『しなごい米やなぁ』と祖母は言った。


マレーシアでの食事にも慣れてきたこの頃。

もとい、雑食ですから、よっぽどマズイもんでもなけりゃ、おいしく頂ける身なわけですが。

しかし、いくら食うても、気になることが一つ。

fried rice(つまりは炒飯)、を食うことが多いのですが、日本の米とはちと異なる。

“ふっくら”しとらんのですね。

いつだったか、“タイ米”なるものが日本でも話題になっておりましたが、あのように、粒が細く、食感がパサパサとしている。悪くいえば、米が痩せておる。

それはそれで、炒飯の調理には合っていて良いのだが、しかしどうも、日本の米と比べ、『しなごい米やなぁ』なぞ思う。

“しなごい”――聞きなれない言葉かもしれない。

これは、私の祖母がよく使っていた言葉であり、私の生まれ故郷である、三重県の伊賀弁と呼ばれる方言である。

子供の頃、祖父と祖母に連れられ、和食レストランに行くことが幾度があった。

祖母は、なんたら御膳を注文し、運ばれきた白米を口に入れると、『しなごい米やなぁ』、と言った。

“しなごい”とは、噛み切れない、というような意味であるが、祖母の云う“しなごい”には、「食感が悪い」であったり、さらには「味があまりしない」といった意味合いも込められていた。

他のレストランに行ったときも同様で、『しなごい米やなぁ』と、祖母は言う。外食の米が、どうも気に入らないらしかった。

祖母がそのように言うのには、それなりの理由があった。理由、いや、矜持みたいなものである。

我が家は、水田に一つ一つ稲を植え、米へと育て、それを刈り取り、精米し、ようやく出来上がったものを、自分の家庭で食すのはもちろん、その方面の組合に売って金を得たりする、いわゆる農家であった。(が、それのみで生活しているわけもなく、他の仕事も行いつつの、兼業農家である)

汗水たらして、一から育て、おいしいお米を作っているという自負が、祖母にはあったのだろう。であるから、外食にて出される米に対し、少々厳しい意見もこぼれたのだろう。

また、“伊賀米”なぞ云う、ブランド名までもあり、それはそれなりの評価も得ているようで、味は確かなものらしい。

が、米の食感や味なぞ、子どもの時分には、気にしたこともなかった。生まれた頃より食っている米であるから、「米なんて、こんなもんだろう」と、これが普通であると思っていた。何も特別ではなかろうと。

そもそもが、外食で出される米も、給食の米も、私には味の違いがよくわからなかった。子どもの味覚なんざ、やっぱり当てになるものではない。

しかし実際のところそれは、祖母や祖父が手塩にかけて育てた、他と比較しても、相当にうまいものであった。

マレーシアで米を食い、日本で食うていたものとの違いを感ずる。

『しなごい米やなぁ』と、祖母のよく使っていた言葉が、ふいに私の口からこぼれ落ちた。

いったい、どこにいようが、記憶は“記憶”である。

数年前、祖母は亡くなった。死に目にあえなかった私は、葬儀の間も、最後まで涙を流さなかった。

これまでの文の雰囲気で、もしかすれば伝わったかもしれないが、私はそれはもう、たいそうな“ばぁちゃんっ子”であった。回覧板を持って行くときも、畑を耕すときも、どこに行くにも、祖母の後ろをついていくような子どもであった。

じゃがいもの皮の剥き方を教えてくれたときのこと、スーパーの帰りにたこ焼きを買ってきてくれてうれしかったこと、夕食後にオセロをしたこと、鮮明に覚えている。温かく、やさしい祖母だった。

亡くなる一年ほど前から、家族から、それとなく聞かされてはいた。「もう長くはないかもしれない」と。

怖かった。祖母が死ぬことが、私にはたまらなく怖かった。

何でもない、通常業務の仕事をしていたとき、母から連絡があった。急いで私は上司に連絡し、新幹線に乗って帰省した。

実家につくと、薄暗い中、家族全員がうつむいていた。ぽつりと母が、「亮太が帰ってきた」、とだけ言った。喉に何かが詰まって、うまく言葉がでなかった。

ここで泣いてしまっては、死を認めることになってしまう――私は泣かなかった、認めたくなかった、最後まで。気丈に振る舞う私を、母は心配そうに見つめていた。

葬儀等、一通りのことが終わって、私は埼玉へと戻った。自室に入った途端、とめどなく涙があふれた。再び会えないこともよりも、なぜもっと、生きている間にその存在に感謝できなかったのか。

病気であることは一年以上前より知っていた、ならば、その間、もっとそばにいてやれたのではないか。

生前、祖母は、故郷を離れた私と会いたがっていた――母を通じて、そのことは何度も聞かされていた。会うべきであった、と、今となっては心底そう思う。しかし、どうにも私は怖かったのだ。大切な人が亡くなるかもしれないという状況に目を背け、延々と私は現実から逃げていた。そんな事実は無いのだと、絶対に認めなかった。

哲学の教科書で、何百回も死という言葉を目にしてきた。が、祖母の死は、そのどれでもなかった。頭で理解して納得できるものではなかった。いくら理詰めで考えようとも、感情が、いわゆる心がそれについていかない。

もうあれから5年以上経つというのに、今だに、祖母の死をきちんと受け止められているのか、私にはわからない。このように異国マレーシアに来ても、ふいに思い出し、「そっと手でも握ってやればよかった」「なぜ俺はあの時に泣かなかったのか」、などと思うくらいだから、未だうまく消化しきれていないのかもしれない。

が、それは決して、“その人の死を引きずる”などと云う、後ろ向きなことではない。

こまっしゃくれた物言いをすると、それもまた“旅”である。幸せな思い出、辛い過去、それら記憶の荷物を背負って進んでゆくよりほかない。本人にしかわからぬ何かを抱えながら、どこに向かうのか、どこへ向かうべきなのか、わからぬままに歩き続ける、斯様な旅である。

――と、一旦は、そのような名文めいたことを自らに言い聞かせておくことにする。

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単なる“米”の話から、随分と飛躍してしまったが、

何だっていい、とまではゆきませんが、あらゆることを書きたいと、そんなことを今は思う。

ではまた。@ryotaismでした。

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