禁煙|タバコを辞めて1年、今、思うこと。


先月、タバコをやめて1年がたちました。


1日1箱約10年間、吸っておりました。

このさきもずっと、禁煙し続けられるかどうかはわかりませんが、

タバコをやめて1年、「今、何を思うか」、少し書いてみます。


「どうやって辞めたの?」と頻繁に聞かれるけど……


喫煙者から頻繁に聞かれます。

「一体、どうやって辞めたんですか?」

「消えたい」と「逃げたい」は全然違うからなぁ。


どうしようもないほど――

何もかもがイヤになったとき、人生に疲れてしまったとき、どうするか。

2通りの考え方があります。

  1. 「消えたい」と思う
  2. 「逃げたい」と思う

「消えたい」と「逃げたい」、語感は似ていますが、意味は大きく異なります。

では、それぞれみてまいりましょう。


1.「消えたい」と思う

これはいわゆる、“死にたい”というものであり、自殺などがそうです。

どうしようもないほど「何もかもがイヤになったとき」「人生に疲れてしまったとき」――。

消えたいと思う。この世からいなくなってしまいたい。自分を消してしまいたい。

自分を『0(ゼロ)』にする。『無』にする。『消去』する。


2.「逃げたい」と思う

ひきこもりや、現実逃避、などがそうです。

自分の殻にとじこもる。安全なところへと逃げる。傷つかないところへと逃げる。

「田舎に住みたいなぁ」なんていう、疲弊したセリフもこれに類するかもしれません。

何もかも忘れて趣味に没頭し、ストレスを発散する、などもそうでしょう。

さて。

先ほどの、「消えたい」の場合は、自分を『0(ゼロ)』にする、ということでしたが、「逃げたい」の場合はそうではありません。

これは、あくまで自分を残しておきたい。

『0(ゼロ)』ではなく、『1(イチ)』。

『1』――『自分』だけは残しておきたい。

「消えたい」と「逃げたい」の違いはここにあります。

◆ ◆ ◆

どうしようもないほど――

何もかもがイヤになったとき、人生に疲れてしまったとき、どうするか。

僕は、2.「逃げたい」と思う、を選ぶ。選んできた人生でした。

たとえば、僕の場合、小説がわかりやすい例です。

小説を読んでいると、日常のイヤなことを忘れて、物語に没頭できます。自分の殻に閉じこもり、傷つかないでいられる。

ふと、「情けねぇなぁ俺」と、今日、思った。逃げてばかりだ。

が、選択肢は2つ。色々あるようで、実は、「消えたい」と「逃げたい」、この2つしかなかったのだとするなら。

もし、 何もかもがイヤになったとき、人生に疲れてしまったとき、2.「逃げたい」、を選んでいなかったら――残りの選択肢、1.「消えたい」、を選んでいたということになる。

◆ ◆ ◆

「自殺」と「失踪」。

ちょっと似ているようで、ぜんぜん違う、この二つの言葉。

■失踪(しっそう)
[名]行方をくらますこと。また、行方が知れないこと。失跡。

「失踪」という選択肢について考えてみてもいいんじゃないかなぁ。@ryotaism

『日高屋』が好き、僕はどうしようもなく『日高屋』が好きだ。


人によっては行儀悪いと思うかもしれませんが――僕は、ご飯を食べながら本を読むことがある。

右手は箸、左手は本、というスタイル。

これは読書家であった兄の影響もある。おかげで子どもの頃からのクセとなってしまった。

……まぁ、そんなことはどうだっていい。

日高屋という中華料理屋をご存知でしょうか。

関西の人は知らないかもしれない。

私は埼玉の大宮に住んで、初めてその名を知った(日高屋の本社は埼玉の大宮である)。

正式名称、『熱烈中華食堂 日高屋』――。

大宮駅前の日高屋で食事して以来、私はすっかりハマってしまった。

もう、ほんとうにね、大好きである。日高屋が。

「好きな店は?」と唐突に聞かれたら、「え?なんの店?」と聞き返すことなく、「日高屋」と答える。“好きな店は日高屋”、である。

休みの日に、昼飯を食べに一人でふらっと日高屋に出かける。これを何年も続けている。

何回行っても飽きない。たぶん、死ぬまで飽きない。死ぬまで僕は日高屋のことが好きだと思う。

日高屋の“W餃子定食”とか、知ってますかね。最高です、あれは。サービス券を使って、ご飯大盛りにしたらお腹いっぱいになる。

え? サービス券のことを知らない? おいおいしっかりしてくれよ。

“日高屋といったらサービス券、サービス券の日高屋”、と言いたくなるほど、会計時に毎回、サービス券をくれる。その券があれば、ご飯、または麺を無料で大盛にしてくれる。

たとえば「野菜たっぷりタンメン」を、券を利用して大盛りにして、そのボリュームに驚いたこと、あるだろう?

ちなみに色々な種類のラーメンがあるけど、日高屋は「味噌ラーメン」がいちばんウマい(と思う)。しかも、このクオリティで500円って。どうやって恩返しすりゃいいんだよ。

そもそも、僕が日高屋にハマったきっかけは、値段がけっこうリーズナブルなところ。まさに“安くて、ウマい”。

二十代のお金がなかったときは、本当に助かった。友達と夢を語ったこともあった。日高屋で生まれた思い出がたくさんある。

***

さて。気づけば僕は32歳になり、今は千葉に住んでいる。

でも、ちっとも変わらないのだ。

2015年12月6日。今日。

昼飯を食べに、家の近くの日高屋に行ってきた。

大好きな日高屋。

文庫本を後ろポッケに突っ込んで、自転車で向かう。頬にあたる風が冷たかった。もうすっかり冬だな。マフラーが後ろになびく。

店内は比較的空いていた。窓際のカウンター席に座り、ニラレバ定食を注文。

5分後、料理が手元に運ばれる。食べながら小説を読んだ。ページをめくった。

ふと、箸を止め、窓の外の往来をみた。ありふれた日常の光景があった。

「日高屋でご飯を食べながら、小説を読むこと」。

しあわせだなぁ、と思った。

日常の幸福。それは至上の幸福と言い換えてもよい。

日高屋のいいところは、一人でも行きやすくて、且つ、意外とゆっくりできるところ(といっても、飲食店だから、回転率は大事だろうし、長居しても30分程度)。

日高屋で、本を読み、食後に10分程度、読書する。

人によっては、それを行儀悪いと思うかもしれない。また、中華料理屋には不似合いな行為かもしれない。

でも思った。 この瞬間、私は無敵だ!と感じた。それは、とてつもなく幸せということである。幸せすぎて無敵だと感じるような、そんな瞬間が、日高屋にはある。

「僕」と「小説」と「日高屋」、この3つがそろえば、私は無敵になれる。

関東に住む限り、私と日高屋との関係は途切れることはないだろう。日高屋が私のことをどう思っているかはわからないが、私は日高屋のことを全面的に信頼している。いつもありがとうございます。@ryotaism


