映画:エレファント・マン
今日は一作の名映画を御紹介。
『エレファント・マン』
映画『エレファント・マン』
デヴィッド・リンチ監督、脚本。1980年制作。
19世紀末のロンドンを舞台に、
生まれながらの奇型ゆえ“エレファント・マン"と呼ばれ、
人間扱いされなかった実在の人物ジョン・メリックの数奇な運命と、彼をとりまく人間たちとの触れ合いを描く。
名映画・名作であると心底思う。
一応有名作ではあるのだが、
まだ見ていないという方は、TSUTAYAにでもいけばほぼ100%あるので、是非。
感想
障害者および異形への念、そういった「外」に向けた目線ではなく、自らの「内」側に目線を向けさせてくれる作品だ。
それは例えば自らが抱える劣等感であったり、偏見性であったり。
自らの内面に潜むネガティブな要素を「反省」させ、「肯定」し、「止揚」する。
* * * *
「愛に満ち溢れた作品」、と言いたいところだが、
これはともすれば、「差別に満ち溢れた作品」とも見て取れる。
人間の持つ【差別意識】が、作品を成立させる条件・前提としてある。
【差別意識】があるからこそ生み出される感動である。
ここで述べる差別意識とは、
“自分とは異なるもの”に対する、「同一と見なせない意識」のこと。
極端な容姿を突きつけることによって、
見る者は自身の差別意識を痛烈に「自覚」する。
が、エレファント・マンを見ているうちに、
「自らと同一の部分」があることに視聴者は次第に気づき始める。
特別な自己愛者を除いて、
多くの人が持つ「劣等感」や「コンプレックス」。
そんな自分との共通点を発見することで、
「同情」ではなく「同調」し、自らをエレファント・マンと重ね合わせる。
エレファント・マンが持つ「劣等感」や「コンプレックス」は、
無罪であり、純粋であり、美しく描かれ、ネガティブなものが肯定的に描かれる。
そのような展開を経て、「自覚」は、自然な形で「反省」へと転じ、
さらには、「肯定」、「止揚」という形で締めくくられる。
後記
「人間らしく」という言葉があるが、では“人間らしさ”とは何だろうか。
「人間の本質」という哲学的議題になるが、依然、明確な答えは存在しない。
常に人間は、“人間らしさ”という定義からはみ出てしまう。
定義することができない。
定義すれど、その定義に収まらない部分が人にはあって、
そのはみ出た部分を“非・人間”とせねばならず、
しかし、その“非・人間”的部分もまた、“人間らしさ”という結末になる。
“人間らしさ”という言葉を使った時点で、“人間らしさ”は失われていくのかもしれない。
そんなことを思った。
