『目に見えないもの』に盲目である
『目に見えないもの』を(或いは『目で見たことのあるもの』を)、とかく私は考えてしまうようです。
所謂、“形而下”にあるもののことですが、
そのような哲学用語に拘泥するまでもなく、
“目”というのは「肉眼」のことでありまして、『視覚で認識できるもの』ということです。
これをさらに押し進め、視覚だけでない、五感で捉えられるもの全て、つまりは肉体でもって認識できるものに「自分を囚われてしまう」傾向が私にはあります。
一方で、その対となる『目に見えないもの』は思考から遠ざけ、
言葉が少々可笑しくなりますが、『目に見えないもの』に対しては盲目です。
それはまさに“見えないもの”でありますから、“見ることができない”のであって、盲目となることは必然のことかもしれません。
が、道理に沿ったその因果の内に、
「“見ようとしていない”自分」が介入、或いは干渉をしているのではないか。
それは自分の意志という不純の混入により、道理に沿った純粋な因果でない、つまりは、都合で調整された“加工的”因果ではないかと思うのです。
そのことが何か、自身の可能性の縮小に繋がっているのではないだろうかと、いやに不安なのです。
『目に見えるもの』『目に見えないもの』を幾つか挙げ、「『見ない』から『見ようとする』自分」を少しでも確認してから床につこうと思います。
『目に見えないもの』(※肉体によって認識できないもの)
・「死」
「死んだらどうなるか」、子供の時分にはよく考えたものです。
大人になるとこれを考えなくなる、それは先に述べた「目に見えるもの」に囚われてしまう為です。
「わからないものは考えない」、又は、「わかるものから考える」。
それは安心を得る近道であり、誰しも不安に居りたくはない。
「目に見えるもの」は、此方の見方を変えることで、それ自体を幾分か調整することが可能であり、此方にとっては都合の良いものです。
「なぜ死んでしまうのか」、死、それ自体が“目に見えないもの”ですから、その答えは一向に出ません。
しかし、『目に見えないもの』に対して、『見ない』から『見ようとする』ことで、見る力、眼力・視力は鍛錬され、未だ見ぬ可能性を『見つけられる』のではないか。
「死んだらどうなるか?」「私はなぜ死ぬのか?」
それを想像することくらいは、できるのではないかと思います。
子供の時にできていたことですから。
・時間
明日は誰にもわかりません。
未来を見ることはできません。
しかし、私は手帳に未来を書き込みます。
「来週の日曜日は○○をしよう」
「明日は○○だから、それに備えておこう」
見ることができない、わからないという不安を紛らわすべく、
なるべく克明に、手帳が予定いっぱいで埋まるように、「未来」を書き込みます。
実際、手帳に予定がずらりと書かれていると、何か嬉しくはないでしょうか。
そこには、見えないものを少しでも見えるようにすることで安心を得る心理が働いています。
そのような行為を取りやめ、「真っ白な手帳」という不安と向き合うことで、『目に見えないもの』、「時間」を少しは体感できるのではないでしょうか。
・自分
「自分」とは、「私」とは何でしょうか。
私はなぜ生きているのでしょうか。
「自分のことは自分が一番良く知っている」とは云いますが、
名前・年齡・経歴・外見・過去を私から取り除くと、一体私とは何なのかよく分からなくなります。
鏡に自分を映します。
まじまじとその人物を眺めます。
そこに映る人は一体なぜそこにいるのか。
よくわからない、不思議な感覚に襲われます。
それが『自分』です。
自分とは、一見すれば『目に見えるもの』のようですが、
その実、見れば見るほど「見えなくなる」、目には見えない「無色の一点」、そのような存在です。
「自分が何なのかわからなくなる」「自分って何?」「自分はなぜここにいるのか」、
そんな奇妙な迷路に感覚を陥れてみるのもよいかもしれません。
****************************************
と、ここまで述べましたが、『目に見えるもの』に執着する自分があるために、早々うまく『目に見えないもの』に目を向けることはできません。
従って、『目に見えるもの』を、視線の中心からずらす作業が必要となります。
では『目に見えるもの』(※肉体によって認識できるもの)には、例えば何があるでしょうか。
・お金
これは最も分かり易い『目に見えるもの』です。
「お金のことばかり考えてしまう」、そんな時が私にはあります。
それは「お金」が、実に「目につきやすい『目に見えるもの』」だからです。
又、目に見える形で、肉体に影響を与える力をお金は持っています。
・五感で感じるもの
「美味しい」(味覚)、「痛い」(触覚)、「美しい」(視覚)といった五感の感想。
感受すること、それ自体は良いのですが、それに囚われ過ぎてはいないかを改める。
「ここのラーメン屋は美味しいから、毎日そこに通っている」、それはややもすれば、五感の奴隷とも呼べます。
・友人・恋人・両親といった私との関係性
○○さんと私とが、「どういう関係であるか」を把握しておきたい。
これはなぜかというと、「自分」が目に見えないものであり、「他者」もまた、目に見えないものだからです。
両者を繋ぐ「関係」を判然とさせることにより、一挙両得、両者が目に見えるものになっていきます。
わからないものにラベルを貼る、タグ付けを行うことで、目に見えるものにしようとする心理があります。
又、「思い出」は、「関係」によく利用されます。
それは目で見てきたものですから、目に見える「関係」を作るうえで恰好の素材です。
気づけば、「恋人であるから」「両親であるから」といった、自分の意志ではない、関係のルールによって操られていることはしばしばあることです。
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他、「外見」や「経歴」や、「物質」など色々ありますが、このあたりに留めておきます。
こういった『目に見えるもの』から、『目に見えないもの』に焦点をずらしていく作業が今の私には必要だと感じています。
推敲の足りない荒い文章となりましたが、一先ず書けてよかったです。