一度でも自殺をしようとした人からは、幸せが逃げてっちゃうって、本当ですか?


“一度でも自殺をしようとした人からは、 幸せが逃げてっちゃうって、本当ですか?”

映画『害虫』のなかに出てくるセリフです。

俺選抜~おすすめ邦画15本」でも少しご紹介しましたが、大好きな作品です。

さて――。

ちょっとコマカイ話になりますけども。

“一度でも自殺をしようとした人”というのは、どこまでのことをいうんだろう。

どの段階のことなんだろうか――なんてことを考えておりまして。

  • ステップ1:「死にたいなぁ…」と思う(希死念慮)
  • ステップ2:「死にたい」と真剣に考え始める(自殺念慮
  • ステップ3:実行、行動にうつすことを考える(自殺行動)
  • ステップ4:実際に自殺する(既遂自殺)

こういう段階がある。

【希死念慮 → 自殺念慮 → …自殺】といった具合で、最終的な自殺にいたるまで段階がある、といわれている。


(※このへんについては、ずいぶん昔にブログで書いたのでよろしければ → 人はなぜ自殺するのか―心理学的剖検調査から見えてくるもの

ステップ1、「死にたいなぁ…」と思う。いわゆる【希死念慮】ってやつですが、このへんは、多くの人が経験したことがあるんじゃないか。

だれだって一度くらいは、死にたいと思うこと、あると思います。失恋とか、家族との関係とか、いじめとか、仕事の苦労とか……一度どころか、「死にたい」と思うことは何度あっても不思議じゃない。

そんな思いが加速して、「死にたい」と、わりとマジに考え始める。これもよくあることです。心の奥底で“死にたい”と思いながら静かに生きている。虚無的。死んでもいいと思っている。

――さて、大事なのはここから。

というより、これまでの段階は、特に今回書きたい話題でもありません。


  • ステップ3:実行、行動にうつそうと考える(自殺行動)

大事なのはここ。ここからです。

「死にたい」と思う、そう思ったことがある。虚しくて、死にたいなぁと思っている。――これは現代においては、ありふれていることです。

しかし、このなかから、ステップ3の段階にいたる人は、一気にグッと減る。

死にたいなぁ思っている。が、たとえば、「自分は35歳の誕生日に死ぬ。場所は◯◯、手段は◯◯である」と、リアルに計画的に考えている人は少ない。

「死にたいなぁ」と思う人はたくさんいて、分母は大きいのですが、具体的な自殺行動について考えている人となると、その数はかなり少ない。


話をもとにもどします。

“一度でも自殺をしようとした人からは、 幸せが逃げてっちゃうって、本当ですか?”

“一度でも自殺をしようとした人”というのは、ステップ3の段階までいった人のこと。(映画内でも実際にそうである)

印象的なセリフなんですが、なにが言いたいかって、僕が思うのは、「そこまでの段階に行く人って、実際のところはすごく少ないよね」ってことです。

◆ ◆ ◆

「生きるのは大変なこと」。がしかし、「死んではいけない」。そんなことを考えていると、「いやいや、そんなに重く考えるなよ。もっとゆる~く生きようよ」という連中もいます。

いったいどうなんでしょうね。このへんは。

『挑戦』という言葉が、それだけで絶対的な正義であるなら、いちばん難しいと思うことに挑戦しないといけないよなぁ、なんてことを一先ず思います。@ryotaism




関連記事


「やらなければならないこと」について。


以前、ブログでこんなことを書きました。


この考え方は今だに変わっていない、それどころかますます強くなる一方です。

やりたいことがたくさんある。あれもしたい、これもしたい。チャレンジしたいこと、試してみたいこと、たくさんある。

若いときは「やりたいことを片っ端からやってやろう!」などと思っていたし、いまだにその気持ちはある。

でも、「やりたいこと」と「やらなければならないこと」は違う。


というツイートもありますが。

「やりたいこと」と「やらなければならないこと」、どちらを優先しないといけないか。

「やりたいこと」に気を取られて「やらなければならないこと」を先延ばしにしてしまうことがある。好奇心が裏目にでているパターン。

約3年続けてきた当ブログですが。


約3年続けてきた当ブログですが、行き詰まりを感じております。

しばらく更新を休んでいたこと、また、独善的な文章が増えたこともあって、読んでくれる人が一時期よりもだいぶ減りました。それによるモチベーションの低下――というのが一因であります。

アクセスがほしくて(読んでくれる人を増やしたくて)、そういった記事を書いたことがこれまで何度かありました。読みやすいように文章を工夫したり、タイトルに気を配ったり、などなど、ブログ運営の定石を真似たことがあります。ブロガー界隈で云われる、「毎日書け!何よりまずは量だ!」「コンテンツだ!面白い文章を書け!」なども実践してきました。結果、アクセスは伸びました。収益も発生するようになりました。

しかし、私はブログを職業にしているわけでもなく、広告収益といっても微々たるものであり、そこまでアクセス数に拘泥する必要があるだろうか。いやそもそも、「自分が本当に書きたいことは何だろうか」。見出しタグで整えること、改行を意識すること、レシポンシブデザインに対応させること。楽しんでもらえるような内容であること。読者を増やしたいという思いで記事を書くこと――それが悪いことだとは思わない。が、繰り返し問う、「自分が本当に書きたいことは何だろうか」。斯様なわだかまりを抱えていると、必然的にブログは停滞していきます。

