスクをうっかり家に忘れてきてしまうと、落ち着かない、すごく後悔をしてしまいます。

マスクは60枚セットで常備、Amazon購入しています。





癖になるとヤバイ



さて、そんな「伊達マスク」ですが、心理学的分析では、ややネガティブに言われております。

「(中略)自分の本音を他人に知られることが怖い。そして自分の弱みを知られることを嫌うのではないか。」

「リアルなコミュニケーションを避けるのは、社会不安障害に近い症状で、マスクは、引きこもりにならないよう何とか外に出るための一種の防衛装置である。表情を読まれないことに慣れると癖になってしまう。」

なぜ自分が「伊達マスク」をするのか。

上記の陳述通り、コミュニケーションや、他人の目線が苦手だからでしょう。過去、ひきこもりだったこともあるし。

「伊達マスク」に慣れてしまうと、他者に心や表情をみせることが苦手になってしまったり、コミュニケーション能力の低下につながる可能性がある。

…まぁ、そこまで重症化することはあまりなさそうですが、そういった危惧はもっておいたほうがよさそうです。“度が過ぎるとよくない”、ということですね。気をつけましょう、はい。



されど便利、マスクへの愛



とはいっても、マスク、ほんとに便利なんですよね。

なかなか手放せない理由がいくつかあって。


表情を隠し、他人の目を避ける


私は今の仕事につく前、しばらく自宅にひきこもっていたので、

"満員電車にほぼ毎日のる"という急な環境の変化に、面食らってしまいました。

が、マスクを着用するようしてから、自分表情を隠せることから周囲の目線を気にすることもなくなり、ずいぶんと気持ちが落ち着くようになりました。ストレスが軽減された。

「へたれすぐるwww」あるいは「自意識過剰すぎwww」と笑うかもしれませんが、長らく自宅にひきこもっていると、そうなってしまうものです。たくさん人がいる場所が苦手で、生(なま)の他人の目がおそろしいんですね。

性格的にも、子供のころから人混みが苦手で、「一人でいるのが好き」なほうだったので、そのへんも根本的な要因としてあるのかもしれません。


潔癖的な側面


理由はそれだけじゃない。

私は、埼京線という満員で有名な電車に平素乗っているのですが、

例えば金曜の夜とか、ものすごく車内が"酒臭い"んですね。


言ってみれば、電車内は"密室"ですから、酒臭さが充満しており、また、逃げ場所もない。

どうも、苦手なんですね…あの臭いが。

自分自身、そこまで小奇麗な人間でもないくせに。すいません。

そういった場面でも、マスクはなかなかの効果を発揮してくれるのです。

(※臭いを避けるというのは、今回の『伊達マスク』とはあまり関係がないことかもしれないけど、こういった潔癖な側面と閉鎖的な心は、どこか深いところで通じているんではないかと。なんとなく。)



「伊達マスク」が無くても外出ができるか?



――ところで。

「『伊達マスク』無しでもやっていけるか?」と問われれば、それは可能です。

おそらく、私と同じように「伊達マスク」をしている人の大半は、マスクなしでも"大丈夫"なんじゃないでしょうか。

携帯を家に忘れてしまうと、そわそわすることありませんか?そのような感覚は多少ありますが、「我慢ができない」「冷や汗がでる」といった強い依存は今のところありません。

実際、仕事中はマスク無しで普通に接客もしております。

大多数は、その程度のものであると思います。

……が、“マスクをつけていたほうが落ち着く”、これは事実です。

「ストレスがたまらないにこしたことはない」と思って、割りきり、マスクを“意識的”にストレス軽減ツールとして利用するぶんには、よいのではないかと思います。(インフルエンザ防止で人がマスクをするように、“意識的”に用いる。)

