“人の役に立つ”という圧倒的な軸について。


三十歳を過ぎると自分の為だけに生き続けるのがしんどいと云いますか、それだけをモチベーションにして活動をしてゆくのって、何かこみ上げてくる虚しさがあります。

「がんばれ」と言われても、「自分の為にがんばるのか…」と思えば「何か足りない」、こういうのを動機が弱いって云うんでしょうか、いや、若い頃はそれだけでじゅうぶんでした。自分の為だけにがんばれたんです。

ですが、歳を取ったからか、自分なんてやがては滅び行く身であると、それでもって更に「自分なんてちっぽけな存在だ(社会的にも)」と知れば、いったい、「やがて滅び行く、ちっぽけな自分」の為にがんばろうという気には、どうもなれない。

そんなんであっても、生きていかなきゃなりません。ですから、何か、“自分以外”のところに、目的を求めるようになる。

大量生産される「コミュニティ」が苦手――「祈りの場」の必要性


前々から思っていたのですが――。

近頃、急激に、小さいコミュニティが大量に生産されていると感じないですか?

“コミュニティ”――サロンやサークルと言い換えてもいいのですが。似た考え方や価値観、同じ趣味、同類の仕事――共通の“何か”を持つ者たちが、集まる。

それは、相互の成長を目的とするものもあれば、心の支えや慰めのようなものであったりと、様々。ビジネス、ボランティア、同好会、宗教と、様々。

どうも、あんまり好きになれない。

思えば、中高時代からそうである。グループに入ったりするのが苦手だった。

乱立する“小さなコミュニティ”は、旗を掲げる。『独りじゃ解決できないことがある』、『集まることで可能性が生まれる』、と。

確かにそう思う。実際、私自身、人に助けられ、人に育てられ、ここまで来た。“人との繋がり”に感謝している。コミュニティには存在意義がある。

が、だからといって、わざわざこちらからそれを求めて、コミュニティに参加しようとは思えない。(気づいたらなんとなく参加していたとか、偶然とか、そういうのはあるかもしれないが)。また、“人との繋がり”が大事なのは承知しているが、だからといって、「人の集う“コミュニティ”を作ろう」という気持ちにはなれない

海外を旅した奴の“上から目線”ってなんなの?――日本で求められるのは謙虚、語る側も聞く側も。


東南アジアを周っている道中、“日本人バックパッカー”と出会うことが度々ある。

重々しい荷物を背負い、日に焼けた面構えは、いかにも“旅人っぽい”外観である。

国外へと飛び出すことで、見識を深めたいのか、何かそれ以外の目的があるのか、他人である私には知る由もないのだが、此度出会う日本人バックパッカーの多くは、二十代前半と皆若い。

処で、『昔と比べ、最近の若者は海外に行かなくなった』といったことを、統計データでもって聞かされる。“内向き志向の若者”、なぞ云う言葉もある。

かくいう私も、三十歳になってようやく海外に出るようになったが、それまでは毛頭興味なかった。TSUTAYAでホラー映画を片っ端から借りて観ているような、内向きな若者であった。

「若者はもっと海外へと出たほうがいい。世界を見たほうがいい」と云う大人がいるけども、お金もないし、面倒くさいし、というかそれよりもやりたいことがあるし。つまり、優先順位が低い。急いで“やらなければならないこと”、ではない。

そもそも、海外行ったからって、だから何だというのだろう――。

「マラッカ川」「マーライオン」「ジョホールバル」動画・第十~十三話まとめ!