漫画『ソラニン』がとても面白かった。


世間に疎いもので、その存在に気付くのはだいぶ遅かったのですが――。

浅野いにお
、と云う漫画家。

いや、『ソラニン』という作品の名前ぐらいは知っていましたよ。映画にもなったし。でも別段興味なかったので、ずっとスルーしてた。(アジアンカンフージェネレーションの『マジックディスク』ってアルバムは持っていた、ゆゑに映画の主題歌は知ってた)

ひょんなことから、昨年、浅野いにおの『おやすみプンプン』という漫画を知った。読んでみたところ、これがムチャクチャ面白かった。例えば古谷実の『シガテラ』とか好きな人は、絶対に好きなんじゃないか(奇しくも、[シガテラ=魚の毒]、[ソラニン=じゃがいもの毒]と似ている)。日常と非日常の境界の“曖昧さ”、その“危うさ”、「何気ない日常」なんて在りもしねぇ造語じゃないか――と云う雰囲気。

本で辿る自分の過去。


最初は芥川龍之介の『羅生門』。高校一年のときに国語の教科書で読んだ。でもそのときは、「なかなか面白い話だなぁ」という程度だった。その後、僕は地元三重県を出て、京都の或る仏教系大学に入学。哲学科に属し、まず読んだ一冊が、デカルトの『省察』。その考え方に僕はもろに影響を受けた。しかし所詮はレポート課題のための読書であって、心は没入していなかった。大学近くにある本屋で、暇つぶしに買った一冊、乙一『暗いところで待ち合わせ』。「小説っておもしろい」と初めて思った。また、沙藤一樹『D-ブリッジ・テープ』、滝本竜彦『NHKにようこそ!』等を読み、読書熱はさらに高まる。大学四年間、本分である哲学は勿論、色々な本を読んだ。が、まだこの時期は、読書、文学に対して、強い思い入れはなかった。ともすれば、映画や音楽のほうが好きだったかもしれない。

夕方五時のチャイムが鳴るのを今日も聞いた。


野暮ったいブログでどうしようもないんですが、せっかくここまで続けてきたのだし、もうちょっと引き摺ってやろうと思って書いています。近頃は魂が抜けたような、腑抜けた毎日を送り、“本を読み、酒を飲み、本を読み、酒を飲み…”の繰り返しで、面白い文章なんてのは、書くもんじゃなくて読むものだと、つくづく思います。でも、料理を作らず食べるだけの美食家みたいになるのも、自分には不似合いだと思うわけで。

「きっとろくな死体にはならないだろうな」

何をするわけでもない。時計の針のリズムで毎日は経過していく。夕方五時のチャイムが鳴るのを今日も聞いた。街の向こうに今日も夕陽が落ちていった。「死んでも、ろくな死体にはならないだろうな」――などと思いながら、三十代無職が鬱々とスナック菓子を食っている様は、ちょっと救いようがない。(にしても、夕方五時のチャイムの物悲しさたるや、死にたくなっちゃうから辞めたほうがいい。あれを聞いて一体だれが元気がでるんだよ)

ところで、なんで僕はこんなことをブログに書いているのか。承認欲求といった“高次”なものではない、もっと幼い。どうやら僕は寂しいのかもしれない。独りであることに耐えられないのかもしれない。だからブログやTwitterといった、“どこぞで誰かがみている場”に、こっそり顔を出すのだ。一円にもならないのに、こんなことを書いているのは、貧乏よりも(あるいは貧乏と同程度に)、孤独を恐れているからだ。

恋人も友達も家族も、何もかもが信じられなくなるときがある。そんなときは、“人間以外のもの”に救われる。おいしい料理を食べたとき、うつくしい夕陽を見たとき、すばらしい本や絵と出会ったとき、とめどなく涙がこぼれてくる。“人間以外のもの”だから孤独な自分と共鳴する。張り詰めた琴線に、そっとやさしく触れることができる――。だから、孤独なときは、本を読め、映画をみろ、おいしいものを食べろ、美しい景色をみろ。“人間以外のもの”に感動することで、私は私の孤独を知り、解り、納得し、受け入れ、孤独のままでも生きていく一先ずの知恵や工夫を得る。

さりとて、孤独は孤独。“さよならだけが人生だ”、なんて言葉もありますが、恋人がいても友だちがいても、孤独は孤独。ずっと一人ぼっちだ。そして『今までもずっと一人ぼっちだった』ということを改めて知る。夕方五時のチャイムを聞きながら。@ryotaism
 

本は『おしゃれアイテム』になりうるか?


過去なんべんも僕は言ってるんですけど、本は「おしゃれアイテム」なんですよ。たとえば、女性のカバンの中に「中原中也詩集」が入ってたら、「お?」って思いますよね。夏目漱石が入ってたら「お?」って思いますよね。え、思わない?まぁそういう人もちょっと聞いてくださいよ。

“本ってある種の「おしゃれアイテム」だよね”――でも、それがいまいち世間的に認知されていない。いやいや、もっと全面的にうちだしていこうじゃないか。『本はおしゃれなのだ』と。堂々と言ってしまおう。恥じることはない!批判を恐れるな!!

“お金のために苦しまないで”、という歌。


ブルーハーツの『首つり台から』という歌の中に、“お金のために苦しまないで”という一節がありますが。

お金は人の表情を暗くさせる。お金は人の表情を明るくさせる。

お金があるかないかで、表情がぜんぜん違う。

あるあるネタになりますが――。

飲み会に誘われる。でもお金がない。断りにくいから参加するんだけど、頭の中では「ああ、今日はこれだけのお金を使っちゃった…」って、そればかり考えて、純粋に楽しめない。周囲がそんな私に気を使ってくれているのもツライ。

映画を観終わったあとの感想が同じだったとき、うれしいか?


