「ひきこもりをネタにするんじゃねぇよ」
先日、『夏の駄駄』という小説をKindle出版で出した。
“ひきこもり文学”とか、言ったりしてる。
「ひきこもりをネタにするんじゃねぇよ」、そういう意見があるだろうなって。
で、僕なりに弁解しなきゃいかんと思って。承認欲求が強いものだから…。
「ひきこもりって何?」
まず言わなきゃならんのが、 「ひきこもりって何?」ってことで。
まぁ、定義が、そんな厳密にあるわけじゃない。
例えばね、僕はずーっと思ってんだけど、
「ひとり暮らしのひきこもり」と「実家暮らしのひきこもり」って、けっこう違うよなって。
実家ってさ、
- 家に帰ったら食卓に料理が並んでいる。
- 家賃を払わなくていい
- 部屋&風呂がひろい
って、
誰だって、実家にひきこもるわい!!
誰だって、働く気なくなるわい!!
誰だって実家におりたいっす!!
…とまぁ、ちょっと言い過ぎたけども、
つまりさ、“実家暮らしだから”、ひきこもりになるってことがあるんだよ。
環境がね、そうさせるっていうかさ。
で、そういう人(実家暮らしのひきこもり)の中には、
“ひとり暮らし”を始めたら、ひきこもりじゃなくなる人って、いるんじゃないのって。実家暮らしだからなんじゃないのって。
で、話を進めるけど、 ひとり暮らしをしていて、まぁ、ひきこもっているとする。
んで、お金がなくなって、「さぁ働こう」っつって、
タウンワーク取ってきて、仕事を始める。
これ、ひきこもりなんだろうか?って。僕、そう思うんです。
「ひきこもり」が何なのか、その定義はわかんないけど、
ひきこもりって、「お金がなくなっても、ひきこもり続けるんじゃないか」って、僕はそう思ってて。
ちなみ、僕はそれだったんだよね。
お金なくなって、カードローンがどんどん膨れ上がっていくのに、働こうとしない。
「こりゃ異常だな」って自分でも思ってた。
とは言いつつ、 そんな僕は、「仮性-ひきこもり」だと思っている。 真性じゃない。
真性はほんと、何年間もだしね。親に金を借りてでも、というふうに。
僕は誰からもお金を借りられない状況だったっていうのもあるけど、
ひきこもっていたのは一年程度だし、今は外に出て働いている。
重度じゃない、軽度のやつだったんだよね。ひきこもりが。
「軽い気持ちでひきこもりなんて言うんじゃねぇよ」
「じゃあなおさら、そんな“仮性”ひきこもりの人間が何を“ひきこもり文学”なんて言ってんだよ!」って、
そういうツッコミもあると思う。
つまり、
「軽い気持ちでひきこもりなんて言うんじゃねぇよ」
「お前の言うひきこもりっていうのは、所詮ニセモンなんだよ」って。
もちろん軽い気持ちじゃないけどもさ、
「軽い使い方をしている」ってことに関しては、僕自身、「100%それは絶対に違う」とは言えない。だって仮性だから。自分でもそれはわかんない。
「ひきこもり」というワードを、僕はひょっとしたら軽い使い方をしているのかもしれない。
ただ、 たとえば、
テレビとかで、「死ね!」ってよく聞くじゃない?
あと、Twitterとかで、軽い気持ちで「死にたい」とつぶやいたり。
他には、 「うつ病」とかさ、本当はすごく深刻な問題なのに、
ちまたで、気軽に「あー、鬱だー」なんていう使われ方したり。
「死」とか「鬱」っていうのが、軽いものになって、おもちゃのような使われ方をされて。そういうふうな側面がある。
「ひきこもり」っていう言葉も、軽い使われ方で、流用している。
もちろん、社会的にすごい深刻な問題だと僕は思ってるし、わかっている。
で、僕が軽い気持ちで「ひきこもり」という言葉を使っていたとして、 僕はそれが罪になるとは思わないんだよ。
「死」っていうのがさ、すごく人に関わる重要な問題であり、哲学的なもんであり、
でも、その言葉を遊ぶようにして気軽に使っちゃっている、
そういう風潮を僕は、ダメだとは思わないんだな。
「意味の深い言葉」ほど、意味がわかんないんだから、
意味深く語られず、軽い形で使われるっていうのは、あって当然だと思うんだよ。
つまりね、
- 「真剣な思いでその言葉を用いている」
- 「軽い気持ちでその言葉を用いている」
とか、どっちでもよくないかって。
対象としている言葉に重みがあればあるほど、どっちでもいいんだって。
「大きいものほど軽く使われる」っていう、そういう使われ方も、あってもいいだろうって。あるだろうって。
もちろん、深刻に語るのも大事だけど。
「軽い気持ちじゃない、やっぱり真剣に書いた」
ただ、僕は『夏の駄駄』を真剣に書いたということだけは言っておかないといけない。
軽い気持ちじゃない、やっぱり真剣に書いている。
僕は今回、『夏の駄駄』で、
「自意識」、というか、「自意識が過剰」というのを書いた。
「ああ、働いてもすぐに辞めちゃうよ」っていう人はさ、
たぶんだけど、やっぱ自意識が大きいんだよ。
僕がここでいう「自意識」っていうのは、
教室や飲み会などで、みんながワーワー喋ってる中で、 なんか、自分だけ“浮いているような感覚”、
その瞬間の自分自身っていえばいいかな、それが自意識。
僕の場合でいうと、 朝礼とかで、みんな声をあわせて社訓を読んでいるときとか、 なんか違和感をもっちゃうんだよ。
「なんでみんな一緒になって声を出しているんだろう?」って。
他には、「なんで挨拶をしなきゃいけないんだろう?」とか、 「社員番号って、なんであるんだろう?」とか。
まぁ、つまり、自意識過剰なんだよな。それってつまり、まわりと歩調をあわせられないわけだから、
で、仕事がなかなか続かず、途中で辞めちゃう。
そういったさ、「自意識」っていうのを、
『夏の駄駄』ではけっこうしつこく書いた。
で、こういった感性が「ひきこもり」にも繋がっているんだろうなって思う。
「自意識過剰なところ」、ここに関しては僕自身の経験だから、真剣に書いたし、書き表すことができたんじゃないかって思ってる。軽い「ネタ」じゃない、本気のやつだ。
ネタであっても、ネタとして新鮮じゃない
ちょっと話かわるけど、
「じゃあ、たとえネタであったとしても、ひきもりって、もはやネタとして新鮮じゃないよ」っていう意見もあって。
“ひきこもり文学”なんていってもね、
もうそういうのって、カテゴリとして既存している。
たとえば滝本竜彦さんとかね、学生のときよく読んだ。
芸能人でさえ、千原ジュニアの『14歳』とかね。
まぁそれくらい、だから、別に新鮮じゃない。
これは僕もわかっている。
僕もそのカテゴリに入れたらいいなって思っているだけで、
別に「新しいジャンルだ!」とは思っていない。
ただその、“ひきもり文学”のカテゴリの中で、
少し毛並みの違ったものは書きたかったし、そのチャレンジはした。
そのチャレンジがどういうものか、またはそれが成功しているかは、読手にゆだねることだから、僕はこれ以上いわない。
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だいぶ文章が長くなったので、今日はこのへんで。
というか、もう『夏の駄駄』に関して喋るのはこれくらいでいいんじゃないかと思う。
