世間体の価値低下について
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“自虐的な人は、本当は自分の事が大好きで、人にかまってもらいたいだけ” そんな安い理論で自虐を雑に否定する世間体があるけど、当人にとっては愚痴や自慢や自己正当化だけは死んでもできず、苦しんだ結果、振り絞ってやっとこさ出てきた言葉が「自虐」ということもある。
— リョウタ.Fmoriさん (@ryotaism) 4月 29, 2012
「恥の多い生涯を送って来ました」と自虐発言することが、多くの「無理して頑張っている層」に不快感をあたえることくらい、太宰は知っていただろう。知っていながら、それを言った。それで救われる人間がいるのだと、希望を包んで絶望を隠さなかったのではないか。
— リョウタ.Fmoriさん (@ryotaism) 4月 29, 2012
「世間体」というのは、残酷なほどに人を、精神的に追い詰めます。
人によって程度の差はあれど、
人間というのは人の目線を意識して生きる動物だと思います。
しかし同時に、「世間体」というのは生産的なものでもあります。
意味と理由があって、「世間体」は存在しています。(していました。)
少子化が問題とされて久しい。
若者の環境や価値観の変遷などもありますが、
昔は、
結婚しないとどこか肩身が狭いような雰囲気、「世間体」があった。
そんな世間体が、結婚率を支えていた側面があります。
“もういい年だし、そろそろ結婚しないとな”と、そんなふうに背中を推す世間体がありました。
ところが、個人主義(自由主義と呼んでもいいのですが)、
アメリカで主流であったそのような主義が日本にも台頭し、
「世間体」の価値が下がった。
「結婚しなくてもいい」という自由の尊重。
世間体よりも自分、自分の人生が一番大事。「世間<個人」。
「人の目なんて気にするな!」と、どこぞのロックンローラーが歌えばその一言で元気をもらい、皆で拳をあげる。
若者を中心に、世間体の価値は徐々に崩壊していきました。
「世間体」には価値があります。(ありました。)
個人がバラバラになって行き先を見失わないようにする抑制力があった。
しかし今や、「世間体」の価値はありません。
個人主義がそれを食い殺してしまった。
そのようになってしまったのは、世間体にも原因があります。
安い個人主義に対して、それよりも安い理論しか世間体は持ち合わせていなかった。
ツイートの話に戻します。
“自虐的な人は、本当は自分の事が大好きで、人にかまってもらいたいだけ”
そんな安い理論で自虐を雑に否定する世間体。
「自虐的思考は生産的ではない」という本懐を持ちつつも、
その説明が、幼稚園児レベルだった。
「私の自虐は退廃思想、デカダン派だ。破滅型の生き様に美を見出した」と、個人主義者がワガママ口調で述べても、
それに対抗しうる充分な論拠を「世間体」は持ち合わせていなかった。
“自虐的な人は本当は自分の事が大好きなんだ”といった、
そんな足腰の弱い風刺や皮肉では、その暴走を止めることは不可能です。
幼稚なルサンチマンをみているようです。
個人主義の台頭というよりも、世間体はその非力さゆえ、自滅していったといったほうが適切かもしれません。
個人がアタマの悪いうちは、アタマの悪い世間体でも良かったのですが、
世間体やメディアではどうにもならないほど、
メキメキと個人の知は発達しました。自らの実存に目覚めてしまいました。
無論、社会や世間体を逸脱した個人主義は、アノミーという壁にぶつかり、
糸の切れた凧のように行き場を失い、さまよい、絶望し、
無残に死んでいく運命にあります。