ビミョウな話になりますが。

恋人といっしょに映画を観に行く――とする。

観終わったあと、口にした映画の感想が、恋人と「同じ」だったら、喜びを感じるだろうか? これこそが恋愛の醍醐味である、と。

別に映画じゃなくてもいい。たとえば、レストランに行って、「これおいしい!」と同じ感想を言い合うことが、楽しくて、幸せなことだと思うだろうか? これそがデートだ!、と。

この心情、すごくわかるんですよ。これは実に自然です。

死ぬまでにあと何回笑えるか。2015年秋。


なんか超絶暗いタイトルですいません。いやでも、今から書く内容は、私にとってはとても前向きなんことなんですよほんとうに。

死ぬまでにあと何回笑えるかってことを考えるんです。

僕はいつか必ず死んでしまいます。いつまでも生きられるわけじゃないんですね。生きているから今この文章を書いているけど、死んだらもう文章は書けなくなる。

笑える回数って決まってる。昨日笑いましたか? 笑った? じゃあそれ、死ぬまでに笑える回数の一回分を消費したってことです。明日は笑いますか? じゃあそれ、死ぬまでに笑える回数の、貴重な一回分ですから、覚悟して笑いましょう。

なんでも有限なんですね。楽しいことも、辛いことも。なんでも有限。いつまでも続くわけじゃない。だから一瞬一瞬を大切に生きよう、だなんて、ベタですがマジなんですよこれは。

愚痴や文句ばかりをネットで言ってる人。


愚痴、文句、悪口、嫉妬……そういったことを、ネット上に書き込んでしまうことがあって。ストレスがたまっていて、乱暴な言葉をツイートしたり、フェイスブックに書いたりして。

ネット上で愚痴や文句ばかり書いてる人、たまに見かけますが――思うんですね、“10のうち3”、つまり3割でも愚痴や文句を言ってたら、もうそれ、『愚痴や文句ばかり言ってる人』になるんですね。割合的にだいたいそれくらいだろうって。

10ツイートのうち、3ツイートでも愚痴ってたら、それはもう他人から見たら、『愚痴ばかり言ってる人』に映るんですたぶん。本人はちょっとのつもりでも。ひとつの愚痴や文句、悪口や嫉妬が、ガラッと人の印象を変えてしまう。

ネット情報は背中を押すことより足を引っ張ることのほうが多い。


インターネットで流れてくる情報量って膨大ですよね。

あふれんばかり、というか、いや、もう完全にあふれてしまって、水びたし状態。

情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報、情報……

情報が多すぎて、おぼれてしまいそうです。

情報のかしこい“取捨選択”なんて、こんだけ大量だとできませんよ。人間には無理だと思いますよ。そんな達人いないと思う。

でも、有益な情報もネットにはありますから。また、いまさら完全にネット情報をシャットダウンして生活するのって、ムズいですよ。

もう、付き合っていくしかないんですね。ネットの情報とうまく付き合っていくしかない。持病みたいなもんです。

にしてもあれですよ、ネットの情報って、“足を引っ張ること”のほうが多くないですか。“自信を無くさせる”情報が多い。

「辛い」を何と読むか。変われるのか。


「辛い」という字を見て、“ツライ”と読んだ人はちょっと疲れている人――だなんて、とんだ言い草がありますけども、じゃあ“カライ”と読んだ人は悩み事がないかというと、そんなはずがない。

しかしまぁあれです、わからんでもないというか、「ひょっとしたら」、と思うんですね。というのも、「楽しめる人」と「悩む人」、キレイに二手に分かれますから、一体これはなぜだろうと。その根本には、考え方というか、決定的な見え方の違いがあるんじゃないか。

ベトナムでバイク転倒したときの話。


先日、ベトナムのムイネーでバイク転倒してしまって。で、右腕を派手にやっちまった。「血」がですね、だらだらと滴り落ちるような、ちょっとした惨事でした。太陽照りつける、とても暑い日でした。

うずくまって痛みをこらえていたら、通りかかった現地住民に拾われて、そのまま病院に直行。無事、大事には至らず、助かりました。

そんときの話でもしたいなと思います。

Windows10:「MSVCR110.dll」「MSVCP110.dll」エラーが出たときの対処法


Windows10にアップグレードしたら、以下のエラーが表示されるようになりました。

「MSVCR110.dllがないため、プログラムが開始できません」
「MSVCP110.dllがないため、プログラムが開始できません」

で、次の作業を行うと治りました。

実は『人生は辛いことよりも楽しいことのほうが多い』という説。


ブログの更新が停滞気味です。

「今、東南アジアにいるから」というのもあるのですが、数週前から、「はたして自分が本当に書きたいのは何だろうか」病が発症しまして、少し休んでいました。まぁそんなのはどうでもいいことです。

本日は、カンボジアのロン島にて、

人生初のシュノーケリング、BBQ、フィッシング、ロングビーチで海水浴、サンセット、などなど、とことん遊びました。

でも、途中、思ったんです。思わなきゃいいのに、思ったんです。

『俺、こんなにも遊んでていいんだろうか?』

この旅の資金は、2年間働いて貯めた貯金です。その2年間は、めちゃめちゃ働いたし、節約しました。

でも、私は今、働いていません。そして、思わなきゃいいのに、思うんですよね。「心の底から楽しんでいいのだろうか」、と。

罪悪感みたいなものが働いて、純粋に楽しむことができない。――そういうとき、ありませんかね?ボクはよくあるのですが。

……ところが、今日はどうだったか。罪悪感とかどうでもいいくらい、そんなの吹っ飛ぶくらい、楽しかった。

眼前に広がるキレイな海、心地よい風、真っ青な空、うまいビール……これだけのフルコースもってこられたら、楽しくなくても楽しくなってしまう。

……で、ふと、今日思いました。

もし、『人生は辛いことより楽しいことのほうが多い』のだとしたら、どうだろうか?

そう考えたら、今日一日をすんなり楽しむことができた――しかも、罪悪感を無視するのではなくて、それをしっかり受け止めたうえで。

「魚の洞窟」「チェンマイの寺院」「ワット・ポー」など、最近の動画まとめ!


