私の弱さと、家族。~関東に住んで~


千葉に移り住み、一年ばかりが経った。埼玉で約九年ほど過ごしたのと比べれば、それはまだまだ短い期間と云えるだろう。

にしても、まさかここまで長く関東圏に居座るとは、毛頭想像していなかった。


大学卒業後、なんとなし就職した会社から勤務移動を命ぜられ、なんとなし京都から埼玉へと移り住むこととなった。特に私はその指示を拒むことなく、そのまま受け入れた。できれば関西圏に留まりたい――といった執着は露程もなかった。地元愛なんぞ、私には少しも無い。

そもそも、生まれ故郷である三重県ではなく、京都への大学進学を希望したのは、実家、地元から少しでも離れたいという気持があってのことだった。

中学から高校にかけて、ろくなことがなかった。楽しい記憶や明るい思い出というのが、まるで無い。うつむき、暗い表情で独り、毎日を過ごしていた。思春期なんて誰しもそんなものなのかもしれないが、辛く、苦々しい事だけが思い起こされる。

何も毎日が楽しくない。十代であるというのに、若さが感じられない。悄然とし、塞ぎこんでいる。なぜ私は独りなのか、なぜ私がこのような侘しい青春を送らねばならないのか――わからない、わからないからこそ、私はその不条理を認められず、<恨む対象>を探し求めた。惨憺たる日々から抜け出すために、<恨む対象>がどうしても私には必要だった。

「ろくでもない家庭で育ったから、俺の人生はこんなことになったんだ」

私はすべての因を家族に押し付けた。ひいては地元を呪った。恨み、時に憎悪し、こんな忌々しいところからさっさと出て行きたいと、強く思うようになった。それは裏返せば、「ここから出て行けば、私の人生は新たに開けていくだろう」という光明でもあった。

したがって、別に京都でなくとも、どこでもよかった。家族、地元から離れられるならば、場所は選ばなかった(事実、私は山口県の大学も受験した。その試験には落ちてしまったが)。

京都へと越す際、私は陰鬱なこれまでの自分と、その足跡を払拭したく、「もう二度と戻るまい」と思った。実際、私は高校を卒業して以来、祖母の入院や葬式のときくらいしか帰省していない。ここ約十五年の間、帰省したのは、せいぜい五、六回程度である。

実家、地元に帰っても、あの頃の暗鬱な記憶がじわじわと蘇ってくるだけで、それ以外、そこには何もない。――今になって思うと、そのような侘しい十代となってしまったのは、家庭が原因というより、根が酷く人見知りで無口であった私自身の性格のためであったと思う。

確かに、私の家族は、温かな家庭とは言い難いところがあった。しかし、恨んだり、憎んだりするほど、悲惨な家庭でもなかった。が、あの当時の私は、<恨む対象>を自分に向けられるような大人ではなく、また、自分に甘い質でもあった。

環境、他者……私以外のものに転嫁し、自分を客観視することを避けた。まともに自分を見つめると、「すべて自分のせいだ」と思わねばならぬほど、私は脆弱であり、小心な弱虫であった。

転嫁の矛先がとりわけ家族に向いたのは、それが私の意志ではどうすることもできない存在だったからであろう。選ぶことができない環境、私の意思ではどうすることもできないからこそ、「私に責任はないのだ。これは不遇だ」と思うことができた。

また、家族は、私がそのような不当な態度を示しても、決して私を否定しなかった。何も言わず、ただ黙って見守っていた。私は、彼らが私を否定しないことを知っていた。知っていたからこそ、私はそれに甘え、好き勝手に恨み辛みを抱いた。

そのような訳で、<恨む対象>として、家族は恰好の的であった。

かくして、私は、私の弱さを因とすることから逃れた。


埼玉で九年、千葉で一年。

約十年も居座っておきながら、実のところ、関東圏に住まねばならぬ別段の理由などなかった。郷里から少しでも離れたいという、高校卒業時の、あの頃の気持を延々と引きずり続けていたのかもしれない。それは、逃げ続けてきた、という意味でもある。

家族を遠ざけ、忘れている間、ひとまず私は心を落ち着けて生活することができた。次第に、面と向かって家族と向き合うことが、怖いとさえ思うようになっていた。そして、その存在と過去を徹底して忘れるべく、意図的に家族と疎遠関係を築こうとした。

あの頃を忘れることで――十代を無かったことにして、私は新たな自分に出会おうと模索した。しかし、幾ら模索しても、それはどこにも現れてくれなかった。それどころか、故郷を離れることで、あの頃と何も変わらない矮小な自分が露呈し、「人生がつまらないのは、私がつまらない人間だから」ということを、はっきり突きつけられることとなった。

これまでのすべては私に因るものだ。とは云い条、それを受け容れられず、即ち、「私」を受け止められず、西から東へと移り住み、今日まで逃避行を続けてきた。

しかし一向に、光明には手が届かない。逃げても逃げても、未だ私の人生は不甲斐ないまま時を費やしている、いやそれどころか、深い沼に嵌まり、少しずつ、着実に暗闇へと沈んでいっている。年々、醜くくなっているような気さえする。挙句は、斯様な女々しき日記を綴るような様である。

私自身の弱さと、家族への罪悪感に目を背け、ここまで来た。罪悪感――と云うのは、不自由なく育ててもらい、大学の入学費用を親に支払ってもらい、存分に甘えておりながら、そのことについては一切触れず、まるで無かったことのように隠し、家族を邪険に突っ放して自分を最優先に守ってきた、あまりにも幼すぎる自分の内面を痛感するからである。

それに、幾ら距離が離れようと、血のつながりはどうやっても分かつことができないのである。どこかで解答を出さなくては次へと進めない問題であり、逃避すればしただけ、一層深みに嵌っていく。時が経てば経つほど。

意固地に幼稚な振る舞いを続けてきた、と思う。が、そうでもしなければ、私は自分の心を保つことが出来なかった。逃げ続けることで、なんとか正常を保っていたようなところがあり、自らの弱さをそのまま受け入れてしまうと、自我が崩壊しまうのではないかという恐怖を常に抱いていた。もしそうなってしまえば、二度と私は立ち直れない気がして、自分や家族について、その本質から目を背けることは、自らを維持するために必要なことであって、ある種の正当性を抱いていた。

これまでの、あらゆることの、根っこの毒は、「私」だった。

「関東で十年を過ごし、何か良いことがあったか?」

私の弱さについて、あらためて知る。それくらいならばあった。@ryotaism