親知らずを抜歯して思った、『支え合う』にはどうすればよいか?

支え合う

昨日、歯医者さんで、親知らずを抜歯してきた。

いずれ仕事をやめたら、保険証がなくなるので、その前に虫歯になる可能性が高いところを事前に処置しておこう、と。

昔、お金が払えなくて、歯医者に行けず、めちゃめちゃ苦労した記憶がね…えらいトラウマなってるんですよ。

歯医者ですが、事前予約せずに、飛び込みだったのだけど、1時間程度であっさり終わった。先生、ありがとうございました。

抜いた親知らずを、先生に見せてもらったのだけど、グロかったなぁ。抜いた歯を見せる制度、いるかな?別に見たくないっすわ俺。

――まぁいいや。

さて、奥歯にズキズキとした痛みを感じながら、ブログを書きます。

どうでもいい話ばかり書いてさ、「はたして自分はこれでいいのか?」と悩んでいます最近。


一人で親知らずを抜けるのか?


歯医者に行くたび、思うんです。

『俺は一人じゃ生きられねぇなぁ…』
、と。

自分で自分の親知らずって、抜けないですよね?

親知らずをペンチで挟んで、思っきり下に引っ張って抜きとる、とか…やろうと思えばできるかもしれないけど、実際問題、難しいですよね。麻酔とかも使えないし。

で、思ったんですね、バカみたいに。

『人に支えられて、ボクは生きているんだなぁ…』、と。

なにを当たり前のことを言っとるんだチミは、と呆れられるかもしれませんが、こういうきっかけがないと、なかなか気づけないものです。思い出せないものです。

『人に支えられて生きている』、『支えがなければ、生きられない』

そのことを、なんで忘れてしまうのか?


大人になると、一人でできることが増える


一人で生きる

たとえばさ、中学生のとき、「高校の進路」を決めるとき、手続きとかもろもろ、親や先生の補助があった。

それがなくっちゃ、高校なんてどうやって行ったらいいのかもわかんない。わかんないことづくしで、「1から10まで自分で手続きする能力」とか、備わっていない。

ところが、大人になると、そういうのも自分で行うようになる。行えるようになる。

たとえば、「就職活動」とか、そうじゃないですか。1から10まで、自分で行うようになる。高校の進路でさえうまくできなかった坊やが、いつの間にか、自分で進路を決めて、手続きまで行えるようになる。

つまり、大人になるにつれ、『支え』がなくても『自分ひとりでできること』が増えていくんですね。『支えられる』という場面が減る、ということ。

となれば、どうなるか――。

人の支えやサポートを受ける機会が減るのだから、比例して、それを感じることが減る。

でもさ、今回の親知らず抜歯の件もそうなのだけど、『一人ではどうにもならないこと』は、大人になっても、やはり存在するんですよね。


その機会が子供の頃と比べれば減ってしまうから、つい忘れてしまうのでしょうね…。


『支え合う』にはどうすればよいか?


助ける

で、ゴリゴリと親知らずを抜いてもらいながら、歯医者でそんなことを思っていたんですけど、ふと思いました。

『支え合って生きる』という言葉について。

このように、自分は、人に支えられて生きているわけだけど、同じように、自分が他人を支える場面もあるだろう、と。ボクみたいなカスでも。

歯医者さんは、その分野の専門だ。専門分野があるから、人を助けることができる。到底、ボクには真似ができないことをやっている。

でもね、一方で、その歯医者の先生が知らないこと、できないことってのも存在するわけですよ。

たとえば、ボクは今、とある仕事をしているけれども、その分野に関して、歯医者の先生は、きっとチンプンカンプンだと思うんです。

『支え合う』というのはつまり、それぞれの「できない部分」を、それぞれが「助けてあげる」、ということなんじゃないでしょうか。

つまり、「Aのできないことを、Bがかわりにやってあげる。逆に、Bのできないことは、Aがかわりにやってあげる。」――という関係性。

となると、『支え合う』という関係性を確立するには、『相手がもっていないこと、自分にしかできないこと』がなくっちゃあいけない。成立しない。

『支え合う』という関係性を築くには、いわゆる、“専門分野”というものが、自分にはあるか――これが肝心なのだろうと。

『自分にしかできないこと』が少ないと(専門分野がないと)、『支えられっぱなし』になってしまって、『支え合う』ということができない。


……なんか、そんなことを思ったんですね。ゴリゴリと親知らずを抜いてもらいながら。

いや、『専門分野』といっても、高尚なもんじゃなくていいと思うんですよ。

この歯医者の先生、たとえば「料理をつくる」のが苦手かもしれない。

で、料理ができる人が周りにいると、先生はすごく助かるわけです。

専門性といっても、「料理ができる」とか、その程度のもんでいいと思うんです。

『相手がもっていない部分』『相手ができないこと』であれば、それは、その相手からすれば、ちゃんとした『専門分野』なんですよ。

大切な人がいるとする。「支えたいなぁ」と思う。

じゃあそんとき、どうすればいいかって、その大切な人の「足りない部分」「もっていない部分」「できない部分」を、自分がおぎなってあげるといい。


『支えっぱなし』『支えられっぱなし』という事態


が、注意点もある。

『支えっぱなし』という事態が起こる可能性がある。

『支え合う』のではなくて、『支えっぱなし』という状態。


こうなると、『支え合うことで“生きやすくなる”』のに、そうではなく、片方が苦労してしまって、逆に、“生きにくくなる”。

『支えられっぱなし』という状態も同じで、自分は“生きやすい”かもしれないが、他方、相手は支えっぱなしであるから、“生きにくくなる”。生きにくくなった相手は、いずれ支えることをやめるだろう。結果、『支えられっぱなし』『支えっぱなし』という状態は継続が難しくなる。

文章がこんがらがってきたので、簡潔にすると、、、

つまり、『支え合う』ことでしか、どちらも『生きやすく』はならないということ。『支えっぱなし』『支えられっぱなし』では、生きにくくなる、ということ。

また、『支え合う』には、『相手がもっていない部分』『相手ができないこと』を、おぎなえる自分でなくてはダメで、お互いがお互いを支えなくては成立しない、ということ。


★★★

なんだか、おそろしく当たり前のことを書いてしまいましたが、、、

今回、親知らずを抜いてもらって、『先生、今度は俺の職場にきてくれよな』と、珍しくさわやかなことを思った自分がいたので、「これは貴重だ!」と思って書き留めておきました。

それでは。@ryotaismでした。