所謂、“形而下”にあるもののことですが、
そのような哲学用語に拘泥するまでもなく、
“目”というのは「肉眼」のことでありまして、『視覚で認識できるもの』ということです。
これをさらに押し進め、視覚だけでない、五感で捉えられるもの全て、つまりは肉体でもって認識できるものに「自分を囚われてしまう」傾向が私にはあります。
一方で、その対となる『目に見えないもの』は思考から遠ざけ、
言葉が少々可笑しくなりますが、『目に見えないもの』に対しては盲目です。
それはまさに“見えないもの”でありますから、“見ることができない”のであって、盲目となることは必然のことかもしれません。
が、道理に沿ったその因果の内に、
「“見ようとしていない”自分」が介入、或いは干渉をしているのではないか。
それは自分の意志という不純の混入により、道理に沿った純粋な因果でない、つまりは、都合で調整された“加工的”因果ではないかと思うのです。
そのことが何か、自身の可能性の縮小に繋がっているのではないだろうかと、いやに不安なのです。
『目に見えるもの』『目に見えないもの』を幾つか挙げ、「『見ない』から『見ようとする』自分」を少しでも確認してから床につこうと思います。
『目に見えないもの』(※肉体によって認識できないもの)
・「死」
「死んだらどうなるか」、子供の時分にはよく考えたものです。
大人になるとこれを考えなくなる、それは先に述べた「目に見えるもの」に囚われてしまう為です。
「わからないものは考えない」、又は、「わかるものから考える」。
それは安心を得る近道であり、誰しも不安に居りたくはない。
「目に見えるもの」は、此方の見方を変えることで、それ自体を幾分か調整することが可能であり、此方にとっては都合の良いものです。
「なぜ死んでしまうのか」、死、それ自体が“目に見えないもの”ですから、その答えは一向に出ません。
しかし、『目に見えないもの』に対して、『見ない』から『見ようとする』ことで、見る力、眼力・視力は鍛錬され、未だ見ぬ可能性を『見つけられる』のではないか。
「死んだらどうなるか?」「私はなぜ死ぬのか?」
それを想像することくらいは、できるのではないかと思います。
子供の時にできていたことですから。
・時間
明日は誰にもわかりません。
未来を見ることはできません。
しかし、私は手帳に未来を書き込みます。
「来週の日曜日は○○をしよう」
「明日は○○だから、それに備えておこう」
見ることができない、わからないという不安を紛らわすべく、
なるべく克明に、手帳が予定いっぱいで埋まるように、「未来」を書き込みます。
実際、手帳に予定がずらりと書かれていると、何か嬉しくはないでしょうか。
そこには、見えないものを少しでも見えるようにすることで安心を得る心理が働いています。
そのような行為を取りやめ、「真っ白な手帳」という不安と向き合うことで、『目に見えないもの』、「時間」を少しは体感できるのではないでしょうか。
・自分
「自分」とは、「私」とは何でしょうか。
私はなぜ生きているのでしょうか。
「自分のことは自分が一番良く知っている」とは云いますが、
名前・年齡・経歴・外見・過去を私から取り除くと、一体私とは何なのかよく分からなくなります。
鏡に自分を映します。
まじまじとその人物を眺めます。
そこに映る人は一体なぜそこにいるのか。
よくわからない、不思議な感覚に襲われます。
それが『自分』です。
自分とは、一見すれば『目に見えるもの』のようですが、
その実、見れば見るほど「見えなくなる」、目には見えない「無色の一点」、そのような存在です。
「自分が何なのかわからなくなる」「自分って何?」「自分はなぜここにいるのか」、
そんな奇妙な迷路に感覚を陥れてみるのもよいかもしれません。
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と、ここまで述べましたが、『目に見えるもの』に執着する自分があるために、早々うまく『目に見えないもの』に目を向けることはできません。
従って、『目に見えるもの』を、視線の中心からずらす作業が必要となります。
では『目に見えるもの』(※肉体によって認識できるもの)には、例えば何があるでしょうか。
・お金
これは最も分かり易い『目に見えるもの』です。
「お金のことばかり考えてしまう」、そんな時が私にはあります。
それは「お金」が、実に「目につきやすい『目に見えるもの』」だからです。
又、目に見える形で、肉体に影響を与える力をお金は持っています。
・五感で感じるもの
「美味しい」(味覚)、「痛い」(触覚)、「美しい」(視覚)といった五感の感想。
感受すること、それ自体は良いのですが、それに囚われ過ぎてはいないかを改める。
「ここのラーメン屋は美味しいから、毎日そこに通っている」、それはややもすれば、五感の奴隷とも呼べます。
・友人・恋人・両親といった私との関係性
○○さんと私とが、「どういう関係であるか」を把握しておきたい。
これはなぜかというと、「自分」が目に見えないものであり、「他者」もまた、目に見えないものだからです。
両者を繋ぐ「関係」を判然とさせることにより、一挙両得、両者が目に見えるものになっていきます。
わからないものにラベルを貼る、タグ付けを行うことで、目に見えるものにしようとする心理があります。
又、「思い出」は、「関係」によく利用されます。
それは目で見てきたものですから、目に見える「関係」を作るうえで恰好の素材です。
気づけば、「恋人であるから」「両親であるから」といった、自分の意志ではない、関係のルールによって操られていることはしばしばあることです。
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他、「外見」や「経歴」や、「物質」など色々ありますが、このあたりに留めておきます。
こういった『目に見えるもの』から、『目に見えないもの』に焦点をずらしていく作業が今の私には必要だと感じています。
推敲の足りない荒い文章となりましたが、一先ず書けてよかったです。
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