現在、カンボジアのシェムリアップにいます。

タイ・バンコク⇒チェンマイ⇒パーイ⇒メーホーソーン、と移動して、そこから再びバンコクに戻って、カンボジアに入国。

道中、何本か動画を撮ったので、よろしければどうぞ。


「人間はなぜ生きるのだろう」が困難であるために――或る空想の話。


遠い宇宙の奥の奥――。

神様がいた。

「さぁ、今日は何をつくりましょうか。人をつくりましょうか、猫をつくりましょうか、魚をつくりましょうか」

神様は、しばし考えたあと、「よし、今日は人をつくろう」と言った。

神様の前に、ひとりの人間がポンとあらわれた。

「さて、次はこの人間を、オスにしましょうか、メスにしましょうか」

しばし考えたあと、「よし、今回はオスにしよう」と言った。

目の前の人間は、オスになった。こうして、【一人のオスの人間】ができあがった。

そこに別の神様があらわれた。

「前から思っていたのだが、『つくりかた』の順序は、必ずそうでなくてはいけないのか?」

「それは、いったいどういうことだい?」

「いや、つまりね、キミの『つくりかた』の順序はこうだ。
『人にするか、猫にするか、魚にするか』――それを決めたあと、次に、『オスにするかメスにするか』を決める。」

「うむ、たしかにそうであるが――」

「その順序を変えてみるってのはどうだ?
つまり、『オスにするかメスにするか』、まず性別を決めるのだ。そのあと、その性を、『人にするか、猫にするか、魚にするか』、どれにするか決めるのだ」

「なるほど。そういう考え方もある。どれ、試しにそれでやってみよう」

「ペナン島ストリートアート」「虎の洞窟寺1237階段」など、最近の動画まとめ!


先月いっぱい、マレーシアに居ました。

ジョホール・バル⇒ペナン島⇒ランカウイ島、そして7月現在、タイにいます。昨日、バンコクに到着。

道中、何本か動画を撮ったので、よろしければどうぞ。




10年ぶりに海で泳いだ話。


マレーシアのランカウイ島、というところのビーチが、実に広くて美しかった。

“海水浴”なんて、とてもとても、縁なんてありませんでしたこれまで。

しかし、ビーチで遊び興じる諸外国人を見ていて、炎天下のもとで海水に浸る、と思えば、浜で寝そべって陽に当たる、「これはなんだか大変気持ちが良さそうだ」と思った。

また、ランカウイ島ビーチ、先にも書きましたが、横にずっと広い。人でごちゃごちゃしていない、スペースがある。「遊園地が苦手なのは人が多いからだ」と云う私にとって、これはとっても助かる、「せっかく来たのだ、ひとつ泳いでやろう」と思わせてくれる。

そんなこんなで、いつぶりになるか海水浴、たぶん10年以上は経つだろう、私は寝間着にしていた短パンに履き替え、いそいそと海へ向かった。

“人の役に立つ”という圧倒的な軸について。


三十歳を過ぎると自分の為だけに生き続けるのがしんどいと云いますか、それだけをモチベーションにして活動をしてゆくのって、何かこみ上げてくる虚しさがあります。

「がんばれ」と言われても、「自分の為にがんばるのか…」と思えば「何か足りない」、こういうのを動機が弱いって云うんでしょうか、いや、若い頃はそれだけでじゅうぶんでした。自分の為だけにがんばれたんです。

ですが、歳を取ったからか、自分なんてやがては滅び行く身であると、それでもって更に「自分なんてちっぽけな存在だ(社会的にも)」と知れば、いったい、「やがて滅び行く、ちっぽけな自分」の為にがんばろうという気には、どうもなれない。

そんなんであっても、生きていかなきゃなりません。ですから、何か、“自分以外”のところに、目的を求めるようになる。

大量生産される「コミュニティ」が苦手――「祈りの場」の必要性


前々から思っていたのですが――。

近頃、急激に、小さいコミュニティが大量に生産されていると感じないですか?

“コミュニティ”――サロンやサークルと言い換えてもいいのですが。似た考え方や価値観、同じ趣味、同類の仕事――共通の“何か”を持つ者たちが、集まる。

それは、相互の成長を目的とするものもあれば、心の支えや慰めのようなものであったりと、様々。ビジネス、ボランティア、同好会、宗教と、様々。

どうも、あんまり好きになれない。

思えば、中高時代からそうである。グループに入ったりするのが苦手だった。

乱立する“小さなコミュニティ”は、旗を掲げる。『独りじゃ解決できないことがある』、『集まることで可能性が生まれる』、と。

確かにそう思う。実際、私自身、人に助けられ、人に育てられ、ここまで来た。“人との繋がり”に感謝している。コミュニティには存在意義がある。

が、だからといって、わざわざこちらからそれを求めて、コミュニティに参加しようとは思えない。(気づいたらなんとなく参加していたとか、偶然とか、そういうのはあるかもしれないが)。また、“人との繋がり”が大事なのは承知しているが、だからといって、「人の集う“コミュニティ”を作ろう」という気持ちにはなれない

海外を旅した奴の“上から目線”ってなんなの?――日本で求められるのは謙虚、語る側も聞く側も。


東南アジアを周っている道中、“日本人バックパッカー”と出会うことが度々ある。

重々しい荷物を背負い、日に焼けた面構えは、いかにも“旅人っぽい”外観である。

国外へと飛び出すことで、見識を深めたいのか、何かそれ以外の目的があるのか、他人である私には知る由もないのだが、此度出会う日本人バックパッカーの多くは、二十代前半と皆若い。

処で、『昔と比べ、最近の若者は海外に行かなくなった』といったことを、統計データでもって聞かされる。“内向き志向の若者”、なぞ云う言葉もある。

かくいう私も、三十歳になってようやく海外に出るようになったが、それまでは毛頭興味なかった。TSUTAYAでホラー映画を片っ端から借りて観ているような、内向きな若者であった。

「若者はもっと海外へと出たほうがいい。世界を見たほうがいい」と云う大人がいるけども、お金もないし、面倒くさいし、というかそれよりもやりたいことがあるし。つまり、優先順位が低い。急いで“やらなければならないこと”、ではない。

そもそも、海外行ったからって、だから何だというのだろう――。

「マラッカ川」「マーライオン」「ジョホールバル」動画・第十~十三話まとめ!

