• 死体を埋葬する理由として“自分の死、その恐怖を覆うため”という考えがあるけども、自分の死は大抵考えたくない。親の死を想像したくない心理は、自分を「生」んだ者の不在により、霞んでいた自分の「死」をやや鮮明にし、恐怖を煽る為か。「死んでほしくない」は翻って「死にたくない」という気持ちでもあるのか。

  • 「大切な人に死んでほしくない」という気持ちと向き合ってみたところで、なんで死んでほしくないのか、いい加減に、額面通り引き受けてきた感情と自分にぶつかる。結局は、「自分の命をかけられるか」という形で無理に答えを出すという。「○○のためなら死ねる」ということを男の幸福に置く。

  • 「人間の定義」或いは「『自分』とは何か」という哲学的問いは、とても難しいから、人間以前である「性」のところ、「男の定義」「男とは何か」というところにいってしまうこと。「性」を「生」の表層と捉え、「性」なら答えが出せるだろうという、しがみつきやすい安易なもの。

  • 「私は人間である前に『男』である」と言ったり。つまり、人間は性別から先に生まれるんだよ、という可能性を追う。男に「男を語る癖」があるのは、女性(の出産)には「男と女」という視野があるけど、男には「男」しかないから。男の、女性に対する憧憬は幾らかあって、無論、その逆もある。

  • 私はなぜ男であるのか、私はなぜ出産できないのか。そんなことを毎晩考えて、真剣に悩み、苦しんでいる人は世の中にはいて、それは「視野が狭い」とか「差別 意識」とか、そんなことではない。「なぜ死ぬのか」といったレベルの、「なぜ男であるのか」という哲学的な意識の自問なんだと思う。