何の意味もないのですが、

常日頃から公言していることがあって、

「私は音楽が嫌いだ」と言い続けています。



「音楽を聴いてるやつはバカだ」とか、

「『音楽に命救われた』とか、『おいおい、大丈夫かよ?』と思っちゃうんですよね」とか、

たとえばそんなことを言えば、

音楽の名の下に、殺意に似た眼差しを向ける国民性があって、

かねてから私はその集団性が苦手なので、

あえてそのように公言しているところがあります。

現状、まだまだそのスタンスでいこうと思っております。

“殺意に似た眼差し”は言い過ぎにしても、

「音楽が苦手なんだよね」と言えば、

驚かれる、または不思議な目で見られることはよくあります。



「音楽なんてくだらない」といえば、本気でイラッとする日本国民が何%かいます。

私の趣向を語っているだけでも、一方的にイラッとされる。

「音楽嫌いなんていないだろう」という思い込みは、

「動物好きに悪い人間はいない」という無根拠かつ強引な理論と似ています。

そして「音楽が嫌いと言う者」は酷い場合、安定多数獲得の為に弾劾すらされます。

「信じられない」「お前は何も音楽の良さをわかっていない」「バカだ」、と。

「音楽とは絶対に素晴らしいものだ」と信じてやまないのです。

事実そうであると私も思いますが、それに反する者を弾劾するのは如何なものかと思います。


日本人の「音楽愛」がそんなふうに思えて、息苦しいなぁと思うことがあり、

ますます私の音楽への苦手意識は強まります。

音楽は自由であるが、「音楽愛」は時に排他的で、不自由を生みます。



『音楽嫌い』がいてもよい。当然のことです。

しかし、日本人は音楽を好きなりすぎた。

いや、精神的に音楽に救われる者が多すぎた。

「聴く」のではなく、精神的支柱として、

「すがる」ようにして音楽を愛してしまった。

楽しい時は楽しくなる音楽を、
悲しいときは元気の出る音楽を、
失恋の時はこの曲、思い出の曲はこの曲を、、、

というような聴き方で、

個別の感情や環境を抜いて、

『音楽そのもの』を理性的な耳をもって客観的に芸術評論することを蔑ろにしてしまった。

はたして「感情を動かすことが音楽の真髄」なのでしょうか。

勿論、それはひとつとしてあげられるのでしょうが、

芸術という一点で観たとき、

個人の都合のよい「感情」によって振り回されない、作品に宿る「芸術的美」というものも冷静に判断せねばなりません。

(一例としてあげれば、「構造の美しさ」などが。また、「歴史上」の文脈における、美の継承とアヴァンギャルドな手法など。)


あえて極論をいえば、「私の感情」なんてどうだっていいんです。

「私の個別感情」によって、その音楽の芸術純度が変わってしまうならば、

一体、音楽芸術の普遍性など見えるはずもありません。

芸術的美は、「感情」によって左右されず、減退もせず、有無を問わず「一定」であるからこそ、

それは文化・文明として国、世界、歴史において価値があるのではないでしょうか。



私は絵画も文学も、書道も大好きですが、

「絵画とか文学とか、根暗だし嫌いだよ」と言われても一向にかまいません。
理解や同意を求めません。

ところが、「音楽」にいたってはそのような発想が

もはや国民的な感情として、生まれにくいようです。

「音楽が好きであること」が一般であり、常識のようにして取り扱われています。

それが日本人の音楽愛の、一部現状です。



日本人は「感情」という「食欲」で音楽を食い過ぎた。

音楽を冒涜することは感情を冒涜していることのように錯覚してしまう。

さらには「食べ過ぎてダイエットする」、食べ過ぎて気持ち悪くなるという、

裕福な国の歪んだ贅沢のようにも見え、

腹を満たす為だけに音楽を聴き、そこに味わうなどという意識が少ないように思います。




「音楽の力」を声を大にしてバカにしたとして、

日本人の数%がイラッとするかもしれません。

それはそれで日本人の“熱狂的”な音楽愛だとも思います。

しかし、“救われた”、“勇気をもらった”などという感情では、

「音楽」は救われないのではないでしょうか。
「音楽」は勇気を与え続けられるでしょうか。

芸術として継続していくのでしょうか。

“音楽嫌い”である私にとっては、無くなっても別になんら構いませんが、

感情という空腹感と食欲で消費され続ければ、

音楽は芸術要素という骨のない抜け殻となり、漂い、浮遊し、

そして、どこか遠くへ飛んでいってしまうのではないか、そんなふうに思うことがあります。

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