https://www.youtube.com/c/Rfmori

「マラッカ川」「セントポールの丘」「マーライオン」「ジョホールバル」での動画をまとめておきます。

少しずつですが、動画の編集もするようになったので…。


『しなごい米やなぁ』と祖母は言った。


マレーシアでの食事にも慣れてきたこの頃。

もとい、雑食ですから、よっぽどマズイもんでもなけりゃ、おいしく頂ける身なわけですが。

しかし、いくら食うても、気になることが一つ。

fried rice(つまりは炒飯)、を食うことが多いのですが、日本の米とはちと異なる。

“ふっくら”しとらんのですね。

いつだったか、“タイ米”なるものが日本でも話題になっておりましたが、あのように、粒が細く、食感がパサパサとしている。悪くいえば、米が痩せておる。

それはそれで、炒飯の調理には合っていて良いのだが、しかしどうも、日本の米と比べ、『しなごい米やなぁ』なぞ思う。

“しなごい”――聞きなれない言葉かもしれない。

これは、私の祖母がよく使っていた言葉であり、私の生まれ故郷である、三重県の伊賀弁と呼ばれる方言である。

子供の頃、祖父と祖母に連れられ、和食レストランに行くことが幾度があった。

夜空を眺めるとき、夜空から自分を眺めてみる――その悩み事は10年後も悩み事か。


高校生のときに、読みました。

リチャード・カールソン著『小さいことにくよくよするな!―しょせん、すべては小さなこと


やや古い本ですが、当時はそれなりに売れていたので、知っている人もいるかもしれません。

内容はタイトルのままで、小さなことにくよくよしない方法・考え方が 書かれている。“しょせん、すべては小さなことだ”、と。

Amazonレビューも上々である。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/4763180827/amazon142-22/

高校当時、これを読み、勇気づけられたのを覚えている。

といっても、具体的な内容はほとんど忘れてしまったのですが、ひとつだけ覚えている言葉があって。

手元に本がないので正確な文ではありませんが、確かこういったことが書かれてあった。

悩みがあるときは、夜空を眺めてみるのだ。

“宇宙から見たら、自分は小さな存在である”――。
夜空を眺めるとき、夜空から自分を眺めてみる。
自分の悩みなんて、宇宙からみれば、ちっぽけなもんである。
小さなことにくよくよしていてはいけない。

――と、確かこういうことが書いてあって、高校時分、勇気づけられた記憶がある。

“毎日異なる景色”を見たほうがいいのか?――“毎日同じ景色”が与えるもの。



色んなところで既に言われていることかもしれませんが――。

“毎日同じ景色”を見ていると、時間が経つのが早く感じる。

逆に、“毎日異なる景色”を見ていると、時間が経つのが遅く感じる。

無論、“毎日同じ景色”などというものはない。同じように見えて、昨日と全く同じということはありえない。

が、ぼんやり、景色をにじませて見ると、ほぼ同じ、同じ類のもの、ということはある。

自分の部屋の壁が、今日と昨日とで大きく異なっている、などということはあるまい。毎日の通勤風景もまた、細部は違うにせよ、全体像は何度も見たことのある景色である。

では、パソコンやスマホの画面はどうか?

画面内のページは、めまぐるしく移り変わる。しかし、パソコンやスマホは視野が非常に狭い

それはいってみれば、紙芝居を見ているようであって、額縁の中の絵をめくって見ていくのに似ている。

額縁の外側は、なかなか視界に入りにくい。スマホやパソコンの画面というのは、“景色全体”ではなく、あくまでも、“景色の一部”である。
また、すべてのページ、すべての画像、すべての動画が、“同じ”液晶画面で、“同じ”作りで見ている。

ネット閲覧は自由度が高いので、次々と新しい景色が飛び込んでくるのは確かだが、それらすべての画は、「スマホやパソコン」という、一つの同じ“下位カテゴリ”におさめられる。

となれば、“毎日異なる景色”とは、どうも言い難い。

ネットや小説が好きなインドア派の人間が、海外に旅に出るとどうなるか?


なんてことはない、ふと思ったことを。雑文です。

ネットや小説が好きなインドア派の人間が、海外に旅に出るとどうなるか?

結論から言おう。

海外に行っても、ネットがしたくなるし、本が読みたくなる。

いや、そりゃそうだって。

日本でしこたまネットにハマって、本を読んで一人で盛り上がったりしていた人間が、海外に行っても、そりゃ同じだって。何か、特別な変化など、ないですよ。

もちろん、年齢は大いに関係がある。たとえば17歳とかだったらぜんぜん話は変わってくるけども――

ある程度の年齢になると、“実績”がありますから。

「朝から晩までインターネットしてきました」「ろくに働かず、本ばかり読んでました」という“実績”がある。

いいか、その実績は裏切らないぞ。海外に行っても、ネットがしたくなるし、本が読みたくなる。

ツインタワー、バトゥ洞窟、マレーシア警察博物館、一挙まとめて動画・第六話~八話!


こんばんは!

最近の動画、まとめてのせておきます。

「ペトロナス・ツインタワー」「バトゥ洞窟」…そして最後は、「マレーシア警察博物館」です!

2本目の「バトゥ洞窟」篇は、珍しく10分ほどがっつり撮影してみました。いやー、よかったですよここ。おすすめです。

「将来に対する唯ぼんやりとした不安」があるなら、その逆だってある。


マレーシア・クアラルンプールに来て、10日が経ちました。

このブログは何を書こうか?――そんなことを今日は考えておりました。

一方、このブログでは何を書こうか――。

31歳で仕事を辞め、海外に来た。

今回の旅は、【6/2~8/31】という期間。

「独りの時間」が長い。言葉の通じない海外である、自問自答は通常より洗練される。

この旅が終わったら、はたして、どうなるのだろうか?