https://www.youtube.com/c/Rfmori

「マラッカ川」「セントポールの丘」「マーライオン」「ジョホールバル」での動画をまとめておきます。

少しずつですが、動画の編集もするようになったので…。


『しなごい米やなぁ』と祖母は言った。


マレーシアでの食事にも慣れてきたこの頃。

もとい、雑食ですから、よっぽどマズイもんでもなけりゃ、おいしく頂ける身なわけですが。

しかし、いくら食うても、気になることが一つ。

fried rice(つまりは炒飯)、を食うことが多いのですが、日本の米とはちと異なる。

“ふっくら”しとらんのですね。

いつだったか、“タイ米”なるものが日本でも話題になっておりましたが、あのように、粒が細く、食感がパサパサとしている。悪くいえば、米が痩せておる。

それはそれで、炒飯の調理には合っていて良いのだが、しかしどうも、日本の米と比べ、『しなごい米やなぁ』なぞ思う。

“しなごい”――聞きなれない言葉かもしれない。

これは、私の祖母がよく使っていた言葉であり、私の生まれ故郷である、三重県の伊賀弁と呼ばれる方言である。

子供の頃、祖父と祖母に連れられ、和食レストランに行くことが幾度があった。

夜空を眺めるとき、夜空から自分を眺めてみる――その悩み事は10年後も悩み事か。


高校生のときに、読みました。

リチャード・カールソン著『小さいことにくよくよするな!―しょせん、すべては小さなこと


やや古い本ですが、当時はそれなりに売れていたので、知っている人もいるかもしれません。

内容はタイトルのままで、小さなことにくよくよしない方法・考え方が 書かれている。“しょせん、すべては小さなことだ”、と。

Amazonレビューも上々である。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/4763180827/amazon142-22/

高校当時、これを読み、勇気づけられたのを覚えている。

といっても、具体的な内容はほとんど忘れてしまったのですが、ひとつだけ覚えている言葉があって。

手元に本がないので正確な文ではありませんが、確かこういったことが書かれてあった。

悩みがあるときは、夜空を眺めてみるのだ。

“宇宙から見たら、自分は小さな存在である”――。
夜空を眺めるとき、夜空から自分を眺めてみる。
自分の悩みなんて、宇宙からみれば、ちっぽけなもんである。
小さなことにくよくよしていてはいけない。

――と、確かこういうことが書いてあって、高校時分、勇気づけられた記憶がある。

“毎日異なる景色”を見たほうがいいのか?――“毎日同じ景色”が与えるもの。



色んなところで既に言われていることかもしれませんが――。

“毎日同じ景色”を見ていると、時間が経つのが早く感じる。

逆に、“毎日異なる景色”を見ていると、時間が経つのが遅く感じる。

無論、“毎日同じ景色”などというものはない。同じように見えて、昨日と全く同じということはありえない。

が、ぼんやり、景色をにじませて見ると、ほぼ同じ、同じ類のもの、ということはある。

自分の部屋の壁が、今日と昨日とで大きく異なっている、などということはあるまい。毎日の通勤風景もまた、細部は違うにせよ、全体像は何度も見たことのある景色である。

では、パソコンやスマホの画面はどうか?

画面内のページは、めまぐるしく移り変わる。しかし、パソコンやスマホは視野が非常に狭い

それはいってみれば、紙芝居を見ているようであって、額縁の中の絵をめくって見ていくのに似ている。

額縁の外側は、なかなか視界に入りにくい。スマホやパソコンの画面というのは、“景色全体”ではなく、あくまでも、“景色の一部”である。
また、すべてのページ、すべての画像、すべての動画が、“同じ”液晶画面で、“同じ”作りで見ている。

ネット閲覧は自由度が高いので、次々と新しい景色が飛び込んでくるのは確かだが、それらすべての画は、「スマホやパソコン」という、一つの同じ“下位カテゴリ”におさめられる。

となれば、“毎日異なる景色”とは、どうも言い難い。

ネットや小説が好きなインドア派の人間が、海外に旅に出るとどうなるか?


なんてことはない、ふと思ったことを。雑文です。

ネットや小説が好きなインドア派の人間が、海外に旅に出るとどうなるか?

結論から言おう。

海外に行っても、ネットがしたくなるし、本が読みたくなる。

いや、そりゃそうだって。

日本でしこたまネットにハマって、本を読んで一人で盛り上がったりしていた人間が、海外に行っても、そりゃ同じだって。何か、特別な変化など、ないですよ。

もちろん、年齢は大いに関係がある。たとえば17歳とかだったらぜんぜん話は変わってくるけども――

ある程度の年齢になると、“実績”がありますから。

「朝から晩までインターネットしてきました」「ろくに働かず、本ばかり読んでました」という“実績”がある。

いいか、その実績は裏切らないぞ。海外に行っても、ネットがしたくなるし、本が読みたくなる。

ツインタワー、バトゥ洞窟、マレーシア警察博物館、一挙まとめて動画・第六話~八話!


