たとえ一日中座りっぱなしであっても、そこに暑さが加われば体力は無条件に奪われていく。

勤務初日。研修に使われていた会議室のエアコンはどこか調子が悪いらしく、教官の話をじっと座って聴いているだけでも脇の汗がシャツを濡らした。

残暑とはいえ、依然、夏の面影は色濃い。


予定よりも終了時間が早かったのは思いがけない幸運であった。

そそくさと帰り支度を行い、投げやりに挨拶を済ませて築の古いビルを飛び出た。

木洩れ日が夕方の公園に降り注いでいた。

軽快にスタンドを跳ね上げ、停めていた自転車にまたがった。

高架下へと続く下り坂を、勢いをつけて自転車で下る。

両足を大胆に広げ、つま先をピンと上に向けて坂を下る。

その解放感は幼少の頃から少しも変わっていない。

生温っこい風が頬にあたり、高架下の日陰が焼けた肌を休めた。

前方左手、坂を下りきった処に自販機が見えた。

徐々にスピードを落とし、最後は自販機の隣でゆっくり停車した。

サドルに尻をのせたまま自販機に身を寄せ、その口に小銭を入れた。


pull-topを引いたのは、座椅子に腰をかけたとき。

不快な温かさが密閉状態の室内に篭っていた。

弾ける気泡といっしょに炭酸ジュースを喉に流し込み、いくらかの気分の改善をはかる。

炭酸の刺激にやや喉の痛くなったところで、ようやく缶から顔を離した。

冷房の調子が悪い。汗ばんだシャツを布団の上に脱ぎ捨てた。

その際、首筋の汗が滴となって腹へと向かっていくのを見た。

雫は吸い込まれるようにして、へその窪みに丸く溜まった。

記憶は精神に在り、一方でまた、肉体にも刻まれる。

自身のへそを見つめながら、精神の記憶にはないが、肉体に残る記憶を想った。

胎内にて育まれる私は母体と一体であった。

出産時、へその緒と呼ばれる肉の筋が外界に露出する。

筋をつたう赤の血は、母と子、共に流れる一つの血であった。

医療用のハサミでもって、へその緒は切られ、一体であったものが二者に切り離される。
表面上、繋がりはそこで途絶えたといえる。

が、幻肢の如く、「まだここにある」ような感覚がいくらか私にはある。


突っ立ったまま、私は右の人差し指をへその窪みに嵌(は)めた。蓋を閉めるように当てた。

一度、ぐいと押せば、腹が軽く圧迫するのを感じた。

さらに強く押せば、腹の底で妙な痛みが起こった。

一体、この特殊な鈍痛はなんだろうかと思った。


先ほどまで調子の悪かった冷房が、息を吹き返したのか、カタカタと音をたてて風を流し始めた。

火照った体がひやりとし、風邪でもひいてはまずいと思い、傍にあったタオルで上体の汗をふきとった。

仕事のことを思った。早速に病欠なぞしてはいけないだろう。この後、念の為にうがいもしておこう。

外に干してあるシャツをハンガーより取り外し、それを新たに着た。

あらためて、シャツ越しにへそに手を当ててみたが、先ほどのような特殊な感覚はなかった。

さして気にも留めず、私は明日の仕事の準備を始めた。