「寝て終わる休日」について。


夕方。睡魔に襲われる。うとうとと、布団に横になる。目を閉じた瞬間、ロウソクの灯がふっと消えるように、意識が消失する。

気づけば二十時。部屋の明かりはつけっぱなし。べっとりと窓の表面には黒が塗られている。燦々と陽の光が降り注いでいた外の景色はもうない。

「また寝てしまった」

身体が疲れているのか、近頃は休日のほとんどを寝て過ごしている。ちょっとこれではいけないな、と思い、昨夜早めに就寝し、たっぷりと睡眠をとった――にもかかわらず、またしても眠りに落ちてしまった。外出すればこのような事態を回避できるのかもしれないが、そう都合よく外に用があるわけではない。やむなく室内で過ごすと、注意を払っていても、いつの間にか布団の中で眠っている。

せっかくの休みだから、内容の濃い一日を過ごしたい、と思うのだが、寝て終わり。いや、なにもこれは休日に限った話ではない。私の人生がそのようにして経過している。淡々と年を重ね、三十二歳。来月には三十三歳になる。昨年の誕生日、日記をしたためた。あれから約一年が経つ。しかし、まるでその実感がない。

「時の流れを肉眼でとらえることはできないが、実はとんでもない猛スピードで、人生のラストへと突き進んでいるのではないか」

映画館に行って、帰ってきた話。


休日。たまには映画でも観ようと思い、京成線船橋方面行きの電車に乗った。車内は空いており、座ることもできたが、扉口付近で立ったまま、窓の外の景色を眺めていた。晴れた日中の昼下がり、ではない。すっかり日は暮れ、車窓の外は、家々の灯りが爛々と猫の目のように暗闇で光っていた。二十一時以降のレイトショーであれば、通常よりも幾分チケット値が安くなる。それを見計らって出発したのだった。

無論、共に観に行く者はおらず、一人である。誰かと映画を観に行くというような交友関係は、今の私にはない。どこを探しても、そのような友達、いや、知人すらいない。それについて特に私が思うことはない。これまでそういう生き方をしてきたが故の自然な結果であるし、また、私自身、望んでその道を選んできたのだ。例えば、「さびしい」といったことを、今更そのようなことを思うのは、調子がよすぎる。が、そうはいっても、もし、それでもそのような感情がどうしても込み上げてくるというならば、忘れよう忘れようと努めるか、或いは、我慢し抑えつけるのが、適切な振舞だと思う。