こんばんは!

最近の動画、まとめてのせておきます。

「ペトロナス・ツインタワー」「バトゥ洞窟」…そして最後は、「マレーシア警察博物館」です!

2本目の「バトゥ洞窟」篇は、珍しく10分ほどがっつり撮影してみました。いやー、よかったですよここ。おすすめです。

「将来に対する唯ぼんやりとした不安」があるなら、その逆だってある。


マレーシア・クアラルンプールに来て、10日が経ちました。

このブログは何を書こうか?――そんなことを今日は考えておりました。

一方、このブログでは何を書こうか――。

31歳で仕事を辞め、海外に来た。

今回の旅は、【6/2~8/31】という期間。

「独りの時間」が長い。言葉の通じない海外である、自問自答は通常より洗練される。

この旅が終わったら、はたして、どうなるのだろうか?

不安である。『人間、そんなに強くはないのだな』と、海外に来てまでも思うのだから、如何ともし難い。

この旅が終わったら、はたして、どうなるのだろうか。

正直、どうなってもかまわないと思っている。

そもそも、“どうなってもかまわない”という気持ちであるから、仕事も辞めたし、海外に行こうとも思えた。

自暴自棄というわけではない、それくらい、この旅に賭けているのだ。もし、この旅でダメだったら、もうどうなってもかまわない。――という意味だ。


高校生の時分、「いつか自分は必ず死ぬ」ということを知った。しかもそれは、「いつ死ぬかはわからない」という性質のものだった。

ボクが三十歳になるまで、世の中にはいろんな事件があった。あれだけ大勢の人が亡くなって、「なぜ私が生き残っているのか?」、不思議に思うことがある。

歳を重ねるごとに、じわじわと、死は現実的になっていく。これはファンタジーでも机の上でもない。だとするなら、簡単にそれを忘れて、日常を生きることなんてできるだろうか?

バカだと笑われるかもしれないが、ボクは今だにこう思っている。

『“いかに死ぬか”ということだけが問われている』
、と。

「おいおい、また始まったよ」と、嘲笑されそうだが、本人は真面目に考えている。

優柔不断な性格が『清水の舞台から飛び降りる』ために覚えておきたいこと。


どちらかというと“優柔不断”な性格です。

悩むんですね。何をするにしたって。ボクはそういうタイプです。

悩む、悩む、とにかく悩む、三度のメシより悩む…。

で、結果、『優柔不断な性格で、即決ができない』という事態に陥る。

ワンテンポ遅いんですね、というか、“そのまま終わってしまった”なんてことも多々あります。ありませんか?

これが自分にとってなかなかの短所だな、というのは、気づいているんです。無理やり長所にするのもよくない。

じゃあ、どうするか――。

ボクは“意識的”に思い出すことがあって。『テンションと勢いを大事にしよう!』、 ということ。

たいへん愚かしい文ですが、これがとても重要だと。


清水の舞台から飛び降りる


『清水の舞台から飛び降りる』――という諺をご存知かと思います。

清水の舞台から飛び降りるとは、思い切って大きな決断をすることのたとえ。

実際に清水寺で、“清水の舞台”を見たことありますか?

クアラルンプールの夜長に読書を…。


わけのわからない、かたくるしいブログが続いたので、ソフトな内容でも…。

昨晩、なかなか寝付けなくて。結局、本を3冊読んでしまった。

スマホのKindle、便利ですね。海外にいても、いつでもどこでも本が読めるし、そして買えるというのだから。おそろしい時代です。

では、3冊とも大変面白かったので、ちょっと紹介しておきます。

うざい「自分語り」とネットの相性――自己満足の純度を高める

夏の駄駄

『夏の駄駄』という小説を書き、Kindle電子書籍で出版したのは、2003年2月であるから、今から2年以上も前になる。

当時のことはよく覚えている。

道路警備員のバイトをしていて、昼休憩はもっぱら公園のベンチ。缶コーヒーで手を温めながら、誤字脱字がないか、持参した原稿をチェックしていた。

おにぎりをリュックにいれたまま現場に行って、戻ってきたらカラスに食い散らかされていた、なんて過去も、今となっては楽しい思い出である。

そのときのボクにとっては、たとえ電子書籍であっても、一冊の本をだすことは、一筋の光明だった。希望だった。だから、しがみつくようにして、書き上げた。無事、Kindleで出版できたときは、泣くほどうれしかった。金なんてなかったが、心は満たされていた。


