島崎藤村『破戒』 - 内容とあらすじ -






明治後期、被差別部落に生まれた主人公・瀬川丑松は、
その生い立ちと身分を隠して生きよ、と父より戒めを受けて育った。

その戒めを頑なに守り成人し、小学校教員となった丑松であったが、同じく被差別部落に生まれた解放運動家、猪子蓮太郎をひた隠しに慕うようになる。

丑松は、猪子にならば自らの出生 を打ち明けたいと思い、口まで出掛かかることもあるが、その思いは揺れ、日々は過ぎる。

やがて学校で丑松が被差別部落出身であるとの噂が流れ、更に猪子が 壮絶な死を遂げる。

その衝撃の激しさによってか、同僚などの猜疑によってか、丑松は追い詰められ、遂に父の戒めを破りその素性を打ち明けてしまう。

そして丑松はアメリカのテキサスへと旅立ってゆく。



島崎藤村
(しまざき とうそん、1872年3月25日 - 1943年8月22日)

日本の詩人、小説家。
本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。
信州木曾の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市)生れ。

『文学界』に参加し、ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。

さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。

作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、
父をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などがある。


感想

『破戒』は、いわゆる自然主義文学とよばれるものですが、その中でも一線を画す作品です。

夏目漱石は、『破戒』を「明治の小説としては後世に伝ふべき名篇也」(森田草平宛て書簡)と評価しています。

筆舌に尽くしがたい濃厚な作品ですが、
いくつか思ったことを書き記しておきます。

丑松が部落出身であることを告白するシーンが二箇所あります。

  1. 土下座して生徒と教師に告白するシーン
  2. 恋焦がれていた志保という女性へ自分の立場を告白するシーン
    1.の場面は、物語における最大の山場とよんでいいかと思います。

    が、私が着目したのは、2.志保への自己告白シーンです。

    読まれた方は承知かと思いますが、
    実はこの場面、具体的な描写がされていません。

    「丑松自身の視点」で描かれておらず、
    志保の語りによって、その場面を間接的に知ります。

    恋焦がれる女性への自己告白なわけですから、かなり重要な場面なはずですが、
    そこを直接描かないのは何か著者の意図があるんじゃないか思いました。

    おそらくは、部落出身であることを告白すること、
    その告白は「対世間」へのものであったのだろうと思います。

    志保は、「世間」や「社会」ではありません。

    (貧乏で恵まれない志保に対して、丑松の同情の念などは描かれていますが、『自分が部落であることがバレることが恐ろしい』という、『世間に対する恐れ』のようなものは、ほぼ描かれていません)


    『破戒』における自己告白は、「対世間」であるということに本質があります。

    「対世間」であるからこそ、自己告白に葛藤苦悩していたのです。

    (「『破戒』は社会小説である」という意見は、この部分からきているのではないかと思います)

    「個人」にバレることではなく、社会という「全体」にバレることを恐れていた。

    自分の過去や出生に関して、偏見を持たれてしまうような言い難き秘事がある場合、
    周囲の眼差し(外的圧力)と隠さねばならない(内的圧力)、二重の圧迫が存在します。

    差別や偏見の恐ろしさは、
    特定個人からの「ひとつ」の眼差しではなく、一体となった全体から向けられる眼差し、
    つまり、複数が同じ方向性と強さをもって一本化された「ひとつ」の眼差しにあります。

    個人の眼差しは、“個人的な意見”であると割り切ることも可能ですが、全体の「一本化」された眼差しは無視できません。

    個人でない「社会」の意見は、我々個人が社会というコミュニティに属し、又、そこを居場所としている限りは、決して無視することのできないものです。

    居場所であるがゆえ、そう簡単に自己告白できるものではありません。

    この『破戒』の舞台では、そういった“差別の眼差し”によって、実際に「働けなくなる」「生活できなくなる」といった、封建社会におけるシビアで深刻な問題が描かれています。


    また、自己告白に至るまでの自我意識の苦悶とその心理描写においては、普遍的な人間の内面性が描かれ、文学性が込められています。

    偏見と闘うことは同時に、自分と闘うことに他ならない。

    『破戒』では自己告白が懺悔という形で行われ、逃避という結果に終わります。

    解放は得たが封建社会や偏見は最後までうまく消化されていません。

    それは社会との闘いの限界というよりも、
    「悲しみは同じ境遇の者にしかわからない」という限界であり、著者自身が抱く何か、宿命的な暗さみたいなものが作品に反映されているように感じました。

    “他(ひと)の知らない悲しい日も有るかわりに、また他の知らない楽しい日も有るだろうと思うんです。” :島崎藤村『破戒』