うざい「自分語り」とネットの相性――自己満足の純度を高める

夏の駄駄

『夏の駄駄』という小説を書き、Kindle電子書籍で出版したのは、2003年2月であるから、今から2年以上も前になる。

当時のことはよく覚えている。

道路警備員のバイトをしていて、昼休憩はもっぱら公園のベンチ。缶コーヒーで手を温めながら、誤字脱字がないか、持参した原稿をチェックしていた。

おにぎりをリュックにいれたまま現場に行って、戻ってきたらカラスに食い散らかされていた、なんて過去も、今となっては楽しい思い出である。

そのときのボクにとっては、たとえ電子書籍であっても、一冊の本をだすことは、一筋の光明だった。希望だった。だから、しがみつくようにして、書き上げた。無事、Kindleで出版できたときは、泣くほどうれしかった。金なんてなかったが、心は満たされていた。


『夏の駄駄』は私小説であり、ほぼ実話である。

小説の中の主人公は、その後、就職をする。そして約2年、そこで勤める。そして、その仕事を辞めた後、約3ヶ月間、海外に行く。

――と、所謂、“←イマココ”、である。

先ほど、『夏の駄駄』を読んでみた。まさかマレーシアで読むなんて、執筆当時には、想像もしていなかった。人生、何が起こるかわからない。

『夏の駄駄』、良く言えば私小説であるが、悪く言えば“自分語り”である。

だが、ボクは思うんです。

もっと“自分語り” をしないか、と。

ボクは、“自分語り”って、ジャンルであり、分野であり、もっと流行るべきだ、と思っています――特に、ネット上において。


うざい「自分語り」と、ネットの相性



ネット上では、否定的イメージのある「自分語り」です。

(聞かれてもいないのに)自分のことを語りだすこと。
往々にして嫌われる。

たしかに、身近にこういう人がいたら、イヤですよね。いわゆる、“うざい”。自分の話ばかりされちゃかなわないです。

ネット上では否定的イメージがある、と書きましたが、でも本当にそうなんでしょうか?

ボクは逆に、“自分語り”はネットと相性がいいんじゃないか、と考えています。

実生活、たとえば居酒屋やカフェ、職場や学校で、“自分語り”されると、周囲はけっこうしんどいものがあります。なかなか、うざい。

なので、“自分語り”をしたくてもセーブする――そういう場面はあると思いますし、親切であると思います。

しかし、心の中に、“自分語り”をしたいという熱はないでしょうか?自分の過去や、将来のことでもいい、『自分のことを話したい』という思いはないでしょうか?

これはある種の「表現欲求」であります。(参考:「表現欲求」の追求こそが、自意識と自己愛の正しい末路。

ネット上での“自分語り”、これは、ある種、独り言みたいなものです。

というのも、よほど特別な人間でない限り、私の“自分語り”など、何の価値もない。誰もアクセスなんてしないし、検索にもひっかからない。

よって、ネット上での“自分語り”は、ほぼ独り言みたいなものである。

それでいいんです。

別に、誰かに聞いてほしいわけではない。しかし、もし誰かが聞いてくれれば報われる、それが「自分語り」の特徴です。

そして、ネットは、その舞台としては非常に向いている。興味がなければ(ウザければ)、誰も見ない。その“自分語り”は、ネット上では放っておかれるだけです。しかしそれでいて、誰かが見ている可能性を残すことができる。


だから、“自分語り”の欲求を表現する上で、ネットは悪くないだろうと、ボクはそう考えています。

また、ネットに吐くことで、現実世界で余計な“自分語り”をしてしまうことも防げます。

(※誤解ないように書いておきますが、ネット上の書き込みは完全な独り言ではない。足がつく。匿名なり、現実社会に支障が出ないよう抑えておくバランス感覚はあったほうが無難)



“自己満足”の純度を高める



“自分語り”について、もう少し踏み込みたいと思います。

では、どういった“自分語り”を目指すか?

“自分語り”なんて、所詮は、自己満足であると思います。ならば、それを徹底すべきだ。徹底的に、自己満足を追求したほうがいい。

他者の評価や目線を気にするな――“自己満足の純度を高めよ”、ということです。


そのような、自己満足に徹底した“自分語り”は、面白い。これはボクの主観でもあるのですが、「他人の評価」を気にした“自分語り”は、どこかつまらないんです。

自己満足に徹底するとは、つまり、『自分に夢中になれ』ということです。“自分しか見えていない状態”、といっていい。これは、自分の好きなことを熱く語ることと似ている。つい、その熱量に惹き込まれてしまうことがある――あまりにも夢中だから。

自己満足の純度が高い”自分語り”は、夢中になって自分を語るということであり、その話は必然的に熱を帯びる。その熱量は人に伝染することがあって、見るものを巻き込むチカラがある――結果、見てて聞いてて面白い“自分語り”が発生する。


――“エンターテイメント”へと昇華する、というのがボクの考えです。

“自分語り”は自己満足なのだが、その自己満足を徹底すると、結果、自己満足で終わらない。他者を呼び寄せることがある。

◆ ◆ ◆

もし、心の中に、“自分語り”をしたいという熱があるならば――、過去のこと、将来のこと、『自分のことを話したい』という思いがあるならば――、決して我慢しちゃいけない、だしきったほうがいい。

自己満足でよい、むしろ自己満足の純度が高ければ高いほど、その語りは磨かれる。洗練される。

そういった“自分語り”は、きっと面白い。単なる無意味な独り言では終わらないだろう。

以上、@ryotaismでした。


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