『夏の駄駄』は私小説であり、ほぼ実話である。

小説の中の主人公は、その後、就職をする。そして約2年、そこで勤める。そして、その仕事を辞めた後、約3ヶ月間、海外に行く。

――と、所謂、“←イマココ”、である。

先ほど、『夏の駄駄』を読んでみた。まさかマレーシアで読むなんて、執筆当時には、想像もしていなかった。人生、何が起こるかわからない。

『夏の駄駄』、良く言えば私小説であるが、悪く言えば“自分語り”である。

だが、ボクは思うんです。

もっと“自分語り” をしないか、と。

ボクは、“自分語り”って、ジャンルであり、分野であり、もっと流行るべきだ、と思っています――特に、ネット上において。

「表現欲求」の追求こそが、自意識と自己愛の正しい末路。


マレーシアに来て6日目。

KLCC公園にて、人の往来を眺めておりました。

マレーシア屈指の観光地ですから、色んな国籍の人がいて、たいそう賑わっておりました。

そんな景色を眺めながら、ボクは思いました。

『世界にはたくさんの人がいるなぁ』

――と、こう思えば、大抵の場合、「世界からみれば、自分なんてちっぽけな存在だなぁ」と考える。

このパターン、よくありますよね。妙に俯瞰的になって。

で、思った。

『世界にはたくさんの人がいる』と知ることで、“自意識過剰”が何とかなるのではないか?

あるいは、“なんの取り柄もないくせに自己愛が強い”という、自己愛迷路から抜けだすきっかけとなるのではないか?

“日本脱出”って、それ、日本に対する息苦しさじゃないだろ。


まさか、自分が30歳になってから、“旅的なこと”をするとは、思ってもいなかった。

いつごろか、日本において、“日本脱出”という言葉を耳にするようになった。

「この先、日本の未来は明るいか?」なんてのはわからない、が、「きっと、暗い」という意見が多いのか。

日本の未来などと、そのようなこと、ボクにとってはあまりに壮大であるし、ちょっとピンとこない。

そんなことを理由に、今回、東南アジアに来たわけではない。そんな難しいことが私にわかるはずもない。

しかし、どこか、日本に「息苦しさ」を感じることはあった。

そういう人、多いんじゃないか? 日本に「息苦しさ」を感じる、という人。どうだろうか。

けど、ちょっと考えてほしい。本当にそうなのか?それは、日本がそうだから、なのか?

それは、日本に対する「息苦しさ」ではなくて、『何者にもなれない自分自身に対する息苦しさ』なんじゃないか?

クアラルンプールにて動画:第三話~五話まで!


現地で撮った動画、五話まで進んでおります。

一体、何話まで続くのでしょうか…。できる限りやり続けましょう。

ネットの回線が遅いのと、ひどく暑いこともあって、動画編集などは完全放置であります。撮ったものを、そのままアップロード。

というか、ちまちまとカットしたり、動画編集をする時間がもったいないなぁという気もする。

なんにせよ、ちょっとでも、何か個性的なものが出せればと思っていはいます。

では、以下、第三話~第五話まで、まとめてのせておきます。







以上、@ryotaismでした!


“海外に行くと価値観が変わる”という俗説は本当か?


マレーシア・クアラルンプールに来て、3日目です。

マレーシアは日本とは違って、いたるところに“フリーWi-Fi”がある。

そのあたりは日本でも、どんどん普及してきてはいるけど、マレーシアはいたるところでWi-Fiにつなげられる。フリーWi-Fiのない喫茶店のほうが珍しい。無論、セキュリティなどのリスクはありますが…。

で、話は変わって――。

“海外に行くと価値観が変わる”、などということを日本ではよく聞かされたのですが、そのへんについて思ったことを少しだけ書いてみます。

マレーシア初日:英語がしゃべれないことによる“沈黙”



昨日、成田空港からマレーシア(クアラルンプール)まで、約7時間、

到着しました。

今日はコチラに泊まっています。



では、初日に感じたこと、考えたことを書いてみます。