マレーシア初日:英語がしゃべれないことによる“沈黙”



昨日、成田空港からマレーシア(クアラルンプール)まで、約7時間、

到着しました。

今日はコチラに泊まっています。



では、初日に感じたこと、考えたことを書いてみます。


訪日外国人の英語



よく言うじゃないですか。

海外旅行に行ったときに、『やっぱり、英語がしゃべれると強いなァ…』って。

伝えたいけど伝わらないもどかしい感じ、ありますねやはり。

英語がしゃべれなくても、勢いとかで乗り越えられるかもしれない。

でも、英語がしゃべれるだけで、人との交流範囲が違ってくる。

これはとても大きなことで。初日ながら痛感する。

日本に来ている外国人としゃべる機会ってあると思うんですが――たとえば仕事なんかで。

ボクも以前の職場ではちょこちょこ外人が来て、話すことがありました。で、そんときは、なんとか聞き取ることができたのだけど、それって、“日本人のために、わかりやすく発音してくれていただけなのだなぁ”、と思いました。

訪日外国人は、ある程度、わかりやすく英語をしゃべってくれている。
当たり前ですが、現地では、そんなことは全くない、ということ


こういうのは、少しずつ、慣れていくしかないでしょうね。


沈黙と言語――自己との対話


思想家の吉本隆明さんが、芸術言語論~沈黙から芸術まで~』の中でこんなことをおっしゃってた。

言語を一本の樹にたとえると、幹と根は「沈黙」であり、枝や葉そして実とは「コミュニケーションのための言葉」である。
「沈黙」は【自己表出】であり、コミュニケーションに用いられる言葉は【指示表出】である。
言葉の本体とはその2つが織り合わさったものであるが、より重要なのは「沈黙」であり、話された言葉はオマケでしかない。

言葉の本質とはコミュニケーションの手段ではない、と、つまり、そういうことをおっしゃった。

思想家らしい言説で、ボク自身もそうであると感じるのですが、

なかなか、こういう異国の地に来ると、【指示表出】が優先的に欲しくなってしまいますね。。。沈黙【自己表出】のみではツライところがある。

が、実は、こういうときこそ、「英語がしゃべれらたらなぁ」と痛感する時こそ、己の言葉、つまり【自己表出】に自覚的になれる。覚醒する。

要は、”自己との対話力”が鍛えられると思います。

日本にいるときは、意識的に独りの時間を設けることで、自分と向かい合おうとする(瞑想なんかもそうかもしれない)。でも、部屋から一歩外にでると、右から左に日本語が流れ、「コミュニケーションが発生しない」ということのほうが難しい。

海外に行く、且つ、英語がしゃべれない、これは、ほぼ強制的にコミュニケーションをシャットダウンされるということですから、沈黙による自己との対話が自ずと増える。“自分探しの旅で海外に行く”というのも、あながち間違いではないかもしれないな、と思いました。

◆ ◆ ◆

はい、ということで、初日に感じたことでした。

観光地もまわりますよもちろん!ではまた!@ryotaismでした!