本で辿る自分の過去。


最初は芥川龍之介の『羅生門』。高校一年のときに国語の教科書で読んだ。でもそのときは、「なかなか面白い話だなぁ」という程度だった。その後、僕は地元三重県を出て、京都の或る仏教系大学に入学。哲学科に属し、まず読んだ一冊が、デカルトの『省察』。その考え方に僕はもろに影響を受けた。しかし所詮はレポート課題のための読書であって、心は没入していなかった。大学近くにある本屋で、暇つぶしに買った一冊、乙一『暗いところで待ち合わせ』。「小説っておもしろい」と初めて思った。また、沙藤一樹『D-ブリッジ・テープ』、滝本竜彦『NHKにようこそ!』等を読み、読書熱はさらに高まる。大学四年間、本分である哲学は勿論、色々な本を読んだ。が、まだこの時期は、読書、文学に対して、強い思い入れはなかった。ともすれば、映画や音楽のほうが好きだったかもしれない。

大学卒業後、就職。埼玉に移る。仕事は長続きせず、僅か一年で退職。かねてより取り組んでいた書道に身を賭ける。――二十四歳、ついに出会う。芥川龍之介『地獄変』という作品を読み、魂が震える。今でもはっきりと覚えている。文庫本を片手に、心を落ち着かせようと換気扇の下で煙草を吸った。全身が熱く高揚しているのを感じた。“初期衝動”といってもよい。これを機に、昭和の純文学に傾倒する。太宰治、夏目漱石などの、種々の名作に触れ、感銘を受ける。なかでも、島崎藤村『破戒』を読んだときの衝撃は大きかった。(カミュの『異邦人』がきっかけで、洋書も多少読む)

芸術や文学にすっかり心を奪われてしまう。興奮と熱狂、夢中になればなるほど、並行して、生活は真っ直ぐ堕落へと向かっていった。就職してもすぐに辞めてしまい、お金がなくなったらまたしぶしぶ働く、という繰り返し――。当時、世間では「ひきこもり」「ニート」といった言葉が、ある種の“活気”を帯びていて、僕はまさにそのポジションにいた。働くことが嫌だった、否、怖かった。気づけば、クレジットカードと家賃の滞納金が七十万に達していた。精神的に辛かった。そんなときに出会ったのが、武者小路実篤『友情』、そして志賀直哉『小僧の神様』。白樺派と呼ばれる彼らの作品は、もう一度人生をやり直す気力を、僕に与えてくれた。また、倉橋由美子『聖少女』は、辛い気持ちを忘れて夢中になって読んだ怪作だった。

心身ともに安定し、せっせと働くようになった。テレビをつけると、或る作家が映った。西村賢太という人が、芥川賞受賞のインタビューを受けていた。興味をもった僕は、氏の作品『けがれなき酒のへど』を購入して読んだ。笑った、が、なぜか泣ける――とんでもなくおもしろい作家と出会ってしまった。これまで過去の人の古典作ばかり読んでいた僕にとって、現代作家に惹かれたのはこれが初めてだった。氏の作品を片っ端から読んだ。

三十代に突入。二十代でやり残したことはないか、あるなら、今やるべきではないか。仕事を辞め、東南アジアに旅に出る。道中、田中英光『さよなら』を読んだ。その迫真の内容に圧倒される。二度三度と繰り返し読み、忘れられない一作となった。帰国後、これまで読んだ本を再度読み返そうと思い立ち、押入れに積み上げられたダンボール箱を引っ張りだす。短編がいくつか収録されている、梶井基次郎『檸檬』が目に止まり、再読。一度目に読んだときには気づかなかった、繊細な“機微”を捉え、その作風に心酔する。

さて、そして、「今」。このブログを書いている『今』に至る。何か、書き忘れている本が他にもあるような気がするが、概ねこんな道筋である。――こうして振り返ってみると、なんてことはない、皆が知っているような著名な作品ばかりである。所詮はその程度の“ミーハー”であることを、うっかり自分の手で明示してしまった。「好きな事をブログに書けばきっと楽しいだろう」と思っていたが、むしろ恥ずかしい、情けない気持ちになった。@ryotaism