「最大の敵は自分自身である」
と耳にしますが、私は自分と闘って「百戦百勝」です。

ですが、一向に成長しません。

私は酷く悩みました。

これは一体どういうことなのでしょうか…。

「弱い対戦相手」を選んでいるからです。

対戦相手を「自分」に設定し(設定“された”わけではなく、自分で設定し)、それは自分自身でありますから、当然都合よく匙加減できるわけです。

「いま、俺のHP100くらいだから、敵(自分)のHPは90くらいにしておこう。これならそこそこいい勝負になって恰好がつく。でも最後は俺が勝つんだけどね」

といった具合です。

まさに“ご都合主義”なのですが、勝敗を判断もまた、私の匙加減であります。

『自分との勝負』である場合、
闘っているのは「自分」、
闘っている相手も「自分」、
そして審判をするのも「自分」です。

勝敗を決める審判が「自分」であるために、八百長可能な試合となっております。

また、それを監視するのも「自分」でありますから、八百長を隠し通すこともできます。

このような自分との試合を繰り返していては、とても成長などは見込めません。

私はいつだってそうでした。

「自分」よりも強い相手と闘わなければいけない。

尚且つ、その相手は「自分」の解釈で調整できるものであってはならない。

そのような強い相手は『ライバル』と呼ばれます。

「自分」ではない、つまりは、「他者」であるということです。

このようなライバルがいることで、いなければ見つけることで、ライバルと徹底的にリングで闘うことで、時にそれは負けることもありましょうが、私は強くなれるのではないかと思うのです。

「ライバル」としての条件ですが、
ライバルは自分が「尊敬している人」でなければなりません。
でなければ、「自分」との闘いの時と同様、自分より弱いものを選んでしまいます。

また、くれぐれも、決着、審判もまた、「他者」でなければなりません。
採点は他者が決めること、自分で行なってはなりません。
というより、対戦相手を「他者」に設定すれば、「比較」が可能となりますから、勝敗のジャッジに他者が割り込むこととなります。

* * * *

私はいつも、ワンパンで倒せるか、或いはワンパンで倒されるような、緊張感のない「自分」との闘いを繰り返してきました。

私に足りなかったのは、形の持たぬご都合宜しい「自分」と向き合うことではなく、確固と存在する具体な「他者」と向き合うことだったのではないでしょうか。

拮抗する、しびれるような闘いは、「他者」という「ライバル」を前にして初めて存在し、
「自分」などという弱い相手を選ばずに、たとひそれは闘わねばならない相手であったとしても、
横着せずに、闘いには、「他者」という「ライバル」を指名した
いものです。

私の場合、「自分」との闘いなどという気障なことは、まだ随分と後に考えるべきことかもしれません。