自意識ダンプカー
青年期のこじれ、延長によって、アイデンティティ(或いは魂)が浮浪しちゃって、「自分」というものが拡散/全体化し、散漫になってる。
一度斯様な自意識と社会との関係ができてしまうと、同一化は難しいな、と思う。
薄く引き延ばすか、遊離させるか、自意識は行くも戻るも大変な状況。
「自分が何なのかよくわかんなくなっちゃう」っていうのがあって、「あれ?なにすりゃいいの?」という状態で、「自分がなんなのか」に彷徨う。もうこなったらサバイバル。
「全体化」っていうのは、「自分が社会にいるような『感じ』」のことで。「同一化」っていうのは、社会にいる自分を自分で確認できる。
本人はがんばろうとは思っているのだが、いや、思っているだけにあたふたする。
参加したいんだよ、でも参加しきれていないんだよ。
社会の中に確かに私はいるんだけど、いるには違いないんだけど、社会の中に私がいる意味がわからない。社会の、一連の動きに、はまってないから。
結句、居心地の悪さもあいまって、「俺、いなくていいんじゃねぇの?」って思って、「ちょっとトイレ行ってきます」っつって、なかなか帰ってこないこともしばしば。(≒ひきこもり)
「輪に加わって、何かしらしたい」、でもそれが難しくって、
その隣にある、ちょっと社会からはずれた別の輪に入り込む。
徒党っていうか、そういう小規模の輪。
とりあえず参加して、たとえばみんながやっているネットとかやったりして、自分を「全体化」だけはしています。
ところどころ、いろんなコミュニティに顔だけ出すものだから、自分が拡散しちゃってる。
或いは、「やること」を察知して、てきぱきと仕事を始める。
こういった役割の獲得ができている状態が、社会と「同一化」した状態で。
役割がないと、不安定な空白の中に最初はぽつんとあった自意識が、どんどん大きくなって、肥大化して、やがてはもう自分しか見えない状態になって。自分の中が、「自分だけ」で満たされていく感じ。
この、肥大しちゃった自意識の内輪差に気づいていないと、巻き込み事故が起こる。
免許もってないのに、大型ダンプカーに乗っている状態で。
起こす気は全くないのに、「気づかない」かたちで起こってしまう巻き込み事故。
下手すりゃ轢いたことにも最後まで気づかない。
これが、いわゆる悪い意味で使われる自己チュー。(表現が古いか)
ダンプカーサイズの「私の価値観」。標識無視。狭い道も塀を傷つけ突っ走る。
誘導してもらわないと、自意識大型ダンプはなかなか乗りこなせない。誰かに後ろを見てもらわないといけない。人のサポートが必要な状態。
自分の運転技術、身の丈にあった軽自動車で、小回り良くカーブを曲がれる方が、道をすいすい行ける。
現実的というか、そのうが堅実的。
人物と背景がうまくマッチしているか。自分と社会が「同一化」しているか。
人物の絵があって。
「背景」が描れていない、或いは、人物と背景がズレていないか?
背景が大事なんじゃないか?人物(てか、自分)の背景が見えているか?全体の整合性が取れているか?、という話。
背景がないと、その人物が何者なのかよくわかんない。
背景がないから、自分がよくわかんない。
健康的に自分を社会化させていくこと。
「自分と社会」じゃなくて、「社会の中の『自分』」という視野。人物と背景がうまく一体化している絵。
言うは易いね。
参考:自我同一拡散
一度斯様な自意識と社会との関係ができてしまうと、同一化は難しいな、と思う。
薄く引き延ばすか、遊離させるか、自意識は行くも戻るも大変な状況。
「自分が何なのかよくわかんなくなっちゃう」っていうのがあって、「あれ?なにすりゃいいの?」という状態で、「自分がなんなのか」に彷徨う。もうこなったらサバイバル。
「全体化」っていうのは、「自分が社会にいるような『感じ』」のことで。「同一化」っていうのは、社会にいる自分を自分で確認できる。
- 全体化
本人はがんばろうとは思っているのだが、いや、思っているだけにあたふたする。
参加したいんだよ、でも参加しきれていないんだよ。
社会の中に確かに私はいるんだけど、いるには違いないんだけど、社会の中に私がいる意味がわからない。社会の、一連の動きに、はまってないから。
結句、居心地の悪さもあいまって、「俺、いなくていいんじゃねぇの?」って思って、「ちょっとトイレ行ってきます」っつって、なかなか帰ってこないこともしばしば。(≒ひきこもり)
「輪に加わって、何かしらしたい」、でもそれが難しくって、
その隣にある、ちょっと社会からはずれた別の輪に入り込む。
徒党っていうか、そういう小規模の輪。
とりあえず参加して、たとえばみんながやっているネットとかやったりして、自分を「全体化」だけはしています。
ところどころ、いろんなコミュニティに顔だけ出すものだから、自分が拡散しちゃってる。
- 同一化
或いは、「やること」を察知して、てきぱきと仕事を始める。
こういった役割の獲得ができている状態が、社会と「同一化」した状態で。
役割がないと、不安定な空白の中に最初はぽつんとあった自意識が、どんどん大きくなって、肥大化して、やがてはもう自分しか見えない状態になって。自分の中が、「自分だけ」で満たされていく感じ。
この、肥大しちゃった自意識の内輪差に気づいていないと、巻き込み事故が起こる。
免許もってないのに、大型ダンプカーに乗っている状態で。
起こす気は全くないのに、「気づかない」かたちで起こってしまう巻き込み事故。
下手すりゃ轢いたことにも最後まで気づかない。
これが、いわゆる悪い意味で使われる自己チュー。(表現が古いか)
ダンプカーサイズの「私の価値観」。標識無視。狭い道も塀を傷つけ突っ走る。
誘導してもらわないと、自意識大型ダンプはなかなか乗りこなせない。誰かに後ろを見てもらわないといけない。人のサポートが必要な状態。
自分の運転技術、身の丈にあった軽自動車で、小回り良くカーブを曲がれる方が、道をすいすい行ける。
現実的というか、そのうが堅実的。
- 同一化、役割、社会化
人物と背景がうまくマッチしているか。自分と社会が「同一化」しているか。
人物の絵があって。
「背景」が描れていない、或いは、人物と背景がズレていないか?
背景が大事なんじゃないか?人物(てか、自分)の背景が見えているか?全体の整合性が取れているか?、という話。
背景がないと、その人物が何者なのかよくわかんない。
背景がないから、自分がよくわかんない。
健康的に自分を社会化させていくこと。
「自分と社会」じゃなくて、「社会の中の『自分』」という視野。人物と背景がうまく一体化している絵。
言うは易いね。
参考:自我同一拡散
