「茶碗にご飯粒ひとつ残さない理由」――教育と環境と美意識


ボクね、茶碗にご飯粒ひとつ残さないんですよ。

いや、まぁね、どうでもいい話であるということは大変よくわかっているのですが、これね、「なんでだろ?」って思ったんです。

この前、知人とご飯を食べたときの話。

食事を終えて、ちらっと見たんですよ。その友達の茶碗を。

そしたら、茶碗にご飯粒、いっぱいついてるんですよ。

こういう人、たまにいますよね?

2、3粒じゃなくて、茶碗にたくさんのご飯粒をつけたまま(残したまま)、食事を終える人。


で、ボク、なんとなく、聞いてみたんです。できるだけソフトな感じで。

「けっこう、ご飯粒、残しますね~」って。

そしたら、彼、キョトンとした感じで、「え?」って言ったんです。「それがどうしたの?」って、不思議な顔をされた。

つまり、彼にとっちゃ普通のことなんですね。いつものことなんです。不思議な点などどこにもないんですよ。

「あー、なるほど」、と。そのとき、ボクは気づいた。

つまり、「ラーメンの汁を残す」のと同じなんだと。

もったいないとか、そういうものではない。茶碗にご飯粒がついてても、「残す」とか、「食べ終わっていない」とか、そんな感覚はどこにもない。彼の中では、“ちゃんと食べ終わっている”のだ。

「なるほどなー」と思っていたら、今度は逆に、彼から言われた。

「いや、てか、めっちゃキレイに食べますね!?ご飯粒ひとつないじゃないですか!」って。

いや、そりゃそうだ。ボクはいつもそうだ。一粒も茶碗に残さない。なにがおかしいのだろう?ボクは子供のころからずっとそうである。

そのことが、彼からすれば、「どんだけ丁寧なんですか!きれい好きですか!?」、ということらしい…。

んー。そう言われると、ちょっと考えてしまうのだ。

なんでボクは茶碗にご飯粒ひとつ残さないんだろうか?


なぜ、茶碗にご飯粒ひとつ残さないのか?



『きれい好き』だからか?

いや、これは違う。

ボクはまったくもって、『きれい好き』ではない。部屋の中は、服や本が散らかっているし、それでも僕自身、平気である。

『貧乏性』
だからか?

どっちかといえば、ボクは貧乏性だと思う。ご飯粒が茶碗に残っているのを見ると、「もったいない」とは思う。が、それだけが理由だとは思えない。なにか、もっと他に理由があるように思う。(ちなみにボクはラーメンの汁は残す。ぜんぶ飲み干したことはほとんどない)

もう、性格というか、『癖』なんだろうと思う。癖。

「茶碗に一粒も残さない」というのが、癖づいているだけで、理由なんて存在しないんだろうと思う。

たとえば、毎日歯を磨いていたら、歯を磨かずに寝ることが気持ち悪いじゃないですか。あれと同じ。

「ご飯粒が残ってたらなんだか気持ちが悪い」、ただそれだけの話。

んー。じゃあ、なんでボクはそんな癖ができてしまったのだろうか…。


“農家の息子”として


ボクは農家の息子である。

子供のころは、稲刈りや田植えを手伝っていた。

そんな家、農家であるから、言うまでもなく、食卓に並ぶご飯は「じぶんちのお米」である。

よって、親は言うのだ。

「ちゃんと大事に食べるんだぞ」「ご飯粒、残すなよ」、と。

まぁそりゃそうだろなと思うのですが、それだけじゃなくて、子供を教育するために、『ご飯粒を踏むと、目が潰れるぞ』といったおそろしい言葉も聞かされていたほどである。

それくらい、農家というのは、お米を大事にする。

稲刈りにしたって、コンバインで刈り取れない箇所、四隅のところ、そんなのほんのわずかなんだけど、ちゃんと手で刈り取って、収穫する。残さない。

家族全員、ご飯粒ひとつ残さないし、残したら怒られる。

そういった教育と環境の中で育ってきたのだから、「茶碗にご飯粒ひとつ残さない」というのは、ボクにとってアタリマエのことで、「もったいない」とか、そういう感覚じゃない。体に染み付いているのである。


固有の美意識



『そういう教育と環境の中で育ってきたから』――というのが、正解だろうと思う。

これに加えて、補足したいことがある。

美観というか、ボク自身の美意識の話である。

ただたんに、「癖だから」というわけじゃない。

“農家の息子だから”――それが最たる原因であることは間違いはないのだが、それによって、ひとつの美意識ができあがってしまった。

『茶碗にご飯粒がまばらに残っている』のを、汚いと思ってしまうのだ。“美しくない”と思ってしまう。


「そんなの、だいたいみんなそうじゃない?」と言うかもしれないが――。

先程も少し触れたが、ボクの部屋は、服や本がいたるところに散らばっている。他人はそれを「汚い」と思うかもしれない、いやきっと思うだろう。しかし、ボクは汚いとは思っていない。

ボクは、「茶碗にご飯粒が残っている」のは汚いと思うが、自分の部屋は汚いとは思わない。

言い方を変えると、『部屋は汚いとは思わないが、茶碗のご飯粒に関しては汚いと思う』、ということ。

つまり、「茶碗のご飯粒」には、部屋の汚さにはない『なにかしらの汚さ』があるのだ。特別にボクだけが感じる『汚さ』がそこにはあるのだ。

「茶碗にご飯粒がまばらに残っている」のを汚いと思ってしまうのは、ボク自身の、固有の感覚が作用しているのではないかと思う。

ボクは農家の息子で、ご飯を残しちゃいけないという環境で育った。それが理由で、ご飯粒を残さない人間になったわけだが、同時にある種の“美意識”みたいなものも形成されてしまった。「茶碗に残ったご飯粒」を汚いと思ってしまう美意識である――これは農家の息子という環境下で生まれた、固有の美意識である。

「茶碗にご飯粒ひとつ残さない理由」を補足するならば、“その絵を『汚い』と思ってしまう”、ボクの美意識が強く影響しているだろう。


★★★

ボクは思う。いま、めっちゃ思う。こんなことを文章で書いて、一体なにをしたいのか…。

茶碗にご飯粒を残さない理由なんて、皆が興味ないのはもちろんだが、ボク自身もたいして興味がない。

でもまぁいいかと思う。書いてしまったし。

以上、@ryotaismした。