“毎日異なる景色”を見たほうがいいのか?――“毎日同じ景色”が与えるもの。



色んなところで既に言われていることかもしれませんが――。

“毎日同じ景色”を見ていると、時間が経つのが早く感じる。

逆に、“毎日異なる景色”を見ていると、時間が経つのが遅く感じる。

無論、“毎日同じ景色”などというものはない。同じように見えて、昨日と全く同じということはありえない。

が、ぼんやり、景色をにじませて見ると、ほぼ同じ、同じ類のもの、ということはある。

自分の部屋の壁が、今日と昨日とで大きく異なっている、などということはあるまい。毎日の通勤風景もまた、細部は違うにせよ、全体像は何度も見たことのある景色である。

では、パソコンやスマホの画面はどうか?

画面内のページは、めまぐるしく移り変わる。しかし、パソコンやスマホは視野が非常に狭い

それはいってみれば、紙芝居を見ているようであって、額縁の中の絵をめくって見ていくのに似ている。

額縁の外側は、なかなか視界に入りにくい。スマホやパソコンの画面というのは、“景色全体”ではなく、あくまでも、“景色の一部”である。
また、すべてのページ、すべての画像、すべての動画が、“同じ”液晶画面で、“同じ”作りで見ている。

ネット閲覧は自由度が高いので、次々と新しい景色が飛び込んでくるのは確かだが、それらすべての画は、「スマホやパソコン」という、一つの同じ“下位カテゴリ”におさめられる。

となれば、“毎日異なる景色”とは、どうも言い難い。


“毎日同じ景色”である安心感


では、“毎日異なる景色”を目指すべきなのかというと、それには一定の“タフさ”が求められるので、ちと考えものである。

基本、人間は、“毎日同じ景色”を見ているほうが落ち着くのだ。“変化”はストレスである。

たとえば「旅行に行って、美しい景色を見てみたいなぁ」などと思うのは、“毎日同じ景色”を今後も見続けるための気分転換、気晴らし、休息のようなものである。

「見たこともない美しい景色を“毎日見たい”」などと、大抵の人は思わないだろう。あくまでも、“毎日同じ景色”を見ている隙間に、潤滑油の役割として“新しい景色”を挟みたいのである。

“毎日異なる景色”を見ていると、そりゃあ興奮する。刺激的であるだろう。しかし、安心と呼ばれるものからは遠のく。

人によっては、「ディズニーランドなど疲れるだけ」にしか思えない。“毎日異なる景色”、楽しいに違いないだろうが、はたしてずっとそうであるか。楽しいの裏側で、一滴一滴、沈殿していく疲弊はないだろうか。だから、旅人は、途中で休むし、やがては故郷へと帰るのではないか。


“毎日同じ景色”を見続けることでしか得られないもの



また、“毎日同じ景色”を見続けることでしか得られないものがある。

たとえば、“富士山の景色の素晴らしさは、一度見ただけでわかるだろうか?”

絵画においても同様である。

何度もそれを見ているうちに、その景色、その絵画の良さがにじみでてくる、ということがある。(それは、何度も見るという方法でしか味わえない)

景色の深み、奥、情緒、といったものは、一度見ただけではわからない。一度見てわかるのは、その“輪郭”だけである。あらゆる角度から繰り返し見ることで、ようやく、景色は“表情”を帯びてくる。

富士も絵画も、私はそういった鑑賞でしか、本質はつかめないと思っている。

“毎日異なる景色”は、その場限りの、炭酸的な刺激である。だからこそ、次から次へと異なる景色を求めていくのだが――それは少々、淡白な味わい方のようにも思える。

外見だけで結婚するだろうか? 外見だけで恋をすることはできても、結婚となると、中身をみるだろう。

景色も同じである。いっときの観光で、外面だけをちらと見ただけでは、愛するというところまでは及ばない。

◆ ◆ ◆

“毎日同じ景色”を見ていると、時間が経つのが早く感じる。逆に、“毎日異なる景色”を見ていると、時間が経つのが遅く感じる。

――と、このように言えば、「“毎日異なる景色”を見たほうがいい」、などと、私なぞは安直に思ってしまうのだが、どうだろうか。(もちろん、それはそれで興味深いし、若い者にとっては経験値という意味でも大事なことだが)

現在、私は東南アジアをまわり、日々飛び込んでくる新しい景色に刺激をうけている。驚いたり、感動したりと、満喫している。新鮮で楽しいと感じる。

――が、そう思えば思うほど、“同じ景色”を見続けることの意義を感じる。

“外を知ることで内を知る”、“足りないと知ることで、持っていたもののありがたみを知る”、そういったところでしょうか。大事なことを再確認しております

以上です。ではまた。@ryotaismでした。