不安である。『人間、そんなに強くはないのだな』と、海外に来てまでも思うのだから、如何ともし難い。

この旅が終わったら、はたして、どうなるのだろうか。

正直、どうなってもかまわないと思っている。

そもそも、“どうなってもかまわない”という気持ちであるから、仕事も辞めたし、海外に行こうとも思えた。

自暴自棄というわけではない、それくらい、この旅に賭けているのだ。もし、この旅でダメだったら、もうどうなってもかまわない。――という意味だ。


高校生の時分、「いつか自分は必ず死ぬ」ということを知った。しかもそれは、「いつ死ぬかはわからない」という性質のものだった。

ボクが三十歳になるまで、世の中にはいろんな事件があった。あれだけ大勢の人が亡くなって、「なぜ私が生き残っているのか?」、不思議に思うことがある。

歳を重ねるごとに、じわじわと、死は現実的になっていく。これはファンタジーでも机の上でもない。だとするなら、簡単にそれを忘れて、日常を生きることなんてできるだろうか?

バカだと笑われるかもしれないが、ボクは今だにこう思っている。

『“いかに死ぬか”ということだけが問われている』
、と。

「おいおい、また始まったよ」と、嘲笑されそうだが、本人は真面目に考えている。

優柔不断な性格が『清水の舞台から飛び降りる』ために覚えておきたいこと。


どちらかというと“優柔不断”な性格です。

悩むんですね。何をするにしたって。ボクはそういうタイプです。

悩む、悩む、とにかく悩む、三度のメシより悩む…。

で、結果、『優柔不断な性格で、即決ができない』という事態に陥る。

ワンテンポ遅いんですね、というか、“そのまま終わってしまった”なんてことも多々あります。ありませんか?

これが自分にとってなかなかの短所だな、というのは、気づいているんです。無理やり長所にするのもよくない。

じゃあ、どうするか――。

ボクは“意識的”に思い出すことがあって。『テンションと勢いを大事にしよう!』、 ということ。

たいへん愚かしい文ですが、これがとても重要だと。


清水の舞台から飛び降りる


『清水の舞台から飛び降りる』――という諺をご存知かと思います。

清水の舞台から飛び降りるとは、思い切って大きな決断をすることのたとえ。

実際に清水寺で、“清水の舞台”を見たことありますか?

クアラルンプールの夜長に読書を…。


わけのわからない、かたくるしいブログが続いたので、ソフトな内容でも…。

昨晩、なかなか寝付けなくて。結局、本を3冊読んでしまった。

スマホのKindle、便利ですね。海外にいても、いつでもどこでも本が読めるし、そして買えるというのだから。おそろしい時代です。

では、3冊とも大変面白かったので、ちょっと紹介しておきます。

うざい「自分語り」とネットの相性――自己満足の純度を高める

夏の駄駄

『夏の駄駄』という小説を書き、Kindle電子書籍で出版したのは、2003年2月であるから、今から2年以上も前になる。

当時のことはよく覚えている。

道路警備員のバイトをしていて、昼休憩はもっぱら公園のベンチ。缶コーヒーで手を温めながら、誤字脱字がないか、持参した原稿をチェックしていた。

おにぎりをリュックにいれたまま現場に行って、戻ってきたらカラスに食い散らかされていた、なんて過去も、今となっては楽しい思い出である。

そのときのボクにとっては、たとえ電子書籍であっても、一冊の本をだすことは、一筋の光明だった。希望だった。だから、しがみつくようにして、書き上げた。無事、Kindleで出版できたときは、泣くほどうれしかった。金なんてなかったが、心は満たされていた。


『夏の駄駄』は私小説であり、ほぼ実話である。

小説の中の主人公は、その後、就職をする。そして約2年、そこで勤める。そして、その仕事を辞めた後、約3ヶ月間、海外に行く。

――と、所謂、“←イマココ”、である。

先ほど、『夏の駄駄』を読んでみた。まさかマレーシアで読むなんて、執筆当時には、想像もしていなかった。人生、何が起こるかわからない。

『夏の駄駄』、良く言えば私小説であるが、悪く言えば“自分語り”である。

だが、ボクは思うんです。

もっと“自分語り” をしないか、と。

ボクは、“自分語り”って、ジャンルであり、分野であり、もっと流行るべきだ、と思っています――特に、ネット上において。

「表現欲求」の追求こそが、自意識と自己愛の正しい末路。


マレーシアに来て6日目。

KLCC公園にて、人の往来を眺めておりました。

マレーシア屈指の観光地ですから、色んな国籍の人がいて、たいそう賑わっておりました。

そんな景色を眺めながら、ボクは思いました。

『世界にはたくさんの人がいるなぁ』

――と、こう思えば、大抵の場合、「世界からみれば、自分なんてちっぽけな存在だなぁ」と考える。

このパターン、よくありますよね。妙に俯瞰的になって。

で、思った。

『世界にはたくさんの人がいる』と知ることで、“自意識過剰”が何とかなるのではないか?

あるいは、“なんの取り柄もないくせに自己愛が強い”という、自己愛迷路から抜けだすきっかけとなるのではないか?

“日本脱出”って、それ、日本に対する息苦しさじゃないだろ。


まさか、自分が30歳になってから、“旅的なこと”をするとは、思ってもいなかった。

いつごろか、日本において、“日本脱出”という言葉を耳にするようになった。

「この先、日本の未来は明るいか?」なんてのはわからない、が、「きっと、暗い」という意見が多いのか。

日本の未来などと、そのようなこと、ボクにとってはあまりに壮大であるし、ちょっとピンとこない。

そんなことを理由に、今回、東南アジアに来たわけではない。そんな難しいことが私にわかるはずもない。

しかし、どこか、日本に「息苦しさ」を感じることはあった。

そういう人、多いんじゃないか? 日本に「息苦しさ」を感じる、という人。どうだろうか。

けど、ちょっと考えてほしい。本当にそうなのか?それは、日本がそうだから、なのか?

それは、日本に対する「息苦しさ」ではなくて、『何者にもなれない自分自身に対する息苦しさ』なんじゃないか?

クアラルンプールにて動画:第三話~五話まで!


