『明日死ぬかもしれないから、やりたいことをやれ』というベタな正論の“つまらなさ”について



昨今、流行っている正論のひとつに、

『明日死ぬかもしれないから、やりたいことをやれ』


というのがあります。

いつの世にも、正論を押しつけてくる大人はいます。

『明日死ぬかもしれないから、やりたいことをやれ』という正論。それは紛れもない“正論”であり、間違っていない。

一昔前は、このような考え方は少々異端で、変わり者が考えるような発想でしたが、今はまったくそんなことありません。巷にありふれています。

『明日死ぬかもしれないから、やりたいことをやれ』、これはいまや、凡庸で通俗的な、“ベタな正論”となりました。完全に。


つまり、特別な考え方、個性的でもなんでもない“フツーの発想”、ということです。

なので、こういった正論を声高に述べる人に対し、「ベタな正論を主張しているなぁ…」と思う人が昨今増えているんじゃないか、と僕は思います。

ありふれた発想なのに、さもこれが特別であるかのように語っている場に遭遇すると、「いや、それについてはけっこう周知されているよ」と、思わないでもないのです。


正論や常識を押し付けてくる大人



また、『明日死ぬかもしれないから、やりたいことやれ』という正論を押し付けてくる大人がいます。

いつの世にも正論を押し付けてくる大人はいます。でも、大人はそれが“押し付け”だとは思っていない。気づいていない。だからこそ、平然と押し付けられる。

『明日死ぬかもしれないから、やりたいことをやれ』、これは間違っていません。

正論だから(間違ったことを言っていないから)、「どうだ? 太刀打ちできないだろう?」というふうに、押し付けることができる。押し付けやすい。

十代の頃、僕はこういった大人がとても苦手でした。

ムリに押し付けられても、正論だから、押し返せない。正論だから間違っていない、言い返せないのです。そして、「どうだ? 反論できないだろう?」と、ニヤニヤとした表情で正論を説き伏せてくる大人に対し、十代の僕はとても憂鬱な気持ちになりました。

……いつの世もそうですが、「正しいことはつまらない」「『常識』という言葉を使う大人はつまらない」。

今の時代において、『明日死ぬかもしれないから、やりたいことをやれ』は、まさにそういった退屈な正論であり、押し付けがましい常識のように思うのです。


この言葉、以前は、そこまで正しい言葉ではなかったし、常識でもなかったけど、今は、すっかり世間に浸透して、ありふれたベタな正論になってしまった。

もう一度言いますが――『明日死ぬかもしれないから、やりたいことをやれ』は、ありふれた正論であり、いまやみんな知っている常識です。特殊でも個性的でもないフレーズです。

正論や常識を押し付けられると、自然と反発してしまう。正しすぎると、それはつまらないものだと感じてしまう――『明日死ぬかもしれないから、やりたいことをやれ』は、そういったつまらない正論であり、押し付けがましい常識であると思うのです。


◆ ◆ ◆ ◆

そもそも、『明日死ぬかもしれないから、やりたいことをやれ』なんてのは、当たり前のことであり、それをなぜか言葉にして頑と主張する人は、本心よりそう思うことができないから、わざわざ言葉にするのではあるまいか。

というようなことも思いました。以上@ryotaism

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