「肉体肉」について
無論、食卓に並ぶ「肉」のことではありません。
私自身の「肉体の“肉”」、それをここでは「肉体肉」と呼びたいと思います。
食用肉は具体を有した固形として捉えますが、「肉体肉」は、何かゲル状の、「無形生物」のようです。
“生物”と称した点が重要であって、「肉体肉」は私の管理下にあるようで、まったく私の及ばぬところで意志をもって独立しています。
私は、私の「肉体肉」を、例えば太腿や二の腕の肉をまじまじと見つめていると、何か不思議な気持ちになります。
私の肉であるはずなのに、私のものでないような気がしてくる。
私ははたして私の肉を完全に所有しているのか、
そうとは言い切れない感覚に襲われます。
「肉体肉」は、その存在のあり方が「物質」とは異なります。
いわゆる「モノ」とは異なり、先ほど申したように“生物”として活動しています。
私の心臓を動かしているのは誰でしょうか、私でしょうか。
心臓は、心臓それ自体で動いています。
「肉体肉」は生きているのであって、どうやら生き物のようです。
では、それは意志をもった「生き物」でしょうか。
ただその生命を持続させ、機械的に活動してるだけでしょうか。
つまり、「『私』と『肉体肉』」は、「『私』と『他者』」という関係性であるか。
他者(他人)は、「私でない、他の意志」をもって活動し、つまりは、私の意志の及ばぬところにあるものです。
それ自体が、「まなざし」をもって存在しているのです。
私の肉体、「肉体肉」もまた、他人がもつような「まなざし」をもって、此方を見ているのではないか。
私が肉を見るとき、肉もまた、屹立してじっと私を見ているのではないかと、”生きているもの”を前に、そこに意思に似たものを見出し、「まなざし」を感じるのです。
(男性が筋トレを行い、自らの肉体が脈々と生命力を波打つのに恍惚とするのは、「肉体肉」が有するまなざしが此方を向いているからです。)
私という一個の人間には、
「私の意志」と、そして「肉体肉の意志」、この二つの意志が存在しています。
ところで、「性欲」のことを、私たちは”肉欲”と呼ぶことがあります。
先の「肉体肉」という考え方をもてば、「性欲」に関して別の見方ができます。
「性欲」が、「心がもとめている欲」であるならば、
では、先に述べた二つの意志(心)のどちらを私は他者にもとめているのでしょうか。
「性欲」とは、私の心が他者の「肉体肉」をもとめる欲求であって、
さらに疑ってかかれば、私の心とは別のところで働く、私の「肉体肉」が相手の「肉体肉」をもとめる欲求であると考えることが可能です。
肉体肉そのものが意志をもった生命である場合、このような“肉が肉をもとめる”、「肉愛」が成立します。
****************************************
「肉体肉」は私の及ばぬところで意志をもって独立し、決して私が完全に所有しきるものではありません。
それは私のものでありながら、私のものではなく、
精神や心の外側にありながら、私の内側にあります。
このような自らの肉体、「肉体肉」に私は敬意を抱きます。
なぜなら、「外界(心の外側)」とのコミュニケーションにおいて、それが第一接触となるからです。
「心の外側」は大変に広いものです。
そして心の外側は、私の意志の及ばないものであって、
そんな中、心が外に出てまず出会うものが自身の肉体です。
(女性のダイエットや、男性の筋肉トレーニングなどは、
「肉体」を通じて、というより、「心」を「肉体」へと向けることによる、「外界」とのコミュニケーションであり、
「心」と「外界(他者)」との接点をつくろうとする行為です。)
「肉体肉」は、私と、私の外の世界と連絡橋であって、
「肉体肉」と如何に付き合い、寄り添うかによって、又はそれを「きっかけ」とすることによって、私は内側から外の世界へと飛び出していけるのではないかと思うのです。
故に、私は「肉体肉」に敬意を抱くのです。
私自身の「肉体の“肉”」、それをここでは「肉体肉」と呼びたいと思います。
食用肉は具体を有した固形として捉えますが、「肉体肉」は、何かゲル状の、「無形生物」のようです。
“生物”と称した点が重要であって、「肉体肉」は私の管理下にあるようで、まったく私の及ばぬところで意志をもって独立しています。
私は、私の「肉体肉」を、例えば太腿や二の腕の肉をまじまじと見つめていると、何か不思議な気持ちになります。
私の肉であるはずなのに、私のものでないような気がしてくる。
私ははたして私の肉を完全に所有しているのか、
そうとは言い切れない感覚に襲われます。
「肉体肉」は、その存在のあり方が「物質」とは異なります。
いわゆる「モノ」とは異なり、先ほど申したように“生物”として活動しています。
私の心臓を動かしているのは誰でしょうか、私でしょうか。
心臓は、心臓それ自体で動いています。
「肉体肉」は生きているのであって、どうやら生き物のようです。
では、それは意志をもった「生き物」でしょうか。
ただその生命を持続させ、機械的に活動してるだけでしょうか。
つまり、「『私』と『肉体肉』」は、「『私』と『他者』」という関係性であるか。
他者(他人)は、「私でない、他の意志」をもって活動し、つまりは、私の意志の及ばぬところにあるものです。
それ自体が、「まなざし」をもって存在しているのです。
私の肉体、「肉体肉」もまた、他人がもつような「まなざし」をもって、此方を見ているのではないか。
私が肉を見るとき、肉もまた、屹立してじっと私を見ているのではないかと、”生きているもの”を前に、そこに意思に似たものを見出し、「まなざし」を感じるのです。
(男性が筋トレを行い、自らの肉体が脈々と生命力を波打つのに恍惚とするのは、「肉体肉」が有するまなざしが此方を向いているからです。)
私という一個の人間には、
「私の意志」と、そして「肉体肉の意志」、この二つの意志が存在しています。
ところで、「性欲」のことを、私たちは”肉欲”と呼ぶことがあります。
先の「肉体肉」という考え方をもてば、「性欲」に関して別の見方ができます。
「性欲」が、「心がもとめている欲」であるならば、
では、先に述べた二つの意志(心)のどちらを私は他者にもとめているのでしょうか。
「性欲」とは、私の心が他者の「肉体肉」をもとめる欲求であって、
さらに疑ってかかれば、私の心とは別のところで働く、私の「肉体肉」が相手の「肉体肉」をもとめる欲求であると考えることが可能です。
肉体肉そのものが意志をもった生命である場合、このような“肉が肉をもとめる”、「肉愛」が成立します。
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「肉体肉」は私の及ばぬところで意志をもって独立し、決して私が完全に所有しきるものではありません。
それは私のものでありながら、私のものではなく、
精神や心の外側にありながら、私の内側にあります。
このような自らの肉体、「肉体肉」に私は敬意を抱きます。
なぜなら、「外界(心の外側)」とのコミュニケーションにおいて、それが第一接触となるからです。
「心の外側」は大変に広いものです。
そして心の外側は、私の意志の及ばないものであって、
そんな中、心が外に出てまず出会うものが自身の肉体です。
(女性のダイエットや、男性の筋肉トレーニングなどは、
「肉体」を通じて、というより、「心」を「肉体」へと向けることによる、「外界」とのコミュニケーションであり、
「心」と「外界(他者)」との接点をつくろうとする行為です。)
「肉体肉」は、私と、私の外の世界と連絡橋であって、
「肉体肉」と如何に付き合い、寄り添うかによって、又はそれを「きっかけ」とすることによって、私は内側から外の世界へと飛び出していけるのではないかと思うのです。
故に、私は「肉体肉」に敬意を抱くのです。
