「ワクワクする」という判断基準――即効性にためらうな


いい歳してね、最近、思ったんです。

『ワクワクすることをしよう』、と。

いったい私は何をすべきなんだろうかと、自問自答することがあって。“やりたいこと”、“やらなければならないこと”、いろんな言い回しがあるけど、よくわかんないですよ、そのへんの線引とか含め。「じゃあ一体、何をやればいいんですか?」って。よくわかんない。

結局ね、『自分が楽しいと思うことをやろう』ってことだと思うんです、思ったんです。

自分に問うてみる。

『私は何をしたいか? 何をしなければならないか?』

もうね、それって、その解って、 『ワクワクすることをしよう』『楽しいことをしよう』、というところに行き着くと思うんです。

今日はそんな話を少しだけしてみる。

たいへん幼稚なことを書き連ねるので、したがってアダルトは無視してください。


“ワクワクするか?”という判断基準


自分は一体何をしたいのか?

それなりに、いくつか思い浮かぶことがある。

で、それらを白紙にありったけ書いてみる。

さて、その中からどれを選ぼうか?

お金が稼げるものにするか、自分の得意分野のものにするか――、さまざまな基準がある。

どれが絶対的な正解かはわからないけど、判断基準のひとつとして、『ワクワクすることをしよう』というのがある。

ワクワクすること――はたしてそれは自分がワクワクすることであるか?

『これから自分がしようと思っていることは、ワクワクすることであるか?』


これって、幼稚な考え方にみえるんだけど、重要なことだと思うんです。

ワクワクすることだったら、情熱をもって取り組める。寝る間を惜しんで「努力」できたりする(というか、それは「努力」という言葉ではなく「夢中」という言葉に置き換えられる)。

「お金は稼げるけど、楽しくない」、こういうのを選ぶと、長続きしない気がするんです。仮に長続きしたとしても、“楽しくない”というのは、不健康ではないか。

“お金を稼ぐことが何より楽しい”というのなら、それでいいと思う。何を楽しいと思うかは、人によって異なるであろうし。

いずれにせよ、とにかく、“ワクワクすること”でなくっちゃあいけない。でないと、やろうと思わないし、やる気も起きないし、新しいことを始められないんじゃないか――と思うんです。

“はたしてソレは自分がワクワクすることであるか”、この判断基準に沿うと、即決がしやすい。やる気も起こるし、迷わずすぐに取り組める。

「自分が何をしたいのか」、迷ったときは、ああだこうだ考えたってらちがあかない。なかなか物事が進まない。『シンプルに、自分がワクワクすることをしよう』、たったこれだけで、次へと進める。

また、楽しいことを選んだのだから、失敗したとしても、できるだけ後悔を減らすことができるという、ある意味、“無難な判断基準”とも言えるだろう。


“ワクワク”は人に伝わる



ワクワクすることは、熱量をもって他者に語ることができる。

好きなことだったら、夢中になって話し続けられたりしますよね。

これこそが「演説」や「プレゼンテーション」や「思想」の根本にあるべき姿勢ではないか、と。

自分が好きなことを、熱量をもって語れるか――。その熱量は、他者に伝わることがある。相手の心に届くことがある。感情を揺り動かすことがある。

無論、熱量だけではうまくいかず、計算すべきところはきちっと計算しておくべきなのだろうが、それについてはひとまずおいておく。ひとまず必要なのは、『情熱的に語れるか』『夢中になれるか』。そのような衝動的思いが、「演説」「プレゼン」「思想」の根底にはあるべきで、そもそも、「ワクワクすること」「楽しいと思うこと」でなくては、“誰かに何かを伝えよう”などと思えないんじゃないか。

また、このような熱量、思いは、他者に伝わりやすい。

「自分がワクワクすることは、他者にとってもワクワクすることである」、そのようなことがしばしばある。逆に、「自分がワクワクしないことは、他者にとってもワクワクしないことである」。

誰かに何かを伝えたいならば、まず、自分自身がソレを強く信じているか、ソレについてワクワクしているか、楽しく語れるか――ということが重要だと思う。当人のワクワクは、そのまま他者に伝染することがある。

いろいろと計算するのも大事だが、そういうのは一朝一夕では身につかず、大変難しい。が、強い思いがこもった熱量は、相手に伝わる、伝わりやすい。これは、最もシンプルで簡単な主張方法ではないかと思う。所謂、“思いは伝わる”、というやつである。(「正確に伝わっているかどうか」「生産的な主張であるかどうか」、などというのは、失敗を積み重ね、成長の中で徐々に身につけていけばいい。)


“ワクワクすること”をためらってしまう癖



『ワクワクすることをやってみる。そうすれば、毎日が楽しくなる。』

こんなのは当たり前のことだ。


――が、そういった発想は、あまりにシンプルすぎるために、つい見過ごしてしまう。「そんな簡単な方法で毎日が楽しくなるはずがない」と、シャットアウトしてしまう。

以前の自分がそうであった。「もっと経験や勉強をつまなきゃ、『楽しくない人生』は変わらないだろう」と、妙にハードルを高くしていた。余程のことがなくては、人生は楽しくならないのだ、と。

そして、『ワクワクすることをやってみよう』などという、単純な発想にふたをしめてしまう。「そんな簡単な話じゃない」、と。

けれども、はたしてそのような考え方で何かが変わっただろうか?何かを始めることができただろうか?

最近、ボクはこう思うようになった。

おもしろいなぁと思うなら、それをやってみよう。ワクワクすることがあるなら、それをやろう、と。そうすれば、最短距離で人生が楽しくなるんじゃないか、変わるんじゃないか――。

もちろん、「そんなうまい話あるわけがない」ことは自分でもわかっている。都合がよすぎるだろう。考え方が単細胞でバカすぎる。

しかし、「ワクワクすることがない」という人もいる。たまたまなのかなんなのかわからないが、自分には「ワクワクすること」がある。ならば、やってみたほうがいいんじゃないか。

また、一日の大半を憂鬱な仕事に費やしていたとしても、わずかでも“ワクワクすること”があるならば、チャラになる。片意地をはらず、多少は、感情の赴くまま動いてみてもいいんじゃないか。

『ワクワクすることをやってみる。そうすれば、毎日が楽しくなる』――極めてバカっぽいが、これほど即効性があって、すぐに行動へと繋がる判断はないんじゃないか。食わず嫌いせず、素直に、ワクワクすることをやってみてはどうか、と思うのである。

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またしても、こっ恥ずかしいことを書いてしまった。消えてしまいたいわー。

以上、@ryotaismでした。

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