「幸せになりたい」という欲望は、性欲と似、バイタリティ・活力を要し、通常、年齡とともに減退していく。

が、肉体でない頭の中の幸福価値は褪せることがないために、「幸せになってほしい」「幸せになろう」というふうに、自己から他者という入れ物に幸福を移していく。

「他人の幸せが私の幸せだ」という形式をとる「幸せになりたい」。

この場合、他人が幸せでなければ自分の幸せが満たされない、そのために、幸福の価値を共有・一般化させた上で、「幸せにしてあげたい」と抱く。

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母の幸せ(A)、子の幸せ(B)。

母:[(A)=(B)]、(B)の成立が(A)の条件。

子:子(B)に母の[(A)=(B)]を当てはめる場合、(A)の成立が条件であるが、(A)が常に[(A)=(B)]である為に、(B)は[(A)=(B)=(B′)]という(B′)となることで成立する。

母が子に[(A)=(B)]を要求すると、子(B)は(B′)を選択せねばならず、真の意味で[(A)=(B)]は叶わないことになる。

母が真に[(A)=(B)]という式を求めるならば、=(B′)に帰結する[(A)=(B)=(B′)] でなく、[(A)≠(B)=(B″)]とせねばならない。

が、(B″)は[(A)≠(B)]であるために、それは【[(A)=(B)]=(B″)=[(A)≠(B)]】という不可能を指す。

子の幸せは母の幸せである。
が、それを自ら実現化させる合理的な式がない。
子を持つ母の斯様な儚さに、子を持たぬ子(私)は憂うことがある。