作品つくって、表現してる人って、なんでそんなことしてるの?
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『F』 by ryota.F |
作品をつくったり、表現をしたり。
なんでそんなことしてんの?
って、話じゃないっすか。
僕の場合ですけど、
「客観的理由」と「個人的理由」、ふたつあるんです。
客観的理由:文化を残すため
これについては、詳しいことは以前書いたので、参照してもらえれば…。
男の定義
http://rfmori.blogspot.jp/2013/01/blog-post_22.html
個人的理由:承認欲求を満たすため
「承認欲求」っていうのが、あるんですね。
“あ~、人から認められたいなぁ”というやつです。
“多くの人に褒められたいなぁ”、とか、そういうのです。
浅はかですねぇ、浅はかだと自分でも思います。
そもそも、なんで僕には、そんな「承認欲求」があるんだろうって思います。
承認欲求(僕の場合)
僕は、10代のころ、あまり友達がいなかったんですね。
で、よくいる感じの、 教室の隅っこで、クラスの人気者とかに嫉妬していたヤツです。
「あんなやつの何が面白いんだよ、外面ばっかじゃねぇかよ」とか思ったりして、
まぁ、嫉妬しながら、同時にうらやましがっていたんです。
「あんな人間になりたいなぁ」って。
一人でいても楽しくないんです。
一人でいると、何をやっていいのか、不安になったりするんです。
まわりに人がいたら、安心するし、 いろいろとわからないこと聞けるし、 なんにもない時間や空間を共有できるし、
いっしょに価値観を共有しあって、笑ったりしたら楽しいし。
だから、「たくさん友達がほしいな」「自分のことをわかってくれる仲間がいたらいいな」とか、思っちゃうんです。
でも、僕は知っているんですよ。
「俺にはなんにもない」って。
「取り柄なんて、なにひとつない」って。
「手をふらなきゃ、誰もこっちをふりむいてくれない」って。
イスに座っているだけじゃ、存在感なんてなくて、
みーんな僕のことに気付かなくて、
「あれ?フクモリくん、いたの?」ってなもんで。
「いや、最初っからいたよ…ずっといたよ」ってなもんで。
これじゃあいかんな、何か自分もしないといけないなって。
このへんからね、「表現」っていうのに、つながっていくんですね。
「別にいいじゃん、人に認められなくても」
「別にいいじゃん、人に認められなくても」っていうね、
「仙人的な達観しようぜ」って、 そういう意見も、今まで聞いてきたんだけどさ、
やっぱ、自分はそういう、 「ひとりはイヤだ」っていう子供のころの経験や思いを捨てられずに、 大人になってからもひきずっているんですね。
それは浅はかで、愚かで、矮小で、幼稚なもので、
自分でも情けなくて、恥ずかしく思ったりするんだけど、
なんていうか、本能的な欲求、きもちには逆らえなくて、
もう、そういう、自分の正直な気持ちにそって生きていこうと思ったんですね。
観念したっていうかね。
「僕は、『人に認められたい』と、本当はそう思っているんだ」って。
それはどういうときに気付くかっていうと、
自分がどれだけその表現に自信があっても、
作品が人にスルーされたとき、やっぱりスッキリしなくて、
そこを突き詰めてみると、心のモヤモヤの奥に、 「人に認められたい自分」がいるんですよ。
もう、それは隠せない、隠し切れない。
そういう自分が、どうあがいたって、いる。
これはもう、自分で、そういう自分を受け止めていくしかないなって、
そう思ったんです。
「表現の理由が個人的で、不純だな」
あとさ、「表現」とか、まぁ、「芸術」とかって、
そういう個人的な理由、欲求、欲望で取り組むものなん? って、そう思うときもあったんですよ。
「なんか、動機が不純だな」「幼稚すぎないか」って。
でもね、表現することの動機って、そういうもんなんじゃないかなって。
個人的な欲望を満たすためっていうかさ。
それって、ダメなことなのかな?
そんなにダメなことじゃあないって、僕はそう思っているんです。
たとえばさ、
「子供のころ、貧乏だったから、大人になってからはお金持ちになりたい」とか、
僕は、いいんじゃないかなって思うんです。
そういった、「お金持ちになりたい」っていう気持ちが不純なものだとは思わないんです。
だって「自然」じゃないっすか。
「ふつう、そう思うでしょ」って。
同様にね、
「ずーっと一人ぼっちだったから、だれかに自分のことを気付いて欲しいから、表現する」
これもいいんじゃないかなって思うんです。
「そういう気持ちじゃ“いい作品”はできない」って、まぁそんな気もするけど、
個人的な、感情的な理由、
そういうのがさ、そもそもの制作動機になってね、きっかけになってね、
そっからさ、また別へと、いろいろ広がっていくんじゃないの?って。経験値あげていくうちに。
で、仮に、個人的な理由が間違っていたとしたら、
間違いに気付いて修正していったらいいじゃないかって、思うんです。
いったい、誰が間違わない人間なんていますか…。
でも、そうやって軌道修正して、成長していくためには、
僕の場合だったら、「承認欲求」とか、
そういった「個人的な欲求」に、自分自身で気付いて、
そして、そんな自分を、まず受け止めることが大事なんだろうなぁと思います。情けない自分から目を背けずに。
そんな気がします。
まとめると…
かいつまんでいうと、僕の場合、個人的な理由でいうと、
「自分にはなんにもないから」っていうことです。
ちなみに、
「作っていて楽しいから」とか、僕はあんまりそういうのはないです。
酒飲んで、友達としゃべってるほうが、はるかに楽しいです。
本を読んだり書いたりするより、外で遊んでいるほうが楽しいです。
でも、それができないんですよね。簡単なようにみえてハードルが高い。
なんでかっていうと、「自分にはなんにもないから」。
なんにもないやつが、友達なんてできるはずがない。
なんにもないやつが、外に出ても、なにかがあるはずがない。
必ずしもそうだとは限らないけど、そういうふうな、強迫観念をみたいなものをもっているんでしょうね。
自分に自信がないっていうか。
だから、必死で表現しようとする。まぁ、浅はかですけど。
・・・長くなりました。
きりがないので、今日はこのへんで。