私は明日もあさっても、今年の夏場も、「伊達マスク」をつけて通勤するつもりです。

けれども、これが“無意識”レベルの、完全なる慣習になってしまうと、どうもマズイような気がします。

それこそ「中毒」となってしまい、マスク無ししじゃ外にでれないようになってしまって、日常生活やコミュニケーションに支障がでる恐れもある。可能性はゼロじゃない。

完全な慣習化、『強い癖』になってしまわないようにしたいものです。


***

『伊達マスク』について、自身の体験をふまえて書いてみました。

こういった伊達マスクに対して、「気持ち悪い」と言う人がいるかもしれませんが、すいません。

すべて自分に責任があるのは承知です。

以上、@ryotaismでした。


服装がダサい人の思考:俺だってホントはオシャレしたい


ちっちゃい頃から、“オシャレ”に興味がない。

服装や髪型とかに、あまりこだわりがなくて、外見に無頓着。

結果、すごくダサくなってしまった。

びっくりするくらい、服装はダサいし、髪型も変だし、カバンもクツもダサい。とにかくダサい。事実、友達から“ダサい”と言われる始末だ。

さて。

『そんなお前の個人的な日記なんて誰も興味ないから帰れクソバカ』、と言われそうですが、ちょっと聞いてください。

いや、いると思うんです。

ボクみたいに、意図せず、“ダサくなってしまった人”って。

オシャレな人たちよ、これだけは言っとくぜ…。

俺たちは、誰も、『ダサくなりたくてなっとるわけじゃない』んですよ。

ほんとうは、オシャレしたいんですよ。叫びにも似た文ですよこれは。

「人間、見た目じゃねぇ!中身だ!」なんて、さらさら思っちゃない。

見た目とか、ほめられてみたいし、「おしゃれですね」とか言われてみたい。

「オシャレに興味がない」って、冒頭で言いましたけど、あれ、嘘です。ほんとはあるんです。ただ、苦手なんです、なぜか。うまくいかないんです。

なんでダサくなってしまったのか? なぜオシャレに興味があるのに、オシャレが苦手なのか。

ちょっと書いてみる。

既存のオシャレ民は読まなくてよろしい。嘲笑なら御免だぜ。



何がオシャレなのかわからない



もうね、これに尽きるんだよ。

オシャレしたいんだけど、何をどうしたらオシャレなのかがわからない。よくわからないんです。


『流行の服を着とけばいいよ』って、いや、何が流行なのかわからない。調べるったって、ちょっとそこまでは面倒だし、てか、調べるツールを知らない。

で、ここからがマズイんだ。非常にマズイ選択をとってしまう。

なにがオシャレかわからない、

で、結果、『"自分の好み"で服を選んでしまう』

「んー、よくわかんないから、とりあえず、自分の好みで選んでみよ」、これ、この軽はずみな態度、『命取り』です。

自分の感覚で選んでしまうから、だれも止めてくれる人がいないから、ノンストップでダサくなる。気づかないのだ、“ダサいチョイス”をしていることに気づかない。結果、Dive to ダサい。

よっぽどセンスがない限り、"自分の好み"は、オシャレじゃないんですよ。

もともと美的センスがあるなら、それでいいと思うけど、、、

普段からオシャレに対する強い願望やオシャレ研究を行っていない人間が、いきなし、“自分の感覚”や“好み”で服を選んで、オシャレになるはずがないんですよ。あたりまえですよ。


自分のセンスを少しでも信じた俺がバカだったよ。

色や上下の組み合わせとか、自分の感覚で選んでしまった結果、すこぶるダサい、全身大火傷。ある種の事故。

信じるな、と。自分のセンスだけは信じちゃいけないんです。



「機能性」を重視ししてしまう癖



やめとけ。「機能性を重視するのだけはやめとけ」。

ボクのようにダサいやつは、ついつい『機能性』に逃げてしまう。

「ここのポケット便利だなぁ~」、やめとけ。即、やめとけ。

「オシャレ」と「機能性」は、往々にして反する。


機能性を重視すると、オシャレから遠ざかってしまうことがあるのだ。

「オシャレで且つ便利」、そんな都合のいいものなんて、まぁそうそうあるまい。

欲張るな。両方を求めるな。

『このカバンと服、オシャレかどうかはわからないけど、とりあえず機能的だし、損はしないし、いいんじゃないかな』

逃げるな! “機能性”に逃げるな!
 

どんどんオシャレから遠ざかっていくぞ。びっくりするくらい、戻れなくなるぞこれマジで。 



オシャレのセンスがない



えっとね、やっぱり、なんだかんだ、これはあると思うんだ。

そもそもの『センス』の話。センスがないって話。

オシャレのセンスって何か?

オシャレって、他人から「オシャレですね」って言われて初めて「オシャレ確定」だと思うんです

自分で「これがオシャレだぜ」って、そいつぁ自己満足で、「あ、そう勝手にすれば」という話ですし、やっぱり、オシャレには他者目線や承認が必要だと思うんです。

他者に認められなきゃ、「オシャレである」とは、やっぱり言えない。

言っとくけど、俺だって、オシャレな服を選んでいるつもりですよ、いちおう。

でも、それはあくまでも「自分の中」の話であって、ふたをあけてみれば、『え、ダサくない?その服、むっちゃダサいよ。田舎の中学生?』と言われて、自分が信じていたオシャレ感覚、ズタズタですよ。

で、いろいろ悩んでいると、

『自分の好きな服を選んだらいいんだよ』って、オシャレな民は言ってくれるんだけど、それ、なんの慰めにもならないです。
「自分にはオシャレの感覚やセンスがない」、というのが悩みの種なんだから。

「自分で自分の服が好き」というところから一歩外にでて、他人に認められたいわけだ。

『オシャレは、その人に似合う服を着ることだ』といったオシャレ論も同様。意味をもたない。

こちとら、そういったもろもろのアドバイスを忠実に実行した結果、「ダサっ。地味っ」、「え?コンビニ店員さん?」、「チェック柄率85パー以上ワロタ!」とか言われて、さんざんですよ。

自分の基準じゃなくて、他者の承認が必要がほしいんですね、いいかげん。



オシャレとは「手間」である



結論いきます。

結局、やっぱりね、「オシャレになりたい」という願望が薄いから、こんなことになっちゃうんじゃないか?

きっと、オシャレになるには、ある種の“手間”が必要なんだと思う。雑誌をみたり、周囲を観察したり。なんもせずにオシャレになることなど、難しいだろう。

でも、オシャレに興味がある人ってのは、それを“手間”だと思っていない。むしろ、“楽しんでいる”。率先してオシャレすることを楽しんでいる。

その感覚が、自分にはない。手間だと感じてしまう。

つまり、そもそもの「オシャレへの欲求」が薄いのではないか。

他者からどう見られるか、どう見られたいか、といった意識が足りないのかもしれない。かといって、完全に他者目線を遮断することもできず、結局、「オシャレにたいして興味がないのに、でも、オシャレなほうがいいな…」という、『わがまま』を自分は言っているだけなのかもしれない。

ともかく、「手間がかかるなぁ」などと思っているうちは、到底オシャレには到達できないだろう。

が、オシャレへの興味や、オシャレのセンスなんてのは、もはや性格・性分みたいなものであるから、すぐに変わるものでもなかろう。

結局のところ、「なんだかんだオシャレに興味がない、したがって、ダサくなるのも必然」、ということでしょうか。


***

なんの解決策も見いだせないまま、終わってしまいましたが、

オシャレになれるイイ案でもあれば、教えていただきたいものです。というか、あやかりたいもんです。

以上、@ryotaismでした。