現地で撮った動画、五話まで進んでおります。

一体、何話まで続くのでしょうか…。できる限りやり続けましょう。

ネットの回線が遅いのと、ひどく暑いこともあって、動画編集などは完全放置であります。撮ったものを、そのままアップロード。

というか、ちまちまとカットしたり、動画編集をする時間がもったいないなぁという気もする。

なんにせよ、ちょっとでも、何か個性的なものが出せればと思っていはいます。

では、以下、第三話~第五話まで、まとめてのせておきます。







以上、@ryotaismでした!


“海外に行くと価値観が変わる”という俗説は本当か?


マレーシア・クアラルンプールに来て、3日目です。

マレーシアは日本とは違って、いたるところに“フリーWi-Fi”がある。

そのあたりは日本でも、どんどん普及してきてはいるけど、マレーシアはいたるところでWi-Fiにつなげられる。フリーWi-Fiのない喫茶店のほうが珍しい。無論、セキュリティなどのリスクはありますが…。

で、話は変わって――。

“海外に行くと価値観が変わる”、などということを日本ではよく聞かされたのですが、そのへんについて思ったことを少しだけ書いてみます。

マレーシア初日:英語がしゃべれないことによる“沈黙”



昨日、成田空港からマレーシア(クアラルンプール)まで、約7時間、

到着しました。

今日はコチラに泊まっています。



では、初日に感じたこと、考えたことを書いてみます。

リーボックレインウォーカーを旅の前に買う。


少々旅にでるにあたって、さすがに靴を買おうと。


靴とか、あまり買うほうではないんですよ。おかげさまで、すっかり、かかと部がスリッパ状態です。水の侵入も、全方向に対応しております。

それはマズイ。こんな靴じゃ、ろくに長距離も歩けんだろうと判断し、靴を一足、Amazonで購入しました。

こちら、Reebok レインウォーカーです。


友人がこれを履いていたので、少しだけ履かせてもらったら、めちゃめちゃ履き心地がよかった。なので、迷うことなくコレにしました。

知ってますかね?これ。けっこう評判がいいらしくて。

クッション性がとにかくハンパない。足が疲れない。

Amazonレビューも上々。


ボクが買ったのは、値段、6,750円でした。※2015/05/30現在。

ちょうどいい値段ですね。安すぎてもアレですし。

履きやすくて、足が疲れない――実用性重視の感じがとても気に入りました。デザイン性など俺にはいらんのだ!

何枚か写真のせておきます!

「許す」ことができない場合の「憎悪」をどうするか?


以前からやっているask.fm(ryotaism)に、質問が届きました。


“ かつてひどい仕打ちをされて未だに怨んでいる相手がいます。その人の現在の職場を知ってしまいました。当時私は善人ぶり何も仕返しをしませんでした。そのせいか、憎しみが何年経っても消えません。すみません、私が望むのは世の中から憎しみという感情をなくすことではなく、私の全く個人的な憎しみの感情を、どうにかコントロールして、最終的には終わりを迎えたい、ということです。いろんな本を読んで自分なりに気持ちに落とし前をつけたつもりだったのに、些細な出来事で振出しに戻り、また愚かな復讐心に苛まれます。福森さんは許せないだれかを、どういう方法で許してきましたか。”

簡単ですが、自分なりに回答しました。何かの参考なれば幸いです。

東南アジアまで、あと6日。



こんなチンチクリンがですね、一体どうなるかわかりませんけども、

パスポートも手に入れまして、有効期限5年で11,000円ですね。

できるだけの準備をして、行ってまいりますよ。

6/2~約3ヶ月間、東南アジアをいろいろとまわってきます。

Amazonベーシックのポータブル機器用キャリングケースが素晴らしい☆


一時期、一部ガジェット好きの人たちの間で話題になっていましたが。

今回、ボクも購入しました。テンション上がります。

Amzonベーシックの“ポータブル機器用キャリングケース ”。



これ、いいっすわ。いいっす。

なんというか、「愛用したくなるぜ!」という感じのしろモノです。

そして自分も“ガジェット好き”になれた気がして、妙にかっこつけられる感じ。。。

実際どんな感じか、レビューしてみます!

梶井基次郎『Kの昇天――或はKの溺死』:読書感想


あまり、最近は小説を読まなくなってしまったのだけど、昨日、

梶井基次郎の『Kの昇天――或はKの溺死』を読みました。

檸檬で有名な梶井基次郎さんですが、これまた、すばらしい作品でした。

どういう話か、ざっくりいうと、、、

夜の海辺。溺死(おそらく自殺)したKの話。

月明かりに照らされた自分の影をじっとみつめていると、影が人格を持ちはじめる。

それにつれて自分の意識が、月へ向かって、スースーッと昇って行く。少しずつ、海へ向かうK。

「K君はとうとう月世界へ行った」――という話。

◆ ◆ ◆

Kは言います。「影ほど不思議なものはない」

君もやってみれば、必ず経験するだろう。影をじーっと視凝みつめていると、そのなかにだんだん生物の相があらわれて来る。

それは電燈の光線のようなものでは駄目だ。月の光が一番いい。

【報告】6月から東南アジアに行って来ます。


上記画像に特別な意味はないのですが、なんとなく。

来月6月から、東南アジアに行ってきます。

【期間】
6/2~8/31(約3ヶ月間)


【行先】
マレーシア ⇒ シンガポール ⇒ タイ ⇒ カンボジア ⇒ ベトナム

あくまで予定、イレギュラーがあれば、変更は大いにありますが、ひとまずこのような段取りです。いちおう友人とともに行くのですが、現地ではほぼ別行動な感じです。

だいたい、あと一週間後かな。チケットも往復で買った。

ということで、なんで海外行くのか、とか、今の心境を少し綴ってみます。

ask.fmに届いた、ここ一週間の質問。


以前からやっているask.fm(ryotaism)に、ここ一週間、いくつか質問が届いたので、答えさせていただきました。ずらっとのせておこうと思います。


“人間は何かが起きた後からでしか改善策を探すことができないのでしょうか?予防や予測もできないこの世の中が悲しくなります。”

たとえば災害や事故などがその典型かと思いますが。

“何かが起きた後からでしか改善策を探すことができない”、これは、どうしてもそうなるかと思います。歴史はそうやって積み重ねられ、人はそうして学んできたのだと思います。